風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

選択と状況

2008年02月29日 | スピリチュアル
今日ネットである嫌な事件の詳細を読んだら、胸の中を毒がぐるぐる回るような感覚が残っています。
浄化できるには少し時間がかかりそうな気がします。

これからはどんな情報に触れ、どんな思いをするのかがとても大切になっていく気がします。
ニュースを見るまでもなく、無責任な現代社会のひずみがいたるところで噴出し始めています。
何が悪いあれが悪いと言っている暇はありません。
責任は自分の選択で取っていくしかありません。

何にかかわるかも重要な選択ですが、何にかかわらないかも重要な選択です。
かかわるものから受ける波動というか、影響力が良かれ悪しかれ強まってきている感じがします。
自分の立ち位置をよく確かめ、行くべき方向を自分で選択して歩いていくことが大切でしょう。

ネガティブな思いがする場所や人にはなるべく近寄らない方がいいかもしれません。
近寄らないというか、ポジティブな思いがすることを言ったりしたりしていれば、ネガティブな波動は近寄れません。

一人一人の思いと選択が、それぞれの状況を作り出すというのが、どうやら現実味を帯びてきました。


流れ

2008年02月28日 | スピリチュアル
一段落ついて帰ろうと思ったら、知り合いが来て今まで話していました。
話題は目を覆わんばかりのこの町の衰退についてです。
彼はこの町に生まれ育ったから我慢が出来ないのです。

言わんとすることはよく分かります。
でも、そういう流れは行き着くとことまで行き着かないと、流れを変えませんし、変えれません。
駄目になるなら、とことん駄目になればいいのです。
それで困ろうが、不安になろうが、流れは流れです。

こういうときは、自分の流れを作っておくことです。
大きな流れに乗れば衰退あるのみなら、大きな流れから身を離して、自分自身の小さな流れを作ることです。
どんなにちっぽけな流れでも、いつしか流れの方向が変わったときに、その流れに乗ることが出来れば成功と呼ばれる体験になるでしょう。
そもそも、自分自身で自分自身の流れを作ることが出来れば、それはそれで世間的に成功と呼ばれようがなんであろうが、成功なんですが。

自分の流れを作るにはどうしたらいいかです。
それは人から答えを貰うことは出来ません。
自分の流れがなんであるのか。
流れてみないと分からないかもしれません(笑)

ところで、何回か紹介していたブログ主の本がやはりというかなんというか出版されることになったみたいです。

http://www.amazon.co.jp/%E5%86%85%E5%9C%A8%E7%A5%9E%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93-%E4%BC%8A%E5%8B%A2-%E7%99%BD%E5%B1%B1%E9%81%93/dp/4903821269/ref=pd_ts_b_4?ie=UTF8&s=books

興味のある方は読んでみるといいと思います。


意識と経験

2008年02月27日 | スピリチュアル
なんか2日同じタイトルでブログアップしてしまいました。
よほど「恵み」という言葉に惹かれていたのかもしれません。

「恵み」は「巡り」ますね。
自分の受けた恵みは、他の人に回すと、次の恵みがやってくるのでしょう。
自分の恵みを躊躇無くどんどん他の人に回すと、気持ちが楽だし、周囲に笑いが絶えなくなるでしょう。
そんな感じになれたらいいです。

恵みというと金銭や衣食住のことを考えてしまいますが、そんなことはなるようになればいいです。
日々何か嬉しいことや美しいことや優しいことを感じたりしたことを分かち合えればお互いにいいでしょう。
そうすると、平凡な日々のあちらこちらに嬉しいことや美しいことや優しいことが散らばっているのに気が付きます。
人々のちょっとした仕草や表情に、空の色に、風に含まれた匂いに、色んな尊いものが含まれています。
それを素直に受け取ればいいだけです。

話は変わりますが、猫や犬といったペットは、「人間を観察する」という目的意識を持って地球に生まれた意識体だという話があります。
人間は人間を経験するために人間に生まれるわけですが、犬や猫は「人間を観察する」という経験を通じて何かを学ぶのでしょう。
そう言われれば、犬や猫がじっとこちらを観察しているような雰囲気を感じることがありますね。
何もかも理解していながら、ものも言わずさりげなく観察している。
その伝で言えば、深海魚なんかというのはなにを経験するために生きている意識体なのでしょうか。
人が思うよりもずっと深遠な目的意識があるのかもしれませんね。

