風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

よい年を!

2012年12月31日 | 雑感

今年も今日で終わりです。
なんというか、慌ただしい一年でした。
相当無理をしました。
閉じた鉄の扉を素手でこじ開けるような、そんな一年だったような感じです。
油断をするとせっかく開きかけた扉もすぐに閉じようとします。
とてもハードな訓練です。
根性論でひたすら走らされる中学の頃の部活のような、そんな訓練です。

若い頃ですと、そういう訓練も心身の実になっていくわけですが、
年取ってからのそんな訓練は、下手すると消耗にしかなりません。
多くの方々の助けもあって、なんとかくぐり抜けることができたように思います。
ありがとうございました。

来年は来年でまた多くのお試しがありそうです。
どんなお試しが来ようとも、片っ端から超えていくしかありません。
超えられないお試しは来ないということを信じて、中学生の気持ちで超えていきます。

う~ん、中学生の気持ちじゃないですね。
ぼくは中学生の頃かなり不純でしたから、そんな気持ちを今ここに持ってきたら、ドロドロに崩れてしまいそうです。
変な気持ちなんかわざわざ持ってこないで、ありのままの素の気持ちで事に当たっていくのがいいでしょう。

今までも新しい年に向けての抱負というようなものを考えたことはないのですが、
来年に関しても特定の目標が定まっているわけではありません。
大まかなタイムラインは頭にありますが、そうなると決めていれば、そうなるでしょう。
停滞とか留保とか、エネルギーが滞るような状況は許されない感じの時の流れです。
鉄の扉をこじ開ける作業は当分続くでしょう。
その鉄の扉が開け放ったとき、まったく新しい状況が生まれ出てくることは強く感じています。
それがなにかは見当もつきませんが、心躍るようななにかである気がしています。

先日、ある半島の先端に、海に面した物件をネットで見つけました。
その土地から歩いて下れば、もう海です。
プライベートビーチです。
背後に雑木林を控えた、建物付きの100坪ほどの物件です。
見に行こうと思っていたのですが、その物件の情報がネットから消えていました。
300万円ほどの安さでしたから、売れたのかもしれません。

どういうわけか、昔から「半島」という言葉に惹かれるものがありました。
三浦半島とか、能登半島とか、知床半島とか、男鹿半島とか、半島と聞くと巡らずにはおれませんでした。

そういう物件を手に入れることができたらと想像すると、とてもワクワクします。
またやることが増えるわけですが、楽しいことならやることがどんどん増えてもかまわない気分です。
何かをやらないことというのが、どんどん難しくなってきています。
何もやらないで、その時々の時流に乗っかってなんとかなるという時代は終わった感があります。
テーマをきちんと持ち、目の前に現れた課題を次々と片付けていくうちに、徐々に道が開けていくのを実感する。
そんな感じかと思います。

何はともあれ、明日からは2013年です。
なにかが大きく動き出す予感がします。
世間の動きを見るよりも、自分の内面の動きを注意深く見つめていく方が良さそうです。
今までのパラダイムがどんどん崩壊していくでしょう。
すがりつくべき価値基準は自分の外部からどんどん消えていくでしょう。
自分自身の価値基準を自分ひとり一人の中に再発見していく必要性がどんどん高まるでしょう。

http://www.youtube.com/watch?v=DswfFH4a9_8&feature=player_embedded

「In Deep」というブログに張られていた動画です。

 

 


始まりと終わり

2012年12月20日 | 雑感

いよいよ明日がマヤ歴の終わりの日です。

http://japonese.despertando.me/%E3%82%A2%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3q%EF%BC%86a%E2%80%95%E3%81%84%E3%82%88%E3%81%84%E3%82%88%E6%98%8E%E5%BE%8C%E6%97%A5%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%99%82%E3%81%AB%E5%82%99%E3%81%88/

https://www.youtube.com/watch?v=XRUSVgUnzS0&feature=youtube_gdata_player&noredirect=1

