風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

気配

2006年06月30日 | スピリチュアル
またバシャバシャと雨が降リだしています。
地盤が緩んでいるところが多そうです。

昨日、お客さんからワインを貰ったのですが、帰って一本全部飲んでしまいました。
久しぶりに美味しいワインを飲んだ感じです。
ワインだったので、夕食はスパゲティです(パスタとは気恥ずかしくて言えません)。
なんかしみじみと満足して、早めに寝ました。

早めに寝たもんですから、当然早く目が覚めました。
まだ薄暗かったのですが、滝に行きました。
水量が多くて、ほんと、気持ちがいいです。
誰かが滝場のあちこちに蓋を開けたカップ酒を置いています。
何か供え物を入れてきたのでしょう、発泡スチロールのアイスボックスもお不動さんの前に置きっぱなしです。
どんな願をかけたのかは知りませんが、なんだかなぁという感じです。

そういうぼくは願はかけません。
ひたすら水の感触を楽しみ、一体になる有難さを感じます。
一人で滝場に行くと、背後やら横やら向こうやらに、色々気配を感じるものです。
そんなものに注意を向けてはいけません。
お経を上げたら、とっとと滝に入ります。
水の中で気合を入れると、気配は消えます。

滝から帰ると、2時間ほど寝ます。
この2時間はぐっすり眠れ、極楽気分です。
夏でも、体が冷えているものですから、全然蒸し暑くないのです。

今日からの雨でまた水量が増えるでしょう。
ドカドカと落ちてくる水の下で、ふと心身の静寂を感じる瞬間があります。
雑念もあれやこれやの思いも鳴り止みます。
その一瞬のために、わざわざ滝に打たれに行くわけです。






そういう日

2006年06月28日 | 雑感
今朝方、変な夢を見て目が覚めました。
どっかのチームがサッカーの試合をしています。
埒が明かなく、両チームの選手たちがグランド一杯に入り乱れています(夥しい数の選手の数です)。
それを画面で見ていた解説者もなんとか状況を説明しようとしますが、その説明も埒がちっとも明きません。
それを見ているぼくはもの凄くイライラしています。
そのうち、グランドもスタジオの解説者も、丁度もんじゃ焼きのようにぐちゃぐちゃに溶け合ってしまいます。
目が覚めると、嫌な汗をかいています。

思わず、クーラーのスイッチを入れてまた寝ようとしました。
うとうとしたら、またなんかストレスのもの凄く溜まる理不尽な夢を見ました。
内容は覚えていませんが。

時計を見ると朝の5時前です。
寝付けそうにもありません。
で、久しぶりに滝に行きました。

滝はこのところの雨で水量が多く、爽快でした。
このところのもやもやが少しは取れたような気になりました。
長めに入ったのですが、後半、なんというか嬉しさがこみ上げてきました。
観音経の一句一句の意味がその通りだ、その通りだと思えてきて、張り切って唱えてきました。

家に帰って少し寝て、ワイドショーで誘拐事件のことをだらだら報じていたのでテレビを消し、
窓から少しガスのかかった山並みをぼんやり眺め、自転車をこいで店に出ました。

このところ買った商品が次々と届き、そのうちの一つが破損していたので瞬間接着剤を買ってきて修理し、
修理しきれずどうしようかと思っていたところにそれを持ってきた運送屋が来たので事情を話し、
保険が利くかもしれないということでそれなら任すと言い、
お客さんが来たのでコーヒーを入れて飲み、商品を並べなおしていると別のお客さんが来たので、コーヒーをまた入れ、
着いたばかりの商品を買ってもらい、することもなくなったのでこうしてブログを書いているわけです。

お分かりのように、書きたいことが頭に浮かびません。
まぁ、そういう日もあります。


水と火

2006年06月26日 | 雑感
しかしよく降る雨です。
夜中には遠くで雷が鳴っていました。
これだけ降ると世界中が水浸しのような感じを持ってしまいますが、地球上で真水(淡水)の占める割合は、
確か1パーセントもなかったと思います。
0.001パーセントとか、そんな感じだったと思います。

日本という国にはふんだんに雨が降り、保水力も豊かな国ですが、そんな国は世界的に見ればまったく稀な条件です。
雨がじゃんじゃか降っても、文句をいったらいけません。

水を司るのは龍神様です。
日本にはおそらくとんでもない龍神様が住んでいそうです。

聞くところによりますと、龍というのは想像上の生き物というよりも、この三次元に存在したことのない、
霊界から降りてきたことのない霊界にいる生物だそうです。
神様の使いとしての白蛇や白狐なんかも、霊界の生き物だそうです。
生き物というのもなんか変な言い方ですが。

水を司るのが龍なら、火を司るのはなんなのでしょうか。
あ、鳥ですね。
あのお不動様の背後の炎は迦樓羅炎(かるらえん)というのですが、あの炎がまさしく火の鳥なのだそうです。
人の煩悩を焼き尽くす炎。
日本には活火山も多いですから、火の鳥様もたくさんおわすのかもしれません。

