風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

勇者

2009年11月30日 | 雑感
今日も一日中暗い空でした。
猫は今日も餌やらミルクやらを完食していました。
猫がここに住み着いている限りは餌をやリ続けたいと思っています。

昨夜は久しぶりにテレビを見ました。
内藤ー亀田戦です。
亀田、テクニックも精神面でも強くなりましたね。
ネットでは内藤に強烈なバッティング(頭突き=反則)を内藤にかましている姿も晒されていますが、まぁギリギリのところでしょうか。
あのバッティングで内藤の鼻が折れたのだとしたら内藤はかわいそうですが、世界戦を何度もしている内藤はそのくらいのダーティーな
戦法は百も承知のはずです。
内藤は知っているはずです。
亀田みたいな選手を相手にするときには、有無を言わさずノックアウトするしかないと思っていたはずです。
ですから、敗戦後のインタビューでも自分が情けないとしか言わなかったんだろうと思います。

勝負の世界で「かわいそう」は通じません。
勝者は光のスポットを浴び、敗者は闇の中に消えていきます。
もちろん、歴戦のプロのボクサーたちはそのことを知り尽くしています。
その非情さを知り尽くしながらも、リングにあえて立ち続ける勇気こそ賞嘆すべきです。
勝負ごとというのは、唾棄すべき残酷さと、運命に立ち向かう崇高さを併せ持っています。
茶の間に寝そべってブラウン管を通じて無責任に見ているぼくのような人間に真剣勝負をした二人の勇者に拍手を送ります。
たっだ、あの試合に関わったTV局の姿勢には問題があったようです。
まぁ、それもいつものことです。
内藤はそういう諸々を知りつつも、敢えてあのリングの上に立ったのだとぼくは思います。

逃げようとすれば問題は複雑化し、重くなっていきます。
例え勝ち目がなくても、しなければいけないときは、しなければいけないものです。
くだらない美学といわれれば、そのとおりです。
くだらない美学でも、美学と無縁に生きるよりはマシだと思う人間もいるだけの話です。

西郷隆盛の評伝なんかを読みますと、とにかくなにからも逃げません。
逃げないからこそ、彼は絶大な信望を集めました。
それに比べてぼくはと自省してみれば、まぁあらゆることから逃げまくっている感があります。
そういう男から見てみると、内藤ー亀田戦はいろいろ考えさせられる契機となりました。

勇者というのは、そういう世間でガタガタ震えている臆病者に勇気を与えてくれる存在でもあります。

子猫

2009年11月29日 | 雑感
木枯らしという感じの風が吹く一日でした。
例年より紅葉の色づき具合が濃いように思います。

店の裏に子猫が住み着きました。
ぼくはその姿をまだ見ていないのですが、スタッフによると、真っ黒な子猫だそうです。
ミルクと焼き鳥をコンビニで買って、皿に盛って置いておくと次の日にはきれいさっぱりなくなっています。

昔東京にいたころ、野良猫をアパートの部屋に住まわせました。
ある日その猫がぼくのベッドの中でいきなり出産しました。
ある朝目が覚め、布団をめくると、ぼくの右腕のすぐ横で片目の潰れた子猫と健常な子猫が二匹もぞもぞ動いていました。

丁度そのころ数日後に引越しをする予定で、厄介なことになったなと思いました。
引越し当日、荷物を運び出します。
親猫はパニックになり、まず健常な子猫をくわえ、窓から飛び出しました。
すぐに戻ってきて、片目の潰れたむくむくした真っ黒な毛に覆われている子猫をくわえて、窓からどこかへ消えました。
引越しの最中ということもあり、どこに消えたのかを詮索する余裕もありませんでした。

引越しが完了して数日後、どうにもこうにも猫たちが気になり、昔のアパートを見に行きました。
一階に住んでいましたが、小さなベランダみたいなのが張り出していました。
その下に子猫たちは住んでいました。
呼びかけても警戒して逃げてしまいました。
胸が張り裂けそうになるというのはこういうときなのでしょう。
近所のコンビニに行って、猫用の缶詰とカリカリを買ってきて、そこに置いてきました。
後ろ髪が引かれたのは言うまでもありません。

