風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

役割

2006年08月31日 | スピリチュアル
一日中雨です。
今日は木曜日、メンズデーなので、映画を見に行こうと思います。
と、タイムスケジュールを見たら、観たい映画が昼からとか、夜9時過ぎからとかしかやっていません。
仕方がないので「日本沈没」を見に行きます。
ちょっと気が進まないなぁ。
でももうブラックニツカの水割りも柿の種も用意したことだし、行ってきます。

今日、前世を見れる人が店に遊びに来ました。
色々お話を聞いたら、大変な仕事です。
大変な事態になった人が相談に行くことが多いでしょうから、大変なことを引き受けざるを得ないんですね。

伊勢の神社で摂った写真と高野山の水行している時の写真に写った発光体らしきものを鑑定してもらいました。
前者はその境内に宿る神気、後者は水の自然霊だということでした。
水の自然霊って龍神様かと聞いたら、そうだということでした。

いろいろな人が持って来て溜まったものはどうしているのかと聞いたら、毎週人形に移して海に行って流しているんだそうです。

その人の助手みたいなことをしている方は、そういう霊能力っぽいのはまったくないのだそうです。
中途半端にそういう力がある人が助手ですと、いろいろな意味で厄介だそうです。
それはなんとなく分かる気がします。

先日お話した母親との関係で悩む人の一人も、昨日前世を見てもらいに行きました。
その後、ぼくのところにもお礼の電話があり、いろいろなことが整理できたとのことでした。

いろいろな人が、いろいろな役割を持ってこの世に生きてます。
自分の役割が分からなくなってしまうと、なかなか辛い状況になります。

ぼくも自分の役割って何だと聞かれたら、もう口ごもるしかないんですが、それほど辛いも思わなくなりました。
なんとなく自分の立ち位置を信じられるようになってきたというか。

この霊能者の方は、どんどん忙しくなってきていて、紹介のある方しかもう対応できないそうです。
まだお若いのですが、たった一人で霊的な浄化を毎日毎日繰り返しているわけです。
ぼくももうちょっと世の中に役立つことを積極的に志さないと、と思わせられました。






ノート

2006年08月30日 | 雑感
ここ数日どういうわけかばたばたと売れたのですが、35万という数字が絡んだのが8回も続きました。
ちょっとありえない連続性です。
35って、どういう数字なのでしょうか。
カバラでしたっけ、数字に意味を持たせた占いがあったかと思いますが、ちょっと気になります。
35という数字はぼくの店では全然一般的ではありません。
大抵は0か8で終わる数字です。

とにかく、月末になって何とか数字ができました。
いつものことですが。
いつものことですから、手元にお金が全然なくなっても、どういうわけか心が騒ぎません。
明日までにあとどうしても百数十万のお金がいるんだけどな~と思っていたんですが、今日になって何とかなりました。
計画性ゼロの綱渡りが続きます。

ちょっと神棚に拍手を打って感謝しました。
ついでに机の上を片付けました。
片付けたといっても山積みされたものを片っ端から紙袋に詰め込んで家に持って帰るだけなんですが(笑)

ところで、昔のノートをパラパラとめくっていたら、ある詩を書きつけてあったので紹介します。

ながいこと病んでいて
ふと非常に気持ちがよいので
人の見ていないところでふざけてみた

             八木重吉

いい詩ですね。
重苦しいかった空気が、いっぺんに明るく軽妙になります。
こういう心が尊いです。

でも、ちょうど10年前のノートなんですが、その頃はすさまじく忙しく、行動範囲が広かったことが分かります。
ほとんど忘れているんですが。
それと、日々の雑感みたいなのも書いているのですが、一様に暗いです(笑)
行き場を失った野良猫みたいな哀れっぽさです。
何をそんなに悩むんだというくらいに、意味もなく悩んでいます。
悩みがないことにさえ悩むみたいな意味のなさです。

ちょっとまともに読み返すのが恥ずかしいノートでした。










心の闇

2006年08月29日 | スピリチュアル
季節の移り目で、雷が発生しやすいようです。
今日の昼ごろもいきなりドカドカと降り出しました。

どういう巡りあわせか、このところ母親との関係に悩む娘という人と立て続けに数人とご縁があります。
母親と娘という関係はちょっとぼくの想像の及びがたいものがあります。
父親と息子のように、分かりやすく反発をし合わない分だけ、心の深いところで受けた傷やらなんやらは、
ぼくの想像以上に今の彼女たちの世界観に影響を及ぼしているみたいです。