そういえば、水と炎が出会ったのが、温泉です。
この国は温泉だらけです。

なかなか意味深な豊かな国に住んでいるのかもしれません。

シンプル

2006年06月24日 | 雑感
唐突ですが、聖書についてちょっと思うことです。
大抵の日本語訳の聖書は「汝ら~するなかれ」とかなんとか非常に古めかしい言葉遣いで訳されています。
威厳を込めるためでしょう。
でも、現代英語訳の聖書を読むと、印象ががらりと変わります。
ちょっと今聖書が手元にないので引用できないのが残念ですが、一言で言うと分かりやすく、平明です。
「汝ら」文章ではよく意味が分からなかった箇所が、英語で読むと何だそんなことかという感じです。

どういうわけか、昔から日本というのは分かりがたいものを有難がる傾向があるようです。
ただでさえ複雑な人間模様、書かれたものくらい明快シンプルに主張したらよさそうなものですが。
特に宗教的な書物は難解なものが多いです。
道元の「正法眼蔵」なんか、内容が深遠極まりないのに加えて、言葉遣いが独特でなかなか理解が及びません。
宗教的なメッセージを伝えるって、もともと誤解を招きやすいし、シンプルにすればいいってものではないのですが、
シンプルな事柄さえも持って回って難解な言い回しをする傾向があるのはいただけません。

特に、宗教学者と呼ばれる人たちのその傾向は特にいただけません。
難解な言い回しをすればするほど、シンプルであるべきはずの宗教的メッセージがぼやけ、
捻じ曲がっているようなことがあるような気がしてなりません。
解説者が、勝手にシンプルなメッセージを改変してしまっている可能性もあります。

記憶がうろ覚えですが、「何時姦淫することなかれ」という言葉が聖書にありますが、
英語で読むと、「ヤラシイ心で他人の女性を見るな」というようなことだったかと思います。
↑違っていたら大変ですので、後日調べて見ます。
全然、印象も意味合いも違いますよね。

仏陀の言葉も、初期の仏典では言葉がとてもシンプルで、くどいくらいに繰り返しの連続です。
それがだんだん難解な経典が次から次と付け加えられていって、何がなんだか分からなくなりました(笑)

その点、神道は経典とか聖書みたいな書き物を絶対の根拠としていませんので、いまだにおおらかでシンプルです。
おおらかでシンプルが一番です。
キリストも仏陀もきっとおおらかでシンプルな人だったとぼくは信じています。


ゆとり

2006年06月23日 | 雑感
なんかこのあたりに梅雨前線が居座り、大雨・洪水警報が出ています。
そんな中、昨夜も映画を見に行ったんですが(「インサイドマン」)、映画館を出ると雪駄の鼻緒が切れまして、
素足でバスに乗り、土砂降り雨の中を素足でアスファルトの上を歩いて帰りました。
さすらい人になったような気分で、なかなか風情がありました。

家に帰ってからも寝付かれず、結局布団から抜け出し、「サタデー・ナイト・フィーバー」をそのまんまパクッた、
なんとかというシンガポール映画をだらだら呑みながら見てしまい、WCブラジル戦を生で見ました。

力の差は歴然としていましたが、これからの日本の課題もたくさん見えた試合だったと思います。
ブラジルの選手に比べて、ボールをコントロールできる範囲が数倍狭いですね。
一人一人が守備や攻撃で使うゾーンの面積が、日本人選手の場合、圧倒的に狭い感じです。
狭いもんだから、パスにしてもドリブルにしても、コントロールゾーンが広いブラジル選手にたちまちボールを奪われてしまいます。
身体的能力の差というよりも、視野の狭さではないかと思うこと仕切りでした。
それから、ここ一番というときの日本人選手の持久力のなさも気にかかりました。
これも体力的な問題というよりもメンタル面の補強が必要と思いました。
メンタル面での問題だということの分かりやすい例が、オーストラリア戦でもそうでしたが、ロスタイムでの失点の多さです。
チーム全体に気を抜く癖があるのでしょう。

ジーコ監督の戦術ミスのせいにする向きもあるみたいですが、戦術以前の問題が圧倒的だったと思います。
ブラジルでサッカーの神様みたいな位置にいた人が、Jリーグ発足当時から日本のサッカー界に身を張って貢献してきてくれたことは、
忘れてはならないと思います。
ジーコ監督の現役時代の勇姿をビデオで見ましたが、そりゃもう言葉を失います。
5人抜き、6人抜き当たり前、どんなに相手ディフェンスが守りを固めても、芸術的なシュートをするりと決めてしまいます。
日本のフォワードの姿を見てどう思ったかは知りませんが、そりゃもう、戦術云々以前の問題です。
決めるべきときに決められないサッカーで勝ち抜いていけるほどWCが甘くないのは、言うまでもないことです。
そういう意味で、ブラジル戦での玉田のシュートは唯一の清涼剤でした。
今回のリーグ戦で日本チームが放った唯一のシュートらしいシュートはこれ一本でした。
オーストラリア戦での中村のシュートは、なんというか、シュートというよりもフォワードに上げたボールが入ったようなものですし。

それから気になったのは、やっぱりマスコミです。
タレントを使った不必要な現場中継や解説がやたら多く、いらいらすることが多かったです。
視聴率稼げるもんだから、CMの数もやたら多かった気もするし。

でも、あれですね。
日本人選手、こんなもんなんですかね。
こないだのトリノオリンピックでも感じたんですが、もしかして、ゆとり教育世代なんですかね。



ミュンヘン

2006年06月22日 | 雑感
なんか雨が大量に降っています。
こういう雨をなんていうのかが気になって類語辞典で調べて見ましたが、ぴたりとした言葉が見つかりません。
豪雨という一過性のものでもなく、驟雨という感じでもありません。
とにかく雷交じりに、ザーザー降っています。