その頃ある女性と別れ、出張の多い仕事に就き始めました。
猫の家族に向ける情と気力に欠けました。
なぜか健常に生まれた子猫のことは記憶からすっぽり抜け落ちています。
片目が膿みたいなものに覆われた、むくむくした真っ黒な毛に覆われた子猫の姿ばかりが目に焼きついています。

集団と個

2009年11月25日 | 雑感
連休中はずっと集団でいましたので、少し疲れました。
集団でいることはどうも苦手です。
苦手なことは克服すべきと考えますので、前向きに捉えようとはしているのですが、どういうわけか消耗します。
余計な自意識を手放せないのでしょう。

ぼくのクセとして、いちいち人の挙動に注意が向いてしまいます。
探偵ならばなくてはならない適正だとは思うのですが、集団でただ楽しめばいいという時と場所には不毛なクセです。
意識的には周囲のことを気にしてはいないつもりなのですが、センサーが勝手にキャッチして脳に伝えてきます。
より一歩進んで、周囲に溶け込むというところまでいければいいのですが。
酒がある程度入ると無駄な自我意識も融ける感じはあるのですが、ただの酔っ払いだということでもあります。

人の集団に身心を完全に委ね、屋根から飛び降りる感じになればいいのだとは思うのですが。
修業が足りません。

パーティーや集会といったものに参加するときに心に発生する妙な緊張感というのは、ぼく自身が不快です。
不快なままで集団にいるものですから、その不快感が凝り固まっていきます。
不快な波動が僕自身から発生することになります。

尋常じゃなく開放的な人たちの集団にいたものですから、ぼく一人が勝手に不快の波動の中に閉じこもっているわけです。
他の人たちはそうは感じていない様子なのですが、ぼくが僕自身に堪りません。
根深い何かの塊が心の底に潜んでいそうです。

一人が好きだと思っていたのですが、一人が好きなのではなく、集団でいることの不快感から逃げ続けてきただけなのかもしれません。
これはなかなか時間がたてば解消するというような問題ではなさそうです。
問題のありかを真正面から見据えて、訓練を重ねるしかなさそうです。

ここ数年、集団に参加することも増えているのですが、どうも慣れません。
慣れの問題ではなく、心の問題なのだと捉えたほうがよさそうです。

一対一なら強気です。
自分のペースでものを語れるからでしょう。
不特定多数の人々がいるときに、自分のペースというものが無化されます。
それなら集団のペースにゆらゆらと合わせればいいものを、自意識が意味もなく頑張ります。
自分のことながら厄介です。



寒い朝

2009年11月21日 | 雑感
昨日は頑張って滝に行きました。
もうすっかり冬に滝でした。
冷たいとかなんとか一切考えないようにして淡々と入ろうと思いましたが、やはり冷たかったです。
甘くはありません。
それでも最後は冷たさを脱し、気持ちのよい滝になりましたが。


とりあえず、リーマンショック以降、軒並み諸外国の株価が上昇に転じているのかで、日本の株価下落は止まりません。
リーマンショックの波は比較的日本には小さいものだと言われていたのにです。

http://iup.2ch-library.com/i/i0030306-1258634735.jpg

新型インフルエンザは研究室で作られた?

http://www.youtube.com/watch?v=r7YVGZj1Jfk

オランダの悲劇(外国人に参政権を無秩序に与えるということ)

http://www.youtube.com/watch?v=r_RfSzawKUQ&feature=player_embedded

迷いⅡ

2009年11月15日 | 雑感
今朝は導師と約束した菅生の滝に、しかも朝の6時集合。
当然山の中なので、真っ暗闇でした。
6時半ころになるとようやく空に青みがかかってきます。
滝に入るころには、視界が開けました。

数日降り続いた雨で、今まで見たことのない迫力の菅生の滝でした。
危険度は限りなくアップしてましたが、なんというか、それでも愛しい滝でした。
なにを言っているのかわかりませんね(笑)

