風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

無防備

2007年07月24日 | 雑感
店の中にいると冷房が効いているので、空模様が分かりません。
夏空が広がっているのでしょうか。

目の前にお客さんからいただいた見事な桃が二つ並んでいます。
ソフトボールくらいの大きさがあります。
桃は悪霊除けになるとも聞きます。
なんか滋養がそのまま素直に膨らんだみたいな果実なので、その素直さが悪霊が嫌う所以でしょうか。

私見では、素直な人は騙されません。
疑り深い人ほど騙されます。
疑いの裏をかけばいいからです。
素直な人は裏がありませんから、詐欺師も裏のかきようがありません。
騙されるというのは、疑うポイントがあり、そのポイントさえクリアにされれば安心してしまうからです。
素直な人というのは、詐欺師の言動が本当かどうかよりも、聞きていて心が躍るか、楽しいか、嬉しいか、
がポイントになりますから、詐欺師の得意技が通じません。
逆に、疑り深い人というのは、心が踊ること、楽しいこと、嬉しいことというのに疑いの目を向ける傾向があります。

こう見えても、ぼくは自分で素直だと思っていますから、騙されたということがありません。
騙したことがないとは思いませんが。
さんざん騙されているのだが、自分じゃ気づかないだけだという意見もあるでしょう。
でも、自分で気が付かなければ、自分では騙されたことにはならないので、それでもOKです。

無防備でいるというのは、案外安全なこともあります。
自転車に鍵をかけることも滅多にありません。
昨日も銀行に自転車で行き、知り合いに会ったのでそのままお茶を飲み、そのまま店に帰って来ました。
夜になっていざ帰ろうという段階で、自転車を無施錠で銀行に置きっぱなしにしていたことを思い出しました。
取りに行ったら、ありました。

1700万円のダイヤモンド(値札つき)を落とし、数日後警察に届けられたこともありますし、
悪名高い海外で一度も騙されたこともありません。

一番いけないのは、中途半端に疑い、中途半端に無防備になることだ、とぼくは思っています。
中途半端な姿勢が、最もトラブルに巻き込まれる率が高いと思います。
常に気をつけていたのに、ちょっと気を抜いた瞬間に荷物を取られるとか、なんとか。
荷物なんか大丈夫だと放っておくと、荷物は大丈夫だオーラを出すんだと思います。
その逆に、心配ばかりしていると、心配されているぞオーラを出し、泥棒のセンサーに引っかかるのでしょう。

ま、話半分に聞いてくださいね、もちろん(笑)
無防備でいたら散々な目に会った、といわれても困りますので。

2007年07月23日 | スピリチュアル
梅雨が明けたようです。
猛烈な陽射しが降り注いでいます。

でも、年々「梅雨」というよりは「雨期」化していますね。
雷はしょっちゅうだし、大型台風は来るし。
しとしと終日降り続ける雨という感じではないです。
今後も一筋縄では行かない天気が続きそうな気配です。

心というのはつくづく面白いと思います。
暗いところに向けさせると暗いことばかりを悶々と考えるし、
明るいところに向けさせるところっと呑気になります。
感情というのは幻だというのがよく分かります。
向きを変えてやらないと、心はその幻に頑固に執着しますけど。

心の向きは変えられるということを知らないと大事になります。
心の作った幻の感情にいつまでも引きずられることになります。
心は意外と視野狭窄です。
向けた対象に飛びつき、執着します。
忠実な犬みたいなところがあります。

生きていれば、明るいところばかり見ていればいいというわけでもありません。
暗いところは暗いものとしてきちんと心を向き合わせる必要もあるときがあります。
でも、知らなければいけないのは、もの凄く暗い気分になったとしても、
その気分は心の向きを変えることで変えられるということです。

そして、心の向きを変えられるのは、自分だけであるということも大切です。
誰かや何かに何とかしてもらおうと思っても、誰かや何かは人の心の向きを変えることは決して出来ません。
できそうな気がしますが、できません。
もし、誰かや何かが人の心の向きを変えられるとしたら、それこそ逆に恐ろしいことです。