女性同士であるからでしょうか、問題があっても問題と正面から向き合うことにお互いが
回避するというようなところがあるみたいです。
それで無意識下で問題が深刻化、複雑化していくような。
そんな問題があることすら意識下では認識することを避け続けるというか。

ある女性は母親の強烈な干渉の元に子供のころから過ごし、
母親の一言一言に怯えながら生きていました。
優しいご主人の間に3人の子供もできましたが、それでも母親の干渉から抜け出せません。
母親のわがままで気まぐれな言葉に振り回されて、子供の面倒もおざなりになっています。
それじゃ、母親から逃げ出したいのかと聞くと、首を振ります。
「母親が大好きなんです」と言います。

彼女は神経衰弱になって、薬が手放せなくなりました。
子供たちは、様子のおかしくなっていく母親の姿に不安を覚えます。
子供の世話は、夜勤で疲れきっているご主人が見ます。

傍から見ていると、もの凄く痛々しい家族になってしまっています。
彼女は酒を飲みながらどうしたらいいのかと泣きます。
子供たちは傍で聞き耳を立てながら、コンビ二の焼きそばを食べています。
そのうち、夜勤にでるご主人が起き出して来て、ぼさぼさの髪の毛のまま焼きそばをかきこんで、出て行きます。

明らかに母親との異常な関係が原因ですが、彼女自身が母親から離れることはできないと悲痛に泣きます。

彼女は精神科に入院もしました。
しかし、薬を大量に調合されているだけです。
こうした、明らかに精神分析が必要とされるような症状に対しても、無力な精神医療というものに腹が立ちます。
何一つ解決の糸口さえ与えられないまま、彼女は闇の中に放り出されています。

外側からは窺い知ることができない、深い闇を抱えている人が想像以上に多そうです。




オーマイニュース

2006年08月28日 | 雑感

オーマイニュースというサイトが今日マスコミ注目の中で開かれました。
既存の新聞社やテレビ局の縛りから離れて、登録した在野の市民記者が自由に記事を書くという試みです。
試み自体は大いに賛同を得ることですし、今後の発展も大いに期待できるはずのものでした。

で、ちょっと覗いてみましたが、もうあれです(笑)
ソフトバンクが7億も出資して開設したサイトですが、重くてまともに記事を開くことさえできません。
それは初日の不慣れなための不具合ということにしても、記事の内容があれです(笑)
なんか、特定の思想性を持った人々の主観の垂れ流しという感じです。
同人誌に載せるのにはいい記事かもしれませんが、双方向コミュニケーションを特性とするネットでは、
これは叩かれますね、間違いなく、というか、2chでは例によってぼろくそです(笑)

主観がいけないわけでは全然ありませんが、双方向性のコミュニケーションの場としてこのサイトを開設したのなら、
その主観の根拠なり、論拠なりを書き込まないと、もうなんというか、議論の糸口さえ見つけがたくなります。
ただただ、ぼくは、私はこう思う、こう思ったでは、ニュースとは言えません。

なんでも、韓国発祥のシステムらしくノムヒョン大統領が誕生したのも、韓国版オーマイニュースの世論への影響が多大だったらしいです。

興味ある方は、ご自分で。
でも、7億かけたシステムにしては、とてつもなく重~いですよ(笑)

http://ime.nu/www.ohmynews.co.jp

双方向のコミュニケーションって、結構覚悟がいります。
何かを書いたら、それに対するリアクションというのは、実に色々な内容と形があります。
自分の意見を言うだけ言って、賛同する人だけのリアクションを求めるというわけには行きません。
だから、それだけその意見の裏付け、根拠が乏しく、思い込みだけだと猛烈な反撃が来ます。
思い込みでもいいのですが、その場合にはその意見は思い込みだと前もって断る必要があります。
特に、政治的な話や歴史問題などいろいろな考えの人がいるわけですから、論拠を明確にしておかないと、猛攻撃を受けます。

具体的な論拠を書かない印象操作的な記事、意見というのはネットではもっとも嫌われます。
まぁ、そういう印象操作的な情報報道というのは、大新聞でも大テレビ局でもしょっちゅうしていることなんですが、
だからこそネットの情報発信ではそういうゴマカシが嫌われます。

