風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

仕事

2008年01月26日 | 雑感
さすがに寒い日が続きます。
寒い上に曇り空が多いものですから、寒々しい感がいっそう強く感じられます。
春が来たら、さぞかし嬉しい気がするんでしょう。

明日も仕事です。
アンティーク・フェアに行ってきます。
色々な業者と今後の可能性を話し合ってきます。
こういう業界は狭いので、ネットワークを生かすと、それぞれの持っている在庫を活かせます。
みな資金のない同士、協力できるところはしてみましょうという感じになれば、サクセスです。←ダサい

やはり新店舗が出来てからというもの、何やかやと忙しいです。
こういう流れを絶やしてはいけません。
流れをうんと太くしておいて、何かのイベントなり何なりを仕掛けていくつもりです。
こういうときは結果を一喜一憂してはいけません。
流れがあることこそ大事にするべきです。
健全な流れは必ず健全な結果を生みます。

今は確かに不景気ではあるんです。
同業者が次々と脱落していくのも実際に目にしています。
でも、だからこそぼくのところみたいな小さな店が浮上するチャンスもあります。
守るものがないところは、こういうときは強いんです。
仕掛けられます。
景気のいいときなら、資金力あるところの独壇場になりがちです。

もちろん先は読めません。
でも、先が読めなかったのは今にはじまったことではありません。
創業以来、ずっと先が読めないまま続けてきただけです。

こうして仕事のことを書くのも、ぼくにしては珍しいわけです。
今までは書くことがなかったのです(笑)
冷暖房の効いた店でぬくぬくと好きなことをしていただけですから。
ファイト溢れる仲間も参入してくれたお陰で、背中を押されて頑張れます。

日々訪れる小さなチャンスを丁寧にものにしていくこと。
そういう感じで進めればなと思っています。

坐禅会

2008年01月25日 | スピリチュアル
坐禅会はさすがに一週間全部に出席することは出来ず(店の準備もさることながら酷い風邪も引いたりして)、3日間だけ出ました。
夜だけ坐らせてもらいましたが、それでも2時間近くほぼ坐りっぱなしでした。
さすがに足が辛くなりました。
ぼくは自慢じゃありませんが、体が鋼鉄のごとくに硬いです。
何事も体が柔らかいのはいいことです。
その日の最後の坐の後に真向法という体操を皆でするのですが、ぼくが一番体が硬いのがわかります。
それにしても、坐禅の後にする体操の気持ちのよいこと!
凝り固まった筋という筋が伸ばされます。

それから、ほとんどの人が着物か作務衣の上に袴を着けています。
日本人は和服を着ると本当に立派に見えます。
袴姿で颯爽と廊下を歩き、背筋を伸ばしてどっかと坐る姿は、そりゃかっこいいです。
ぼくはと言えば、フリースの上下の上に作務衣です。
しかも作務衣は夏物です(笑)

ここの坐禅会は臨在宗の流儀を踏襲しており、老師に参禅して公案を貰ったりするようです。
「ただ坐る」曹洞宗流の坐禅に憧れているぼくは、勧められましたが参禅はせずただ坐っていました。
参禅する人は廊下を小走りに走って老師の元にはせ参じるわけですが、その時足の痛みから一気に解放されます。
ぼくはその小走りをしませんから、そろそろ痛くなった足を組み続けているほかありません。
ま、他の人は一日中坐っているわけですから、夜ちょこっと来て坐るだけのぼくが不平を言う筋合いではありませんが。

ま、気持ちのいい経験でした。
これから機会を見つけてチョコチョコ坐ってこようと思っています。




開店

2008年01月24日 | 雑感
どうもご無沙汰してしまいました。

新店舗も無事開店にこぎつけまして、これから本番です。
夜はワインと軽い食事を出しているのですが、なにせ4人しか入らないものですから、どのような営業にしようか思案中です。
今のところ予約があったお客さんのみに対応しています。

自慢ですが、ぼくの作る料理はなかなか評判がよいです。
家で作ってきて、レンジでチンして出せる料理ばかりです。
鶏のトマトソース煮とか、ミネストローネとか、スペイン風オムレツとか、そんな感じです。

アンティークの雑貨の方はさすがに人通りが多いのでひっきりなしにお客さんは入ります。
今後品揃えを吟味していけば、なかなかの結果を残せそうです。

本店の宝石は不振です。
去年の暮れ頃から高価な宝石を買おうというお客さんの気配が消えています。
新しい店を出していて、正解だったとつくづく思います。

なにはともあれ、人々の多大な協力を得ての再スタートを切ったわけです。
この先ますます不況になろうがどうであろうが乗り切っていくだけです。
こういう時代は、本意であろうとなかろうと多角的な店作りが必要です。
何しろ日銭を作っていかなければ、すぐにでも資金ショートしてしまいます。