その後、娘の七五三で、家族揃って神社にお参りです。
家内の両親、隣のうちのおばさんも付き添いで一緒に参りました。
娘の着た真っ赤な着物は誰かのお下がりで、家内の母親が仕立て直してくれました。
娘は心持得意げです。
三歳の子にも艶々したプライドがあります。

神前での二礼二拍手のときに、ぼくが手で二度娘の頭を下げ、二回拍手を促したら、素直に従いました。
三歳の子でも空気を読みます。
それに比べて(略

それから店に出ました。

停滞すれば、迷いが生じます。
無駄な迷いは渦を巻き、毒気を生じます。
するべきことを真正面から淡々とする。
毒気から抜け出すにはそれが一番です。

意図して停滞するわけではもちろんありません。
ふとした油断に停滞は入り込みます。
油断は油断です。
どんなに気をつけようが、警戒しようが、油断が入るときは入ります。
油断が入って、毒気にやられて、そのときにどうするかです。

幸いなことに、ぼくには滝行や坐禅という毒気を吹き飛ばす修業の道があります。
そういう物好きな道がない場合はどうするか。
毒気というのは迷いが元ですから、元の迷いを吹き消さないことには毒気も抜けません。
ごまかせばごまかすほど、迷いは深まり、毒気も厚くなります。

散歩、ですね。
毒気をまといながら散歩してもはじめのうちは楽しくもなんともないはずです。
それでも散歩を続けます。
毒気をまとって見る落ち葉はうっとおしいゴミにしか見えないでしょう。
それでも散歩を続けます。
自然はだれかの毒気にやられるようなヤワではありません。
そのうちに風を感じ始め、空の青さに目をやり始め、鳥のさえずりが聞こえ始めます。

坐禅もそうですが、するということがすべてです。
散歩もそうです。
効能があるかどうかはどうでもいいのです。
散歩をすると決めたら散歩をするという単純な自由を絶対に手放さないことです。

迷うというのは、自由を手放すことの裏面でもあります。


ドル

2009年11月14日 | 雑感

サブプライム・ローンの破綻でアメリカが緊急経済安定化法で7000億ドルに上る公的資金を金融機関に注入しました。
その一部が以下のとおりです(「オバマはロックフェラー家の最高の切り札だった」マイケル北村著より)。
単位はすべて米ドルです。

金融会社         注入資金    収益    役員ボーナス

ゴールドマン・サックス  100億   28億    48億
モルガン・スタンレー   100億   17億    44億7500万 
JPモルガン・チュース  250億   56億    86億
シティ・グループ           -270億   53億3000万 
メリルリンチ             -270億   36億

どこも破綻寸前にまで追い込まれた会社が、収益をはるかに超えるボーナスを役員に払っています。
もう誰が見たって無茶苦茶です。
金融機関全部がグルになって火事場泥棒をしているようなものです。

上記の本にはにわかに信じがたい話がこれでもかと満載です。
ゴールドマン・サックスはサブプライムで1700~2260億円の損失を蒙ったが、逆にあらかじめ下落を予想する「逆張り」によって、
4000億円の利益を出した(「ウォール・ストリート・ジャーナル」)とか、もう仕組まれていた感がありありです。

これが米国一国の問題ならいいのですが、当然わが日本に深く深く食い込んでいる大問題です。
日本は民間を含めると330兆円もの米国債を抱え込んでいるというのです。
今まで稼いだ外貨は日本国内に循環せず、米国債という紙切れに化けて、アメリカに流れていたわけです。
上記のような無茶苦茶な公的資金を乱発しますと、当然米ドルの信用は著しく下落します。
ドルが崩壊しますと、米国債はただの紙切れになるわけです。
そうなると日本人がせっせとためた330兆円のお金が消えてしまいます。

それなら今のうちに米国債をアメリカに買い戻してもらえばよさそうなものですが、そうは長年属国状態だった日本です。
抵抗する形跡もなく、対岸の火事のように眺めているだけです。

こんな状況で、さらに米国債を買おうとしている日本の動きがあります。
http://j.people.com.cn/94476/6810074.html

もう尋常じゃないですね。
尋常じゃないことだらけです。

なにも不安になって欲しいわけではないのですが、実際に起こっていることを正確に知っておくことは非常に大切です。
オバマが民衆の草の根の支持によって当選したわけではなく、はじめから金融資本家のバックアップがあったことなどの
情報も日本では知られていません。

