風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

ネズミの話

2017年11月30日 | 

「あのね」と少女が言う
「なんだい?」と訊くと少女はくすくす笑う
ぼくもつられてくすくす笑う
彼女の目はぼんやりと天井に向けられている
「あのね」と少女が今度は真顔で言う
「なんだい?」とぼくも真顔で答える

「ネズミのお話」
「ネズミのお話?」
少女はまたくすくす笑いながら頷く
「ネズミがどうしたの?」
「コロンでけがしたの」
彼女の目はまた天井に向けられる

「どうしてネズミは転んだの?」
「あなたが悪いの」
ぼくが悪い
「どうして?」
「あなたがきらったから」
ぼくが嫌った?

「ネズミはね」
彼女の顔を見た
「なかよくしようとしてたの」
「誰と?」
ぼくは訊いてみた
「あなたのしらない世界と」

ぼくの知らない世界
「そうなんだ」
彼女は頷いた
「あなたなんか知らないところよ」
「なんかネズミにぼくは悪いことしたのかな?」
「そうよ」と彼女はぼくを正面から見た

ぼくは戸惑って彼女の目線をそらした
「あなたはいつもそう」
いつもそう
「そうなのかな?」
「そうよ」
少女はぼくから目をそらさない

「で、ネズミはどうしたかったの?」
ぼくは訊いてみた
「あなたに動いてほしかったの、いっしょに」
動いてほしかった
「何を、どんな風に?」
彼女はまたくすくす笑った

「あなたにはわからないの」
ぼくには分からない
「ネズミの気持ちが?」
彼女は心底さめたような目つきでぼくを見た
「ネズミはコロンでけがしてる」
ぼくはうな垂れてぼくの知らない世界のことを考えた

 

 

 

 

 

 


カラスがなく

2017年11月17日 | 

苦しいときには苦しさを考え
哀しいときには哀しいことを考え
怒りに震えるときには怒りについて考えた

そうして思った
喜びにみちあふれるときはなにも考えることがないことを
喜びは喜びで踊っていた

人は腑に落ちないときには考える
腑に落ちたときは考える隙がない
なにもかもが地平線

喜ぶまもなく波は押し寄せる
たゆたうのもよろしかろ
押しのけ飛びあがるのもよろしかろ

ゆあーんゆあーーんと押し寄せる
その時に、なにを見る?
見せかけだけの波が押し寄せる
波にのまれてしまえばいい
沈んでしまえばいい
その時に思う
おれはなんだったのか
波に巻き込まれながら息もできなくなりながらそう思う
おれはなんだったのか

答えなどない
なにかに巻き込まれ、なにかを巻き込んでいく
そうやって、人はそれぞれの思いで夕日を見つめる
その上を、感傷のまもなくカラスが巣に帰る
すべてはでたらめだ
だからこそ
この世はとうといのだ、とカラスがないている

 


カエルの歌

2017年11月16日 | 

いつだって耳を凝らしていた
なにひとつ聞き漏らしてはいけないと思っていた
だけどその音はいつもひどく、くぐもっていた
ぼころぼころと、その音はなっていた
泥の中でカエルが歌っているのだろう

ときおり、そうやって耳を凝らしているのが馬鹿らしくなった
カエルの歌などどうでもいい
耳を凝らすのをやめた
恋人と、カレーライスの辛さついて語った
友人と、村落からの人口の流出について語った

それでも、だれとも喋らず沈黙が訪れる時がくる
カエルが鳴きはじめる
耳をふさいでもカエルの声は脳の奥までリズムを刻む
すっかり降参して、カエルの声に耳を澄ます
ぼころぼころとカエルは歌い続ける