なにかが終わればなにかが始まります。
なにかが終わらないと、なにかが始まらないとも言えます。
なにかが終わることに拒絶反応を示す人もいるでしょうし、なにかが始まることにも積極的な興味を示せない人もいるでしょう。

ある人にはなにかが起こり、ある人にはなにも起こらないのかもしれません。
一体なにかが起きるとはなんなのでしょうか。
中東やアフリカで大規模な紛争が起きようとも、ニュースも新聞も見ない人には何も起きていないのと同じことです。

なにかが起きるのはひとり一人の人間の心の意識内でのことであり、
人間の意識が何も動かなければ外の世界でも何も起きていないのと同様です。

なにかの終わりに意識を向けてもどうしようもないでしょう。
中途半端な感傷などは新たに始まるエネルギーの奔流にたちまちのうちに呑み込まれてしまうでしょう。
なにかの始まりに意識を向けてもやはりどうしようもないでしょう。
何が始まるのか誰も理解していないのですから。

やはり今この場所にいる立ち位置から、目に見えるもの、感じられるものをしっかりと認識し、やれることをやり、
やるべきことに立ち向かっていくことしかできないでしょう。
そしてそれが常に何かを「始める」ということになるのでしょう。

一瞬一瞬が終わりであり、始まりでもある。
結局はそういうことになるだろうと思います。

なにかのイベントがあるのではないだろうと思います。
世界中にブザーが鳴り響き、エンジ色の幕が上がるというわけでもないでしょう。
時計だってそのまま時間を刻むだろうし、空の色だって変わらないかも知れない。
でも、そういう変化の方がなんかリアルな気がします。

そんなことを考えながらも、今日も今から牛タンを焼きに行ってきます(笑)

 

 


変化

2012年12月19日 | 雑感

太陽だのシリウスだの宇宙空間では説明のつかない現象が盛んに起こっているようです。
以下のブログを参照下さい。

http://oka-jp.seesaa.net/article/308444511.html

太陽系に幾何学的な線が張り巡らされている動画も最近見ました。
奇妙な形の雲やら、発光やら、世界中で天空に異変が観察されているようです。
UFOの動画はその真偽はぼくに判別できるわけもありませんが、そこら中に溢れかえっています。

もう何が起こっても別段驚くというようなこともなくなりました。
ある日、何らかの理由で、細胞を構成する原子やらなんやらの振動数が上がり、自分の身体が半透明になっても驚きません(笑)
重要なのは、唯一自らの意識のあり方であるというのは、古来から普遍のファクターであると思っています。

テレパシーやらトランスポーテーションやら不老不死ということも驚くような対象ではなくなっている気がします。
本当にそうなりたければ、そうなるというだけのような気がします。
今のところ、超能力や不老不死といったことには好奇心があるだけで、本当にそうなりたいとは思っていません。
この儚い3次元の幻に右往左往して死んでしまうのも悪いことでもないかなぁなどと思っています。

今その筋では宇宙存在が大挙して地球人類の成り行きを注視しているということが言われています。
人間が自らを思うほどには、人間の意識のあり方というのは侮れないみたいです。
宇宙存在(神々、天使、宇宙人etc)のあり方が人間世界に反映するように、人間の意識のあり方も
宇宙社会のあり方やら方向性に反映するらしいのです。
だからこそ、この大きな分岐点に立った人類の意識のあり方を息を凝らして見守っているということのようです。

人間の意識の何がすごいのか、分かっていないのは人間自らだけなのかも知れません。
3次元という重たく窮屈な世界に住みながら、もちろん果てしのない争いや憎しみ合いも選ぶことがありますが、
それらの諍いを超越して、理解し、許し、愛するということも可能なのが人間の意識です。
それって、宇宙空間の中でも、とても希有な地球上ならではの意識のあり方なのだそうです。
宇宙存在すべてにとって、そういう意識のあり方は、光り輝く宝石のようなものなのだそうです。
そういう「愛」とか「慈悲」とか呼ばれる意識を人類が宇宙全体に反映してくれることを待って、
彼らは今地球を取り巻いて、今か今かと待っているらしいです。

