風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

2013年09月21日 | 雑感
言葉を呑むほどの天空に輝く中秋の満月を観て、そろそろと季節は移ろっていきます。
日本は異常な暑さに見舞われていましたが、南半球は異常な寒波に襲われていたようです。
なにはともあれ、現況を生き抜くだけです。
紛争や騒乱も、世界各地で絶え間なく勃発し続けます。
生き抜いて欲しいと願うばかりです。

いつの間にか、自分の周囲半径5メートルくらいしか、みえなくなっているような気がします。
大局観とか、男子の本懐とか、使命とか、そんなものが急速に希薄になっていくような気がします。
産まれて、好奇心に溢れ、知ったつもりで生意気になって、世間の壁にぶつかり、七転八倒して、曲がりなりにも自分の人生の形を作り、
さてそれからという時に、モチベーションを見失います。

誰かは自分のために、あるいは誰かのために懸命に生きている。
ぼくが口を出す隙はありません。
それで問題があるとも思いません。
で、問題は、このおれです。
ありもないしない「おれ」を生きようとするこの「おれ」です。

生きていれば、好むと好まざるとを関わらず、なにがしかの因縁を産み引きずります。
因縁が凝り固まって、身の回りに凝結し出しますと、本来自由な自己は窒息し始め、生き延びるための架空の人間像を創りだし、
ひたすら重く型ぐるしい現実に対する防波堤とします。
できるビジネスマン、気配りの行き届いた主婦、世を拗ねた風来坊、刹那の快楽を追い求めるニヒリスト、
挙げればきりがありません。

そういった、生きていれば際限なく産み出されていく因縁から自由になることを、「解脱」というのでしょう。
「解脱」は「解脱」したいと思った瞬間に遠のきます。
「~したい」という「我の欲求」からの解脱だからです。
「~したい」という欲求不満の境地から、今ここにいるという峻烈な時空を体験すること。
それしか「解脱」の道筋はありません。
正確に言えば、それは時空ですらありません。
生命が光る。
光が生命。
時空だとかなにをしていつのだとかの、座標軸に囚われない光。

その光を見ることはそれほど難しいことではありません。
その光になりきることが、難しいです。
なりきるというのではありません。
そのままでいるということです。
「そのまま」を誤解しているうちは、自分をも含め、なにもかもを誤解し続けるということです。
自分という存在の「そのまま」。
半径5メートルのうちにあるのか、何千光年先にあるのか。
掴もうと思っているうちは掴めなく、それでは掴むことを放念すれば、掴めるものなのか。

繰り返しますが、光を見ることは難しいことではありません。
光になるということはどういうことなのか。
それこそが最終的な問題なんだと思います。


2013年09月14日 | 雑感
人の生きる進路には常に壁が立ちはだかります。
それが、ある人であったり状況だったりするわけですが。
お金がないから、できない。
したいことが誰それの反対で、或いは邪魔で、できない。
したいことをするためには、あれこれこういう条件が整う必要がある。
きりもなく次々と自分の外部に壁が立ちはだかります。

ほんとうは、壁というのは誰か他の人であったり、状況であったりするわけではありません。
自分の中にある、人とか状況に対する条件付けがあるだけす。
こうすれば上手く行くという仮定に反する状況なり、人物なりが現れると、上手く行くはずがないと思い込むだけです。

自分が自分の壁を創ります。
できるできないを思い悩むのは自分です。
何でもかんでもできると思うのも問題ありですが、したいことをするということに当たって、できるかどうかを問うべきではありません。
できるかどうかよりも、するかしないか、です。

「する」というのは一切のごまかしが効きません。
なにかを「する」、ということのだけです。
なにかをしようと検討するとか、思いを巡らすとか、そういうことではありません。
結果は分からないけれども、「する」という自分の意思に、決断に自分という全存在を委ねます。
結果はもちろん保証されません。
したことによって、おおいに傷付くことだってありえます。
でも、「した」ことによる、した人にしか分からない経験を積むことができるし、次のステップに向けての反省も生まれます。

壁というのは人の心の「恐れ」が産み出す幻です。
幻だからどうでもいいといいということでもありません。
何でもかんでもしたいようにできることが許容されるほど人は練達していません。
なんの恐れもなく、地球を、人々を蹂躙されてはたまったものではありません。
今の段階の人類には、なにかをするに当たっての「恐れ」というものが必要なのも、むべなるかな、です。