どうでもいい

2016年06月03日 | 
どうでもいい
すべてはどうでもいい
どうでもいいからこそ
すべてが愛しい

愛しいに理由があれば窮屈だ
愛しいに理由なんぞあってほしくない
どうでもいいからこそ
すべては愛しい

命など吹き飛んでしまえばいい
それでも吹き飛ばされもせず
太陽の下にじっと身をすくめているからこそ
命は愛しい

どうでもいいから自由が尊い
どうでもいいから自分の生き方を決められる
どうでもいいから他人を信じたい
どうでもいいから季節の移り変わりが耐え難く愛しい

どうでもいいという大海の中を泳ぎ回る
どこの港がいいだのあそこの岩礁がシブいだの
どうでもいい噂が次から次へと流れてくる
すべては自分の手腕と決断にかかっている

ややもすればどうでもよくない世界にあこがれる
何かを全部誰かに決めてもらいたくなるのだ
そんな誘惑に打ち勝ってどうでもいい大海に泳ぎ出る
自分の進路は自分で決める

死んだっていい
それこそどうでもいい
どうでもいいからこそ
生きてる限りは生きてやる

それだけだから
生きることが楽しくなる
思う存分に冒険したくなる
死ぬという恐怖が無くなる

理由がれば理由から外れれば怖くなる
何かのために生きれば何かのためを失えば怖くなる
生きることにこだわれば死ぬことが怖くなる
恐れは次から次へと恐れを生み続け

そんなこんなもどうでもいい
どうでもいい大海を泳ぎ切ろう
波が荒れようが
どこにいるかが分からなくなろうが

泳ぎ切ろう
目的地などどうでもいい
どこかに辿り着くのもいいし
ひたすら漂うのもいい

ムキになって泳いだらだめだ
時にはただぷかぷか浮かんで太陽と風と空に身を任せよう
すべてはどうでもいい
完璧だ







時のはじまり

2016年06月03日 | 
何もかもを見抜く目が
何もかもを隠す目に出会ったとき
全てが完全にスパリと消えてしまった

時は止まり
色を失い
質量も消えた
風さえそよとも吹かなかった

何もかもが消え果てて
全ての記憶が失われたころ
果てしのない暗黒の空無のかなたで
誰かがクスリと笑った

そうしてまた
お馴染みの波紋が虚空に広がった
その様子を天空の外から眺めていた天使たちが
やれやれと身支度を始めた

ある顔色の悪い天使が憂鬱そうに古びた木箱から重たそうな爆薬を取り出し
いいかにも嫌でたまらないといった風情でそれに点火した
暗黒の空無の一点が唐突に爆発した
そうして再び 時が流れ始めた





港にて

2014年05月30日 | 
電車を何度も乗り継いで、夕暮れ時に小さな漁港に辿り着いた。
どこかに行きたいなと思って地図を見ていてたら、なんとなく気になった漁港だ。
太平洋に面した岬の突端にある。
駅前のロータリーには昔ながらのやる気のなさそうな旅館が一軒あるだけで、食堂すらない。
よくある死にかけつつある町だ。

港に向かう。
歩き始めて数分でこじんまりとした港が見えてきた。
三方をコンクリートの堤防で囲まれた湾内に数十隻の小ぶりな漁船が係留されている。
イワシとかアジとが主要な獲物らしい。
小さな漁村を振り返ると、しんと静まり返っている。
街灯が灯るにはまだ早すぎる時間だが、静かすぎる。
日が暮れるとゾンビがわらわらと出てきてもおかしくない。

どこかしらから、ウミネコの鳴き声が聞こえる。
ゆったりとした波が小舟を揺らすきしむ音も聞こえる。
風はゆったりと潮の香りを膨らませている。
空は橙色から、薄紫色に移り変わっている。
誰かがそばにいれば昔見た映画のことでも話したくなっていただろうが、薄紫色の空の下に波の音だけがする。

一人であること、を味わう。
大空を、大海を、大地を、味わう。
両腕を広げてみる。
ウミネコが遠くで鳴く。

死にかけつつあるのは俺だとふと気が付く。
死んでなるものかという気負いも湧かない。
駅前の旅館に泊まる気にはなれない。
羽毛のシュラフでも持ってくればよかったと思う。
駅に戻って、電車で行けるところまで行って、どうにでもなれだ。