それでは、心の向きを変えることの出来るのは、なんでしょうか。
心?理性?意志?
その全てでしょう。
それをなんというのか、言葉が見つかりません。

とにかく、心は忠犬です。
その首に首輪をつけ、きちんとしつけるのか、野放しにするのか、それはご主人次第です。
心はデリケートで大切な機能ですが、主人ではありません。
主人って誰?
それを見つけないと、話が始まりませんね。

簡単そうで難しい、永遠のテーマですね。

アトランティック・シティ

2007年07月22日 | 
一面銀色に光る光る大西洋に面した黄色いベンチに、
ラクダ色のウールのコートの襟を立て、グレーの帽子を被った老人が坐っていた。
ウミネコたちが浜辺で戯れているのを目を細めて見ていた。
風は穏やかで、波の音に混じってウミネコの甲高い声だけが聞こえる。

ウミネコは海中に突っ込み、ハマグリの5,6倍ほどの大きさのある貝をくわえると、
充分な高さまで飛び上がり、くわえた貝を砂浜に落とした。
落として割れた貝の中身を食うためだ。
貝は海中に豊富にいるらしく、仲間の落とした貝を横取りして食うウミネコの姿はない。

老人はそんな光景を目にしながら、頭の中には遠い記憶ばかりがくるくると回っていた。
老人というのはそういうものだ。
記憶は遠ければ遠いほどその輝きを増してくる。
誰かに見守られていたような、一人一人の表情がクローズアップされるような、そんな記憶。

子供たちは家をとっくに出て行き、孫たちの顔を見たのも六年前のクリスマスが最後だった。
膝を痛めている妻と、ニューヨークからバスに乗ってアトランティク・シティにやってきた。
2日ががかりで、ポーカーで400ドルすり、ルーレットで200ドルすり、スロットマシーンで250ドル取り戻した。
妻は膝が痛いと、ずっとホテルの部屋でソファに寝そべりテレビで映画を見ていた。

もう20年も前に禁煙をしたが、深夜寝付くことが出来ずに階下に降りてしたスロットマシーンが好調だったので、
バニーガールにカクテルを頼むついでにマルボロを一箱買ってしまった。
内ポケットから取り出し、マッチで火をつけて煙を深々と吸った。
吐き出した煙が海風にかき消され、沖合い遥かに貨物船がかすんでいる。

そろそろ妻を誘い、ホテル最上階のレストランでソフトシェルクラブと白ワインのランチを取ろう。
妻はまだお腹が空かないだとか、中華料理がいいだとか言い出すにに違いない。
私は軽く笑って受け流し、彼女の腕を取って海の見える席まで優しくエスコートしてやろう。
彼女の不機嫌な顔に向って思い切り陽気なジョークを言おう。

今では分かる。
人の肉体は借り物だったのだ。
この世界さえ借り物の舞台だった。
老いた不健康な妻の肉体の奥にある老いることのない光に向ってジョークを言うんだ。

老人は煙草を消し、吸殻を煙草の箱の中に戻した。
立ち上がり、もう一度海を見、ウミネコのじゃれあう鳴き声を聞き、塩の匂いを吸い込んだ。
ふと子供のころ炭鉱に父親を迎えに行き、一緒に手を繋いで家まで帰るときに感じた懐かしさが心に蘇った。
微笑を浮かべ、老人は妻の待つ部屋へと向った。





無題

2007年07月21日 | 
耳を澄まそう
テレビやラジオや人々のおしゃべりにではなく
自分の心に耳を澄まそう

いくら耳を澄ましても
なにも聴こえないと諦めてはいけない
その声はとてもとても小さいのだ
大きい声を出して人の心を悩ますのが嫌だから
聴く気になった人にしか聞こえない声だから

小春日和に森の中で枯葉がかさりと動いたくらいの音だから
注意深く優しい心で聴かなければならない

最初のかさりが聴こえたら
かさりかさりが青い透明なメーッセージを
あなたに伝え続けているのが分かる

たった一つのメッセージだ
それを繰り返し繰り返しあなたの心はあなたに伝え続けているのだ

言葉にならない言葉があることをあなたは知る
それは色であり温度であり匂いであり肌触りだ
慈しみであり勇気でありユーモアだ
空であり雲であり風であり草原だ



身震い

2007年07月18日 | スピリチュアル

台風が日本列島をいたぶるように通り過ぎたと思ったら、柏崎の地震です。
そっち系の人たちの間ではいろいろなことが言われています。
水の浄化(台風)と火の浄化(地震)だとか、ある機関によって人工的に起こされた台風と地震だとか。
災害に見舞われた人たちにとっては冗談じゃないと怒るような話でしょう。