それでも、そろそろ、その「恐れ」を超克する時が来ているように思います。
「恐れ」の内容は人それぞれです。
臆病、無関心、傲慢、人のせい。
どれもが「恐れ」がなければ効力を失う心理的傾向です。
心理的傾向というのは、自分というものをなにがなんでも保持するためのもであるだけに、とても頑固です。
その頑固さも「する」という唯一の具体的な行動の前には口を出せません。
世の中の平和をいくら布団の中で夢想しても、「おはようございます」と無邪気に陽気に挨拶できる人の作り出す現実には敵いません。
政治家をいくら攻撃しても、畑で野菜を収穫する人が感じる平安を得ることはできません。

くどいようですが、何でもかんでもすればいいというわけではありません。
すべき価値が自分であると確信したことに関しては、果敢に実行に移せばいいのです。
その際に、失敗かどうかを気にする必要はありません。
したいことをするという、人間として生まれてなによりも尊い自由を行使するのですから。

じゃあ、人を殺したいと思うのも自由か、と問われます。
自由です。
それがあなたという人間の価値です。
それだけのことです。








恩寵

2013年09月12日 | 雑感
朝方、これはブログにふさわしい話題だと思い浮かんだトピックが、なんだったのか丸っきり思い出せません。
酒を飲んでないモードと、酒を飲んでるモードとでは、発想システムが切り替わっているのかも知れません。

まぁ、それはそれでしかたがありません。
で、今はというか、いつものことなんですが酒を飲んでるモードでなにかを語ろうとしています。

語るというのは、おのれの辿った選択、つまりは「したこと」、あるいは「しなかったこと」の羅列なわけです。
「したこと」に関して言うのはよりたやすいことですが、「「しなかったこと」を語るのはなかなか難しいです。
するまでもないことは、「しなかったこと」にわざわざ分類される必要はありません。
「したい」と思っても「しなかったこと」というのが、いろいろな意味で大事な人生の負のファクターになっていきます。
したいと思ってもしなかったことというのは、大抵「愚痴」という形で語られます。

したいことを思い切りすればいい、と多くの人々がアドヴァイスします。
それはその通りです。
でも、それ以前に、したいことがなにか分からないという状況の人が圧倒的に多いのも事実です。
したいことがなにか分からないという人に対して、どんなアドヴァイスができるのでしょうか。

したいことというのも、いろいろなレベルがあるわけです。
自分の都合のいいように行動するというのもそうですし、自分の好みで動くというのもそうですし、
なにかしらの使命感に囚われて動くというのも、そういうことでしょう。
そういう何らかの目盛りに従うことがしたくなくなった、或いは従うことが不可能になったという場合に、
したいことが分からなくなります。

おのれ自信の指標と価値体系を自分勝手に信じきって突き進めるほど、現代の状況は甘くありません。
人は人との関係性でしか生きられません。
関係性を保つためには、「唯我独尊」は途轍もなく難しいテーマになります。
本来の「唯我独尊」には、自分さえよければいいという低級な意味合いはみじんもありません。
すべてを、愉快であろうが不愉快であろうが、あらゆる現象を「自分」を拠り所にせよ、といった意味合いでしょうか。
刻々と移り変わる周囲の状況に右往左往することなく、状況をその状況たらしめている本人は誰なのか、という究極的な問いです。

「したいこと」。
なにか一つのことをやり続ければ、それが「したいこと」に溶け合って一つになるというのも事実でしょう。
なにかのきっかけがあって、「したいこと」に目覚めて没頭するということもあるのでしょう。
したいこと。
それ見つけるということこそが人生を生きるということの最大の恩寵なのだと思います。














2013年09月11日 | 雑感
見たところ草むらなど周囲にはないのに、虫の音があちらこちらから聞こえてきます。
わずかなコンクリートの隙間に生えた雑草を拠り所に、彼らは思いっきり羽をこすり合わせて鳴いているのでしょう。

ぼくは幼少の頃は思いっきりセンチメンタルな子供でした。
町ですれ違った腰の曲がった老人を見ては、この人はいずれこの世からいなくなってしまうだと勝手に思っては涙ぐんだりしていました。
そういうセンチメンタルな子供も、紆余曲折、酒池肉林、七転八倒を経て、冷淡とも言える石頭になり果てました。
共感度は高い方だとは思うのですが、共感することを拒絶し、あえて人という人から距離を取ろうとしてきました。
人との付き合いは技術論的なテクニックに堕していきました。
言葉の裏を読んで、意表を突いて自分のペースに持ち込む、とかまぁそういった類いのろくでもない心理学です。
当然ながら、そういうテクニックやら似非心理学に自らが溺れますと、果てしもなく陳腐で醜悪な人生を自らが生きることとなります。
目の前に現れる人も、世界で起きる事象も、すべて自分の損得基準でしか見れなくなるからです。