昨日は気分が乗らないので、店を抜け出して映画を見に行きました。
「ミュンヘン」と「フライトプラン」の二本立て。

「フライトプラン」はジョディ・フォスター主演のサスペンス。
ジョディ・フォスターは昔から好きな女優です。←ソレダケカイ

「ミュンヘン」は重い映画でした。
197何年かに起きたミュンヘンオリンピックの選手村でのテロ事件がこの映画の発端です。
パレスチナ人がイスラエルの選手団を人質に取り、結局テロリスト、人質共に銃撃戦の挙句殺されてしまいます。
それ復讐を誓ったイスラエル政府が、そのテロ事件に関わったパレスチナ人を一人一人暗殺していく事を決定します。
その暗殺者を請け負った青年が主人公です。

実話に基づいた話だそうです。
国土を奪われたパレスチナ側と、数千年ぶりに建国を果たしたイスラエル。
どちらにも言い分があり、埋まらぬ溝があり、憎しみと絶望と殺戮の応酬が続きます。
任務を終えたら生まれたばかりの赤ん坊と愛する嫁との楽しい家庭生活絵を夢見ていた主人公は、
そんな血みどろの殺戮の任務を遂行していくうちに、
どんどん顔つきがやせ衰え、目つきばかりがぎょろぎょろとしていきます。
仲間も一人減り、二人減り、任務の意義さえも見失って行きます。
なんとも救いのない映画です。

その不毛な応酬はいまだ尚続いています。
どんなに周囲の国が和平をお膳立てしようとも、根本的な問題の亀裂に蓋したまま和平など出来ないのでしょう。
国家間の争いに巻き込まれた個人というのは、徹底的に残酷なものがあります。
個人という人権やら思いなどは、任務に付いた瞬間から抹殺されます。

エンドロールのクレジットで気づいたのですが、この映画はスピルバーグの製作でした。
「プライベート・ライアン」の時もそうですが、人が殺されるシーンがやたらリアルです。
殺されるというのは、とてつもなくリアルなものであることを強調します。
そこから目をそむけるなと言いたげです。

今の日本にいると、死ぬというのは病院のベットの上でのことで、もの悲しげな、静かなものとして思われがちですが、
世界上では、飢えや殺戮といった暴力的な「死」というものがまだまだ溢れかえっています。
そこから目をそむけた、美辞麗句で飾られた言説というのは、確かに無力であることは間違いないでしょう。

仕事をサボって、偉そうに言うことでもないんですが。

その後、ネネさんが夏至だからというのでお誘いがあり、二人で果てしなくビールと焼酎を飲みました。
こののんきな現実と中東の深刻な現実の乖離。
う~んと唸るしかないのが、あれです。


暗記

2006年06月20日 | 雑感
唐突ですが、暗記の能力ってもっと大切にしてもいいのかもしれません。
詰め込み教育はいけないといっても、若いうちは考えることの前提となる知識が不足すれば、
考えることさえ限られたものになります。
歴史の出来事を知らなければ、歴史観というものを練り上げることができません。
英単語を知らなければ、英語の文章が読めませんし、海外で会話を楽しむどころではありません。
方程式を知らなければ、数学というものを面白く感じるわけがありません。
論語や源氏物語などの古典も、文法以前に語感になじめなければ、文章を味わう以前に退屈な文字の羅列です。

そりゃ、知識がなくとも、人生経験が豊富で、判断力が練れていくということはありえますでしょうが、
学校教育では詰め込み教育主体でないと、知識も理性も育まれないまま時間を空費するということがありえます。
知識を詰め込むと個性が失われるなんてことはありません。
知識が増えることで失われる個性なんて、何の価値もない個性なのでしょう。
サボりたい、怠けたい、勉強よりも遊びたいなどというのを個性と履き違えたら伸びる個性も伸びません。

何故こんなことをいうかというと、ある程度の年をとると、暗記するという行為にまったく脳が反応しなくなります(笑)
何かを覚えるということに喜びを感じるどころか、苦痛すら感じます。
で、大人がそうだからといって、子供もそうかというと、子供は知識を増やしていくことに喜びを感じることが出来ます。
ただ、その知識が生きた知識である必要はあります。
成績のためだとか、しなければいい学校に入れないからなどという脅かしの下で、知識を強要してはいけません。
強要すると、知識というものが、なにか嫌な高圧的なものに感じてしまいます。
知識を増やすことで、世界が広がっていく感じ、好奇心が満たされていく感じがないと、なかなか難しいです。

いい教師というのは、知識を生きた知識として教えられる教師なのでしょう。
一つの知識を世界とのかかわりの中で生きたものとして教えられること。
例えば、歴史的出来事の年号を覚えさせて、それで試験をして終わりなのではなく、
その時代というものがどういう時代であったのか、人々の暮らしはどうであったのかなどを生徒に想像させることが出来れば、
生徒はその時代に興味を持ち始め、年代も自ずから覚えていくでしょう。
知識が生徒の想像力のなかで生きたものになると、生徒は覚えるという行為が面白く感じ始めると思うのです。

