今朝ベランダで物音がするので見てみますと、カラスがベランダのサッシに止まって、落ち着きなくぴよんぴよんと動いていました。
真っ黒な羽根がぐっしょり濡れ、ばさばさと羽根についた水分を飛ばしています。
時折、首をかしげて真っ黒な目でガラス窓越しに部屋の中を覗き込みます。
当然部屋の中にいるぼくと目が合います。
真っ黒な目で見つめられますと、思わずぞくぞくっとなります。
おそらく快適に雨宿りができる場所を捜し求めているのでしょう。
山々が低く垂れ込めた雲に覆われ、深山幽谷の趣でした。
山でも町でも雨に降り込められ、カラスとしてもさすがに一休みしたくなったのでしょう。
ただ、カラスというものをまじかに見て思ったことは、全身真っ黒で、目玉も真っ黒です。
そして賢く、物怖じしません。
なにを考えているんだろうかと思ったしだいです。
かわいいとかいう発想持ちえませんでした。
鳩や雀とは違う世界観を持っているのでしょう。
先日とある公園でこんな風景を見ました。
雀や鳩が公園の芝生の上を餌を求めてうろうろしています。
ぼくは木陰のベンチに坐って、たまたま持っていた羊羹を細かく千切って投げ与えました。
雀や鳩は例によって大騒ぎでついばみます。
その様子を見ていたカラスが、すかさずやってきて鳩や雀を追い払います。
そしてやおら一番大きな切れ端を咥えます。
一呼吸置いて、そのカラスは食べようとしますが、どうもその味かその感触かは分かりませんが、羊羹は口に合わないようです。
するとそのカラスはその切れ端を咥えて、数メートルぴょんぴょんと移動して、羊羹を地面に置きました。
そして、そのあたりの枯れ草やらなんやらをその羊羹の上に咥えては置き、咥えては置き始めました。
要するに、自分が気に入らなかった食べ物ですが、とりあえずは隠そうとしたわけです。
なんか人の執着心を見るようでした。
また、なんだかなぁ~と思うことに、傍にいた鳩や雀が、そのカラスが去った後も、その羊羹の一片の存在に気がつかないことです。
結局の所、その羊羹は蟻やらなんやらの虫たちの栄養源になったことでしょうから、何も問題はないのですが、
カラスが蟻やらなんやらの虫たちに配慮していたからこその行動でないのは確かです。
でも、結果的には、そういうカラスの行動があったからこそ、鳩や雀たちに独占されず、
虫たちにも羊羹の栄養源が虫たちに行き届くのも事実なんでしょう。
おそらくカラスは意図的に愛されようという存在だとは自らを規定していません。
ゴキブリもそうでしょう。
その姿かたちを、はなから愛されるべき存在に設計していないかのようです。
でも、そこには大いなる生態系への貢献と役割があるのだと思います。
何ごとにも無駄がない。
パーフェクトだと感じる感覚。
蚊に刺されてもパーフェクトと思い、カラスの真っ黒な目玉で見つめられてもパーフェクトと思い、数センチもあるゴキブリがまっしぐらに
こちらに飛んできてもパーフェクトと思えるか。
でも、それがそのままパーフェクトなんです。
道元禅師の言葉です。
「花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり」
意味は、花は人が惜しんでいるうちに散っていくが、草は人が嫌がっているのに生え育つということです。
カラスやゴキブリや草や蚊にことさら人間以上の罪があるわけはありません。
ただそれぞれにそれぞれの役目があるのでしょう。
それがどんな役目なのかは、深遠すぎて明瞭なことは知りえません。
それよりも明瞭に知るべきは、人として生きるという役目を知ることなんでしょう。
広大な宇宙の中で、星星が、恒星が、惑星が、大地が、海が、大気が、風が、鉱物が、生物が、植物が、
すべてがその関わりの中で役目を持っているのでしょう。
さて、すべてのかかわりを持つ中で、人の果たすべき役目とは何か。
そろそろ、その最終的な答えを出すべき時節に至ったような気がしてなりません。