そういう生き方はとても疲れます。
損得などは時と共に裏表しながら流れていくだけなのに、損得を血眼になって追い求めるようになるからです。
で、そういう生き方は止めるしかなくなります。
そういう生き方が正しいからとか、間違っているからということではありません。
そういう生き方は「楽しくない」からです。

「楽しい」というのは極めて個人的な感情です。
登山というのは、山登りをしない人にとっては狂気の沙汰です。
マニアと呼ばれる人々に対する世間の人々の目は冷ややかです。

ぼくは何でか知りませんが、「生きる」ということは「楽しむ」ことだと思い込んでいます。
ただ、流行や似非心理学を駆使した、人におもねる、人を操るという方向性では決して楽しめないことを知ってしまいました。
人におもねるか、操るかしか知らなければ、自分が自分でいることがとても難しくなります。
人は他者との関係の中で自分の立ち位置を初めて知ることができるからです。
おもねることも、操ることも断念したとき、それまでに築いてきた人との関係が途絶えます。
途絶えたときに、あると思っていた「自分」などというものがどこにもないことに気がついてしまいます。
そんなどこにない自分が、なにを楽しむのか。

これから先は話が面倒くさくなります。
だから止めます(笑)。

なにを言いたいのかというと、もう「嘘」はつくまいということです。
人に対する嘘などどうでもいいのです。
自分に対する「嘘」は怖ろしいほど自分の人生にダメージを与えます。
なにが「正直」なのかはまだ分かりません。
ただ、「嘘」はつくまいと思うのです。






着地点

2013年09月10日 | 雑感
9月に入って涼しい日が続くと思っていたら、蒸し暑くなった今日この頃です。
10月くらいまで暑い日は続くだろうとは覚悟しています。
あの異様な暑さを経験していれば、多少の暑さは何ともありません。

長い間を置いたブログの更新です。
順風満帆なら得意げに日々の心境を語ることもできましょうが、なんだかひたすらあくせくしている毎日です。
PCの前に落ち着いて坐っているゆとりがありません。
この状況をどう説明していいのか、ちょっと分かりません。

先に可能性がないわけではありません。
ただ、その先に行き貫く勢いがまったくありません。
なにかを突破して行くには「勢い」が必要です。
今までやりたいと思うことは、そのまますんなりとやってきましたが、すんなりとことが進まなくなっています。
考えたこともなかったのですが、これが「老い」ということなのかと思い至りました。

そうだとすれば、作戦を変更する必要があります。
今までのように「勢い」に任せて自分の望み通りに流れていくことが、もう不可能になっているのかも知れません。

さてさて、です。
勢いを失った流れが止れば、澱みになります。
無理に流そうとすれば、疲弊します。
本来ならば、ある程度の年になれば、どうすれば清澄な湖に溶け込めるか、あるいはどうすれば豊穣な海に回帰できるか、
そんな段階に行くのだと思います。
そういう自然の摂理を無視して、ありもしない「勢い」を夢見て、急流を流れ下ろうと思っても急流はもはや涸れている、
そんな感じです。

それでも、とりあえずの目的地には辿り着かなければなりません。
「流れ」だとか「勢い」だとかはなくても、この足で歩み寄っていかなければなりません。
それはそれでかまいません。
いろいろなことに目が眩んで、「流れ」があるうちに流れに乗らず、「勢い」があるうちに前に進まなかった自分が阿呆だっただけです。
阿呆らしく、流れも勢いもない道のりを一歩一歩前に進み続ければ、少なくとも日々を生きている実感のようなものを、
手に入れられるのかもしれません。

この世は幻想だというのは、あらゆる意味でそう思います。
それでも、その幻想を幻想たらしめている自分というものに、ぼくは重い責任を負わなければいけません。
この状況、このあり方、この風景、すべてはぼくが創りだしたものです。
「ぼくが」という自意識から離れようとすればするほど「ぼくが」という悪魔がほくそ笑みます。
そういう自意識のおぞましい循環から逃れだそうとすればするほど、「ぼくこそは」という悪魔がニタニタ笑います。

自分というものに執着もせず、捨てもせず。
その均衡を保つ着地点を探す旅が続きます。