植物の目的意識や鉱物の目的意識というのもイメージを拡げてみると面白いです。
何万年もずっと硬くて冷たいままでいる鉱物に意識があるとしたら、彼らはなにを思っているのでしょう。
或いは何かを思わないという経験をしているのかもしれません。
植物はおそらく地球の意識と完全に同調しているでしょうね。
がけ崩れやブルドーザーで山などを崩した時に、まっさきにセイタカアワダチソウがどこからともなくやって来て、
むき出しの荒地をあっという間に覆い尽くします。
おそらくセイタカアワダチソウは、むき出しの土地を癒す救急部隊の第一班なのでしょう。

梅には梅の役割と意識があり、ひまわりにはひまわりの役割と意識があるのかもしれないと思うと、世界が賑やかなものに思えてきます。

そう考えると、やはり行き着くところは、それでは人の役割と意識はなんなんだということになります。
地球と同調しているどころか、地球を破壊しつつある人間は、どんな意識を経験しにこの地球に生まれてきたのでしょうか。
人は自由自在に「思う」ことが出来ますから、これだという答えを出すことは難しいです。
色々な思いを持ちながら、色々な経験をしながら、一人一人が手探りでその答えを探すしかありません。
一人一人が手探りで探すという経験をしたくて、人間というものに生まれてきたのかもしれませんが。


恵み

2008年02月26日 | スピリチュアル
朝から雨です。
冬の雨という感じではなく、柔らかくシトシト降っています。
明日は一段と寒くなるそうですが、それでも春は日々近づいてきています。

恵みというのは、恵みを恵みと知ることから始まるのでしょう。
どんなに恵まれていたって、それを恵みと知らなければ、不満の種にしかなりません。
なかなか厄介な人の性です。
あれも欲しい、これも欲しい。
なんで欲しいのかと聞かれれば、曖昧な情報に踊らされているだけだったりします。

生きているということが、どれほどの恵みかを人は知ろうとする余裕がありません。
つまらない通勤時間、つまらない職場、つまらない人間関係。
そう思ってしまえば、生きていることはつまりません。

自分が何が出来るか、何をしたいのかということに焦点を絞れば、つまるつまらないは自分次第になるでしょう。
何をされたいか、何が欲しいかに焦点を絞ると、不平不満の塊になるのでしょう。
要するに、自分中心でものを考えると必ず行き詰ります。
自分ごときが中心であるはずもありません。
それでも、自分のことは自分で決めていく大いなる自由が保証されています。
その自由であるということと、自分のいるべき位置を知るということと、両立させなければなりません。

自分の位置が決まっているということをわきまえるということは、
自分の運命は不自由だということを受け入れることだと思うかもしれません。
自分の位置が分からなければ、どこへ進むも退くも分かりようがありません。
自分の位置を知るというのは、自分の自由の方向性を知るということです。
位置のない自由というのはありません。
位置のない自由と言うのは、カオスの海に呑みこまれるだけです。

位置というのは主体が主体足るべき足場です。
位置がない主体というのは、足場のない虚無という自由の仮面を被った化け物に欺かれるでしょう。

ベクトルというのは、ある点が定まってはじめてその位置とエネルギーを獲得します。

自分の位置を知るというのは、とても大事なことです。

そんなこんなで、自分の位置を知らせてくれるすべての関係性に感謝します。



恵み

2008年02月25日 | スピリチュアル
唐突ですが、宇宙旅行と地球旅行のどちらかを選べといわれたら、ぼくは躊躇なく地球旅行を選びたいです。
その土地土地の香りをたっぷりに含んだ風が吹くのは地球です。
数え切れない生命に溢れるのが地球です。
すべての色彩が乱舞するのが地球です。
泣いたり笑ったり、悲しんだり怒ったり、滑稽な人間が住むのも地球です。

おそらく、宇宙も壮大な生命と色彩とにみちた大シンフォニーなのでしょう。
でも、毎日四六時中ベートーベンを聴くよりも、小川のせせらぎに耳を澄ます方がいいです。
色彩の大スペクタクルを観るよりも、木漏れ日のささやかな揺らぎを観ている方がいいです。
結ばれるべき人と強力な結合体験するよりも、惚れたはれたの陰影に酔う方がいいです。
不自由という贅沢な自由を味わう方がいいです。

限りない恵みは、宇宙空間にではなく、この地球上にあります。
そう思う今日この頃です。

春一番?