ビールを無性に飲みたくなるが、自動販売機さえない。
ウミネコが鳴く。
「死ぬのにうってつけの日」というアメリカン・インディアンの読んだことのない本を、
書店の棚で見つけて、ぼうっと見つめていた日のことを思い出す。





自覚

2012年07月09日 | 

何かを遠くに求めていた。
手の届かないところに求めていた。
遠くに求めろと誰かに言われた気がして求めていた。
その誰かとは誰なのかと見渡してみれば、誰もいなかった。

いま、思う。
陽の光の下で両手を伸ばし空を見上げる。
この手が触れるものを大事にしようと。
誰かの囁きに耳を傾けず、森を抜けてくる風の音に耳を澄まそうと。

折しも月は中天にラグビーボールの形で浮かんでいる。
いつもながらそのメッセージはぼくには伝わらない。
伝わらないメッセージだらけのこの世界。
自分の発するメッセージくらいは明確にしていこう。

上昇する快楽もあれば、堕落する快楽もある。
快楽は神々の支配下にはなく、邪神のコントロール下にある。
神々のいる場所は「至福」だ。
あれやこれやで七転八倒する快楽の出番はない。

快楽。
人はこのくびきからは離脱できない。
ならばそれを嫌悪することなく大急ぎで渡ってしまえ。
そしてヒヤリとした月の光の下に自分の裸身を晒すのだ。

人々のうるさい思い煩いが消えたとき、万物は鳴り止む。
万物が鳴り止むとき、天空の星々が控えめに自分のパートの楽曲を奏で始める。
そして天空に一筋の閃光が走る。
「人に語らせよ」と。

そして、人々はめいめいの快楽を追い始める。
お金、名声、女と男。
神々は求める。
自覚せよと。

 

 


 


求めないということ

2011年11月28日 | 

いつの頃からか、何かを求めてはいけないような、そんな気分を引きずった
何かを求めれば、求めた瞬間にその何かが壊れるような気がしたからだ
そうして何も求めないまま年月を経た

我が子を授かったときでさえ、自分が求めたわけではないと、言い訳をした
ぼくが求めるものは必ず壊れる
だから決して子を求めるわけにはいかなかった

何も求めずとも、周囲に人々の往来はあり、四季は移ろっていく
笑い声もあり、恨み言もあり、怒鳴り声もある
なるべく目立たぬように物陰に隠れ、人々の感情のおこぼれを拾って生きていた

求めないことに慣れ親しむと、毎日の空の色の移り変わりや、時々の風の匂いに敏感になる
求めずとも常にそこにある世界
なにものにも絡め取られない解放された五感の世界

それでも周囲の人々はぼくに何かを求めるように助言し続け
ぼくのなかに何か求めるものはないかを探り続けた
求め、求められるのが人の世だとぼくを説得し続けた

すべては与えられているじゃないかと言い返そうとしたが
あまりにも自分の実感にそぐわず顔を赤らめた
ぼくの、ただ求めないなどということは、宗教的境地にはほど遠いのだ

誰にも何をも求めないという態度は、周囲の人々を苛ただせる
誰一人価値というものを創造するチャンスを奪われてしまうからだ
お金を作る価値、優しくする価値、綺麗でいることの価値、料理の旨いことの価値

自分という人間の価値を創造するように人は仕込まれた
そうではあるのだが、価値というのはそれを求める人がいなければ、ただのゼロになる
つまり、求めないという態度は、限りなく世界の存在価値をゼロにしていくことではある

でも、世界は求めようが求めまいが、世界は常にそこにある
風が吹き、雲がちぎれ、鳥が鳴き、人々が苦しむ
価値を離れたときに、世界は世界のありのままでそこにある

 