開設したばかりですが、さてさてどうなることやらと野次馬根性です。


回転寿司

2006年08月26日 | 雑感
今日はアイカさんのコンサートでした。
子供たちも多く、ほぼ満席で盛況でした。
獅子舞、オカリナ、ミュージカルメドレーなど、内容も盛りだくさんで楽しめました。
会場があったかい雰囲気になって、いい感じでした。

ところで、コンサート前に一緒に行った人たちと昼ごはんを食べたのですが、回転寿司でした。
正直、いただけませんでした。
カニだと思って食べたら、カニカマでした。
カニミソを身の上に乗せているものですから、すっかりホンモノのカニの身と思うじゃないですか。
それですっかり食べる気を失ってしまいました。

少々値段が張ったって、ちゃんとしたものの方が評判を呼ぶと思うのですが。
少なくとも、カニカマの寿司を食べたいと思う人はいないんじゃないかと思うわけです。
ま、回転寿司を食べに行って、エラソーに味に文句を言うのはダサいんですが。

でも、あれです。
これからは本物の時代だと思うんです。
蕎麦でもうどんでも、旨いものは旨いということをみんな知り始めているわけですから、
原料やら製法やらに手を抜いていいことはなにもないと思います。
多少手を抜いたコスト削減なんか、客が減少したら元も子もないじゃないですか。

カニの原価が高くて、手軽な値段で出せないのなら、カニなんか出さなければいいのです。
アジでもなんでも、新鮮で美味しいものを見つけて出せばいいのです。
カニカマは、何ぼなんでも出しちゃいけません。←シツコイ

一時、飲み屋街が目に見えて寂れていましたが、最近は活況を取り戻しつつあるようです。
安くて美味しいというか、味や雰囲気に工夫をしているところが、客が戻っているようです。
工夫のない店は容赦なく客が離れていってます。
当たり前の話なんですが。
商売の原点に戻らないと、これからの時代は生き残れないでしょう。

と、エラソーに言うぼくの店の机の上はいまだにてんこ盛りです(笑)






神示

2006年08月25日 | スピリチュアル
先日、運命と宿命について、中途半端な受け売りを書きましたが、面白い文章を見つけました。

「運命は自由自在のものであるが、また強いるものでもあるぞ、大きくも、小さくも、薄くも、厚くも、その人の心次第に変わるぞ。
もとは霊界にあるからぞ。宿命は宿されたもの。一つのワクに入っているのであるぞ。運命は自分で切りひらくこと出来るぞ。
磨け磨け、ミタマ磨き結構。信念だけでは行詰まるぞ。嬉し嬉しで運命を迎へる気、結構ぞ。この世のことだけでこの世のこと動かんぞ。
霊界との関係によって、この世が動いている道理判らねばならん。早う神の心に、神意さとれよ。遠慮いらん。
何事も天から出て来るのぢゃ。天からとは心からのことぢゃ。物質偏重の世はやがて去るべきにあるぞ、心得なされよ。
宿命と運命は同じではない、磨けばどんなにでも光るぞ。」

1944年6月10日、 岡本天明が千葉県印旛郡にある天之日津久神社に参拝したときから自動書記が始まり、
その後16年間にわたり続いたメッセージを本にしたもの、「ひふみ神示」からの抜粋です。

ちなみに、「ひふみ」とは一二三でもあり、火(ひ)・風(ふ)・水(み)でもあるらしいです。

そのほか、コノハナサクヤヒメの神示を受け取る人などもいて、興味が尽きません。
共通するのは、近いうちに地球の浄化が大規模に起こるであろうということ。
スピリチュアルの世界でいうアセンションですね。

神社に参拝しろというのも共通しています。
神社に参拝して、身魂を浄化して、祈ることにより霊界(神界)を動かせということなのだと思います。

なんにしても、「嬉し嬉しで運命を迎へる気、結構ぞ。」という言葉は日本の神様らしくていいですね。
あれしちゃいかん、これしちゃいかんではなく、我欲を張るな、明るく素直に感謝して生きよというシンプルポリシーです。

うーん、面白い。
ちょっとしばらくはまりそうです。

でも、残された時間はあまりなさそうではあります。
差し迫らないと動こうとしないのが人間です。
でも、人間が本気で考えた想念の力というのは、思った以上に強力であるみたいです。
ここでワクワクしないで、いつワクワクするかという感じです。
人それぞれが、インディ・ジョーンズになったつもりで精神世界を潜り抜けて行くのかもしれません。