アメリカは中国と組むということを先日行われたG2などで世界に向かって大っぴらに示しました。
金庫番(ATM)としての日本の役目は終わりを迎えているのかもしれません。
こういう状況かで、日本国民として生きぬくためには、状況を正しく把握しておかないと大変に危険です。

オバマが核拡散に対する反対表明をしましたが、それに対するヨーロッパなどの反応は冷ややかなものだったそうです。
北朝鮮やイラクやパキスタンが核兵器を持つことは反対だ、要するに核兵器の管理する権利をアメリカに集中したいだけではないか、
という見方もあるわけです。
日本のメディアはあの声明をたいへん理想主義的な持ち上げ方をしていましたが、さてどうでしょうか。

陰謀論と切って捨てるのではなく、金と人の動きの事実を追っていくと、もう隠す気もないのかと思えるほどです。
なんか日本は完全に真実の情報から浮いてしまっています。


計画

2009年11月11日 | 雑感
昨日は一日中雨が降り続け、今朝ベランダから見ると、山はところどころ紅に染まっていました。
このところ日によって温度差がありましたので、紅の色が例年より濃いような気がしました。

このところ猟奇的な犯罪が連日のごとくに起きています。
テレビの報道の大半はその種のダークな報道に占められています。
市橋容疑者の逮捕などはNHKでも特報扱いです。
日本は世界のあわただしい動きから隔絶されている観があります。
この情報鎖国状態は、今に始まったことではないのですが、正しい情報がないと正確な判断が出来ないのは理の当然です。
人々に正確な判断をして欲しくない勢力というのがいます。
情報を操作して、大衆を思うがままの方向に誘導して、その影で膨大な利潤を貪る。

今でこそ土木事業を巡る政官民の癒着などと騒ぎ立てていますが、そんなことは昔から巷で常識のごとくに言われていたことです。
医療現場にもそれはありますでしょうし、放送事業にだってそれはありますでしょうし、いうなれば金が動くところには、
かならずそれがあったし、今後もあり続けるだろうということです。
報道されればそれがあることになり、報道されなければそれがないことになるというだけのことです。

そのもっとも大きな金が動き、しかも情報操作をしやすいのが、戦争であり、食料であり、医薬品であるのでしょう。
戦争が始まるときは、プロパガンダの応酬になります。
自国の大衆を勇敢な兵士に仕立てあげるには、愛国の血気に訴えるプロパガンダに染め上げる必要があります。
日本もそういうプロパガンダ一色に染められた時代がありました。
日本人はそのことを大いに反省しましたので、いまだにその種のプロパガンダが世界中で行われているということに気がつきません。

食料の安全性というのもきわめて曖昧で不明確なものです。
ある学者が安全だから安全だというものではありません。
その曖昧さを利用して、危険なものを安全とし、安全なものを危険とすることぐらいわけのないことのようです。
危険なものを安全だとしたいときには、それを安全だと主張する学者を登用すればいいのであり、逆の場合は逆の学者を登用するだけです。
NHK特集でも紹介されたアメリカのモンサントという会社がやっていることをみると、まぁ、そこまでやるかというオンパレードです。
彼らは種子を一手に支配することによって、世界中の農作物の支配権を得ようとしているみたいです。
いちいち説明するのは面倒くさいので、興味ある方は検索してみてください。

それで今現在進行中のインフルエンザです。
ワクチンを開発販売する会社にとってはとてつもないビジネスチャンスであることは疑いようがないでしょう。
この新型インフルエンザは自然界では発生しない、どこかの研究所で人為的に作られたものだと主張する学者がいます。
それを人工的に散布して、危機をあおり、ワクチンの需要が増えれば、製薬会社は儲かります。
で、そのワクチンが安全かというと・・・。