古典もそうです。
いきなり漢文や平安時代の文章を文法説明から入ったら、そりゃ拒否反応が起こります。
面白くもなんともないからです。
まずその漢文なり古文なりが書かれた時代背景、書いた人の人物像などを想像しえたときに、
文章が意味あるものとして顕れてきます。
英語でも、科学でも、数学でも、なんでもそうです。
学ぶ人間の想像力が、その教科と世界との結びつきを捉えられた時にしか、好奇心というのは湧いてきません。
中学生くらいまでの生徒にとっては、好奇心が湧いてくれば進んで覚えたくなるのは、それほど難しいことではないでしょう。

学校教育での原動力は生徒の好奇心です。
好奇心さえ喚起させることが出来れば、あとはどんどん興味深いことであるはずの知識を注入してあげればいいのだと思います。

で、現実の教育現場は、小学校入学時から、好奇心の芽というか、人の話を聞く態度というか、
教育以前の基礎的能力が阻害されている場合がものすごい勢いで増えていると聞きます。
好奇心とか、コミュニケーション能力というのは、家庭での幼児教育が決定的に重要です。
忙しいからとゲームやテレビで子守代わりをさせていた家庭では、その幼児教育がされていないのかもしれません。
そうすると、知識どころではありません。
健全な好奇心が阻害されると、自分以外の存在、つまり他者や世界といったものに興味が持てなくなる可能性があります。
そうなると、学校教育でできることはなくなります。
がみがみ意味もない知識を強要する教師と、自分だけの世界に閉じこもった生徒が、断絶したまま無意味な場になります。
よく知りませんが、今の引きこもりや登校拒否なんかは、そんな感じじゃないのかなぁという気がしてます。

幼年期に人として生きるという基本的な能力を培われていないと、知識どころじゃなくなります。
世界は広く深く存在すべき価値があるものだということを両親から教えられないと、子供はかんたんに孤立してしまいます。
そんな感じなのかもしれません。

暗記の重要性ということから、変な方向へ話がずれました。
そういうぼくも、もちろん暗記は苦手で、嫌でしたから、あれなんですけど(笑)



メンタリティ

2006年06月19日 | 雑感
Wカップ、盛り上がってますが、あの日本チームの決定力のなさに消化不良を起こしそうな今日この頃です。
なんなんですかね。
大舞台には魔が潜むといいますが、どの国の選手もみな同じ舞台に立っているわけですから。
サッカーは肉食人種のゲームだとよく言われてますが、それだけではない気がします。
なにか日本のチームに一丸となる雰囲気を阻害する要因があるように思えてなりません。
ブラジルの選手たちが、移動中や試合後は皆でサンバで盛り上がっている姿と対照的です。
日本人選手にサンバを歌えとは言いませんが、なんかギスギスした雰囲気を感じます。
個々人の選手が燃えているのは分かるのですが、チーム全体で盛り上がる感じが見えません。
結果だけを見て、雰囲気云々するのは選手たちには酷かもしれませんが。

ま、スポーツに限らず、物事進めるためにはメンタル面が大事なことであるのは言うまでもありません。
経験を積んだ一流の日本人選手がメンタル面が弱いはずもないのですが、そのメンタリティが何を目指してるかなのだと思います。
勝つには、自分のプレーの精度、チームワーク、思い切りと慎重さ、連携と協力等々、いろいろなものが総合的に必要です。
選手たちがどこに焦点を合わせているかですね。
「必ず勝つ」とどの選手も口を揃えますが、日本のチームが勝つためには、どこに焦点をあわせるのか、統一されてない気がします。

川口がファインプレーを連発する。
それに呼応して、全ての選手がガッツ溢れる戦いを繰り広げるという連動がない気がします。
川口のファインプレーは川口のファインプレー、おれのプレーはおれのプレーといった感じで、気迫が個々の選手間でぶつ切りです。
そういうスタイルのプレーもありえるのでしょうが、日本のチームがそういう流儀で勝ち続ける段階ではまだないような気がします。

まぁ、ど素人の感想です。

しかし、今梅雨の真っ最中ですが、例年より湿気が少なく涼しい気がします。
昼間晴れるとそれなりに気温は上がりますが、朝夕は部屋を爽やかな風が吹き抜けます。
温暖化で局地の氷が大量に海水に溶け込んでいるために、一時的に涼しくなっているのか知らんなどと思ってみたりします。


小指

2006年06月12日 | 雑感
昨日は天気もよく、梅もぎでした。
それはいいんですが、フォークの刃先で梅のヘタをとる作業中、両手の指が激しくツリました。
帰ってから寝ようとすると、今度は足先がツリました。
日頃の運動不足が深刻です。

あんな単純作業で手足がツルとなると、海で泳いでも大丈夫だろうかと思ってしまいます。
ツルというのは、代謝が悪いのでしょうか。
それとも単に筋肉を日頃使わなすぎなのでしょうか。
なんにしても、とほほな状態です。

高校時代は柔道部に所属していました。
指導してくれるコーチも監督もいない、部員が好き勝手に練習の真似事をするみたいな、いい加減な柔道部でした。
それはさておき、柔道というのは襟や袖口をしっかりと掴まないことには話になりません。
で、襟や袖を掴むのにどの指を使うかというと、小指です。
小指を引っ掛けて、絶対に振り切られないようにするのです。
ですから試合中などは、小指の筋肉は全力で引き絞ったままです。
何を言いたいのかというと、それでもツルことなんてなかったのに、今では梅のヘタを取るだけでツリます(笑)