とにかく、自分さえよければ別にどうでもいいやという態度が最悪です。
救いの手が届きません。

ネネさんの舞とアイカさんの「君が代」がつい先ごろ高千穂神社に奉納されました。
高千穂神社の宮司さんは目に涙を浮かべていました。
神様ごとは始まっています。

ぼんやりしている場合じゃないですね>おれ





掃除

2006年08月24日 | 雑感
今、目の前を救急車の担架で女の人が運ばれていきました。
このビルの2階の歯医者から運ばれてきたようです。
顔が赤黒く、全身がぶるぶる震えています。
麻酔事故でもあったのでしょうか。

麻酔事故というのは怖いらしいです。
でも、これって患者側からは防ぎようがありませんしね。
麻酔のない虫歯治療なんて考えただけでもゾッとしますし。
なんにせよ、痛々しい光景でした。

話は変わりますが、お客さんが店に来るかどうかというのはまったく予測が付きません。
当たり前ですが。
来る時は重なって来ますし、来ないときはぱたりと来ません。
こちらが調子がいいときに来るわけでもないし、かえって、だるくてたまらないような時に続々来たりします。
いつも元気で爽やかでおれればいいのですが、生憎ぼくは早実の斉藤投手のような性格ではありません。
大抵はどんより、ボーっとしています。
愛想笑いも引きつります。

そんなこんなで、どんよりボーっとしているうちに、机の上がなんやら感やらでてんこ盛り状態になりました。
ぼくは慣れているから気になりませんが、お客さんが見たらどう思っているのでしょうか。
どうせ言っても聞く耳持たないからと、諦められているような気がしますが。
で、何でこんなことを書いているかというと、今日このてんこもり状態をみて、ぼくが気になったのです。
これは汚いと。
特にてんこ盛りの頂上部にある電話帳2冊が、特別に暑苦しさを覚えます。
そのデザイン、色、形状、だらりとした折れ曲がり具合、全てがだらしなさを醸し出しています。
宝石やら美術品を売る店の態をなしていません。
家庭の不用品を二束三文で引き取って、叩き売りする店のようなオーラを出しています。

それから、書棚に並べている招き猫3組、これはいただけません。
それぞれペアで、それなりにかわいい顔をしている陶器製の招き猫なのですが、なんせバッタもんの香りです。
撤去しようにも、保管する場所がありません。

汚さ、だらしなさというのは、周囲をずんずん侵食して行きます。
汚さ、だらしなさは、その中にいいものがあっても、いいものの波動を打ち消すパワーを持っています。
不思議なもので、いいものというのは、いいものの中でますますその魅力を存分に発揮します。
ガラクタの中にいいものがあると、いいものはどういうわけか沈黙します。
汚さ、だらしなさのパワーを侮ってはいけません。

大体ぼくは生まれてからこの方、だらしなさと慣れ親しんで生きてきました。
湿った布団に、汚い机、昼夜逆転した生活、何でもかんでもまーいいかと流し、時間とお金にルーズ。
そういう感じです。

そういう感じというのは、意志とか夢とか希望とか、そういう類の貴重な人間の推進力を削りに削ります。
削りに削った後に残るのは、おなじみのボーっとした感じです。
反省する気力さえ残っていないのです。

まぁ、あれです。
ここで自虐してみても始まらないのはもとより承知です。

そこで必要なのは、そうです、掃除です。
少なくとも今は掃除しようと思ったのは事実です。
明日になって机の上が片付いているかどうかは、それはちょっと分かりかねますが(笑)

笑い事じゃないと、今ぼくがぼくを叱りました。

下らない話でゴメンナサイ。


絵日記

2006年08月22日 | 雑感
今日、ちょっと用事で街を歩いたのですが、暑かったです。
なんでもアスファルトの上は50度を越えるそうです。
こんな暑さのなかで高校球児たちは戦ったんですね。
それでも空がというか、雲の千切れ具合が、ちょっとだけ秋めいているような気はしました。
東南の海の方向にはもくもくと入道雲が立ち上っていました。

そろそろ夏休みも終わりでしょう。
今の子供も絵日記とか描かされるのでしょうか。
いつも夏休みの最終日にまとめて描こうとするものですから、何を描いたらいいのか、ネタ探しに必死でした。
ありもしなかったことをでっち上げる想像力が鍛えられたかもしれません(笑)
行ってもしない魚釣りや昆虫取りで日記のページは無事埋められました。

ぼくの字の汚さは、宿題を大急ぎでしたことにするこの頃の癖のせいかもしれません。
宿題をまったくしてませんと言うことはできませんから、とにかく何かを書き散らします。
先生に提出さえすれば内容はどうあれ、無問題です。