真っ黒な羽根がぐっしょり濡れ、ばさばさと羽根についた水分を飛ばしています。
時折、首をかしげて真っ黒な目でガラス窓越しに部屋の中を覗き込みます。
当然部屋の中にいるぼくと目が合います。
真っ黒な目で見つめられますと、思わずぞくぞくっとなります。
おそらく快適に雨宿りができる場所を捜し求めているのでしょう。
山々が低く垂れ込めた雲に覆われ、深山幽谷の趣でした。
山でも町でも雨に降り込められ、カラスとしてもさすがに一休みしたくなったのでしょう。
ただ、カラスというものをまじかに見て思ったことは、全身真っ黒で、目玉も真っ黒です。
そして賢く、物怖じしません。
なにを考えているんだろうかと思ったしだいです。
かわいいとかいう発想持ちえませんでした。
鳩や雀とは違う世界観を持っているのでしょう。
先日とある公園でこんな風景を見ました。
雀や鳩が公園の芝生の上を餌を求めてうろうろしています。
ぼくは木陰のベンチに坐って、たまたま持っていた羊羹を細かく千切って投げ与えました。
雀や鳩は例によって大騒ぎでついばみます。
その様子を見ていたカラスが、すかさずやってきて鳩や雀を追い払います。
そしてやおら一番大きな切れ端を咥えます。
一呼吸置いて、そのカラスは食べようとしますが、どうもその味かその感触かは分かりませんが、羊羹は口に合わないようです。
するとそのカラスはその切れ端を咥えて、数メートルぴょんぴょんと移動して、羊羹を地面に置きました。
そして、そのあたりの枯れ草やらなんやらをその羊羹の上に咥えては置き、咥えては置き始めました。
要するに、自分が気に入らなかった食べ物ですが、とりあえずは隠そうとしたわけです。
なんか人の執着心を見るようでした。
また、なんだかなぁ~と思うことに、傍にいた鳩や雀が、そのカラスが去った後も、その羊羹の一片の存在に気がつかないことです。
結局の所、その羊羹は蟻やらなんやらの虫たちの栄養源になったことでしょうから、何も問題はないのですが、
カラスが蟻やらなんやらの虫たちに配慮していたからこその行動でないのは確かです。
でも、結果的には、そういうカラスの行動があったからこそ、鳩や雀たちに独占されず、
虫たちにも羊羹の栄養源が虫たちに行き届くのも事実なんでしょう。
おそらくカラスは意図的に愛されようという存在だとは自らを規定していません。
ゴキブリもそうでしょう。
その姿かたちを、はなから愛されるべき存在に設計していないかのようです。
でも、そこには大いなる生態系への貢献と役割があるのだと思います。
何ごとにも無駄がない。
パーフェクトだと感じる感覚。
蚊に刺されてもパーフェクトと思い、カラスの真っ黒な目玉で見つめられてもパーフェクトと思い、数センチもあるゴキブリがまっしぐらに
こちらに飛んできてもパーフェクトと思えるか。
でも、それがそのままパーフェクトなんです。
道元禅師の言葉です。
「花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり」
意味は、花は人が惜しんでいるうちに散っていくが、草は人が嫌がっているのに生え育つということです。
カラスやゴキブリや草や蚊にことさら人間以上の罪があるわけはありません。
ただそれぞれにそれぞれの役目があるのでしょう。
それがどんな役目なのかは、深遠すぎて明瞭なことは知りえません。
それよりも明瞭に知るべきは、人として生きるという役目を知ることなんでしょう。
広大な宇宙の中で、星星が、恒星が、惑星が、大地が、海が、大気が、風が、鉱物が、生物が、植物が、
すべてがその関わりの中で役目を持っているのでしょう。
さて、すべてのかかわりを持つ中で、人の果たすべき役目とは何か。
そろそろ、その最終的な答えを出すべき時節に至ったような気がしてなりません。
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