風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

美学と明快さ

2010年06月04日 | スピリチュアル
今日は所要で自転車であちこちを走り回ったわけですが、いよいよ暑さが到来した感じでした。
さすがに朝晩はまだ涼しいみたいですが、昼間は冷房が必要となるでしょう。

先日体重計に乗ってみたら、4キロも減っていました。
決算で無理したのと、風邪を引いたのが重なったせいでしょう。
でも、どういうわけか気力は萎えていませんでした。
頭がくらくらしたり、目がしょぼしょぼしたりしていましたが、へこたれる気にならないから不思議です。
昨日は朝は滝に行き、夜は坐禅道場に行きました。
もともと無理をするということを一切しないタチなのですが、今回の決算で意識的に鍛えたおかげかもしれません。
ただ、些細なことにやたらイライラしてしまいました。
イライラを抑えようと思えば、さらにイライラが募るような感じでした。
昨日滝に打たれながら、自分の精神的視野が狭まっているせいだと反省しつつ、願わくば豊かな慈悲の心に置き換わるよう、念じました。
坐禅を組みながら、自分の心の中のざわつきは、自分の想像世界中に拵えたネガティブな対象のエコーであることを確認しました。

心身ともに疲れると、視野が狭まります。
中途半端に視野が狭まると、なまじっか他人の所作も目に入りますから、イライラが募り、さらに疲れるという循環になります。
さらにさらに疲れ果て、視野が点のようになりますと、自分の心の動きも他人の所作も目に入らなくなります。
その場その時その思いだけになります。
修験道や密教などで心身ともに極限まで追い込むと、そういう日常の意識を超えた時空を超えた時空と遭遇することになるのでしょう。

何ごとも、中途半端という状態が一番厄介なものです。
自分自身を追い込むなら追い込みきって、もうこれ以上何もないという時に至らないと、新たな道筋というものは見えてきません。
中途半端に追い込むくらいなら、最初から追い込まないほうがずっと健全で、開放的でいられます。

自然界でもいたるところにそのあたりの明快さというか、厳しさというか、シンプルさの象徴に満ちています。
若い健全なオスのライオンは群れのリーダーを目指します。
リーダーにならなければメスとの交際も、餌の一番美味しいところを食べる権利もないわけですから、そりゃもう必死です。
ライオンのオスと生まれた以上、その熾烈な戦いに加わらないわけにはいかないわけです。
体力の弱いものは初期の段階で脱落していくのでしょうが、体力のある同士でなにが勝敗を決するのかといえば、おそらくは執念です。
執念というと聞こえが悪いですが、決してあきらめない心と言い換えればいいかもしれません。
ライオンだって、おそらくは兄弟や仲間であったライオン同士で、オスだからという理由だけで、何も闘いたくはないのだと思います。
でも、そういう生存システムだからこそ厳しい環境の中を生き抜いてこられた。
だからなにが何でもそのシステムの中で生き抜いてやる。
システム自身が抱えた矛盾やら、不合理やら悲嘆やらはハイエナに食わせろ。
おれはこのシステムの中で生き抜いてやる。
おそらくそういうのが、オスのライオンの理屈というか、美学なんだと思います。

もちろん、人はそういう野生の苛烈な生存システムを生きなければならない段階は超えることができたのでしょう。
すべての男性と女性が平等の理念の下に、差別のない、豊かな世界を作る。
少なくとも法律的には、どんどんそれが可能になっているはずです。
で、そういう法律的には整備のできたこの今が差別のない、豊かな世界なんでしょうか。

差別がないほうがいいの決まっていますが、「いい」というときの「いい」の中身の問題です。
システムとして「いい」のか。
あるいは、「美学」としていいのか。
システムとして「いい」というのは、はなから論理的破綻しています。
経済的な意味に限らず、あらゆる意味において勝ち組になろうとする人間がいる限り、負け組みを発生させるからです。
それでは、美学として、差別がないのが「いい」のか。
これも明らかに論理の破綻をします。
美学というのは、何かを選択し、何かを選択しないという心的態度によって立つ論理体系です。
美学という以上、何かを差別することが前提です。

ようするに、近世以降に流布する耳障りのよいスローガンには人を思考停止させる罠がたくさん含まれています。
人権、平等、自由、経済、資本、・・・。
人権という言葉を知らない人たちは、人の生き方に対して無理解・不寛容だったのか?
平等という観念を知らない人たちは、どうやってかくも豊かな中世の共同体を創り上げたのか?
自由という言葉をことさらに唱えなかった人たちは、精神の自由においてどれだけ不自由だったというのか?