あまり外で遊ばないような子供は、何を描いたらいいか困るでしょうね。
「一日中ゲームした。お母さんに怒られた。夜は妹とケンカした。お父さんに怒られた」というのが、毎日続くんでしょうか(笑)

今、免許証が、パスポートが期限切れています。
身分証がない状態です。
悪いことしたら、住所不定の男として報道されるかもしれません。
それでも車は運転しています。
誕生日を過ぎていますから、無免許運転になるのでしょうか。
でも、無免許運転を諾としているのではなくて、ただ単に無免許であることを忘れて乗ってしまうのです。
なかなかスリリングです。
明日あたり、試験場に行ってきます。

なんだか、頭がボーっとしています。
部屋なんかにいると、何時間でもボーっとしています。
何かを考えているわけでは全然ありません。
感じているわけでもありません。
空白の心が、空白の時間を過ごしているだけです。

あ、これはまずいかな、何かをしなくちゃと思ったすぐ後に、気が付くとまたボーっとしています。
まぁ、そういうこともあるでしょう。



高校野球

2006年08月21日 | 雑感
昨日はネネさんたちのグループと滝行でした。
ネネさんのグループ特有の素直な波動が滝場に流れていました。
みな無事に滝行を終え、数ヶ所立ち寄った後、家に帰って焼酎を飲みながらテレビをつけると高校野球の決勝戦でした。

高校野球を見なくなって久しいです。
でも、昨日の試合は思わず見てしまいました。
15回の延長戦を両者一歩も引かずに戦い抜きました。
両投手のキャラクターの違いも戦いを面白くしていました。

今朝の報道を見ると、あいかわらず早実の斉藤投手を人気アイドルに仕立てようと煽っていました。
野球はチームワークのスポーツです。
特定の誰かを煽り立てて、チーム全体にいい影響を与えることは一つもありません。
せっかくいい意味で世の中が甲子園で盛り上がっている時に、余計なことはして欲しくないものですが。
斉藤ギャルが出現しただとか、あいかわらずテレビは亀田方式で世論を煽ろうとしてます。

ということで、今日店を抜け出して、両校の再試合を見てきました(笑)
苫小牧駒沢は田中を温存しようとせずに最初から投げさせてあげた方が良かったかなとは思いましたが、
まぁ、いい試合でした。
クールな斉藤も試合後、クールダウンのキャッチボールをしている時に、感溢れて涙してました。
両校の選手に対する観客の盛大な拍手が好試合を物語っていました。

しかし、あれだけ一人で投げ抜いて、今日の9回になっても147キロとか平然と投げられる斉藤は大したものです。
見たところ、体格はがっしりしていますが、大柄でもありません。
色白ですし。
報道によれば、大学進学して、教員になりたいのだそうです。
プロのスカウトが殺到するでしょうが、志を貫いて欲しい気がします。

個人的には、田中は大選手になるような気がしてます。
はらが据わってますし、面構えが勝負師です。

勝負が終わった後の両校の監督の顔がすがすがしくてよかったです。

今日の写真は昨日の滝行です。
左に見えるのが、ぼくらの滝の導師です。
左側の滝は、よほど水量が多い時しか現れません。
台風後で、ちょうどいい塩梅にさらさら流れていました。
右の真っ白くなっているのがぼくです。
なんだか雪だるまみたくなっています。


運命と宿命

2006年08月19日 | スピリチュアル
台風一過でも、何せ進行速度が遅いためまだ空は雲が覆っています。
暑さが和らいでいいのですが。

昨日テレビで細木和子が出てて、ちょっとおもしろいことを言っていました。
運命と宿命があるというのです。
運命というのは、占いなどで示されるその人の人生の時系列に沿った、いわば運命の勢いの趨勢です。
要するに、誰でも人生の浮沈があり、その浮沈はその人の生まれでた星を知ることで占いでも示すことができるということです。
それに対して、宿命とは、その人が先祖から引き継いだ因縁やら業やらを背負った状態で生まれてくることです。
運命は、その人の生まれた日の星を占うことで、ある程度統計学的に知ることができますが、宿命は人それぞれの因縁ですから、
その両方を知ることによって、人生航路を無難に渡って行くことができるというような話だったと思います。