2008年02月23日 | 雑感
朝から風が吹き荒れています。
春一番と呼ぶには冷たすぎる風です。

新店舗を出したお陰で、新しいお客さんもポツポツ増えつつあります。
3月の展示会に向けて、この流れを太く内容の充実したものにしていきたいところです。

明日は久しぶりに休みを取ります。
散髪に行きたいです。
近頃は髪が伸びるとひたすらうっとうしいです。
さすがに坊主には出来ませんが。

このごろ若者の間では顔に斜めにかかる髪型が流行っていますね。
この年になると分かりますが、流行の髪形をしているというのは後から写真などで見るとたまらなく気恥ずかしいものです。
まぁ、どうでもいいことなんですけど。

一度アメリカで散髪したことがあります。
全体的に3センチくらい切ってくれといったのですが、どんな髪型にしたいのだ、写真で示せとヘアカタログを突きつけます。
仕方がないので無難な髪型を指で示したのですが、数ヶ月は外に出たくないような髪形にされてしまいました。
一番嫌な髪型でした。
アメリカの高校のクラスの人気者がしているような後ろ刈上げ、前はふさふさという髪型でした。
ぼくに似合うわけがありません。
まぁ、そんなことも今となってはどうでもいいことです。

どういうわけか今年は春が来るのが待ち遠しいです。
そんな気持ちになったことなど今まで無かったのですが。






それぞれの道

2008年02月22日 | 雑感
つい今まで店でワインを飲んでいました。
店の外は賑やかです。
誰かが誰かにエネルギーを差し出せば、誰かが喜べばいいのでしょう。
今は誰もエネルギーを差し出さず、誰も差し出されたエネルギーを受け取ろうとしない時代なのかもしれません。

今読んでいるある本の話です。
一般的に人々は脳の5~15パーセントしか使っていないそうです。
DNAも然り、そんなパーセンテージです。
では、残りの95~85パーセントの眠っている脳の機能や生命体の可能性を示す眠っているDNAは、どんなときに目覚めるのでしょうか。

おそらくとういうか、多分、人それぞれが目覚めようと本気で思ったときなんだと思います。
本気でなにを目覚めるのでしょうか。
「自分」というものに目覚める以外にそれはないでしょう。

どこまで意識、想像力が飛翔するか。
巣立ちに際しては、鳥さへ羽ばたくのを躊躇するものです。
ましてや、がんじがらめの人間をや、です。

自分というものを決して誰にも明け渡さず、かつ天の流れに身を任す。
そんなに難しいことなのでしょうか。
天の流れに身を任すことを選択できるからこそ、はじめて信頼できる自分がいるということでもある道理があるというものですが。

この辺はややこしいです。
行く道にはそれぞれの風景が広がっています。
どの風景も尊いものです。
その風景が尊いと思ううちは、思う存分その道を尊んだらいいです。

問われるのは、正直さなんだと思います。


意識の拡大

2008年02月20日 | スピリチュアル
植物に意識はあるかと聞かれたらなんと答えますでしょうか。
人間と同じ形式の意識はないでしょうが、植物としての意識はありそうです。

この三次元で生きる人間の意識を基準に意識というものを捉えようとすると、人間以外に人間的意識がないのは当たり前です。
でも、意識というものを人間的な意識という枠組みを離れて、生命の志向性と捉えると、植物にも地球にも植物的意識があり、
地球的意識があるということも出来るかもしれません。