ま、大切なのはびくびくしないことです。
過度の心配は、心配していたことを現実に引き寄せるという話もあります。
何があっても、生きている間は楽しく明るく元気に過ごせれば、あとは天に任せるしかありません。
天に任せることが出来ないと、あれやこれやしなければならないこと、してもらわなければならないことだらけになって、
もう頭の中が心配事だらけになってしまいます。

ぼく自身の感覚で言えば、いよいよ始まったなという感じです。
地球がぶるぶる身震いをしているんだろうと思います。
日本に住んでますと、人々の意識もやっと環境保全や地球全体の生命系への意識が芽生え始めましたが、
ご存知のように中国やブラジルやロシアではこれから大量消費社会を迎えようとしているわけです。
その勢いを「地球を救おう」のスローガンで現実的に止めることは難しいでしょう。
有機物エネルギーの枯渇が目に見えている中、世界的にはこれから更に資源を食い尽くそうとする趨勢です。
代替エネルギーにトウモロコシなどの作物をアルコール燃料にするみたいな話がありますが、
そんなことをしたら南米の森林があっという間に消えてしまうのは誰でも分かる話です。
誰でも分かる話なのに、だれもそれを調整する能力もヴィジョンもありません。
目先の繁栄を目指して、地球上の表面から豊かな生命系が失われていきます。
地球が身震いして、増殖したガン細胞みたいな人類を淘汰しようとしたところで、誰も責められませんね。

政治は政権争いで、揚げ足取り合戦をしています。
相手をこき下ろし、自分のところの政策はオブラートに包んで、美辞麗句。
こんなもので、投票に行けというのは有権者には酷です。
ぼくはぼくなりに誰に投票するかは決めましたが、選挙の在り方を変えないというのは、
変えたくない何らかの理由があるのでしょう。
相変わらず名前の連呼と握手なんでしょう。
そういう選挙運動をして、恥じることのないことが政治家になる資質だとはとても思えないんですが。
なぜインターネットで政策を訴えてはいけないのか。
なぜ戸別訪問して政策を訴えてはいけないのか。
バックとお金のない人は、それ以外に政策を訴える方法なんかないでしょうに。

街のあちこちから祇園太鼓の練習する音が聞こえてきます。
このもやもやした空気を吹き払う力があるといいのですが。

ところで、ぼくが大変注目しているブログを紹介します。

http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/

2ちゃんねる時代から半年近くウォッチしてきましたが、かなり刺激的です。
見えない世界のことですから、興味のある方は読んでみてご自分で判断してください。

霊界の話なんかは、ぼくがあれこれ読んで腑に落ちたことと、ほぼ一致します。
ただ、神界のレベルの話とういうのは、なかなか一般書籍で読めるものではありません。


ルル

2007年07月17日 | ストーリー
岬の先のオリーヴ色の家にルルはひとりで住んでいた。
家の北側には海から吹きあがる風を防ぐ松林が植えられ、
南側にはレンガで囲まれた小さな花壇があった。
花壇は長い間放置され、雑草が生い茂っていた。

彼女は若い頃は都会で税理士事務所で働いていが、
村人の噂によれば、誰かにひどく失恋して貯金とわずかな退職金をはたいて、この家を買った。
家族は家に戻って来いと何度も彼女を口説いたそうだが、
彼女は必要最小限の身の回りのものを持って7年前の秋にこの家にやってきた。
 
この家は80年ほど前に、都会の相場師が別荘として建てたもので、
隅々まで当時の流行の最先端の工夫が施されていた。
風呂は活性炭が練りこまれた人工石を楕円形にくりぬいたもので、
寝室の天井は開閉式のガラス板で出来ていた。
すべての窓ガラスにはステンドグラスの星座が嵌め込まれ、
床はコルクのような弾力のある木製品で敷き詰められていた。