で、逆に問えば、自ずから分かるというものです。
現代人は、他人の行き方に対して、理解があり、寛容か?
現代人は、豊かな共同体を作っているか?
現代人は、精神的に自由であるか?

えてして、答えというのは明快さにあります。
今という時代に生きるとき、明快に答えることがますます出来なくなるというのが実感です。

ちょっと収拾がつかなくなりました。
明晩から接心です。
楽しみとか何とかいう気持ちはありません。
たんたんと登りたい道が雲の上まで続いているだけです。

首相退陣

2010年06月02日 | 雑感
相変わらず涼しい風が吹き過ごしやすい日々が続いていますが、世界的に見ればあちこちの火山が活発化しているようですし、
40度を超える暑さであえいでいる国もあるようです。
なんだか、経済的にも、軍事的にも、環境的にも、複合的にきな臭い臭いが世界中に漂ってきている感じが強くします。
一つ一つの問題を掘り下げていけば、どれをとってももはや手遅れではないかという感さえします。

そういうなかで、日本ではあいも変わらず、井の中での政変劇です。
たまたま、首相辞任の演説をテレビで生で見ていましたが、最後まで自分の理念を守り通した誇りさえ感じられました。
その理念が、現実の今の社会をどうしたのか、どのように方向付けたのかということには、あまり関心がないようでした。
自分の理念を貫くことができなかったくやしさはありましたが、現実生活が崩壊していくかもしれない人々の不安や憤る心は、
どこかへ置き去りにされていました。

理念はもちろん大切なのですが、現実に立脚しない理念は暴走するものです。
市井に生きる人々の心の機微を無視した政治は、いずれそっぽを向かれます。
今、政治の現場から、日本という国をどういうふうに持っていくのかという正直な声が聞こえてきません。
「美しい日本」という言葉にしろ、抽象過ぎてかえって胡散臭くなってしまいます。
「美しい日本」のスローガンのもと、コンクリートで川べりや海岸線や渓流が埋められて行ったのでは、ジョークにもなりません。
「東アジア共同体」という言葉にせよ、だれも積極的に賛同していない国々の中で、日本がなにを具体的にしていこうとしているのかが、
さっぱり目に見えてきません。
お金をばら撒くことだけは積極的だったのは知っていますが、果たしてそれが現状の日本人の望んでいることなのでしょうか。

「日本人が」とあたかも日本人という共通した特質を持った国民を前提にする時代は終わったという議論もあります。
移民を積極的に受け入れ、積極的に参政権も与えていくという政策を進めようとする政党もあります。
つまり、「日本」という枠組み自体が、時代遅れで解体すべきだというような考えです。
それはそれで一つの考え方ですから、否定するつもりはありません。
ただ、堂々とした公の議論をして欲しいわけです。
誰のために、どうメリットあるのかを、はっきり公衆の面前で問いかけ、それで選挙に臨めば文句はないのです。

世界の現実を見れば、美辞麗句で政治の責務が勤まるわけではないのは、大方の人が承知していることでしょう。
その泥沼のような現実から、どうやって立ち上がり、光を見出せるかというヴィジョンを国民に見せるのが、政治なのでしょう。
ますます泥沼化する現実を無視した空論の出番はもはやありません。
泥を生み出しているのはなんなのか、誰なのか、どうすればそれを止められるのか。
大資本投機的金融屋が元凶という人もいるだろうし、資本主義自体の行き詰まりだという人もいるだろうし、
モラルの欠如が原因だという人もいるだろうし、グローバル主義の美名に騙されているからだと訴える人もいるでしょう。
何でもいいのですが、ケンケンガクガクの論争がなければ、誰に投票していいのかなんか分かるはずかありません。

今日も首相退陣について、与党の新人女性議員がインタビューに答えていました。
なにを聞かれても「選んでくれた人々の思いを真摯に受け止め、頑張って行きたいと思います」というようなことを言っていました。
さすがにぼくも腹が立ちました。
自分の党の党首が涙目で最後に訴えたポイントがまったく理解していないのが丸わかりです。
首相の理念に関しては、その理念自体の是非についてはいろいろな考えがあっていいのですが、少なくとも彼が自負したのは、
自分の信念を結果的に曲げざるを得なかったことに対する悔しさと責任の重さです。
それを直に聞いていた議員が具体的な10個ほどの質問に対して、「頑張って行きたいという思いです」を繰り返すだけというのは、
もうなんというか、選んだ人たちを舐めきっているとしかぼくには思えません。