今日はいよいよWカップの日本戦が始まります。
独特の緊張感のなか、いい試合になることでしょう。
練習不足だと足をツル選手も出てくるのでしょうが、当たり前ながら、そんな選手は混じっているはずもありません。
でも、そんな選手でも何十年と酒と煙草を好きなだけ摂って、ごろごろ怠け暮らしたら、梅のヘタ取りでも指がツルようになります。
人ってそんなもんなんです。←開き直る

今朝は地震がありました。
うちは8階ですので、かなり長い間ぐらぐら揺れていました。
地べたに住んでいる人はそうでもなかったらしいですが。
こういうのって気をつけようがありませんから、あれですが。
知り合いの知り合いの方が、昨夜のうちに5時2分に地震があると予知して、ファックスをくれたみたいですが、
やっぱり祈るしかないみたいです。
祈りの力を侮るわけではありませんが、純一無雑に祈るというのはそれまた難しいわけで。

う~ん。

とにかく今日は早く帰ってサッカー観戦です。



ビジネス

2006年06月10日 | 雑感
「ダヴィンチコード」見ました。
原作を忠実に追うのが手一杯な感じがしました、しょうがないけど。
原作を読まないで行ったほうが楽しめるかな。

それよりも、予告編で見たスタジオ・ジブリの宮崎駿の息子の初監督作品「ケド戦記」、面白そうでした。
宮崎駿も年取っていくんで、息子が上手くその流れを引き継いでくれれば、ぼくとしても嬉しいです。
なんでも、「影に怯える少年」が主人公みたいです。
無条件に心引かれる主人公設定です(笑)

今日は店が暇だったので、何十冊と溜まった「日経ビジネス」を片っ端からパラパラと読んでゴミ袋に入れて行きました。
「日経ビジネス」という雑誌は、週刊の割には中身が濃く、ぼやっとしているとすぐ机の上に溜まります。
あとでゆっくり読もうなどと思ってはいけません。
あとでゆっくり読めたためしがありません。
届いたらすぐ、昼にそばでも食べながら読んでしまうのがいいです。

パラパラめくりながら、興味ありそうな見出しのところの記事の冒頭をさっと読みます。
経済記事などは、大体最初のパラグラフで何をどういうふうに書くのかが説明されていますから、それで大体のことはわかります。
その後は、その件の具体例や、識者の分析コメントが続くわけですが、ぼくなどにそこまでの情報は必要ない場合がほとんどです。

最近の記事で多いのは、やっぱり中国関連です。
中国、中国と投資ブームに浮かれていたころとは違い、浮き出てきた中国で展開する事業の問題点に対する鋭い突込みが多いです。
それから目立つ記事としては、大手企業の合併・吸収に関する記事が多いですね。
どこも発展的合併・吸収ではなく、保身のための合併・吸収という感じがするのが、いかにも今の日本らしいです。
IT関連の話も多いですが、ほとんど飛ばしてしまいます。
ちょっと気になったのが、携帯電話の話です。

もともと日本は携帯電話を作る能力には抜きん出ていたのですが、戦略ミスというか、視野の狭さというか、
世界で市場を広げるのに失敗しました。
実用的かつ価格のリーズナブルさを追求する世界市場の中で、高付加機能を追及する日本メーカーの携帯電話は浮いた存在です。
携帯電話にカメラだの、テレビだの、電子マネーだの、マニアックな機能をひたすら追及しているのは日本市場だけです。
日本ならそれでもいいのですが、世界市場ではそっぽを向かれています。
世界には女子高生が携帯に毎月数万円をかけるような市場はないのです。

ま、日本市場の閉鎖性っていうのは、これだけ情報がワールドワイドになってもなぜか改良されません。

一番分かりやすい例で言いますと、音楽業界でしょう。
ぼくが学生のころは聞くものというのは洋楽がほとんどでした。
80年代辺りでは、「ベストヒットUSA」みたいな番組も流行り、街で聞こえる音楽も洋楽が多かったと思います。
「ベストヒットUSA 」で流れるアメリカン・ポップスも十分に商業主義にまみれたものではあったんです。
でも、キャスターの小林克也が知る人ぞ知る洋楽通だったので、時折シブイアーチストを取り上げたりしてました。
で、あれほど流行っていた「ベストヒットUSA」も突然打ち切りになり、わけの分からない邦楽がテレビに溢れるようになりました。
憶測ですが、邦楽の低迷に慌てたレコード会社などの音楽業界が、質量でかなわない洋楽の締め出しを図ったのではないかと思っています。

で、今では何の魅了も感じない日本人のシャカシャカした音楽が流れているわけですが、もう、衰退もいいところです。
一通り、ブルース、ジャズ、ロック、フュージョンなどを知っている人たちが作る音楽と、
今の日本で流れる音楽をベースに歌を歌い始める若者たちの音楽は、そりゃ比べる方が無理です。

CMで流れる音楽も、今作った音楽ではなく、70年代あたりのリバイバルが多いみたいです。
名曲といわれる曲がたくさんありましたから。

ま、どこの業界でも業界の保身を図って、閉鎖的な体質を作ると目に見えて衰退していくのはおなじみの構図です。

今がんばっているなぁと思わせる企業は、中小企業です。
大企業というのは悪い面ばかりではありませんが、トップが保身に走った場合は、間違いなく大企業病が進行して衰退します。
今の大企業も、何十年か前は中小企業だった場合がほとんどなわけです。

