風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

WBC

2009年03月25日 | 雑感
昨日のWBCはヘタな映画が及ばないドラマでした。
最近野球を見なくなっていたのですが、頑張って光っていた選手の活躍具合を試合を通して見たくもなりました。
おいしいところをイチローが持って行きましたが、おいしいところをおいしいと知りつつモノにするというのは流石の一言です。
原監督に対するみんなの情愛と信頼も感じましたし、マー君に対する足蹴の嵐も愛情たっぷりでした。
チーム一丸というのがチームプレイのゲームでは最も大事なことでしょう。
チーム一丸というスローガンが選手たちをまとめるのではありません。
やはり原監督に対する信頼感が選手たちをまとめたのでしょう。
最高のチームでしたね。

原監督の采配に対する批判もありましたが、勝負事というのは「勘」が大きくものを言います。
その上に、選手一人一人の勘と勝負運が加わります。
すべてをコントロールするのは不可能です。
で、「優勝」という事実に導いたのは原監督です。
それが全てでしょう。

武士道に傾倒していた原監督が念頭に置いたのは、「信」と「忍」だったそうです。
全てが報われる優勝でした。
面白いことに、今ほど「信」と「忍」が欠如している時代もないかもしれません。

素晴らしいプレーを見せてくれた全ての選手のみなさん、有難うございました。


打ちのめされる

2009年03月23日 | 雑感
今日は空はうららか、風は冷たしみたいな天気でした。

朝出掛けにテレビを見たら、野球のワールドカップをしていました。
日本が集中打で圧倒的に勝ち越したので、出勤しました。
真剣勝負というのはどちらが勝とうが負けましが、気持ちのいいものです。
真剣でいながらも、わずかな心の隙やミスが負けにつながります。
それをお互いに知り尽くしているからこそ、勝ち負け関わらず相手を讃える気持ちが生まれます。
武士道、騎士道はその精神があるからこそいまだに命脈を保ちます。

国名を背負って、この一球を打たなければ負けるというプレッシャーを背負って選手たちは戦っています。
おそらく、国名を背負うということは想像を絶するプレッシャーに違いがありません。
一流選手が魔法をかけられたみたいに実力を発揮できないということがあるのも、そのせいだろうと思います。
そのなかで戦い続ける選手たちに幸あれ、です。
一人一人の選手の真剣な面構えに、幸あれです。

真剣な戦いというのはいいものです。
もちろん、真剣な戦いに負けたら打ちのめされます。
打ちのめされることが大嫌いな多くの現代人にとっては、なおさら嫌なことでしょう。
でも、一度打ちのめされることをお勧めします。
そこから、初めて自分が生きるということがリアリティを持ち始めますから。

貧乏な時代、打ちのめされることが当たり前だった人々の心の強さは見事でした。
真剣な勝負ができるということこそ、この世に生まれた最大の恩恵でもありますから。


季節の変わり目

2009年03月22日 | 雑感
今朝はカラスの泣き叫ぶ声で目が覚めました。
何十羽いるか分かりませんが、窓の外で落ち着きなく騒いでいます。
明け方近くまで嵐のように風が吹いていましたし、どんよりとした厚い雲の下での異様な光景でした。

日曜日は大抵は一人で店に出勤しています。
ボ~ッと本を読んだりしています。
お客さんが来たらダラダラ喋ります。
長いことまともに休んでいないので、休んだところですることに困ります。
もちろん娘とどこかに行きたいとは思うのですが、一日中付き合うとこちらの体が持ちません。
以前なら、とっとと山登りに行ったでしょうが、その体力も自信がありません。