こういう党の危機の時に、自分なりの党の状況分析を語り、どの方向に、どういう行動をとっていくと、明快に語る能力があることを、
政治力というのではないでしょうか。
なにを聞かれても、アホの子みたいに目を見開いて「頑張って行きたいという思いです」とは、甘えすぎにもほどがあります。
「頑張ります」ならまだいいですが、「~という思いです」は首相に習った言い回しなんでしょうが、なおさらアホっぽいです。

ただ、政治によって国の方向がよくなるというような期待はあまり持たないほうがいいとぼくは思います。
政治の影響力は極力小さくて済むほうが、国が健全に機能している証拠だと思います。
なんか、今の政治は、国がよくなることというよりも、しなくてもいい事に手を突っ込んでかき回して、国民の自覚を促したんだみたいな、
そんな自己満足自己完結型の政治のような気がしてなりません。

人々の暮らしの足元を支え、どんな生き方であれ生き方の邪魔をできるだけしないのが、よい政府なんではなかろうかと思ったりします。





ダルマ・バム

2010年06月01日 | 雑感
昨日やっとギリギリで決算が終わりました。
税理士事務所のSさん、例年のことながら、大変ご迷惑をおかけしました。

かなり根を詰めて決算作業に当りましたので、そのせいだけでもないかもしれませんが、風邪を引いてしまいました。
数日前に酔って店のソファで寝てしまったせいかもしれません。
とにかく、一年でもっとも憂鬱な作業が終わりました。

そして、今週末からは休む間もなく、禅の接心が始まります。

アメリカの5~60年代にビート・ジェネレーションというムーブメントが西海岸サンフランシスコを中心に湧き起こりました。
ワイルドで、タフで、スピリチュアルな文化創造活動でした。
その文化創造活動を「ビート・ジェネレーション」と名付けたのが、ジャック・ケルアックという作家でした。
北米大陸中を疾風のごとく動き回っては、ドラッグ、酒、セックスに酔いながらも、新たな精神的地平を追い求め続けた
若者たちの群像を描いた「路上にて」という小説が有名です。

そのジャック・ケルアックの自伝的小説に「ダルマ・バム」というのがあります。
「ダルマの法を求める放浪者」、つまり仏法を追い求めるさすらい人くらいの意味でしょうか。
日本語で言えば、まさしく雲水といったところです。
自伝的小説ですから、ケルアックとケルアックの友人であったゲーリー・スナイダーの二人を中心に物語りは進みます。 
ゲーリー・スナイダーは中国語も日本語も英訳するほど東洋文化に造詣が深く、日本の禅寺でも数年にわたって修業することになります。

相変わらず、酒とセックスは奔放にし放題で、ヒッチハイクであちこち自在に移動しまわるのも相変わらずです。
でも、彼らの禅に対する憧れは本物で、よくもそこまでと思うくらいに禅に対する理解は深いものがあります。
禅問答的な会話がこれでもかというくらいに活発に交わされます。
ケルアックはゲーリー・スナイダーという風変わりで魅力的な人物と知己を得ることによって、精神的な柱を手に入れた感じがします。
ゲーリー・スナイダーはワイルドな山男でもあります。
二人で山の奥へ奥へと入り込むとき、嬉しくてたまらないといった感覚がそれを読む人間にも伝わってきます。
一人で山に篭り瞑想をするのも、街に下りて仲間たちと乱痴気騒ぎをするのも、彼らにとっては自由自在です。
とにかくエネルギッシュで、陽気で、ユーモラスです。
どこへ行っても野宿がほとんどですから、焚き火をたいて簡単な料理を作るわけですが、どれも旨そうです。
ベーコンとビーンズのスープとか、食べたことはありませんが、野外の焚き火の前で食べたらさぞかし美味しかろうと思います。

とにかく一時代の一部のアメリカ人にいかに禅の影響が深く大きかったかのかが分かる本ではあります。
その後、ゲーリー・スナイダーが日本へ貨物船で出向し、ケルアックがカナダ国境近くの深い山に入り、
火災監視員として山小屋で数ヶ月ひとり暮らし、街へ降りてくるところでこの小説は終わります。

この小説では触れられていませんが、日本に渡ったゲーリー・スナイダーがどのような禅寺生活を送ったのかが大変興味があります。
西海岸では、モテまくり、好き勝手気ままに時代の寵児であった彼が、果たして日本の規律に縛られた禅寺の集団生活の中に、
理想郷を見つけることができたのでしょうか。
寒山拾得が好きであった彼は、日本の自然に深山幽谷を見ることができたのでしょうか。

ケルアックは酒の飲みすぎで早く亡くなりましたが、ゲーリー・スナイダーは今でも環境やライフスタイルに関しての提言を盛んにしているみたいです。
ネイティブ・アメリカンのための活動も盛んにしているみたいです。