風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

記憶

2014年10月20日 | 雑感
昨日の記事は読むに堪えられず削除しました。
泥酔状態で書きました。
書けばいいというものじゃありませんね。

気持ちの良い天気が続いています。
釣りでも、登山でも、公園でも、どこへ行っても気持ちがいいでしょうね。
まさに行楽の秋です。
そろそろ北海道辺りでは初冠雪の頃なんでしょうか。

店の隣はカーディーラーのホンダで、夜間は無人になるのですが、その広い駐車場で子供たちが
なにやら大声をあげながら走り回って遅くまで遊んでいました。
そういうのって子供の記憶に深く刻まれるんですよね。
特に、夜中に走り回り、叫びまわるというのは、子供にとってはとてもスリリングな経験だと思います。
大人になっても、ホンダの車を見るたびに、その時のことを思い出したりするわけです。

ぼくもふとしたきっかけに何度も蘇る思い出があります。
5歳か6歳の頃だと思います。
何かのことで母親に叱られ、家を飛び出しました。
どこに行く当てもなく、べそをかきながら暗い街中を歩いていきます。
母親が追いかけてくれるはずだと期待しているのですが、いつまでたっても母親は来てくれません。
寂しさと悔しさと怖さがごちゃ混ぜになって心をかき混ぜます。
大人になった今では大した距離ではありませんが、500メートルくらい離れた橋に差し掛かった時に、
母親に手をつかまれました。
幼い子供にとっては、遠い遠い道のりでした。
手をつないでの帰り道、大泣きに大泣きでした。
母親は何も言わず、ただ僕の手を引っ張っていました。

それだけの記憶です。
なぜ、それが何度も何度も蘇るのか、わかりません。
決して嫌な記憶として蘇るわけではありません。
何か大切な思い出として蘇ります。
それから間もなくして、ある事情があって、母親は目の前からいなくなります。
遠い遠いところへ行ってしまいます。
家を出たら、誰も引き止める人がいなくなってしまいました。
5歳か6歳の子供にはきつい経験です。
でも、きつかったであろう様々な経験は、あまり記憶に残っていません。
思い出せと言われれば思い出せますが、あまりその気になれません。

記憶というのは不思議です。
国木田独歩の小説にもあったと思いますが、重要さや楽しさや強烈さで記憶が残るわけではありません。
なんだかわからないけど、鮮明に記憶に残ることって、多々あります。
ふと見た風景であったり、誰かの何気ないしぐさであったり、風に漂っていた匂いだったりします。

ある人が言ってます。
あの世に持っていけるのは、何を経験し、何を感じただけだ、と。
まったく同感です。
できうるならば、楽しむのも苦しむのも悲しむのも、豊かに楽しみ、豊かに苦しみ、豊かに悲しんでいきたいものです。




日常と非日常

2014年10月18日 | 雑感
これから、できるだけ毎日ブログを書いていこうかと思っています。
何か特別書きたいことというようなことは、年を取るにつれどんどんなくなっています。
なんでもないような日常の中に味わいというか、妙味とうか、そんなものを見つけ出す傾向が強くなっています。
座禅の影響がじわじわと体全体に染み込んでいっているのではないかと思っています。

考えてみれば、海外旅行とか、初めてのデートとか、子供の誕生とか、心が踊ることというのは確かにあるのですが、
海外旅行も何度も行けば長いフライトが苦痛になりますし、あれほど好きだった彼女と喧嘩を重ねるようになりますし、
子供も自我を発達させるにしたがって小憎らしくなっていきます。
非日常も繰り返し経験すれば、ただの日常になっていきます。
たいていの若い子が憧れる芸能人だって、彼らからすれば舞台の上で、スクリーンの中で、テレビの中で演じるのは
ただの日常になっていることでしょう。

何か特別なイベント、非日常を追いかけるのではなく、日常の瞬間瞬間を輝かせることができれば、
日常こそが最高の経験=非日常になります。
日常と非日常の区別がなくなります。
全ての瞬間が至福の時になります。
そうなる状態を、「涅槃」に入るというのでしょう。
頭でその状態を理解しても、体全体、心全体がその境地に没入するのはなかなか難しいのかもしれません。
ぼくはまだまだです。
ただ、そのような境地があり得ることは、なぜだか確信しています。