相場師は美しい妻と双子の娘を連れて二年連続で夏のヴァカンスをこの家で過したが、
それ以来再びここを訪れることはなかった。
噂では、妻と娘達を残して、突然蒸発したらしい。
前金で5年契約で庭師の契約を結んでいたヒョルム爺さんは、
契約期限が切れても庭の手入れをし続けていたが、
いつのまにか痛風になり、年老いた妻に見取られひっそりと亡くなった。

ふらりとこの村を訪ねてきたルルは、その荒れ果てた家を一目見るなり気に入った。
不動産屋はその様子を見て、駄目元で相場の3割増の値段を提示したが、ルルはあっさり承諾した。
有頂天になった不動産屋は、高額なベットや絨毯を斡旋しようとしたが、
彼女は微笑を浮かべて首をよこに振るばかりで、不動産屋をがっかりさせた。

この村に越して来てからも、村人はルルの姿を見ることは滅多になかった。
庭も荒れたままだし、窓もひっそりと閉じられていた。
週に一度ほど、まだ客の少ない午前中に、彼女は村のグローサリーストアに買い物に出かけ、
食料とワインを買い込んだ。
いつも口数が少なく、店のおかみが何かを問い掛けてもかすかな笑みを浮かべるだけだった。
教会が何回かミサの案内状を出したし、村の集会の案内状も出したが、
いずれも彼女が姿を現すことはなかった。

それでも2年目の春、村人はルルが大きすぎて不恰好な麦藁帽子をかぶって、
花壇の手入れをしている姿を見ることが出来た。
都会育ちの彼女はわずかな野良仕事でもきつそうに見えた。
15分も雑草を抜くと汗をしきりに拭いだし、木陰に座りこんで長いこと休んでいた。
何人かのお人好しが手伝いを申し入れてみたが、微笑を浮かべて首を横に振られた。

(いつか続く、予定)




童話

2007年07月12日 | 雑感
今日は雨も上がり、今さっき南の空の雲の切れ間から、目に染みるような青空が覗いていました。
でも、南の海上には台風が近づいているみたいです。
長雨で地盤が緩みに緩んでいる上に、台風が直撃したらあちこちで土砂崩れが起きそうです。

宮沢賢治を読んだら、ぼくも童話を書いてみたくなりました。
筋道が立っていなくてもいいから、書きやすそうな気がします(笑)
ちょっぴりおかしくて、ちょっぴり悲しくて、訳がわからなそうで、そのくせすとんと胸に収まるような話。

主人公は泣き虫なくせにやたらと気の強い3歳の女の子です。
目覚めると、両親は見当たらず、野原にぽつんと寝ていました。
起き上がって、大声で泣いても泣いても両親は姿を現しません。
昆虫たちが心配して寄ってきます。
女の子は昆虫たちの様々なアドバイスに耳も傾けず、野原を歩き出します。
日が傾き、女の子は泣きながらとぼとぼ歩きます。
今度はウサギやフクロウがやってきて、女の子を慰めようとしますが、女の子は耳を傾けません。
星が空に瞬き始めますと、オオカミが女の子の匂いを嗅ぎつけやってきます。
襲おうとするオオカミの耳を思い切り引っ張り、その背中に乗って走れと泣きながら命令します。
嫌がるオオカミは逃げ出そうとしますが、女の子は声を張り上げて泣き叫び背中を思い切り齧り、オオカミはしぶしぶ走り出します。
やがて森や沼に住む妖精と友達になり、木こりの無口なおじいさんの世話になり、白鳥の背中に乗って街に出ます。

ま、そんな感じで、女の子の冒険が続くわけです。

どこかで聞いたような話ですね(笑)
ま、こういうのって想像するのが楽しいんだと、初めて気が付きました。

自由に想像を巡らすことのできる心の領域を今まで忘れていたのでしょう。
想像はキリがありませんから、今日はこの辺で。




エゴ

2007年07月11日 | スピリチュアル
雨は降り続けています。

今月号の「致知」に載っていたエピソードです。
一休禅師が臨終の際の遺言です。
「仏教が滅びるか、大徳寺が滅びるかというような一大事が生じたら、この箱を開けなさい」
と言って、一つの箱を弟子に手渡したそうです。
月日が経ち、大徳寺の存亡に関わる重大な問題がおきました。
寺僧全員が集まって、箱を開けることになりました。
そこに書かれてあったのは、
「なるようになる。心配するな」でした。