ある本で読んだのですが、この宇宙空間には三次元的思考の枠を離れない人間の思考を遥かに超えた在り方をする意識体が、
無数に存在しているらしいです。
鉱物として存在するという体験を選ぶ意識体、植物として存在することを選ぶ意識体、動物として存在することを選ぶ意識体、
そして人間として存在することを選ぶ意識体。
更に言うならば、風となる意識体、火山という経験をしてみたい意識体、星になる意識体。
つまりは、意識体でないものはこの宇宙に存在していないということになります。

トンデモ話ですが、もしかしたらそうなのかなぁと思ったりもします。
禅で悟りを開いた人が言う「すべては一つながりだ」というのは、そういうことなのかと。
その本が言うには、地球という星は大変貴重な星で、そういう様々なレベル、在り方の意識体が混在し、
それぞれが協力し合って生命を創造させる場であり、全宇宙の意識体の注目の的であるそうです。

で、誰もが認めるごとくに、その貴重な星である地球が危機に瀕しています。
生命の創造をする場としての壮大な楽園であった地球が、無視され、汚され、略奪されています。
未来への鍵は人間の意識の変容・拡大にかかっている、と言います。

今、急速な勢いで、様々な種の動植物が絶滅しています。
それらの意識体は、地球上の人間の在り方に失望して、次の次元にどんどんと去り始めているのだそうです。

さて、人の意識はどこまで拡大することが出来るでしょうか。
その本によれば、望むなら人間が神々と呼んでいた存在と同等のレベルまで拡大することが出来る、と言います。

こういう話は、受け止め方は人それぞれでしょう。

ただ、人間が今のような意識の枠組みにとどまっていたら、遅かれ早かれ地球は息絶え絶えになるでしょう。
そうなった時は人間の生息環境など残されている方が不思議です。

さて、地球の意識を感じることが出来るでしょうか。
地球の、植物の、動物の。星の意識を感じるまでに意識を拡げることが出来るでしょうか。
地球とともに新たな生命創造の旅を続けることが出来るでしょうか。

ぼくは出来ると思っています。
出来ない理由が見つからないからです。
ここ数年、とても大事だと思います。




感情

2008年02月19日 | 雑感

「感情的」というのは男性にとっても女性にとっても決して褒め言葉ではありませんね。
感情に振り回される姿というのは確かに美しい姿ではありません。
でも、感情的にならないようにと感情をむやみに抑圧するのも問題がありそうです。
冷静になろうと心がけるのはいいのですが、心を閉ざして感情を締め出したら、人生がつまらなくなるでしょう。

坐禅などをしますと、次から次へと雑念がわいてきますが、わいた雑念に捉われず、わくがままに消えるがままに放っておくわけです。
感情も感じない振りをするようなことではなく、感じたままをそのまま観察し、
その感情に執着せず消えるに任せたらいいのかもしれません。
とは言っても、失恋やら倒産やら肉親の死などに際した場合の感情というのは爆発的で、しかも執念深く心を占拠しますから、
さらっと受け流すことも出来ないのですが。
その場合はヘタな誤魔化しは感情を悪化させますから、痛みを伴うその感情で心を充たしておくより仕方がありません。
逃げようとすればするほど、心の痛みはぶり返します。

痛いときは「痛い」と正面から自覚しつつ、痛さとともにいるしかないのでしょう。
酒やなんかに逃避すれば、酔いからさめたときの自己嫌悪が更なる心の痛みを誘発します。

感情的な痛さというのは、男性の方が忍耐力に甚だしく欠けていると思われます。
肉体的な忍耐力もおそらく男性の方が脆弱です。
男は「痛さ」一般に弱いです。
誤魔化し、逃げ回ります。
母性というのは、肉体的、精神的忍耐力に裏打ちされているもののようです。

ということで、感情的にダメージを受けたときに聴くと心に響きそうな曲を見つけたので紹介します。

http://jp.youtube.com/watch?v=6G1w0kYHiSg


講習

2008年02月18日 | 雑感
今日も陽射しは強いのに寒い一日でした。

昨日は休日でしたが、食品衛生責任者という資格をとるために、一日講習を受けてきました。
80名ほどの受講生がいました。
大方は若い人で、会社や店から無理やり資格を取るように言われて来たのでしょう、会場内はどんよりしていました。
ぼくの隣に坐った若者は、はじめから最後まで寝ていました。
ぼくも昼食にビールを飲んだので(笑)、午後からは猛烈に眠くなりました。