選挙が終わったばかりですが、政治やら体制やらが人々の意識をコントロールする時代は終わった感があります。
誰からもコントロールされない、誰をもコントロールしない、自らが自らの意思をコントロールする時代が今だと思います。
そのコントロールする判断基準が、今まで通りの「我よし」の価値観なのか、「愛」なり「慈悲」なのか。
それすら各々の選択に委ねられています。
スリリングでダイナミックな時代に入ったのでしょう。
キャッホー!と楽しんで変化の渦に飛び込むのか、危険な奔流から逃れてどこかに隠れ住むのか。
自分で決めるしかなさそうです。

 


ロマンティック

2012年12月18日 | 雑感

パリの夜景を飛行機から見ますと熟したバラの花のようです。
街灯が日本のものより赤っぽいというのもあるのでしょうが、放射線状に道路が延びていますから、
なおさら花のように見えます。

イギリスに行くとまた全然違った夜景が飛行機の窓の下に見ることができます。
郊外にひときわ明るいところがありますと、それは決まってサッカースタジアムです。
周囲は真っ暗なのにそこだけが煌々と輝いています。

シベリア上空などを飛んでいるときは、大地にひたすら漆黒の闇が広がっています。
日本近海に来ますと、イカ釣り船の灯りが海の上に蛍火のように広がっています。

飛行機から見た夜景でもそれぞれの国に個性があります。

今は移転して広々とした空港になりましたが、昔の香港の空港は建ち並ぶ高層ビル群の間をすり抜けるようにして、
離発着をするようなスリリングな空港でした。
ビルのベランダにいる人を目視できるような、そんな感じでした。

20年くらい前のモスクワの空港には、中東方面からの人々と思われる人たちが空港施設内で暮らしていました。
どういう事情があってそこに居座っているのか見当もつきませんでしたが、なにか日本にはなじみのない
國際事情の厳しさみたいなのを感じました。

なんでこんなことを回想しているのかというと、なんだか海外に行きたくなってきたからです。
もう2年くらい行ってないと思います。
趣味といえば見知らぬところをうろつき回るのが好きでしたから、そろそろ欲求不満になってきているかもしれません。

昨日、店が終了後、映画を見に行きました。
冷戦時代のイギリスの諜報部員の地味な映画でした。
その後、映画館近辺の飲み屋街をうろうろ歩いてみました。
小雨も降り、昭和レトロ感溢れる路地を歩いていたら、なんだかロマンチックな気分になったわけです(笑)。
昔通ってた中華の食堂が開いていたので、そこでおいしい料理も食べました。
いつもの街なのですが、心の心の状態がロマンチックになっていますので、見え方が違うのです。
雨で濡れた路地裏のネオンなどというものに、とても心がときめくのです。

まぁ、そんな気分の延長線上に、海外の光景が脳裏を走るといった感じです。
たわいもない話でゴメンナサイ。

来年はただの遊びではなく、何らかの有意義な繋がりを求めて海外に行くつもりです。
ヨーロッパになりそうな気配です。
仕事頑張ろうっと。

 


大掃除

2012年12月17日 | 雑感

終日厚い雲に覆われています。
昨夜選挙速報を深夜まで見ていたら、眠り時を逸してしまい、朝方まで眠れなくなってしまいました。
別に興奮したとか、憤慨したとか、一切そういうのはないのですが、ただ眠れなくなりました。
普段ならそこで酒をクピクピ飲むところなのですが、数日前から禁酒してまして、そうもいかないのが辛いところでした。
なぜ酒を断ったかと言いますと、先日ある飲みながらの会合がありまして、途中から一切記憶がなくなってしまいました。
10人ほど参加してましたが、気がついて周囲を見ますと誰もおらず、ぼくだけがぽつんとテーブルのところに坐っていました。
寝ていたのか、気を失っていたのか定かではありませんが、とにかく気がついたらひとりぼっちでした。
何が起きたのかわけが分からず、そのままタクシーに乗って帰ったわけですが、さすがにこれはマズイと思いました。