いろいろな意味で、世代交代の時代なのでしょう。
守る方も責める方もきつい時代ですが、戦いに臨んだ以上は勝ち上がらなくてはいけません。

まぁ、ヒトゴトだと思って、なんでも言います(笑)



流れ

2006年06月09日 | 雑感
3ケ月も遅れて届いた商品がすんなり売れて、なんだかホッとしています。
ここ数日で一月分くらいの売り上げがありました。
ここ数ヶ月、流れの怖さというか、なんというかに大いに鍛えられました。

順調な流ればかりでないことはもとより承知ですが、流れがぴたっと止まったように見えるときは、ホントきついです。
永遠に流れが止まったままではないのかと思い始めます。
いっそ悪い流れなら、対処のしようがあろうというものですが、止まった流れは表情を見せませんから、途方に暮れます。
まぁ、どうやらまたちょろちょろと流れ出した感じはあります。
油断せず、漕ぎ出そうと思っています。

今考えると、流れが止まったのは、止まったなりの理由があります。
何かを気づくためには、流れが止まる必要があったのも分かります。
でも、その渦中では、理由も分からずうろたえかけます。
いつかはまた必ず流れ出すことを信じるしかありません。
信心がぐらつき、試されます。
投げ出せ、投げ出せという声もどこからか聞こえます。

どんな道にもこういう試練はつきものなのでしょう。
なかなか立ちふさがる試練を、チャレンジ精神で楽しんでクリアしていくというわけにはいきません。
でも、何かをクリアしたような感触はあります。
そして、先にはまだまだ大きい試練が待っているのも、いまさらのように感じます。

試練の最中は胸が締め付けられるように苦しくなりますが、過ぎてしまうとその苦しさが嘘のように消えてしまいます。
苦しかったという記憶もどうでもいいものとして気にもなりません。
苦しいなどという感情が如何に空虚な感情なのかが分かります。
空虚であるけれどもリアルな感情というものにこうして振り回されるわけです。

今日は久しぶりに映画にでも行きます。
「ダヴィンチコード」を観てこようかと思っています。
あんまり評判良くないですが、ま、映画は見たら見たなりの収穫が必ずあるので、とにかく行きます。

そういえば、昨日テレビでなんとなく「少林サッカー」を見たんですが、ああゆうドタバタ、たまりませんね。
もう自由自在、やりたいことをやりつくしてるって感じです。
饅頭屋の娘が意を決してオカマの美容師の店に入るとき、オカマの手に付いた鼻くそを気にするところなど、
ちょっと他の国の映画環境では作るの無理でしょう。

娘、美容院の前で入るか入るまいかを迷いながら立っている。
中から髭の剃り跡の黒々とした派手な女装をしたオカマが右の小指で鼻くそをほじりながら出てくる。
オカマ、娘の肩を抱いて、店に招き入れる。
娘、自分の肩を抱いたオカマの鼻くそのついた右手をキッと見る。


こんな脚本、香港以外では通用しないんではないかと思います。
通用しないというか、そういう脚本を書こうという発想がない気がします(笑)



迷い

2006年06月08日 | スピリチュアル
梅雨に入りました。
今日も大雨が降っているようです。
都会に降る雨は不快な印象しかありません。
水溜りの水を跳ね上げて走る車、湿度の高い満員電車、ズボンやスカートの裾が濡れ、腿や脛に張り付く、等々。
でも、森や田園に降る雨は、ちっとも不快な印象がありません。
普段躍動する自然が一休みし、じっとたたずんでいる風情で、見ていて飽きません。
雨に煙る竹林が風に揺れる様などは、なかなか迫力があります。
日の光の下で見せる顔とは一味違う自然の顔が見れます。

一体に、人は自然に対して、都合のいい姿ばかりを求めすぎて来た感があります。
四季折々が自然で、光も闇もあるのが自然で、破壊も再生もあるのが自然で、生と死があるのが自然です。
得体の知れない虫も夥しく繁殖するし、腐った沼もあるし、不気味な霊気漂う底知れぬ穴倉もあるわけです。
人の都合で勝手に自然を解釈し、その解釈を無理やり自然に押し付けてきたのでしょう。
19世紀、20世紀と人は自分の利害意識ばかりを発達させ、肥大させてきました。

ぼくも滝行を通じて学びましたが、冷たいだの痛いだのきついだのは、みな人の「思い」が勝手に決めていること(by 導師)。
いや、本当にそうなんです。
だって冷たいものは冷たいじゃないか、苦しいものは苦しいじゃないかと、言われるでしょうが、そうでもないんです(笑)
零度に近い水に打たれながらも、冷たいことなどどうでもいいと思うと、ふっと冷たさが消えます。
台風一過後の怒濤のような水に打たれながら、苦しいことなんかどうでもいいと思うと、ふっと苦しさが飛びます。

それと同じで、悲しい、憎い、辛い、あれが欲しい、あれが嫌だ、なんだかんだ、全てその人の「思い」に過ぎません。
「思い」に過ぎないことであるにもかかわらず、その「思い」に振り回されるのが人の常です。
「思い」に実体はないんですが、「思い」に実体があると思うことを、仏教では「迷い」といいます。
滝行でも、禅でも、仏教の修業は、その「思い」が実体がないということを徹底的に実感しようとします。
それを徹底して推し進めると「空」の体感ということになるのでしょうか。