まぁ、そういう時期です。
お陰さまで仕事はなんとか順調です。
先のことは分かりません。
「今」を積み重ねるだけです。

時々、天からキツイお灸をすえられます。
酒に絡んだ場合がほとんどです。
詳細を語るのも憚られるようなことばかりです。
相当にいい加減にしないといけません。

この辺りの商店街も店の入れ替わりが激しくなってきました。
専門店が多い地域だったのですが、空き店舗に焼き鳥屋、居酒屋、ラーメン屋が次々と新規オープンしては潰れていきます。
どう見ても過当競争じゃないかと思うのですが、ぼくの店のあるビルの二階にも居酒屋が入ることになったそうです。
元はアロマテラピーの店が入っていました。
なんだかな~とは思います。
この時期、よく資金の手当てがつくものだなぁとある意味不思議でもあります。
新規事業に関しては銀行の融資も甘いのでしょうか。
よく分からない理屈で世の中が動いている感じが強くします。

どうあれこうあれ、桜が満開の時期を迎えつつあります。
日本に生まれ、日本に育ったからには、その風情を胸一杯に吸い込んでみたいものです。


考える

2009年03月20日 | 雑感
通勤路の途中の道端の桜が咲いていました。
あと何回桜を見ることになるのか分かりませんが、出来るだけ咲いた桜に心を添わせることができれば幸いです。

近頃、「考える」という行為をほとんどしなくなって来ているように思います。
雑念の断片が四六時中頭の中を飛び交ってはいますが、まとまった思念というのは浮かびません。
本も集中して読むことができず、拾い読みをするようになりました。
ま、一時的なことかもしれませんが。

日々を生きる上で「考える」という行為がそれほど役に立つことだとも思えません。
私生活上であれ、仕事上であれ、何か重大な選択を迫られたとしても、決定的な選択基準はぼくの場合はほとんど直感です。
いくら考えたところで、考えるという行為は自分の都合を考えるだけです。
重大な選択の場面において、自分の都合というものをいったん完全に脇に置いたほうが、
全体のバランスの取れた選択肢を見つけ出すことができるように思います。

物事の筋道というものを考え、計画を立て、動き出したところで大抵は考えたようにはなりません。
考え通りではなく、思ったようになるということはよくありますが。
物事というのは当然その背後に無数の人々の営みがあり、タイミングというものがあり、誰かの意図の通りに動くものではありません。
ですから、状況をコントロールしようとすればするほど、思う通りにならない苛立ちと苦しみを味わう羽目になります。
状況はなるようになるわけですから、なるようになった状況から鑑みて何が最良の選択肢なのかを探るだけです。
何かを考えて決定しようとする「自我」から見れば最悪の状況であろうとも、その状況はなるべくしてなったのですから、
いらぬ感情に振り回されず、その状況を改善すべく最良の選択肢を淡々と選べばいいのでしょう。

天に従うといえば聞こえがいいですが、散々考え通りには動かないということを経験させられたから、こんなことを言います(笑)
で、いらぬ考えを捨てれば捨てるほど、状況というのはシンプルになっていくものです。
状況がシンプルなら、選択肢もシンプルなものになります。
そういうのって、楽だとおもいませんか。


素直

2009年03月19日 | 雑感
学歴とか肩書きとかどうでもいいのですが、数少ないぼくの知り合いのなかにも東大に行った人がいます。

小学校時代の同級生 小児麻痺で片足が不自由でしたが、明るく優しい少年でした。 
中学校時代の同級生 鼻炎で年中洟をグシュグシュ言わせていましたが、先生によく質問していました。
高校時代の柔道部の先輩 さっぱりとした気性で、どういうわけか柔道着がユリの花の匂いがしていました。
お客さんの娘 色白でモデルみたいにかわいい子で、現役で今年合格しました。

こうしてそれぞれの顔を今思い浮かべてみると、共通なのは「素直さ」です。
ぼくの身近な人のごくわずかなサンプルで判断するのは乱暴ですが、素直さというのは人が「伸びる」という現象の、
前提条件のような気がしています。

学習というのは、何か新たな知識・概念・考え方を吸収することですが、素直でないと吸収ということがうまくできません。
好き嫌いや、自分ならこう思うというような自我意識が強いと、吸収力は弱いままです。