その会合自体は非常に興味深い話が満載で、途中まではワクワクして聞いていたのですが、ある瞬間を境に、
まるでタイムワープしたかのようにぽつんと独りで坐っていました。
しかも寝ていたわけではなく、坐ったままぽつんとしていました。
酒やら料理屋らもテーブルから片付けられていましたから、おそらく気を失ってから3~60分は経過していたと思われます。
無意識のままその間ずっと坐っていたのでしょうか。
後日、その会に参加した他のメンバーに聞いたところ、別段変わったところはなかったといいます。
謎です。
身じろぎもせず意識を失ったまま坐っているぼくに、誰も何も声をかけずに帰っていったということなのでしょうか。
謎です。

まぁ、そんなことでこのまま酒を飲み続けたらヤバイなということで、年末にもかかわらず断酒に踏み切ったわけです。
仕事を終えたときや、眠りに入る前に飲みたいなと思いますが、まぁ、大丈夫です。
25日まで禁酒します。
ちょうどウィンズの店が25日までクリスマスフェアをしていますので、ちょうど良い機会だからと25日までの禁酒です。

一年近くほったらかしだったウィンズの再建にいよいよ取りかかります。
一年ぶりくらいにフェアの案内のDMも出しましたが、正直お客さんが来てくれるかどうか、まったく見当もつきません。
禁酒のおかげかどうか知りませんが、初日、二日目、三日目と少し昔の賑わいを取り戻せそうな雰囲気にはなりました。
有り難いことです。
仙臺屋で諦めない根性と、逆境にしぶとく耐え抜く肝は鍛えられましたので、こういう久しぶりの展開は、
本当に有り難いです。
あと一週間フェアは続きます。
来ていただいたお客さんに、何か楽しかったという思い出を持って帰ってもらえるよう、工夫してみます。

心の大掃除はまだ続行中です。
心といっても、上層、中層、下層というふうに、幾重にも折り重なっています。
表面意識、中層意識、深層意識、さらにはエーテル意識だの、アストラル意識といった層まで
、今回の大掃除の目的は徹底していようです。
上層の埃を払ったかと思ったら、下層からなにやら腐った塊がごろりとでてくるといった案配に、大掃除は難航しています。

光を当てると闇は存在できないといいますが、意識で意識に光を当てるというのは、
正しくその意識をそのままに認識することです。
隠したい意識、土をかけて埋めてしまいたいような記憶、そういうものをそういうものがあると正しくそのまま認める。
ときには土深く埋められているような記憶さえも、掘り起こして、その記憶を在ったことそのまま認識する。
なかなかしんどく辛い作業です。
そのまま認識し、再体験し、その意識やら記憶やらをもう二度と隠したり、恥ずかしがったりしないですむように、
再認識し、新たな+の意味づけをして、その意識なり記憶なりは闇から解放されます。

例えば、ある大切な人から厳しい口調で叱られて、それ以来その人に心を許せなくなった経験というものがあり、
その経験さえも思い出すのが嫌で、心の奥にしまい込んでしまったら、なぜだか分からないままその人に
心を開けないままず~と来ていたとします。
心の奥底に仕舞ってしまっていますから、なぜその人に対すると心がぎこちなくこわばるのか分かりません。
そして、天はその人とのそのぎこちなさがどうしても解決しなければならない問題として現実に表面化させます。
できればそんな問題に正面から対峙したく在りません。
なぜだか分からないし、そんなに重要な問題にも思えないから(表面の意識上では)です。
でも、その問題から逃げれば逃げるほど、どうしてもその問題を解決しなければ一歩も前に出れなくなるまで、
天は追い詰めます。
どうしようもなくなり、シブシブ自分の心を覗き込みます。
そうすると、突然その時の手厳しく叱られた経験が甦ります。
とても大好きで心を許していた人から叱られ。心が破れそうになったこと、言い訳も許されず悔しかったこと、
その後とても寂しくなったこと、そんな辛い感情も同時に波のように思い出します。