宝石が売れなければ雑貨、雑貨も不振ならワインと食事、できることは何でもしようと思っています。
それらのバラバラの商材が、この店で何かしら共通のコンセプトを共有し、有機的に客層を拡げていければ理想的です。

急な店舗作りに協力してくれたすべての方々、お花を贈ってくれたすべての方々、この場を借りてお礼申し上げます。
有難う御座いました。

坐禅会

2008年01月11日 | 雑感
今日ビル内の掲示板を見ていたら、一週間の坐禅会の案内チラシが張ってありました。
問い合わせたところ、在家のための坐禅会であるから一日だけの参加でも、夜だけの参加でもOKとのことでした。
それもなんと明日からです。
本来は泊り込みですが、通いで夜だけ行ってこようと思います。
その一週間が明ける日に、新しい店もオープンです。
なんだか巡り合わせのような気がしています。
坐禅をどこかで本格的に組みたいとこのごろずっと思っていたものですから、嬉しいです。

あちこちから老師方が来て、本物の提唱も伺えるみたいです。
こんなチャンスはなかなかありません。
いや~、今日チラシを偶然見て本当によかったです。

道元禅師という人は決して悟りを求めて坐るなと説いた方です。
ようやくこのごろその意味が分かりかけてきました。
悟りに拘るのも心の汚染です。
悟る悟らない以前の塵一つない鏡のような心になろうがなれまいが、ただ坐る。
この辺りを説明しようとすると膨大な文字が必要になりますので、とにかく坐ってこようと思っています。
夜だけちょこっと坐りに行くのも、またぼく向きなわけでして。

ぼくにとっては道が大きく開けた感じです。
滝行もぼくにとって大きな意味がありましたし、多くの人々に経験してみることを勧めますが、
禅の目指す境地というのを味わいたくなっていました。

滝行でも我々の導師は「思いを捨てろ」というところに狙いを定めてくれています。
思いを捨てて、瞬間に水と一体となるということは、「今」になりきるということに通じます。
それは禅の修業でも全く同じといえば同じです。
禅では呼吸と一体となることで、「今」になりきろうとします。
滝行ではせいぜい数分でその瞬間を掴もうとしますが、禅では日常生活のすべての瞬間を「今」で埋め尽くそうとします。
これは比較するような話ではなくて、それぞれがそれぞれの味わいの深い境地があるということです。

滝行にしても、坐禅にしてもそういう古来からの行法を守り伝えてくださる方々の教えに触れ、導かれることができるというのは、
決して書物を読んだだけでは味わえません。
経験というのは肉体を持つ意味・ありがたさの最たるものですが、宗教的な体験というのはその中でも特別なものです。

ありがたい話です。






シエスタ

2008年01月10日 | 雑感
何かで読んだ話です。

スペインの田舎の漁港にバカンスで立ち寄ったアメリカ人のビジネスマンがいました。
漁師たちが午前中捕れるだけ魚を捕って、市場に売りに行った後は、シエスタを取って、夕方になると仲間で集まり、
ワインを飲みながらギターを弾いたりして、夜遅くまでわいわい遊ぶ姿を見て大変驚きました。
アメリカ人はハーバードの経営科を出ていました。

アメリカ人「なんでもっと働かないんだ?」
漁師「これ以上働いてどうなる?」
アメリカ人「何を言ってるんだ!もっと働いて大型の漁船を買って、大量の魚を取ればいいじゃないか!」
漁師「大量の魚を取ってどうする?」
アメリカ人「なんてこった!魚をうんと捕って、加工工場を建てて、人を雇って、左団扇で暮らせばいいじゃないか!」
漁師「ふ~ん。そんなことをしてなんになる?」
アメリカ人「うんとお金を儲けて引退したら、寝たいときに寝られるし、毎日楽器でも弾いて遊んで暮らせるじゃないか!」

まぁ、こんなのが過熱した資本主義の愚かさです。
金を儲けるために、金に時間も心も使いまわされる。
そういうアメリカ的な経営手法がすっかり日本にも定着した観があります。
金の濁流が他人の金を巻き込んで制御不可能な世界中のありとあらゆる方向に暴走していく。