跡形

2011年08月02日 | 
ある日の夕暮れ、五〇〇羽以上の雀が一本のケヤキの木に寄り集い、
その日一日の出来事をピーチク喋っているその下を、
年老いた雌の野良犬が険しい顔してトットと通り過ぎた。
3匹産んだその最後の仔が前日に死んだのだ。
それでも雀たちはピーチクを止めはしない。

雌犬は悲しさをとうに通り越していた。
暗い闇の中を、さらに深い漆黒へとトットと向かっていた。
トット、トット。
そこには一切の感情が排除された。
トット、トット。
彼女の足は虚無に向かって進み続けた。

その他にその日そのケヤキの下を通ったのは、一人息子に先立たれ、
くたびれた茶色のビニールの買い物かごを抱えた老婆と、
青黒く痩せた顔をグラグラ揺らせながら歩いているアル中と、
中途半端に欠けた月のように憂鬱な顔をした妊婦だけだった。
憂鬱な妊婦?

もちろん、ケヤキはいろいろなことを感じながらも、
何も感じないふりをして葉を風にそよがせていた。
感じれば感じるほど幹がギュッと縮み上がり、樹皮が乾燥し、
根は先端でグルリと巻き上がるのを感じていた。
そんなそぶりを見せれば、雀たちが脅える。
そんなことをするケヤキではなかった。

それから数週間もすると、雌犬の姿を見る者もなくなり、
雀の賑やかな鳴き声も消え、ケヤキも立ち枯れていた。

さらに数年も経つと、人もいなくなり、コンクリートを割る雑草ばかりになったら、
しつこいカラスたちも消えた。
街から音が消えた。
いや、音はあった。
風の音がした。
むっとするような草と土の匂いがした。
あらゆるエキスが充満した風が吹き始めた。
見たこともない虫たちが動き始めた。

コンクリートがすっかり土塊になるのには七六〇年ほどの時間を要した。
人類がいたという痕跡は、沼地の底に沈むペットボトルくらいのものだった。
かつての道路沿いにケヤキが植えられていた辺りには、亜熱帯性樹林で覆われていた。
見たこともない鳥たちが飛び交い、見たこともない猿たちが吠え合い、
見たこともない猫科の動物が獲物を探した。

雌犬の見た漆黒はどこにも跡形もなかった。
人間の恐れたあれやこれやもどこにも跡形もなかった。
ただ、あいもかわらずひたすら生命の連鎖が広がっていた。

生きる意味などを問うことを、せせら笑うように生命は豊穣に広がっていた。


豊かな国

2011年05月02日 | 

南北の海流がぶつかり合い、とてつもない豊かな漁場に取り囲まれていた
山々からは清涼な川が至る所に流れ出て、土地を潤した
四季折々の草花が咲き乱れ、人々の口からは唄が絶えなかった
なにひとつ不足のない国だった

いつのころからか、まだまだ足りないと人々は誰かに諭された
なにが足りないのか戸惑いながらも、そんなものかも知れないと人々は懸命に働いた
そうして作った作物は供給過剰になり、値段が下がった
働けば働くほど手元に残るお金が少なくなった

どこでなにが足りないというのか、人々にはとんと分からなかった
見渡す限り、国土は依然として豊かであり、清らかだった
そのうちに、誰かが国土のあやゆるところをコンクリートで固め始めた
あれよあれよという間に、海岸線から川沿いの至る所にコンクリートで塗り固められた

人々はなにが起きているのかがさっぱり分からなかった
しだいに川に住む魚が消え、野草が消え、四季の境目が曖昧になっていった
懐かしい童謡が学校で教えられなくなり、人々は国土に対する愛着を喪失した
国中がコンクリートの建造物だらけになり、大気が息苦しくなった

人々はうろたえた
懐かしく平安だった時空が急速に失われていくのを感じた
政治家もうろたえ、農民も職人も商人もうろたえた。
そしてテレビからは休む間もなく芸人たちの馬鹿笑いが流され続けた