製薬会社が儲けようとするだけでそんなことをするとはにわかには信じられませんよね、誰だって。
でもその裏には、さらに巨大な計画があります。
人口削減計画です。
それも何十億という単位らしいです。
これ以上人口が増え続けたら、地球がもたないは明らかだからです。

要するに、巨大な計画としては、金融を破綻させ、ウイルスをばら撒き、紛争を起こし、とにかくも地球上から人口を数十億単位で減らし、
廃墟の中から、完璧にコントロール可能なジョージ・オーウェルの「1984」的な世界の持っていきたいみたいです。

「1984」的な世界というのは、すべての人民が完璧に中央から管理され、一挙手一動までもが監視される世界です。
アメリカでは個人情報がすべて入ったマイクロチップを体内に挿入するという試験が始まっているみたいです。
その予行演習として、すでに世界中でクレジット・カードというのが使われています。
カードの情報を追跡すれば、その人間がどこでなにを買い、なにを食べ、どこに泊まったかが分かりますよね。
インターネットでなにを検索し、なにに興味を持ち、どんな人間なのかをプロファイリングすることも可能かもしれません。
中央が危険人物だとみなした人間は機械的に排除されるでしょう。

情報鎖国状態にある日本人にはとうてい信じられないような話ではあります。
でも、ぼくからすれば、あのアメリカの軍事力、CIAの情報網をして、ビンラディンをいまだに捕まえることが出来ないほうが信じられません。
実際に捕まえてしまったら、アメリカが困るからだとしか思えません。

アメリカ人というアメリカに住む人々は、ぼくは個人的には大好きです。
アメリカに限らず、国という単位を道具にしか思わない人々がいるということです。

そんな中で、オバマ大統領が来日します。
今までどおりの茶番で終わるのか、思いもかけない展開になるのか。
鳩山首相の行動に注視しましょう。

迷い

2009年11月07日 | スピリチュアル
今日は雲ひとつない空が広がりました。
気温も高めで、こういう日を小春日和というのでしょうか。

そういえば、井上陽水に「小春おばさん」という歌がありました。
「小春ぅ~、おばさん~、会いに行くよぉ~、明日ぁ~、必ずぅ~、会いに行くよぉ~」という歌詞でした。
なんで小春おばさんに会いに行くのに絶叫調で歌うんだろうと思ったものです。
たぶん陽水が絶叫したかった。
それに尽きるんだと思います。

何かをしたいと思うのにたいていは意味などありません。
意味がないと不安になるという自意識過剰気味な現代人ですから、意味を後付するだけです。
誰かに説明できない行為をするというのは勇気がいるようになりました。
電車で席を譲るにも、目が合った人に微笑みかけるのも、そうしようとする自分の行為の説明が出来なければ、
具体的な行動に移すのに躊躇してしまいます。
躊躇する自分を説き伏せるほど強力な意味づけなど出来そうもありません。
だから目を伏せて、何ごともなかったのように状況をやり過ごします。

意味があるから行動すると思うと、意味など相対的なものでどうにでもこじつけられるものですから、行動に迷いが生まれます。
したほうがいいといえばいいだろうし、しなくてもいいといわれればしなくてもいいだろうし、という感じになります。
こうなると、しようと思ったその瞬間は常にはるか後方に過ぎ去っています。
で、結局、頭であれやこれやとこねくり回す徒労感ばかりが残り、意味ある行動には踏み出せないままに終わります。

そうではないです。
行動を起こしてこそ、はじめて意味が生まれます。
席を譲るかどうかを迷うのは、個人の内部で「迷う」というなにも生み出さない消え行く心理的現象が明滅するだけです。
譲るかどうかという迷いをスパリと切り捨てて、現に席を譲れば、譲った自分の心理的変化が生まれ、
譲られた人間の表情や言葉やしぐさから更なるフィードバックを貰い、それを見ていた周囲の人間にも何かを感じさせます。
実際に何かが動いていくのを意味というなら、行動を伴わない個人の心理の動きは、自己満足は可能であれ、無意味です。

したいと思ったらしたいようにすればいいのです。
もちろん、その行動が周囲から思わぬ不興を買い、心理的ダメージを食らうこともあるでしょう。
そのときはそのときです。
それだって、行動に移してみなければ決して学べなかった貴重な教訓です。
そういう教訓を積み重ねてこそ、するべきこと、すべきでないことが見えてくるのだと思います。