素直さというのは、自分に対する信頼感と言い換えることができるかもしれません。
自分に対する信頼感がないと、なかなか外部に対して素直になれるものではありません。

では、信頼感はどこから来るものかということになるでしょう。
これは難しいです。
~ならば、自分を信頼する、信頼できるというような条件次第の心の持ちようではない気がします。
外から見れば何一つ不足がないように見える人でも、自分に対する不信感にさいなまれたりしていることがよくあります。
逆に、同情を禁じえないような逆境の中でも、素直に健気に生き続ける人もいます。

良し悪し関わらず様々な条件さえも素直に受け止めることができるかということになるのかもしれません。
自分にないものに焦点を合わせて、あーだこーだ不平を鳴らすうちは、素直な道ではないのでしょう。

素直になれば伸びるのなら、誰にでも開かれている道ではあります。
誰にでも開かれている道だと、素直に受け取れるかどうかなのでしょう。

そして、素直な人というのは騙されません。
騙すという行為は、素直じゃない人の心の裏をかくことです。
素直な人には裏がないので、騙されようがないのです。
騙されやすいというのは、お人よしというよりも、欲深い人だということかもしれません(笑)

資本主義の終焉

2009年03月07日 | 雑感
以下は2chで拾ったレスです。

97 :名無しさん@九周年:2009/03/03(火) 07:36:28 ID:bZ7npgo70
アメリカの経済学者 ラビ・バトラ博士  (インド出身 サザン・メソジスト大学経済学部教授 国際貿易理論 デリー大学卒)

「どんなに遅くとも2000年までに共産主義は断末魔の苦しい革命を経て崩壊し、2010年までに資本主義は
崩壊するだろう。私の現時点(1978年)におけるこの予測は『経済60年周期説』に基づくものである。」

「わが恩師サーカー曰く、資本主義は『爆竹が弾けるようにして』崩壊する。世界同時大恐慌の発生による
『搾取的』資本主義の崩壊と共に、『貨幣による支配』は終了するだろう。」

「『富の過剰な集中』が資本主義の崩壊を引き起こす。少数の富裕層はひたすら貯蓄に励んでお金を使わず、多数の
貧困層はもともとお金が無いため消費できない。この『消費の歯車』の停止が資本主義を崩壊させる。」

「『自由貿易』が資本主義の崩壊を引き起こす。自由貿易による国際間の競争の激化のために生産者はコスト、ひいては人件費を削減
することになる。賃金を低く抑えれば、結局消費は鈍化する。『消費の歯車』の停止が起こり資本主義は崩壊するのである。」

「将来、原油価格は投機バブルによって1バレル=100ドルを超えるだろう。しかしその後、
この『原油バブル』は崩壊するだろう。」

「世界同時大恐慌はアメリカ住宅バブル・原油バブルの2つの投機バブルの崩壊から始まるだろう。NYダウは
大暴落するだろう。資本主義は花火のように爆発する。日本と世界は同時に崩壊するだろう。」

「世界は大恐慌による混乱期を経てプラウト主義経済(均衡貿易、賃金格差の縮小、均衡財政、自国産業保護、終身雇用、
環境保護、銀行規制など)による共存共栄の社会へと徐々に移行して行くだろう。光は極東の日本から。」

「2008年アメリカ合衆国大統領選挙は民主党候補が勝利を収めるだろう。」


以上は、ラビ・バトラというインド生まれのアメリカの経済学者が1978年時点で書いた予言というか予想らしいです。
1978年といえば、日本ではまだバブルも発生していない平和な時代で、その当時にこの予想を読んだ人は、
皆目何のことか分からなかったに違いないでしょう。
国際銀行資本家が世界中の富を食い散らかしては、食い逃げするというような資本主義社会が終わるという予言でしょう。
しかし、見事なまでに予想通りに展開しましたね。

この資本主義の大崩落のあとに来るとされる「プラウト主義経済」というのが、ざっと読んでみたら理想郷のような経済のあり方で、
そうなるといいですし、そうならなければ地球がもたないでしょう。