なにひとつ不足のない国だった
コンクリートに覆われてしまったとはいえ、今でも肥えた土地と豊穣な海を持った国だ
それでも人々はうろたえ続けている
誰かの吹く笛にぞろぞろついて行こうとしている

目を覚ますときが来た
堂々と豊かな国で豊かに生きるときが来た
誰かには勝手に笛を吹かせておけばよい
コンクリートに覆われたコンサート会場から抜け出せば、そこにはこの国の豊かな大地に豊かな風が吹いている

 


言葉

2011年04月30日 | 

そのひとはなにかを言いかけては止める癖があった
口を開いてなにかを言おうとしては、ふっと笑ってうつむいてしまうのだった
彼女の胸の中に次々生まれる言葉の光が、生まれたとたんに消えていくかのようだった
生まれ出た言葉の数々がどこに消えていってしまうのか、彼女にも分からなかった

そのひとはますます無口になっていった
人の挨拶には控えめな笑顔で応え、仕事の指示には頷いたり首を振ったりした
そんなに無口でも
周囲の者は彼女が無口であることさえも気がつかなかった

一度だけそのひとを食事に誘った
ぼくはビールを飲んで、彼女は白ワインを頼んだ
彼女の表情からは嬉しいのか気まずいのか、さっぱり分からなかった
それでも頬をピンクに染めて彼女のことを少しだけ語り出した

そのひとは北海道の奥尻島の出身で、両親が津波にさらわれた
そのとき彼女はたまたま友達のささやかな誕生日会でショートケーキを食べていた
その後は神奈川のおじさんの家に引き取られて東京の女子大を出た
好きな曲はカーペンターズ、好きな映画は「冒険者たち」

彼女の話にぼくも頷くばかりだった
ぼくもなにか気の利いたことを返そうとしたのだが
言葉がどこかに吸い込まれていった
どんな言葉も綿埃のように軽かった

今でもそのひとを見かけ、目が合うと彼女はほんの少しだけ微笑んでくれる
ぼくはなにかを言いかけるが、言葉は出ない
彼女の周囲ではすべての言葉が虚空に消えていく
冷たく静まりかえった湖面のように、その虚空は広がっている

 


どうれ

2011年04月02日 | 

耳を澄ませば 古の音が聞こえ
目をこらせば 古の草花が咲く

時が騒がしいのではない
人の心が騒がしいのだ

畑に放っておかれたキャベツが鮮やかな黄色の花を咲かせる
冬のくびきを脱した黄緑色の風が揺れる

どこへでも行けるし どこへも行けはしない
なにがどうあれ 決めるのは人の心

心に弄ばれて 心に途を失う
ため息をついて 見上げれば青い空

いっそ青い空に途を通してしまえばいいだろう
感電しないように気をつけて

そうとも言いながら、感電こそは命のスパーク
死ぬも生きるも スパークの過不足だったりする

開き直るも途ならば
考え込むのも途なんよ

開き直るも 考え込むも 夢の途
どうせ歩くは 夢の途

せめて見上げよ 空の青
せめて味わえ 風の匂い

今日もどこかで 誰かが囁く
クスクス笑いで 誰かが囁く

腹を立てるのは 筋違い
我慢するのも 筋違い

轟く声で 「どうれ!」と叫べ
誰かの耳に 「どうれ!」と叫べ
  


狡猾

2010年08月17日 | 
彼女は窓の外を眺め、壁に掛かった陳腐な風景画を眺め、カウンターの中のマスターの動きをぼんやり目で追った。
ぼくはレシートを掴んで、出ようと彼女に言った。
彼女は無言でバックを肩に掛け、立ち上がった。

店の外は国道で、トラックがひっきりなしに騒音と排気ガスを撒き散らしていた。
もう何も語ることもない。
もう何も聴くこともない。

駅まで来ると、彼女はバックから財布を取り出し、切符を買った。
そんな彼女のベージュのウールのコートの背中を見ていた。
ぼくには不釣合いな上等なコートであることは、それをはじめて見たときから知っていた。