いいですね。
人間の一大事など、一大事ではない。
心配する心さえも捨ててしまえば、この世は極楽。
すべてが流転する中で、何に執着するものがあるものか、ということなのでしょう。
仏教でも、寺でも滅びる因縁があるのなら滅びてしまえばいいのでしょう。

もう一つ、禅僧のエピソード。
若き澤木興道老師の修行時代、円覚寺の高僧を訪ねました。
「私の人生はこれでいいでしょうか?」と聞きました。
「お前の人生だと?お前の人生などどうでもいいわ。グフフフフ」
その笑い声を聞いたとき、澤木老師の背筋が凍りつくように縮み上がったそうです。

「私の」人生などなどどこにある。
そんなもの犬にでも食われてしまえ。
そんな感じなのでしょう(笑)

「私の」人生、「私の」仕事「私の」思想、「私の」家族、「私の」趣味・・・
日々、人の心の中は「私」だらけです。
そんなものを放り投げた時にしか、菩提の道は見えてこないのでしょう。

インド思想にかぶれていた時期のジョージ・ハリスンが作った歌にもありました。

♪ Oh, through the days, I, me, mine, I, me, mine, I, me, mine.
(ああ、毎日毎日朝から晩まで、「私が」「私を」「私の」だらけだ)

人の心はかくもエゴで汚染されています。
エゴは自己保存という本能に従っているだけで、何の悪意もありません。
悪意はないのですが、その性質上「自分がよければいい」のです。
人間の思いは強力ですから、「自分がよければいい」を延長していきますと、他者の福利を平気で侵害します。
そこで人同士のいがみ合いに発展します。
エゴ自体には「妥協」とか「利他」とかいう精神的境地は無縁です。
エゴの延長には菩提の道は決して開けてきません。

そこで、何らかの方法でエゴを削る、あるいは統制する必要がでてきます。
エゴより強力な精神的なものをエゴの上位におく必要があります。
その精神的なものを様々な宗教は提示しようとしてきたわけです。

宗教が繰り返し説いても説いても、今の有様を見れば分かるように、「自分がよければいい」のエゴは強力に息を吹き返します。
「自分がよければいい」が必ず行き詰るのは、「自分がよければいい」者同士が集まれば、必ず争いに発展するからです。
当然ですね。

「お前の人生などどうでもいい」と言い放つ人が生息していた時代の方が健康的だったのでしょう。
今そんなことを言ったら、人権意識が足りないだのなんだの、タワゴトの束が返ってきそうですしね。


雨の高千穂

2007年07月09日 | 旅行
雨が降り続いています。
梅雨というよりも「雨期」って感じですね。

そんな中、週末はネネさんのグループと高千穂に行ってきました。
雨雲は終始低く垂れ込めていましたが、神社参拝の段になると降り止み、傘もいらずに参拝が出来ました。
初日は高千穂神社に行って、恒例のネネさんの舞(「君が代})の奉納です。
君が代を全員で合唱しましたが、なぜか涙が出ます。
今の世が荒れ放題だから、なおさら尊く思えたのかもしれません。
後藤宮司さんのお話も相変わらず淡々としながら情熱的でした。

その後は荒立神社です。
宮司さんは席を外していましたが、ちょうど茅の輪が正面に飾られていたので、皆でわいわいいいながら潜り抜けました。
茅の輪をくぐって心身の穢れを祓い清めるのです。
神社の裏手の山を見ましたが、霧雨にけぶってしんとしており、いつもの凄い神気が感じられませんでした。
木漏れ日や、木々が風に揺れる様から、神気というのは感じやすいようですが、霧雨にぐっしょり森全体が濡れていますと、
なかなか感じるのは難しいのかもしれません。

その後は宿へ。
国民宿舎ですが、広大な敷地の上にキャンプ場やらテニスコートやらプールやらなんやらが贅沢に散在しています。
晴れていれば、目の前に阿蘇の山並みが見えるはずです。
夕食後、宿舎から徒歩で数分のところにある体育館で、アイカさんのコンサートです。
前半はギターとドラムのセッションです。
ギターの音というのは生で聴くのが一番ですね。
ところで、滅多に使用していないからだと思うのですが、演奏中何度もマイクの音が途切れ、
ついには、ステージ全体の電源もヒューズが切れたとかで落ちました。
誰も怒る人もなく、電源が復旧する間人々は野外に儲けられた振舞い酒や地元の人々の手作りの料理で楽しみます。
振舞い酒はカッポ酒です。
カッポ酒というのは、竹にお酒を入れて直に火であぶり、竹の香りとエキスの染み込んだお酒を竹の割ったコップで飲みます。
ぼくは調子に乗って5~6パイ飲みました。