別の言い方をするとすると、「自分」なんかどうでもいい、死ぬなら死んだらいいと思うと、「自分」という執着がなくなります。
執着がなくなると、生きる意欲が消えるかというとそうでもありません。
生きる意欲のあり方が変わります。
「自分にとって」あれが欲しい、これが悲しい、それじゃ嫌だという自分中心の欲のあり方が変質します。
そのあたりの意識の変容の仕方は、ちょっと説明するのに骨が折れます。
経験するしかないかもしれません。

敢えて説明するなら、「自分」への執着が消えると、「自分」という存在への感謝が生まれます。
とても逆説的な話なんですが。
「自分」という存在への感謝が生まれますと、他者=自分を取り巻く世界への感謝が生まれます。 

自分のことなどどうでもいいと思うと、初めて自分が何をすべきなのかが見えてくる。
そんな感じにこの世は出来ているみたいです。

でもあれです。
ここでいう「自分」とは何かとか、「どうでもいいと思う」とはどういうことか、等々突き詰めていかなければならない
事柄がたくさんあるわけです。
それを言い出すと、論文を書かなければなりますので、はしょります。

こういうのは誰かの書いた文字を読んでもどうにかなるものではないでしょう。
でも、誰にとってもかけがえのない「自分」という存在の可能性を開く端緒になりえることはありえましょう。

「迷い」がなくなるということでもありません。
「迷い」を「迷い」として、そのまま受け止められると、すっと出口を見つけやすいという感じです。
まぁ、「迷い」を「迷い」としてそのまま受け止めているつもりの「迷い」なんてことも往々にしてあるのですが(笑)



梅狩り

2006年06月07日 | 雑感
今日、ぐずぐずもたついていたロンドンからの最後の一個がついに届きました。
丸3ヶ月かかった勘定になります。
買うといってくれていたお客さんが買ってくれるかどうか分かりませんが、それはどうでもいいです。
一件落着したことのほうが大切です。

週末は、梅狩りです。
もぎまくって、ヘタを爪楊枝で取って、梅干やら梅酒に漬けます。
梅の木には棘があることを、もいでみて始めて知りました。
そういえば、確か梅ってバラ科でしたよね。

つい先日、梅が咲いて、桜が咲いていたような気がします。
それなのにもう梅の実がたわわになっています。
東北の山形などでは、サクランボも実をつけ始めているのでしょう。
土と水と太陽が、いともたやすく恵みを実らせます。
手を合わせて、頭をたれて、もがなければ罰が当たるというものです。

Aちゃんがトマトやなんやらを畑に植えているみたいです。
どうなっているのか見るのも楽しみです。

土の匂いというのがあり、季節季節でその匂いが違います。
森の中の匂いも、季節ごとに違います。
春になると、竹の子みたいな青臭い匂いがします。
今頃からのむせ返るような植物の匂い。
秋の枯葉の匂い。
冬には雪の匂い。
ぼくは北国育ちですから、雪の匂いを嗅ぐと切ないような気持ちになります。

思うんですが、小学校くらいの生徒を課外授業の一環で梅もぎなどさせてみればいいのにと思います。
木に登ったり、虫に刺されたり、転んで怪我をしたり、遊びながらたくさん学べると思うんですが。
変な虫もたくさんいますが、子供にとっては面白ワールドなはずです。

出生率の低下が話題になっています。
テレビでも誰かが言っていましたが、人口が減ってもいいじゃないかと思います。
今は多すぎます。
社会保障のために出生率を上げろといいますが、社会保障のためにずっと出生率を上げ続けたら、それこそ悲惨な状態になるでしょう。
ただでさえ、食料自給率が低いこの国で、無理やり人口を増やしたところで、国土の荒廃が一段と加速するだけです。
それよりも根本的な問題は、世界的に見たらむしろ人口の爆発的増加の方がよほど深刻な問題なわけです。
地球が悲鳴を上げています。

江戸時代の人口って確か3~4千万人だったかと思うんですが、それより少し多いくらいがこの国土で暮らすのに
快適な水準なのではないかと、何の根拠もなくぼくは思うわけです。

農漁村再生プロジェクト、ちっとも進んでいないようなんですが、そうでもないような、その通りのような。
でも、こんなふうにジミにやるのが一番なのかもしれません。
自然相手に、こちらの都合で先を急ごうと思っても、そうはいきませんから。
で、今ふと思ったのは廃材かなんかで小屋を作ってみたいということ。
囲炉裏のある快適な小屋。
こうして、思いつくまま、自分では何もせず、無責任に時は流れて行きます(笑)











観察

2006年06月06日 | 雑感
MファンドのMが捕まり、娘の幼なじみの男の子を絞め殺した母親が捕まりました。
この時代を象徴するような両事件ですが、捕まったからといって、この時代の風潮が止むわけでもないでしょう。
次から次とろくでもない事件が起きます。
目を逸らさずじっと見ていましょう。
何が現実で起きているのか、じっと見ていましょう。
誰もがたやすく手が出せるよな状況ではありません。
その自分の無力感をしっかり感じながらも、何が起きているのかを観察する必要があります。
愛だの平和だの平等だのなんだのの、陳腐なスローガンでは決して解決できない闇が表に吹き出てきているのだと思います。