運命はある程度生まれつき日で決定されますから、例えば大殺界の時は新い事業やらなんやらをしでかすというようなことは、
極力控えるというようなことで気をつけることができます。
宿命に関しては、その運気を高めるには、ご先祖の供養ということでした。
宿命がご先祖の因縁によってその運気が左右されるならば、先祖の供養を通じて、
持ち越した因縁をよりよきものに変えていくことができるということだと思います。

なるほどなと思いました。
でも、よく分からない点もあります。
欧米人などは先祖供養にそれほど意を用いているようには思えません。
知っているアメリカ人など、自分の先祖が何処から(例えばドイツとか北欧とか)来たのかさえ興味がありませんでした。
もともとキリスト教では、仏教的な因縁を信じないのかもしれませんが、因果応報は信じているはずです。
でも、生まれ変わりは認めていない(公式的には)はずですので、先祖からの因縁という考え方はないと思います。
先祖供養をしない欧米人が宿命的に日本人より弱いというふうには考えづらいです。

でも、先祖供養の考え方って、仏教よりも神道から来た影響の方が強いと思うのですがどうなんでしょうか。
お釈迦様が直接先祖供養を説いたことはなかったように思いますが。

ま、それは置いといて、運命的には絶好調なはずなのに、なんか運気が冴えないということがあれば宿命が弱いということは考えられます。
素直にお墓参りに行ってみるのもいいかもしれません。
ぼくの先祖の墓は父親の田舎の、ほんとのド田舎にあるものですから、おいそれと行けないのがあれです。
ここから1500~2000キロくらい離れています。
でも、ぼくの先祖の墓がこういう状態であることも含めて、ぼくの運命であり宿命であるというふうにも考えられますから、
占いもあれです(笑)

ただ、ぼくの先祖の墓を管理していてくれていた叔父さんも叔母さんも亡くなりましたから、
今後は墓が雑草生え放題に荒れてしまうのは目に見えています。
父親は耄碌してきてますし、兄弟たちはそういうことに興味を持つタチではありません。
できるだけ帰ろうかなとは思っています。

それから、ちゃんと見てなかったのですが、魂→心→体みたいなことも言ってました。
エネルギーの流れというか、要するに、魂で思ったことが心に浮かび、心に浮かんだことが体(3次元)に
具現するというような話だったかと思います。

これはその通りだと思います。
ぼくみたいに心にろくでもないことばかり浮かぶのは、魂がよっぽど(略)

ということで、明日は台風後の滝に打たれてきます。




特別

2006年08月18日 | 雑感

台風が直撃しています。
風も雨脚もたいしたことはありませんが、速度がのろのろなため雨が多そうです。
日曜日にネネさんたちのグループの滝行ですが、いい感じの水量になりそうです。

今しがた銀行に行ってきましたが、数人の客がいただけで、こんなに空いている銀行は初めてです。
待ち時間ゼロで用をたしてきました。
隣近所の人たちとの申し合わせで、ぼくも今日は早く店を閉めます。

新聞もテレビもあれほど大騒ぎしていた靖国に関してぴたりと口を閉ざしました。
思うように世論が動かなかったことがショックなのでしょう(笑)
日本の国論を二分させることは、昔からある国の一環とした国策です。
その手にまんまと乗り続け、今なお乗り続けようとするメディアという権力は、本当に警戒すべきものになりました。
情報を多面的に収集できるネットがあるお陰で、メディアの目論見はことごとく外れるようになりましたが。

オウムにとどまらず、摂理とかいうカルトにも、やすやすと引っかかる人が後を立ちません。
自分は騙されるはずがないと思う人ほど、自意識が高ぶった人ほど、引っかかる率が高いのではないかと思っています。
なんでも疑えという発想には与しませんが、自分を疑う視点は持っていたほうがよいと思います。
何かが正しいと思ったとして、なぜ「自分」がそれを正しいと思ったのか。
それを正しいと思う「自分」は何者なのか。
疑うべきは、他者の想念や思想ではなく、その他者の想念や思想を取捨選択する「自分」だということでしょう。
「自分」というものを無条件に肯定してしまいますと、「自分」が正しいと思ったものは正しいはずだとなってしまいます。
逆に、その「自分」が間違いだと思ったことに関しては、躊躇無く断罪してしまう羽目になります。