どうも市場にお金が回っていませんね。
金融関係の金が一部のルートをグルグルと回っているだけのような気がします。
旧郵便局のお金が狙われていたというのは本当だったような気がしてなりません。
旧郵便局のお金も運用されるわけですから、日本の金融機関を通してでもいくらでも海外に流出させる仕組みは作れます。
つまり、日本国内の投資されないで、海外に投資させようと思えばいくらでも出来る仕組みです。

グローバル化の掛け声とともにそういう仕組みが出来てしまった現実があります。
ヨーロッパ諸国などはそういうところに非常に敏感かつしたたかですから、防衛手段を講じるんでしょうが、
日本は見事なまでに無防備な感じです。
グローバリズムという資本主義の怪物に参加するのなら、無防備で参入すればあっという間に食い尽くされます。
その点を経済界や政界の人たちは知っていていてこの有様なのか、知らないのか。

でも、愚痴を言うつもりはないです。
偶然はないというのは、悪い事態でも偶然はないと思うのが筋です。
これも何かの必要な過程だと心得た方が、次の手を打てるでしょう。

なかなか大変ですが、お互い淡々堂々と道を歩いていきましょう。




二郎

2008年01月09日 | 雑感
昨夜NHK の番組で、東京版ミシュランで三ツ星を貰った寿司店「二郎」のオーナーが出ていました。
80歳を過ぎて現役です。
7歳の時に料亭の丁稚にやられたそうです。
それから「もう帰るところはない」と自分に言い聞かせて、仕事一筋で生きてきたそうです。

不器用だったそうです。
だからこそ、人一倍修行に打ち込んだそうです。
「プロとは何か?」という質問に、「仕事に自分を合わせていくこと」と応えていました。

やはり一流になる人は違いますね。
僅か7歳で親元から引き離され、愚痴も泣き言も言わず、黙々と腕を磨いていく。
自分流儀を打ち出すのが流行の昨今ですが、「仕事に自分を合わせること」というのは、なかなか言えるセリフではありません。

まず高度な仕事を目の前に据える。
その理想に向って、たゆまぬ工夫と精進を重ねていくのが「プロ」だと。
こざかしい「自分」が消えてますね。
ぼくみたいな半端な人間に限って、自分らしさとか自分流を振りかざします。

しかし、7歳の子供がもう帰るところはないと言い聞かせながら、他人の家で修行するというのはそりゃもう想像すると・・・。

というわけで、何から何までぼくの耳にはもの凄く痛い番組でした。


民主主義

2008年01月07日 | 雑感
昨夜NHKで「Why Democracy 民主主義」という番組をたまたま観ました。
一本目は中国の小学校の低学年のクラスで学級委員長を選出する過程を追ったもの。
3人の児童が立候補しますが、その選挙運動たるや大人の世界そのままの陰口、悪口、甘言なんでもありのえげつなさ満開で、
そのえげつなさに3人の児童は心が折れかけて、立候補をやめようとしますが、それをやめるなとけしかけるのが親と先生。
人を押しのけても、立身出世するのが中国では美徳みたいです。
8歳の子供が、相手の欠点を並べ立て、それに屁理屈で抗弁する姿というのはどうも美しくないのですが。
結局、委員長に選ばれたのは親の入れ知恵で最後クラス全員にプレゼント(賄賂?)を渡した強引なところのある子供。
負けた二人の子はおいおい泣きますが、なんというか、後味の悪い泣きかたです。

もう一本は川崎の市会議員の補欠選挙に立候補した候補の立候補から当選までの日々を追ったもの。
駅前や幹線道路で演説を始めますが、誰一人耳を傾けるものはいません。
身内や町内会や老人会やあらゆるところを回って顔を売り込みます。
選挙運動が本格化した後は、奥さんも車に乗ってマイクを握って名前を売り込みます。
候補者の事務所にはいかにも離れした選挙戦のプロみたいな顔をしたスタッフが色々とアドバイスします。
そんなアドバイスが本当に有効なのかと首を傾げたくなるようなアドバイスもあります。
朝早くから夜遅くまで候補者夫妻は町を走り回ります。
何かを大声で連呼していますが、政策を訴えているわけではなさそうです。
ひたすら名前の連呼です。
選挙戦も後半になりますと、その頃人気絶頂だった小泉元総理など、大物政治家が応援に入ります。
小泉元総理は候補者と禄に挨拶も交わさないうちにわっとしゃべって、わっと去ります。
それでも、候補者はからくも当選します。
応援に回った国会議員らしき人物が、「皆の恩を忘れないように」と繰り返します。
これでは応援してくれた組織団体との縁は絶対に切れそうもないなと思います。
自由な政策など絵に書いた餅だなと、後ろに並んだ選挙のプロらしき人たちの怪しげな顔を見ながら思います。