そういう雰囲気でしたが、講師の方々は一生懸命でした。
ナントか重要なポイントだけは教えてやろうと、熱心でした。
そりゃ、会社なり店なりが食中毒を出してしまったらすべてがパーですから、
本来なら聞くほうももうちょっとシャキッとしなければなりませんね。
というわけで、かなり中身の詰まった講習も無事に終了し、修了証書も貰いました。
どういうわけかぼくが代表でなんとか協会の会長さんから修了証書を貰いました。
深々と頭を下げて証書を貰う時、さすがにみんなから拍手が上がりました。

自動車免許の更新などに行っても、色々な世界のいろいろな人々に会うことができます。
ぼくなんかも普段は狭い世界であーだこーだ言っているわけです。
眠そうな顔した受講生を前に熱く食中毒を防ぐ方法を説く講師の先生方。
強制なのかどうかは知りませんが、退屈ながらもその話を聞こうとする若者たち。
独立するのか、再就職のためなのかは知りませんが、中年を越えたおじさん、おばさんたち。
みんなそれぞれの生きている世界で一生懸命なわけです。

なんかいいなぁ~と思いながら、雪のちらほら舞う薄汚れた町を帰りました。


悪法

2008年02月16日 | 雑感
昨夜は二度目の牡蠣パーティーでした。
ネネさんが漁師さんのところから直接買ってきた殻付牡蠣をレンジでチンして食べます。
レモンもなにもかけず、熱々の牡蠣をそのまま食べます。
ほんのり塩味が効いていて美味いです。
冬の食べ物としては、湯豆腐と牡蠣がぼくの中ではベスト2です。
そのあとは行きつけの食べ放題飲み放題の店に行きました。
時間制限でその店を追い出されたあと、ネネさんと二人で立ち飲みの店に行きました。

それにしても、昨日今日と寒いです。
滝に毎週行っている頃は寒さを感じなくなっていましたが、すっかり身体は元の脆弱に戻ったようです。
こういう寒さのなかでも、しっかり忘れず梅が咲き、あと一月も経てば桜が咲きます。

ところで、人権保護法案というとんでもない法律がなし崩しに国会に提出されるようです。
マスコミは一斉にだんまりを決め込んでいます。
人権委員会という組織を作り、被害者の訴えに基づき令状も裁判所の許可も無く加害者を捜索できる仕組みです。
「差別を受けた」とある人が主張すれば、そういう強力な権力を持った人権委員会とやらが動き出すわけです。
しかも、その人権委員会のメンバーの選定方法が曖昧で、何でも「高潔な人格者」がその任に当たるそうです。
「高潔な人格者」が裁判の過程を経ることも無く、差別をしたしないを裁いていくわけです。
差別というのは極めて微妙な問題で、不快に感じたものがカタッパッシから差別だ、差別だと訴えだす可能性が高いです。
その「高潔な人格者」は国籍を問わないそうでもあります。
誰がどういう見識で「高潔な人格者」を決めるというのでしょうか。
もう誰のための、何のための法律なのか、分かる人にはわかるでしょう。

自由な言論をあれほど主張するマスコミが、こんな重大な法案なのに口を閉ざしているのもやれやれです。
マスコミに関しては、この法律の適用外ということで、我知らずを決め込んでいるだけではなさそうです。
マスコミの嘘というのもネットでさんざん暴かれています。
要するに、制御不可能なネットを封じ込めるための法律ですね。
常に煮え湯を飲まされているマスコミ側もネットに対しては苦々しく思っているのでしょう。