カルトの洗脳の手口というのは、信者に「あなたたちは特別に選ばれた人間なのだ」という選民意識を吹き込むことに特徴があります。
信者の自意識をくすぐります。
どうしてあんな荒唐無稽な教義に引っかかるんだと、一様にみな驚くわけですが、
自分が特別なのだと思えるということは、それほど甘美な罠だということです。
カルトの教義は、巧妙に物事の是非を迷うことなく決められる特権意識を持たせてくれるのです。
だから、傍から見ていて信じがたいことでさえ、彼らはできるようになるのです。
選ばれた人間のすることは、選ばれていない俗世の大衆のあずかり知らないことなのだからと、ますます特権意識を募らせるのです。

と、ここまで書いてきますと、昨今のメディア側の人間に、こういう同じ匂いの特権意識を持った人間がいるのに気が付きます。
そういう人間がある特定の意図を持った人間に利用されます。
興味のある方は覗いてみてください。

中国共産党 「日本解放第二期工作要綱」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/S47/4708/470801china.html

なんにせよ、心安らかに、空の美しさに目を見張っている人には無縁の話です。
誰が特別であるとか、誰よりも自分のほうが偉いとか、誰かを陥れてやろうとか、そういう類の話からは、
できるだけ遠ざかって生きるようにしたいものです。

それにしても「ゲド戦記」、龍神様の話でした。
何の説明も無く、いきなり龍神様でした。
訳分からなかったという感想が多かったのも、至極ごもっともな話です(笑)

 

 

 


労働

2006年08月11日 | 雑感
昨晩、なにげなくNHKを見ていたら、青森の若者が漁業研修学校で学ぶ姿を映していました。
中学を卒業したばかりの子や、高校で野球に打ち込んでいたが怪我で挫折した子などが、漁船に揺られて色々な漁法を学んで行きます。
最後の研修はイカ釣りです。
青森からわざわざ能登沖まで行っての研修です。
月夜の晩は、イカはイカ釣り船の集魚灯に寄って来てはくれません。
それではと、針をより深い深度まで下ろしてみたり、錘の大きさを変えてみたりと、生徒なりに工夫します。
そして何とか独力でイカを釣ることに成功します。

生徒たちは、漁業が体力だけの世界でないことを思い知ります。
頭を使い、感覚を研ぎ澄ましていく必要を、研修を通じて学びます。

そこで思うのは、今の日本の教育システムです。

詰め込み主体の教育が長らく続き、その弊害が出れば一転してゆとり教育だときます。
その結果、
1.時間をもてあまし、街でたむろする
2.部屋に引きこもって、ゲームをする
3.経済的に余裕のある学生は、自ら進んで塾の詰め込み教育を受ける
そういうパターンになりました。

人間的に成長する要素が何一つありません。
我慢か怠惰か、その二者択一です。

高校を卒業したら、男女を問わず、一律漁業3ヶ月、農業3ヶ月、あとの残り6ヶ月は自由に社会生活に参加する、
というようなシステムにしたら、人間的にはどれほどたくましい青年たちが育つことかと思います。
その一年は、残りの人生にとってかけがいのない経験になること、間違いないでしょう。
働きにでるにせよ、大学に進学するにせよ、より明確な目標を持って前に進むことができるでしょう。

というのも、ぼく自身も大学を出てからまともに就職するまで5-6年を無駄に過ごしました。
アルバイトを転々として、お金は飲み代に使い切りました。
その間、漁業なり農業なり何なりを経験していれば、どれほど多くのことを学ぶことができたかと、後悔仕切りです。

自然に触れ、労働の厳しさに触れ、労働の喜びにも触れ、人が生きるということを考える。
そういう一年が青年たちに与えられれば、この国は一変すると思います。

徴兵制度がある国が今でもたくさんありますが、日本はそういう道ではなく、労働を通じて人に貢献する、
貢献したくなる道を選ぶことができれば、かなり尊敬される国になれるだろうと思います。

で、その青森の漁業研修学校は今年で閉鎖が決まっているそうです。
もう、あれです。
言葉がありません。



シマリス

2006年08月10日 | 雑感
近頃、叔母、従姉妹と相次いで亡くなり、そういう年になってきたんだと思う夏の盛りです。
遠いのと予定が取れないのとで、葬式は欠席しましたが、近いうちに東北へ帰ろうと思っています。

暑い暑いと言いながらも、立秋を過ぎました。
気温の変化は全然感じないのですが、昨日滝に入ったら水が心持ち冷たくなっているようには思いました。
水は生き物ですね。

いまNHKで連夜連続で「プラネットアース」というシリーズをやってますが、
あの雲の動きなどを見ていると地球は水を血液とした生き物そのもです。
四季の一巡りが、地球の一呼吸みたいな感じがします。
その地球の上であくせく暮らす人がいて、悩んだり泣いたり笑ったりしています。