ぼうっと秋の風に吹かれて至福を感じ、枯葉がかさこそ音を立てるのを聞いて至福を感じ、転んだ子供を抱き上げる
母親の姿を見て至福を感じ、もう見るもの聞くもの至福の嵐です(笑)。
そうなれればいいなとか、そんなの無理だとかという話だとは思いません。
そうなると決めればそうなることのような気がします。
なかなか小理屈つけてそう決めない人が多いだけのような気がします。

相変わらず、世界は大荒れです。
中東、西アフリカ、火薬庫だらけです。
非日常の嵐です。
ぼくは日常を大切にしていこうと思っています。

出会いと別れ

2014年10月17日 | 雑感
人が生きていれば、出会いと別れがつきものです。
毎日毎日、目に触れる人は数えきれないほどいるわけですが、実際に触れ合う人はほんのわずかです。
また、せっかく出合っても、数年数十年と付き合いが続く人というのも稀です。
かつてものすごい頻度で会っていた人も、いつの間にか疎遠になるということも珍しいことではありません。

人が出会い、また別れる時には、何かタイミングというか、縁が熟すというか、意味深い何かがあるように思われます。
えてして、その意味は後になってから初めてわかるような、そんな意味ですが。
初めから意味が分かって、人と出会ったり別れたりするのでは、さぞかし味気ない出会いと別れになることでしょう。
胸のときめきや、痛みや、人生の意味について考えることや、そういった生きるということの隠された味わいを失います。

コントロールできないからこその出会いと別れの意味深さなんだと思います。
コントロールできれば、それは単なるパワーゲームでしかありません。
自分の都合のよい人と出会い、都合の悪い人は切り捨てるだけです。

出会いを大切にするというのは、誰でも彼でも出会う人を大切にするという意味ではありませんでしょう。
もちろん出会う人に丁寧に、新設に接するというのは、大切なんだと思います。
でも、何か接点があって、実際に付き合うようになる人というのは、何かしらの「縁」持っているのだと思います。
もちろん良縁ばかりではありません。
悪縁というのもあると年を重ねた今ではきっぱり言えます。
良縁を豊かに育て、悪縁は次の次元に昇華していく。
そうできれば、いうことないですね。

実際は、良縁に甘え過ぎ、悪縁にずるずる引きずられるというのが、よくあるパターンですが。
良縁とか悪縁とか言いましたが、自分の外側にいい人や悪い人がいるという風にとると間違えます。
自分の心がある種のパターンでもって、人に引きつけられ、人を引きつけるだけのことです。

つい最近、ある人がある場所を去りました。
その状況を見ていて、なんとなく思ったことです。


東北ミニツアー

2014年10月16日 | 雑感
台風が過ぎて急に寒くなってきました。
さすがにタオルケット一枚で寝るのは無理になってきたので、毛布を用意しました。
皆さんも風邪などひかぬようお気を付けください。

この3連休、宮城県に福岡・宮城県人会の仲間と行ってきました。
県北の三陸・雄勝と県南の丸森町を訪れました。
雄勝は弁当に使う商材の確認と、しばらく前から親交を深めつつある友人たちに会いに行きました。
雄勝の皆さん、ありがとうございました。
丸森町は、北九州の当県人会を町長自ら訪れてくれましたので、そのエール交換のつもりで訪れました。
休日にもかかわらず二日間にわたってお世話下さったY島さん、ありがとうございました。

お礼を言うべき人たちがいっぱいいます。
ありがとうございました!

いろいろ収穫はありました。
どこもかしこも震災の深く残酷な影響の真っただ中にあります。
その中でも、あえて笑顔で頑張り続ける人たちがいます。
何とかできるものなら何とかしたいです。
でも、個々人の力はあまりにも微力です。
それでも、一人一人の小さな力を積み上げていくことだけが、今の我々にできることです。

7割の生徒が犠牲になった大川小学校にも立ち寄りました。
それは、夕暮れの空の下で言葉にできない沈黙の歌を歌い続けていました。
思わず立ちすくんでしまいました。

どんな状況であれ、希望の光を灯し続け、一つ一つを成し遂げて行くことだけです。
誰かが何かをしてくれはしません。
自分の心の中に光を宿して、目の前の難題を一つ一つ越えていくしかありません。
つねに、まだまだ、これからこれから、です。
心休まる時なんかもう二度とやってこないんじゃないんだろうかという感じさえします。
でも、それが「生きる」ということの本質でもあるんだろうと思います。
それならそれで、覚悟を決めて、自ら立ち向かうだけなんでしょう。

写真は県人会のみんなで見た雄勝湾に上る朝日です。