なんというか、日本全体が制度疲労を起こしている感じですね。
一人一人がしっかりと誰がなにをしようとしているのか、見極めておかなければなりません。







雪の山

2008年02月14日 | 雑感
まだまだ寒いとはいえ、日ごとに陽の光が強くなる今日この頃です。
山はまだ雪化粧をまとい、青空の下にきれいに輝いています。

何一つ不足するものは無く、何一つ余計なものもないのでしょう。
人々の思いだけが日々無意味に乱れさ迷うばかりです。

若い頃なら、乱れさ迷うことこそが刺激であり、冒険であったわけですが、さすがに中年の域に入りますとそれではきついです。
「自分」という厄介なものを脇に置いて、道端の草花をぼんやり眺めていたくなるものです。

そういえば、梅が咲いていますね。
先日、娘を連れて公園に行ったら七分咲きくらいでした。
抱っこした娘が指でツンツンしていたら、花が首からもげてポタリと落ちました。
ぼくが「あっ!」と言いましたら、娘も「あっ!」と言いました。

今、お客さんが差し入れてくれたビールを飲みながらこれを書いています。
なんだか無性にオニオングラタンスープが飲みたくなってきました。
帰って作ろうかと思います。

ここは九州ですから、滅多に雪は降りませんし、ましてや積もりません。
山に雪が残っているうちに、その風情を楽しもうと思います。
夜空の下に青白く浮き上がる雪の山というのは幻想的です。

やはり何一つ不足するものはないでようです。

雪の日に

2008年02月13日 | 雑感
友達のお父さんが亡くなりました。
昨日の朝亡くなったと留守電に入っているのを、つい先ほど気づきました。
古くからの仲のいい女の友達です。
いろいろ人生の局面をともに歩んできたような友達です。

彼女の両親と一緒に酒を飲むことも度々ありました。
お二人とも高齢で体のあちらこちらが弱ってきているのに、酒席になると浴びるように飲み続ける人たちでした。
お母さんは口に衣着せぬタイプで、豪胆な冗談を機関銃のように言う人です。
嘘や曲がったことが嫌いな人です。
お父さんはかなりハンサムな人で、若いときは有名どころの建築会社で経理部門の重責を担い続けた人でした。
口癖は「わしの生き様はなぁ~」と始まり、仕事に心身を捧げた日々を懐かしげに語り始めたものです。

そのお父さんとは去年のボジョレーヌーボーの解禁の日に、バーで会ったのが最後の日となりました。
ぼくが店に入ったときはちょうど帰りかけているところで、ちょっとふらふらしているのが気になりました。
以前でしたら、体がきつくてもぼくと飲み直しとなったでしょうが、その日はすぐに帰りました。
よっぽどきついんだろうなと思いました。

おりしも昨夜から雪が降り続けています。
長い不景気と人々の覇気の無さで薄汚れたようなこの町も珍しく白化粧をしています。
お父さんに最後の別れを言いに、今から行って来ます。

信頼

2008年02月12日 | スピリチュアル
「あなたという存在はあなたが『考えてきたこと』の結果だ」というような言葉が何かの本に書いてありました。
これは最近つくづくそう思います。
10数年前にその本を読んだ時には反感に近いものを感じたのですが、今では頷くほかありません。

反論はもちろんあるでしょう。
今こんな状況にあることを考えたこともないし、望んだこともない、と。
でも、こうなりたい、ああなりたい、あれがあれば、これがあれば、と考えることはたくさんあったでしょう。
「~こうあるべき」とか「~があれば」という条件を常に自分の人生につけようとしてきたのではないでしょうか。
自分の人生に必要な条件を並べ立てると、その条件がいまだ足りないという現実を引き寄せる、ということです。

「(いつか)幸せになりたい」とは思っても「今が幸せだ」とは人はなかなか考えませんし、思わないものです。
「今が幸せだ」と思い考えていれば、幸せな今が引き寄せられます。
これはそのまま受け入れるにはなかなか抵抗があるでしょう。
でも、それが事実なんだと今では思います。

「思う」ということと、その思ったことが現実の姿をとるまでにはタイムラグがあります。
そのタイムラグの間に人は迷います。
いくら思ったところで、しばらくたっても何にもならないじゃないかと「思う」と、どうにもならない現実がまた実現します。