そして、電源も復旧し、アイカさんのコンサートです。
以前よりも、声に豊かさと深みと力が加わったように思います。
いつものことですが、みなシーンとして聴き惚れていました。

帰り道は、竹をスパリと斜めに切った中にロウソクの炎が入れられた灯りが、宿舎まで延々と続いていました。
その幻想的な美しさもさることながら、その作業と手間を考えると、頭が下がります。
実は、ステージの装飾も竹を使ったライティングで飾ったのも、カッポ酒の竹を用意してくれたのも、
竹の照明器具を作っている作家の七谷さんでした。
ネネさんとアイカさんたちの思いつきのような話を、町全体を巻き込み、ここまでハートフルなイベントに仕上げたのは、
七谷さんでした。
実行力のある人というのは、物事を成し遂げるものですね。

その後、例によってグダグダ飲んでいたら、ステージを終えて帰ってきたアイカさんも合流し、その代は更けました。

次の日は幣立神社に行きます。
境内で気功をし、正式参拝をし、竜神様を拝み、森の気を一杯吸い込みました。
春木宮司さんのお話は、マスコミを鵜呑みにするな、でした。
常々ぼくも思っていたことなので、頷きながら聞きました。

最後に、ついでかどうかは知りませんが、サントリー熊本工場に行って、ビールの試飲です。
サントリーは金持ちです。
おいしい生ビールを若くてきれいな女性のお給仕つき、おつまみつきで3-4杯飲ませてくれました。

途中、がけが崩れて道路の半分を覆っているようなところもありましたが、全員無事に戻りました。
酒も飲まずに夜中の2時まで道路上情報を調べ、何から何まで手配してくれたN夫妻、ありがとうでした。
幣立神社では「素足の参殿禁ず」と書いてあり、素足のぼくは参殿を諦めていたところ、
バックから予備の靴下を取り出して、貸してくれたのには驚きました。
靴下(男物)の予備をバックに入れている女性を見たのは、生まれて初めてです。

宮沢賢治

2007年07月05日 | 世相
今朝4時ごろ目が覚め、焼酎を飲もうか、滝に行こうかの二者択一です。
で、どんな水量になっているのかにも興味があったので、滝に行きました。

久しぶりに大水量の滝でした。
以前、100日行に入ったとき、4回だか5回だかの台風が来て大水量には慣れていたはずですが、
久しぶりなので少し緊張します。
まず、音が普段とは全然違います。
お堂でお経を唱える声もかき消される感じになります。

今日の滝は、なんか「揉まれる」という感じでした。
まず、滝場の周囲の仏様に線香を上げて回るのですが、水に足をとられて流れの中に転びました。
服はずぶ濡れになり、肘と腰を川底の石にしたたか打ち付けました。
めげずに服を滝着に着替え、作法を続け、大水量の滝に入りました。
轟音の中から、時折、誰かが叫ぶ声が聞こえます。
それにもめげずに、滝に打たれ続けます。

最後は、気持ちよく滝から上がりましたが、まぁ、なんとなく日頃の溜まった「厄」というか、
「澱」というか、そういうものを流してくれたんではないかと思いました。
濡れた服に着替えて車で帰ったわけですが、暖房を入れずにいられませんでした。
それでもまだ身体は冷えていて、帰り着くなり熱いシャワーを浴びました。

朝食を食べて、出勤まではたっぷり時間があるので、布団にもぐりこんで、
古本屋で買った宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読みます。
昔、読みかけてちんぷんかんぷんで放り出した本です。
もう、なんという愛しい本なんだろうか、と今回は思いました。
理屈で読む本ではなく、心の奥底の感情で読む本だったんですね。
高校生のころから宮沢賢治が好きって言っていた人は、ある意味天才だったんじゃないかと今は思います。