そして、その当時は分からなかったその人がどんな思いで叱ったのか、が光のように分かります。
その時に、その経験の質が変わります。
それは辛い思い出から、ああなんて有り難い言葉だったのだろうという感謝の思い出に変わります。

まぁ、思いつくままに例にしてみましたが、こんな感じで心の闇に仕舞っていた記憶やら意識やらを
光の下へ一つ一つ引き出す作業が、意識、記憶の再認識の作業です。
自分で自分がどんな意識やら記憶やらを心の奥底に隠し込んでいるのかは分かりません。
ただ、現実がどこへ隠しているか、何を隠しているかを反映してくれます。
その時、現実はとても残酷に見えます。
勇気を出して再認識化に成功すると、その現実こそがああ有り難いとなるのですが、まぁ、なかなか大変な作業ではあります。

こうなれば現実が反映するものに完全にお任せです。
自分がどこを掃除したいとか、何を取り除きたいとか決めるのではありません。
現実がシグナルを出したものに焦点を当て、それを光の下に引きずり出していくだけです。
頑張るというよりも、たんたんと掃除を勧めていくだけですね。

写真は今の店内です。

 


 


仕組み

2012年12月06日 | 雑感

なんか雪が降りそうな空模様です。
ウィンズの店もクリスマス仕様になりました。
その道のプロの方のご厚意で飾り付けして貰ったのですが、なんというか素早く的確でゴージャスです。
今までなかったウィンズ・テイストです。

さて、ぼくの周辺の人たちにも最近集中して多い事象なのですが、
今まで心の奥底に放置されていた負債的な暗いエネルギーを解放する必要に迫られているように思います。
ぼく自身も大変な思いをしました。
まったく自覚のなかった一連の行為が、思いもかけず人の心に及ぼしていた負の影響の原因は、
ぼくのある心の底に沈んでいた他者に対する概念に在りました。
それを詳しく書こうとすると、個別な具体的な話になってしまいますので割愛しますが、
自分でも驚くような卑劣な姦計をぼくの心は張り巡らしていました。
それに気がつかなかったことで、計り知れないダメージを他人にも、自分にも加え続けていました。
それにはっきりと気がつきました。
はっきりと気がついた以上、もうそこには二度と戻れません。
あまりにも下劣な性根でした。

禅や滝行などの修業を通じて、そういう修羅の世界からは遠ざかっていたように思い上がっていましたが、
なんのなんの、修羅・餓鬼道そのものを歩んでいました。
そして、天というかなんというか、状況はぼくがそのことをはっきりと気づき認め、
改心するまでぼくを容赦なく追い込みました。
ここで気がつかなければ地獄の業火で焼くぞといわんばかりに追い込まれました。
そして気がつきました。

愕然としました。
そんな自分がぼくの中にいるとは思いも寄りませんでした。
そういう行為に巻き込んだ人々に対して申し訳なかったと心の底から思いました。
何十年と積み重なった人々に対する負の影響を考えると、ぞっとしました。
何とかしなければと思いますが、容易になんとかできる話ではありません。
すべてのしでかしたことに真正面に向き合い、できることを丹念に探していくつもりです。

それと同時に、何が何でもそのことに対して気がつかさせずにはおかないぞという天の仕組みに、
改めて頭を垂れました。
気がつかなければ、文字通りぼくは終わっていました。

やるべきことが山積です。
生まれて初めて、本当に集中して、今やるべきことをやっていけそうです。