以前何かで読んだのですが、ラビ・バトラという人は統計学をも重視するれっきとした経済学者なのですが、
瞑想などもするスピリチュアルな方面にも造詣の深い人のようです。

日月神示、国際金融家の動き、地球環境の変化、世界的な人々の意識の変化などを合わせ考えて、ラビ・バトラのような人の本を読むと未来は明るいような気がしています。

一昨日見た映画です。
「七つの贈り物」
「ディファイアンス」

両方とも面白かったです。

相性

2009年03月02日 | スピリチュアル
人の心は自動的に反作用を生み出します。
その反作用は、好ましくない状況において顕著になります。

例えば、誰かに悪意を向けられたとします。
その悪意に気がついたとたん、心は身構え、不安や不快感に襲われ、終には悪意を向けた当人に悪意を向け返します。
悪意を向けられても気にもならず、悪意を向け返さないというのは、余程の心の修練を積んだ人以外は難しいです。

その逆に、誰かに好意を向けられたとします。
この場合は悪意ほど反作用が強くはありません。
好意を向けられていることにさえ気がつかないことさえよくあることです。
例え好意を寄せられていることに気がついたとしても、ふ~んとまんざらでもない気になって終わりという感じでしょうか。

このことは、悪意を持つ・持たれるというのが自然界の法則と合致していないから、
心が拒絶反応を持つのだといえるのかもしれません。
好意を持たれることは、よほどのことがない限り心は受容します。
悪意を持たれることは、途端に持たれた方の心の中にもブクブクと毒の泡が沸きあがって来ます。

悪意というのは目には見えませんがこのように現実的に強力な影響力を持つものです。
悪意を持った方も、結局は悪意を返されますから、持つ方持たれる方どちらにとっても不幸な現象となります。

こう考えてみますと、自然界の法則というのは、好意やら善意というのが自然な心の現われであって、
悪意やら害意というのが特異な心のあり方なのだろうということです。
悪意やら害意やらといった否定的な他人の心のあり方には、人の心はとても敏感です。
それに比べて、好意やら善意というものに対しては通常人々の関心というのは遥かに緩慢です。
周囲から受ける好意やら善意というものを空気のように受け流すぼくのような人が多いです。

自然界の法則に反しているのなら、そういう否定的な感情を持たないようにしたほうがいいに決まっています。
よく「だって○○さんが悪いのだから、そういう悪意を持ったってしかたがないじゃないか」という人がいますが、
悪いと思うのなら、注意する、注意しても聞く耳を持たないのなら、自ら離れればいいのです。
悪意を持ってまで人と付き合う必要があることなんて、この世にはありません。
人を悪いと決め付けることも悪いことだと気がついていれば、なお事態は容易です。
すべては相性ということもあります。
Aさんには耐え難い悪に見えることも、Bさんにはとても頼りになるポイントだということもあります。
Aさんは無理にその人と付き合わず、Bさんに任せればよいのです。

自然の法則というくらいですから、その法則にしたがって生きていけば幸せを感じることができる法則でなくてはいけません。
悪意やら害意をもって幸せを感じられないのは当たり前です。
好意や善意を持って日々を過ごせたら、そりゃより多くの幸せを感じられるのは間違いないでしょう。

世の中には色々な人がいます。
自分もあなたもその色々な人の一員です。
否定的な感情を持ってまで付き合う必要のある人というのは、基本的にはいません。
親子や夫婦や切れないしがらみの中での人間関係の相性が悪かったらどうするんだという疑問もあると思います。
そういう時は、あなたが変わればいいのです(笑)
ぼくも変わろうとしています(笑)
変わるしかないときに変わるというのも自然の法則です。
何でもかんでも相性のいいままに、では、成長もありません。
そして、そういう場合でも成長すればいいのであって、そこでも悪意や害意を持つ必要はないということだと思います。