失敗というのは、失敗しないための教訓を得る貴重な体験です。
失敗を恐れて行動に移すことを恐れる人は、目前の行為に失敗しないかもしれませんが、
人生という奥深いゲームには失敗するかもしれません。
失敗がいけないのではありません。
人生に対して、恐れを抱くことが萎縮の始まりであり、自信の喪失になるのであり、喜びが失われていく元となっていきます。

何も最初から一か八かの博打を打つ必要はありません。
これは自分のためにも人のためにも良いと思ったことから、思った瞬間に行動に移す癖をつけるといいと思います。
気持ちよく挨拶するとか、目に付いたごみを拾うとか、意味もなくにこっと笑うとか。

自分がしたいと思ったことが人のためにもなり、自分のためにもなるという感じになれば、いらぬことでくよくよ迷うことはなくなります。
すればするほど自分も人も心豊かになるだけなのですから。

迷うことをもって、「考えている」というふうに自認するする人は気をつけたほうがいいです。
迷いは迷いです。
どこにも行けません。
考えるべきことは他にもたくさんあるのですから。

冬到来?

2009年11月06日 | 雑感
昨日は久しぶりに休みを取りました。
知人に滝に連れて行ってくれといわれたので、気が進まないまま行きました。
ここ数日急に寒くなっていたので、どういう感じの滝か大体予想できてはいました。
2年ほど冬の滝からは遠ざかっていましたので、身体が嫌がります(笑)

知人を先に入れ、後からぼくが入ります。
知人はめっぽう水に強いたちで、気持ちよさそうに滝に入りました。
ぼくの番です。
もう入っては出て、出ては入るという大変見苦しい滝となりました。
最後は何とか気合を入れて入りましたが、嫌だとか冷たいとかいう心を残したまま滝に入ると、まるで滝行になりません。
導師が見てたら、こっぴどく叱られたでしょう。

その知人は来週も連れて行ってと言います。
う~ん、です。
でも、毎月一回は菅生の滝に行くと導師と約束しました。
覚悟を決めたほうがよさそうです。

その後はジムに行きました。
先月は一回も行くことが出来なかったので、嫌がる身体を無理やりジムに持っていきました。
体重計に乗ると、少し体重が減っていました。
このところずっと胃か腸の具合が変調で、その悪いところからずっとエネルギーというか気が漏れ出しているような気がしていました。
汗をたくさんかいて、悪い気と一緒に流し出す感じで久しぶりに頑張ってみました。

それで少しは何かが吹っ切れたのか、丁度その夜に禅の例会があるので、よし坐ろうと張り切りまして、道場に行きました。
近頃、以前はちんぷんかんぷんだった禅の本が多少とも分かるような感じがありまして、期するところもありました。
気持ちは十分にありますが、身体がまだまだ不十分だいうことを確認できました。
「とにかく坐れ」という言葉を改めて身に染ましているところです。
じっと坐ることの心の苦痛と身体の苦痛を超えない限りは話にならないのです。

家に帰ったら家内から、自分のことばかりして、たまには娘をどこかに連れて行けと険悪に小言を言われました。
もっともなことです。

でも、あんたが毎日自由にどこへでも連れて行けるでしょうと言いたくなりましたが、黙りました。
そういう問題ではないと百倍小言を食らうのが分かりました。
ごめんなさい。

ヒマラヤの聖者

2009年11月02日 | スピリチュアル
急に寒くなりました。
昨日は汗ばむほどだったのですが、こういうときは体調に気をつけましょう。
なんだか温暖化なんだか寒冷化なんだかわけが分かりません。

ヒマラヤの聖者は自在に体温をコントロールできるそうです。
あるマントラを称え、ある種の観法を行うことで、氷に閉ざされても体温をぐんぐん上げ、周りの氷が溶け出すそうです。
真冬の滝に入った経験からすれば、ありえないことでもないような気がします。
うまく集中できたときは、スゥーッと寒さが消えます。
うまく集中できないときは悲惨ですが(笑)