闇は光の不在という言い方があります。
突き詰めるとそうなのですが、光が当たっていたところで、光を受ける人間の心が欲や利己心で濁りきってしまうと、
彼や彼女の心のなかには、光が届きません。
光がすぐそこにさんさんと照っているのに、そんな人たちの目にはこの世が闇夜に見えます。
闇夜には闇夜のルールがあるとばかりに、己の損得だけで他人をもてあそぶようになります。

何とかという賞を取り上げられた盗作画家やら、利権に群がるおっかない人たちやら、お笑い芸人だらけのテレビやら、
自浄作用がまったく働かない国になってしまいかけてます。
このままだと、餓鬼と修羅だらけになってしまいそうです。
せっかく暮らしの豊かさはこれ以上望めないほどになったというのに、この有様です。
この有様から目を逸らさず、しっかりと観察することから、第一歩が始まります。

自浄作用というのはどんな組織やらシステムを作っても正しく働きません。
今の世の中、組織やシステムを作るということ自体が、新たな利権の温床を作るというだけのことになってしまっています。
一人一人が目覚めない限り無理だとぼくは思っています。
偉そうにそう言うお前は目覚めているつもりかと聞かれれば、少なくとも何が起きているのかを見ています。
このまま状況がぐずぐずと腐っていくのなら、その腐っていく様をじっと見続けていこうと思っています。

まぁ、あれです。
地域やらなんやらの共同体の絆というのがあるかないか分からないほどまでずたずたにされ、
ありもしない個人やら個性という幻想に振り回され続けてきたわけですから、
こういう社会風潮を止めようといっても社会的なムーブメントにはならない時代です。
ですから、一人一人が自覚し始めるしか手はないです。

何を自覚するのか。
自分が何をするのか、しているのかというのが全てであることです。
社会がどんな状況であろうとも、自分の生き方を自分で選択するということです。
状況に流されたら、楽であるどころか、状況に飲み込まれてたやすく自分の生きる意味を見失います。

で、その選択する「自分」というのが何者なのかを発見しなければなりません。
状況に飲み込まれてしまいますと、「金儲けが何が悪いんだ?」「自分のしたいことして何が悪いんだ?」「あんたに関係ないだろ」
というような言葉で自分を正当化して行きますが、正当化する必要のある以前の自分を発見しなければなりません。
そうでないと、援助交際する女子学生でさえも、自分の生き方を自分で選択してると言い始めます。

自分なんてどこにもいない。
そのどこにもいない自分が、条件やら欲やら見栄やらに縛られずに、この世に参加すること。
参加できることを喜べること。
この世が光であることを気づくこと。

いろいろあるのですが(←何が)、やっぱり正しい教えに出会うことが大切なんでしょう。
じゃあ正しいって何だという話になるから、今の世の中、何かを話するのがめんどくさくなります。

ブログで倫理的なことを語ろうとするのは愚であると気が付きました。
中途半端もいいとこです。

とにかく、まずは世の中をじっと観察しましょう。



ブーン

2006年06月05日 | 雑感
昨日は山登りに行きました。
起きれるかどうか心もとなかったのですが、午前一時過ぎに目が醒め、そのまま夜明けを待って行きました。
さすがに早朝の森の中は気持ちがいいです。

山頂に出ると、靄を透かしてオレンジ色の朝日が浮かんでいます。
汗が滴り落ちるので、頭にタオルを巻きます。
持ってきた麦茶を飲んで、次の山頂を目指します。

虫たちが活動を始めています。
なんだかカブトムシくらいの大きな蜂が道のあちこちの空中に浮かんで、どけようとしません。
ブーンと大きな音を立てて威嚇しているみたいな感じです。
かまわず進むとさっと避けるんですが、感じの悪いブーンです。

林の中に入るとそのブーンはいなくなるのですが、視界が開けると、ブーンがいたるところにいます。
縄張りがあるのか、猛烈な勢いで追いかけっこをしているのも結構います。
最後の山頂でゆっくりしたかったのですが、ブーンが周囲を飛び回るので、早々に下山しました。

下山して、神社にお参りし、帰ってシャワーを浴びて、昼寝をしました。

右腕の後ろが痛痒いです。
自分では見えないのですが、大きく腫れ上がっています。
何かに射されたのでしょう。
ブーンかもしれません。

往復3時間くらいの山登りは、非常に快適で言うことないのですが、何せ低山ですからこれからの季節は虫だらけとなるでしょう。
ちょっとしばらくは行き先を変えなければならないかもしれません。

そんなこんなで午後は坐禅を組んだりして、久しぶりに休日を楽しみました。

サッカーは見ましたけど、あれでしたね。
油断したらいけないということは言われなくとも個々の選手が一番知っているのでしょうが、
モチベーションをどこまで高いところに持っていけているかなのだろうと思います。
ぼくなんかから言われたくはないでしょうが。

でも、中田のパスって厳しすぎませんかね。
受け取る選手にジャストフィットするというよりも、いつもボールのスピードが速すぎ、距離が前過ぎな感じがするんですが。
その点、小野のパスは選手の動きを読んだ親切なパスのような気がします。

ど素人がすみません。