風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

道場の生活

2010年06月07日 | 雑感
道場に泊まりこんでいます。
朝は5時に起床して、道内の清掃・洗面をして、5時半から坐ります。
坐禅、参禅、お茶席と7時半の粥座と呼ばれる朝食まで続いて、それから家に帰って一眠りして、店に出ます。
店を終えて、7時からまだ道場です。
10時まで坐って、就寝の時間となりますが、なんやかんやと所用を済まして、11時頃に道場にずらりと敷いた布団に入ります。

昼の間、道場に残った仕事のない老居士方は作務と呼ばれる庭仕事や掃除や食事つくりに精を出しています。
わけもわからず道場に放り込まれて、こういう生活をしろといわれたなら、そりゃもう刑務所の中にいるのと大して変わらないかもしれません。
坐禅があるだけにかえって苦痛のほうが大きいかもしれません。
でも、誰に頼まれたのではないのに、みな仕事が忙しいのにも係わらず、あるいは老齢で体力的に大変なのにもかかわらず、
泊り込みで、あるいは通いで道場にやってきます。

坐禅に限っていえば、坐らないとどうも落ち着かなくなるとか、気持ちが悪いとかいう精神的中毒性はまったくないように思います。
いつ坐る時でも、あくまでも自覚的な意志と覚悟が必要なような気がします。
なんとなく坐るということも、できなくはないのですが、とてもつまらない時間になってしまうでしょう。
しなければいけないとか、受身で坐るくらいなら、坐らないほうが時間をなにか有効なあれやこれやに使えるでしょう。

そして、こういう毎日が一週間続きます。
日々、じわりじわりと坐禅が身についてくるような感じがします。
自分が自分で坐るという姿にだんだんなじんでくるわけです。
足は相変わらず痛いのですが、以前の激痛に比べれば物の数に入りませんし、雑念をさらリさらりと流していくのも上手になっていきます。
呼吸もだいぶ自然な感じになりますし、意識も澄んでいく感じがあります。

その上、いただく公案もだんだん高度になっていきますし、道内でのあれやこれやの進行をつかさどる役職も課せられますので、
ボーっとしている時間がどんどんなくなっていきます。
そうすると、楽しいとか楽しくないとかいうことを考える心の隙間もなくなっていきます。
ひたすら目の前に流れてくるものに真正面から対峙していくほかありません。

禅道場で台所を任せられる役職を典座(てんぞ)といいます。
彼らが毎食作ってくれる食事は、精進料理ですから当然質素です。
朝などは、ご飯と味噌汁と漬物だけです。
でもそれがとてもとても美味しいです。
炊き立てのご飯と、熱い具沢山の味噌汁と、旬の野菜の漬物。

こういう生活をしていると、不平不満、愚痴というものが心から蒸発していく感じがします。
楽しいか、楽しくないかという設問自体が、消えていきます。
先人から守り伝えられてきた、尊い道場の生活がただそこにある、といい感じになります。

今夜も店を閉めたら、道場に行って、虫の音を聞きながら坐ってきます。

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