ヒマラヤの聖者というのはものすごい人たちで、現代人がその存在を信じるのは難しいです。
寿命は数百歳、テレパシー、テレポートは当たり前、キリストのように食べ物だって必要に応じて虚空から取り出します。
ミロクの世に住む人たちがそういう感じみたいなのですが、今の人類はかなり思い切って意識の波動を高めないと、
なかなかすんなりとミロクの世に移行できそうもありません。

もともと解脱というのは生死の輪廻から抜け出すことですから、生死の輪廻から抜け出したら不死不生になるわけです。
ヒマラヤの聖者という人たちがそういう意味で解脱した人たちであるなら、因果因縁の世界から自由になることを意味しますから、
時間や空間を超越した存在のあり方を示すのもありえるのかもしれません。

チベットはそういう意味で昔から数多くの精神的求道者が引きつけられていた場所です。
不思議なことに、大戦末期にヒトラーが盛んにチベットに部下を送って、何かを探そうとしていたことです。
雪と氷に覆われた山々の奥になにを探そうとしていたのでしょうか。
現在チベットは中国の支配下に置かれています。
革命後間もない時期に、大慌てでチベットを支配下に置こうとしたように見えます。

人類の秘められた大きな可能性がチベットの奥地に眠っているのかもしれません。


選択

2009年11月01日 | スピリチュアル
今朝は土砂降りの雨の中を家族でお宮参りに行ってきました。
ここのところ休んでいないので、娘と出かけるのも久しぶりです。
だいぶ言葉も覚えて、時々びっくりするようなしゃれたことを言います(笑)。

近々、七五三にも行かなければなりません。
心に残る思い出をいっぱい積み上げて欲しいものです。
娘に関してはこちらも無条件に愛せますが、娘も無条件に親を信頼し、愛してくれています。
無条件というのが実にありがたく尊いものです。
そういう娘も思春期になればあれこれ条件を出し始めるわけですが、ま、それも更なる成長のためのステップです。
楽しいときには楽しみ、苦しいときには苦しみ悩む。
誰もが通った道だから、せめて胸を張って歩んで欲しいものです。

人は自分がしたいこと、出来ることをすればいいんだと思います。
受験にしても、就職にしても、無意味な競争を煽る風潮に巻き込まれて、どうしても競争に明け暮れてしまいがちです。
誰かよりも賢い、誰かよりも美しい、誰かよりも器用だ、際限のない世界に飲み込まれます。
そういう競争世界も無意味ではありません。
忍耐や勤勉や持続力といったあらゆる能力のベースとなるものがそこで鍛えられます。
でも、そこでそういう能力が十分に鍛えられたら、競争世界から離脱しなければならないとぼくは思います。

他人と比べて優劣を競う世界というのは、出口がありません。
どんな世界にも上には上がいますし、下には下がいます。
どこにも胸を張って生きる場所がなくなります。

「天上天下唯我独尊」というのはなにもお釈迦様が威張りくさって言った言葉ではなく、みな一人ひとりが、
お釈迦様と全く同じくかけがえのない尊い存在なのだよと宣言した言葉です。
競争世界においては、勝者は無闇に放逸に権勢を誇り、敗者は自信と生きている意味を見失います。

どんな人も、どんな状況にいようとも、自分が生きている尊厳と自由を手放さないで欲しいです。
誰もが自由です。
心身ともに成長する鍛錬は必要ですが、競争する必要は本来ありません。
誰かに勝つために鍛錬するのではなく、自分の行き方を輝かせるために鍛錬するのです。

自分を弱い存在だと思ったら、競争世界の犠牲者になってしまっています。
勝ち負けの世界では弱者というのが発生しますが、そこを離脱すれば、自由自在の世界が広がっています。

競争世界に巻き込まれて心身ともに疲弊してしまうか、自在の世界に足を踏み入れて大地の気を胸いっぱいに吸い込むか、
あなたの選択しだいです。
誰かが導くのでは決してありません。
あなたが選択する以外に、自由の道はありません。

偉そうに言って、ごめんなさい。