民主主義というのは危ういものです。
参加する一人一人が自覚と責任を持って参加しなければ、民主主義という仮面を被った化け物になります。
勝つためには何をしてもいいという中国の児童の民主主義。
政策の訴えも、その訴えを聞く者も不在のままに、政治家が選ばれる日本の民主主義。
どちらも化け物です。

それから、年末年始にかけて環境破壊を取り上げる番組が目に付きました。
如何に問題が検証されようとも、肝心の民主主義が機能しない世界では、問題は先送りされるでしょう。
なかなか厄介なことです。

民主主義というのはそれぞれバラバラの個人の多数決で決着するということではないでしょう。
それなら、サル山のボスの方が正しい決定を下すでしょう。
民主主義というのは、人々が公共の福祉に沿ってギリギリの叡智を搾り出して持ち寄るというところにその意義があるのでしょう。

人間は歴史を重ねても、同じような過ちの中にいるものなんでしょうね。

2008年01月04日 | スピリチュアル
明けましておめでとうございます。
あっという間の正月休みでした。
娘がまだ幼いので遠出もせず、本を読んだり酒を飲んだりで過ごしました。

毎日ベランダに出て日拝(太陽を拝むこと)をしていますが、冬の太陽とは思えないほど陽射しが強いですね。
色々な筋の話では今年あたりから世の中が大きく変化していくそうです。
なにも天変地異とかそんなことばかりではなく、各個人の心の持ち方に従って、なるようになっていくと。
こうすればいいとか、ああすればいいとか、そんなノウハウはありません。
自分の信じる道を歩むだけなんですが。

一昔前までは、昨日よりは今日、今日より明日という感じで、希望や夢を先へ先へと繋いだものですが、
どうやらすべては「今」をどう生かしきるかにかかっているようです。

「人生が楽になる 超シンプルなさとり方(エックハルト・トール著)」という本を読みました。
すべての根源である「今」に繋がれば、心は無限の自由を取り戻せるというようなことを書いてある本です。
人の思考というのは「過去」や「未来」を思い煩い、「今」をムダに費やして行きます。
逆に、「今」に生きようとすると、「思考」は入り込めません。

机に落ちているゴミが目に付いた。
拾うだけです。
拾って、ゴミ箱に捨てて、気持ちが良いという経験をすることが、今を生きるということです。
過去や未来をあれこれ思い悩んでいるとゴミさえ目に入りません。
過去についてあーすればよかった、こうすればよかった、未来について、あれが不安だ、これが心配だとやっていると、
解決することのない「思考」ばかりがぐるぐる回っているのであり、「今」の体験は失われます。
「今」に生きる人は、過去を思い煩いません。
未来を心配しません。
「今」やることをただやります。

お金を作る必要があるとします。
「思考」に支配された人は、作れなかったときの不安や、こういう状況になった理由などで、取りとめもなく悩みます。
「今」に生きる人は、お金を作るためにどうすればいいかの目算を立てたのなら、ひたすら行動に移ります。
手紙を書くべき人に書き、訪ねるべき人を尋ね、電話をするべき人に電話します。
「思考」の人は、悩みばかりが増大しますが、何一つ「結果を出す」という経験を積み重ねません。
「今」に生きる人は、手紙を出す、訪問する、電話をするという一つ一つの行為がすべて何らかの結果を出して行きます。
なんなかの結果を出したなら、その結果を元に更なる行動が生まれます。

現代に生きる人は「思考」というものがなにか重要な意義があるものであり、何かを生み出せると信じている感があります。
でも、この本を読むと、それが大きなそして決定的な間違いであることに気が付きます。

これは禅の本を読んでみると分かりますが、人の「思考」というのは迷いの集積みたいなものです。
迷いの集積が迷いの塵を際限なく吸い込んでいくのが、「思考」です。
ですから、「考えない」という修行を禅ではするのです。

とりあえずは、思ったらすぐやる、という癖を付けてみたらどうでしょうか。
いちいちそんなことをやったら回りにどう思われるだとか、そんなことをしても何にもならないだとか、
それこそ何の価値もない「思考」が入り込む余地をなくすこと。
思う=するを直に繋いでしまうこと。
この癖がつくと、かなり「今」というものが見えてくるかなと思います。

「今」というのは概念ではありません。
直の心であり、直の体験です。
「生きる」というのは、直の心であり、直の体験であるべきものでしょう。
「思考」を巡らせば巡らせるほど、「生きる」ということから遠ざかるのはぼくもさんざん経験してきました。
ここらで「今」に回帰することが肝要になってきたと、そうつくづく思います。