先日、旅行に行くという知人からシマリスを数日預かりました。
そりゃかわいいもので、見ていて飽きません。
プルプル震えているように見えるのは、呼吸がもの凄く速いからでしょう。
かごの中に枝やら、木でできた巣箱やら、ハンモックみたいなものやらがしつらえてあります。
それらの間を目に見えぬ速さで飛び回ります。
時々飛び回るコースを変えたりもします。
枝→巣箱→ハンモックから、枝→ハンモック→巣箱というふうに飛び移り方を変えます。
リスでも同じことを繰り返してばかりいるのは退屈するようです。
いわんや人間をや。

水は口をつけると出るようになっている密封容器に入っており、汚れません。
エサも乾燥したコーンやひまわりの種や胡桃やビスケットと贅沢です。
時々、窓の外をじっと見ています。
外に出たいとじたばたするわけでもありません。
ただじっと見ています。
何を考えているのでしょうか。

日が暮れると木箱の中で丸まって寝ています。
日が昇ると、かごの中を音も立てずに高速で飛び回っています。
時々手足を上下に伸ばせるだけ伸ばして木箱の屋根の上に寝そべります。
伸ばしきった小さな足の裏が見えます。
リスも伸びをするというのは初めて知りました。

ま、そろそろお盆です。
帰省する人、遊びに行く人、仕事をする人、だらだらする人。
色々ですが、雲の上から見ると、人間も箱の中を高速で動き回っているように見えるのかもしれません。





祭り

2006年08月05日 | 雑感
ちょっと連日飲みすぎました。
黒酢を4パックとシャーベットマンゴージュースを飲んだんですが、まだすっきりしません。
帰って水シャワーでも浴びます。

街の通りにはビールや焼き鳥の屋台が立ち並んでいます。
聞いたところ今日明日は祭りだそうです。
どうしてそういう知らせがぼくの店なんかにも来て、みんなで盛り上げようとしないのでしょうか。
商店街で何やかやのイベントをすることはあるのですが、誰かが勝手に決めて、勝手にしているものですから、
協力のしようもありませんし、参加しようもありません。

浴衣姿の若者の姿もちらほら見えます。
最近、すっかり浴衣を着るというのが定着してきました。
でも、若者主体で、中年以上の人の浴衣姿はあまり見かけません。
じーさん、ばーさんこそがシブイ浴衣姿で街を歩いたらいいと思うのですが。

祭りって基本的にはその地の神社に神輿でも山車でも奉納すると言うことが大きな目的だったと思うのですが、
ここの祭りはなんだかそういう形でもなさそうです。
大通りのパレードがあって、花火大会があって、終わりということみたいです。
盆踊りも、寺や神社の境内なので行われていたのでしょうが、学校の校庭で行われるようになってから、廃れたと思います。
街に鎮座する神様に感謝と祈りを込めて、山車であるとか神輿であるとか太鼓であるとかを奉納し、
盆には先祖の御霊と共に楽しく踊りの輪を広げる。
そういうのが祭りであったのでしょう。
心を向ける中心がないと、当然祭りは形骸化し、その魅力を失って行きます。
祭りを通じて、よくは分からないけど神様というものに心を向け、先祖の霊というものに心を向けてきたのだと思います。
よくわからないものだからといって、祭りの中心であった神様や先祖の霊を外してしまったら、祭りではなくイベントです。

屋台だって、昔は参道沿いにずらっと並んでいて、その奥には神社や寺があって、そこで手を合わせる事でワンセットだったはずです。
参道でもなんでもない道に屋台が並んでも、何かの魅力にはならないと思います。
屋台そのものに魅力があるのではなく、狭い参道にびっしり並んだ屋台の賑わい、イカを焼く匂い、裸電球、
その奥にひっそり佇む神社仏閣。
祭りというのは、そういうのが全部セットになっての魅力であったはずです。

京都祇園祭、博多山笠、東京三社祭など、古い形での祭りを残しているところはもちろんまだまだたくさんあります。
その賑わいは廃れるどころか、ますます人の足を運ばせていると思います。

屋台があって、花火が打ちあがれば人が集まるはずだというような想像力のない祭りのあり方は再考すべきでしょう。
一部の若者の浴衣のファッションショーでしかなくなります。
なんだか分からないものに目を向け続けるというのは、文化的奥行きを残すためにはとても大切なことだと思います。