彼女は改札に切符を差込み、ゲートの向こうに立ち去った。
振り向く気配もなかった。
何も終わっていないのに、終わらせなければならない残酷な人の心を知った。

騒々しい国道を引き返すうちに、マグマのような感情がせりあがった。
欲しいものを捨て、欲しくもないものを守っていた。
そういう自分が恐ろしいほどに惨めだった。

先に進むことも、後に戻ることもできはしない。
終わりを待たずに終わらせるとは、こういうことなのだと、知った。
ぼくはただひたすら狡猾だったのだということを、知った。







歪む月

2010年08月01日 | 
自転車で、商店街を抜け、飲み屋街を抜け、オフィス街を抜け、ふと見上げると歪な形をした月が垂れ下がっていた。
こんな月を見るのははじめてだった。
三日月でもなく、半円でもなく、ましてや満月でもない。
萎びた茄子のような黄色い月がでろでろと中空に垂れ下がっていた。

空には薄雲がかかっていて、月の周囲の雲が黄色く月を縁取っていた。
特別の日であったのか、月が派手な衣装をまとっているかのようであった。
天空を舞台にし、誰に見せるための晴れ舞台なのかは皆目分からぬ。
ただ、この奇怪な空の舞台を誰かがじっと見ている気配は確かにあった。

自転車をこぎながら、空から目を逸らし、家路を急いだ。
おれには関係のない舞台だ。
気持ちの悪い月の媚態など見たくはない。
そう思えば思うほど、演じる者の気配は濃くなり、見ている者の興奮が高まるのが知れた。

帰り着いてすることといえば、水のシャワーをしこたま浴びて、焼酎の水割りを飲むことだ。
冷蔵庫には蛸の刺身も冷やしてある。
ぐずぐず酔って、タバコを一服とベランダに出る。
腐ったレモンのような月が、だいぶ西に移動している。

雲も吹き払われて、かなたにはネス湖の怪物の三つコブのように山が並んでいる。
すべての者たちが息を潜めて、何かをたくらむ時間だ。
月はといえば、雲の縁取りを吹き払われた代わりに、いつの間にか右下5度の角度で輝く星を従えている。
この月と星とのたくらみは、決して失敗することがないかのように、天空に右下5度の角度を持って位置していた。


主人公

2010年07月03日 | 
苦しいときには、苦しいといえばよい。
苦しいと口に出していったときに、苦しい世界がその姿を現す。
その時に知れ、その苦しい世界をだれが作ったのかを。

悲しいときには、悲しいといえばよい。
悲しいと口に出していったときに、悲しい世界がその姿を現す。
その時に知れ、その悲しい世界をだれが作ったのかを。

虚しいときには、虚しいといえばよい。
虚しいと口に出していったときに、虚しい世界がその姿を現す。
その時に知れ、その虚しい世界をだれが作ったのかを。

誰がその世界の主人公なのかを思い出せ。
すっかり忘れ去ったとしても思い出せ。
誰かの作った世界に住む必要はない。
自分で自分の望む世界を作れ。

そこには風が吹いている。
木立が揺れて、鳥が鳴いている。
草の匂いが漂い、木漏れ日が揺れている。

そこでは何かが何かを縛るという法則は、存在することができない。
縛ることもできないし、縛られることもありえない。

その世界を作るのは、誰なのだ?
主人公は誰なのだ?
誰が邪魔しているのだ?
誰が禁止しているのだ?

苦しいときには、苦しいといえばよい。
苦しいと口に出していったときに、苦しい世界がその姿を現す。
その時に知れ、その苦しい世界をだれが作ったのかを。

悲しいときには、悲しいといえばよい。
悲しいと口に出していったときに、悲しい世界がその姿を現す。
その時に知れ、その悲しい世界をだれが作ったのかを。

虚しいときには、虚しいといえばよい。
虚しいと口に出していったときに、虚しい世界がその姿を現す。
その時に知れ、その虚しい世界をだれが作ったのかを。