要は、自分が「思う」ことが実現するということを如何に信頼し続けるか、ということになります。

更に、何でもかんでも思ったことが実現するわけでもありません。
自分さえよければよいといった思いを実現しようとするエネルギーはどうやら宇宙には存在していないみたいです。
無理にでもそういった利己的な願望をかなえようとすれば、「魔」のエネルギーを利用する羽目になりそうです。
「魔」のエネルギーを利用すれば、必ずあとから途方もない代償を払うことになります。
自分さえよければよいという擬似的な幸せ感を越える本物の幸せとはなにかというのを、手に掴む必要があります。

これは言葉にすれば色々あるでしょうが、簡単に言えば、心の底から笑える状態ですね。
生きてて良かったと感謝が生まれる状態でもあるでしょう。
これは一人一人が生きていく中で実感として掴み取っていくしかない感覚です。
人は生きていく上でどうしても「他者」と係わります。
「他者」との係わり方を学ぶことという風に言い換えることも出来るでしょう。

「幸せだ」と思えれば、幸せが実現しているし、実現するのでしょう。
このことに関しては、いくら言葉を費やしても、なんというか一人一人の実感の世界のような気がします。
一人一人の実感を得るために、この世で生きるということを選択した、とも言えます。
なんとでも言えるこの世界で、どういう選択をするか。
それを探し当てるために我々は生きているのでしょう。



自由

2008年02月09日 | スピリチュアル
自由とは何かと問うた瞬間に自由は逃げます。
生きている限り問い続けるでしょうが、出た答えからはスルリと身をかわし続けること。
出た答えから逃げ続ける、そんな態度は無責任とそしられます。
巷に溢れる責任論。
何かことあるたびに、誰の責任だ、どいつの責任だと犯人探しが始まります。
誰にどんな責任があるというのでしょうか。

ぼくの人生はぼくのものです。
誰にもぼくの人生の責任など負って欲しくはありません。
冗談じゃありません。
ぼくの日々考えることや思うことや感じることに他人が介入していると言い張られるのには我慢が出来ません。

もちろん人は誰しも関係性の中で生きています。
でも、恣意的な関係性の中にまで責任論を持ち出してくるのは、持ち出してくる当人が他人に依存しているというだけのことです。
関係性はあくまでも当事者の恣意的な選択の結果で築くものです。
家族のしがらみが苦痛なら家出をすればよろしい。
職場の軋轢が嫌なら職を変えればよろしい。
人の意識の選択の自由は誰にも干渉できません。
ただ、何かを「選ぶ」というリスクを当人が責任持って負うばかりのことです。

何かを選ぶに当たってリスクがないわけがありません。
選ぶというのは、何かを選ばないということでもあるからです。
自由というのは、選ぶ喜びと選ばない(選べない)悲しみが背中合わせになって、はじめて味わえる境地です。
喜びだけが自由なのではありません。
誰もが空飛ぶ鳥をうらやましがりますが、鳥は餌となる魚がうようよ泳いでいる海の中に住みたいと思っているかもしれません。

悲しみを背負う覚悟が出来てこそ、自由を楽しむ覚悟が出来るのだといえるのかもしれません。
ここで間違えてはいけないのは、悲しみを背負うというのは否応なしに背負うというだけのことです。
悲しみを解消しなければならない責任などはありません。
悲しみを解消することが出来るとすれば、それは責任などではなく、「慈悲心」でしょう。
「慈悲心」は責任論からは最も遠く離れた心境です。
ただただ自立的に湧き出る心情です。
「~しなけらばならない」だとか「~すべきだ」というところから全く自由な心が躍動する境地です。

自由は誰かに与えられたり、法律で保障されたり、誰かの手から取り戻すことでもありません。
本来自由な魂が、本来自由だと知る、ただそれだけの話です。
一度自由だと知った魂は、誰がなんと言おうが、その自由を手放すことはありません、
自由というのは手放したり、手放さなかったり出来るものではないことを知るからです。

現代は選ぶ自由は充分にあります。
でも、なにを選ばないか、選んでいないかという自由にまで思いを馳せることは少ないように思います。
どちらも自由の側面です。
自由自在というは、己を縛るものを見切った上での境地です。