そこで描かれる舞台は、ぼくの生地と距離的にはとても近く、懐かしい言葉と情景です。
忘れていた子供のころの繊細極まりない心の動きを少しだけ思い出しました。

早く亡くなり、顔も見たことがないのですが、ぼくの母方の祖父が宮沢賢治と親交があったという話は聞いたことがあります。
祖父も児童文学を書いていたらしいです。
ぼくの父親が資料を集めて、その辺りのことを説明してくれたことがあるのですが、
そのころのぼくはあまり興味がわかずにふんふん聞き流していました。
改めて話を聞いてみたいと思うのですが、その父も今ではボケが進んでいて、それも不可能でしょう。
なんでも祖父も酒の飲みすぎで早死にしたらしいです。

過ぎてしまえば、人の一生は切ないほどにあっけないものです。
憶えている人さえいなくなります。
それでもいいのですが、それでもいい人生だったと心から思って死にたいですね。


日常

2007年07月03日 | スピリチュアル
先週末に見た月は異様でした。
オレンジ色の月の回りに、その3倍くらいの大きさの光の輪が取り巻いて・・・。
次の日の夜は曇っていたのですが、山裾の雲のほんの一部が赤っぽく光っていて、なんだろうと思っていたら、
数時間後に激しい雷鳴とともに大雨が降りだし、洪水警報まで出ました。
ドラマチックな空模様から目を離せない今日この頃です。

このところ、ちょくちょく滝に行き出しています。
なにせこの時期の滝は一年で一番気持ちがいいです。
水にひたすら包み込まれるような感じです。
それでも滝から出ると、どっと疲れが出ます。
体力なさ過ぎです。

昨日は前の日のお酒が残り、朝から終始気持ちが悪かったのにもかかわらず、夕方から飲み会でした。
ま、飲み始めたらどうにかなるのですが、そろそろ肝臓に気をつけたほうがいいかもです。
肝臓に影響が出るようになると、どうもホルモンバランスにも影響を与え、鬱っぽくなったりもするそうです。
溜まった毒を滝で流そうなどと考えたりしていると、お不動様から大目玉を食らいそうです。

このところ、思考が空中を浮遊している感じでした。
エネルギーの元は思考だとすれば、どんな思考に身を任せればいいのだとか、そんなこんなです。
当然、机の上は乱雑に物が積み上がり、現実から現実感が失われていきます。
こういうのは、明らかに思考ではなく、妄想の類です。
禅でも禅魔といって厳しく退けられる態度です。
心地の良い妄想に身を委ねたら、心身は際限なく弛緩していきます。

宇宙の愛だとか、ハイヤーセルフだとか、何とかかんとかのスピリチュアル用語に嵌ると、そういう危険性が常にあります。
口で一瞬一瞬が大切だと言いながら、ろくでもない妄想にすっかり流されてしまうことが大いにありえます。

仮に宇宙の愛が本当だとしても、宇宙の愛が顕現しているのは、間違いなくこの現実の日常です。
そして、人が生きる「舞台」は、間違いなくこの日常しかありえません。
日常を失うことは、生きる舞台を失うことです。
生きる舞台を妄想の世界に移し変えてしまうと、日常はひたすら退屈で味気ないものに見えてきます。
妄想の世界では、自分は愛の波動に充たされ、自由自在であるからです。
そこがスピリチュアリズムの危険な落とし穴です。
日常を退屈で味気ないものにしているのは、まさしく自分であることを忘れてはならないと自戒する必要があります。
今生に生まれ出た役目とは、あくまでも一見退屈で味気ない日常を、豊潤で楽しい瞬間瞬間の積み重ねにすることなのでしょう。
で、そういう瞬間の積み重ねは、あくまでも日常にきちんと参加し、他者にきちんと参加し、自分にきちんと責任を取ることからしか、
生まれません。

要するに、安易な標語や妄想に流されるなということなんですが、なんだかなぁ、です。

禅を組んだり、滝に打たれたりして、無心とはこういうことかなくらいの感触はありますが、
やはり大事なのは、その感触を大切にしつつも、きちんと地面の上を歩くことですね。
「無心」に囚われたら、「無心」ではなく、妄想であり、標語になってしまいます。

道は一筋で極めて平坦なのに、それを歩くのを難しくしているのは、常に無駄に複雑にしてしまう人の心ですね。