風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

なにか

2013年02月22日 | スピリチュアル

酸味の強いコーヒーは苦手で、エスプレッソをコーヒーメーカーで飲んでますが、苦すぎました。
酸味の少ない少し苦みが強くてこくのあるコーヒー豆の銘柄を誰か教えて下さい。

日射しがだいぶ明るくなって来ました。
風はまだまだ冷たいですが、春は確実に近づいてきています。

自然に生きるというのは、おのれの喜怒哀楽という荒ぶる感情をも含めての自然に生きるということか、とふと思います。
制御しがたい喜怒哀楽に振り回されることを、自然に生きるということができるでしょうか。
自然というのは、善悪差別のない、穏やかなものも荒ぶるものもすべて含めたエネルギーの交換場なんだと思いますが、
荒ぶるものに身を任せて、心身を破壊するに任せることは、自然に生きるとは言わないような気がします。

喜怒哀楽という感情も人に天然に備わった外界に対する反応の仕方ではありますが、
感情に身を任せてしまうとどうしてもそれに引きずられ苦悩の海に沈み込んでしまいます。
感情というのは、そのほとんどが外界の事象に対する心の反応ですから、
感情に引きずられるということは、外界の事象に引きずられるということになります。
自分の周囲の条件によって、喜んだり悲しんだり怒ったりし続けるということです。
外界で起きることというのは自分の手でコントロールできませんから、必然的に思い通りにならないことだらけになります。

それならば、自分の感情、外の世界での出来事に一喜一憂することからどうやって抜け出せるかということになります。
外の出来事に対する集中することから、自分の内なる世界に集中するということになるのかも知れません。
外と内というふうに分けることも本来ならナンセンスなのでしょうが、まぁ、わかりやすくいうとするなら
そういうふうになるのだろうと思います。

内なる世界といっても、そう単純でシンプルなものではありません。
外の世界と同じく、複雑で、葛藤に溢れ、計略に満ちてます。
そんな生い茂った精神の雑草をかき分けかき分け、奧へ奧へと探っていきますと、何かがあるかも知れませんし、
ないかもしれません(笑)。

まぁ、とにかく、お金のあるなし、異性と惚れた振られた、誰かと比べて優劣を競う、そんな外界の事象に振り回される=
感情に振り回される生き方にほとほと疲れたならば、
自分の内面に、何事にも影響されない、変わらないなにかを見つけなければなりません。
それを光というのか、悟りというのか、本来の面目というのか、恩寵というのか、とにかくなにか、です。

荒ぶるカミたちのように、感情にまかせてほしいままに振る舞うのも自然のあり方だとは思うのです。
自分の内側に「なにか」を見いだして、穏やかに生きるのもまた自然のあり方の一つではありましょう。
どっちの生き方がいいとか悪いとかということではありません。
ただ、自分の外の世界に振り回されると苦悩が多く、自分の内の世界になにかを見つけると、安心できる可能性があるということです。

清濁明暗ひっくるめたのが外の事象たる自然界です。
でもその清濁明暗の価値判断しているのは人間です。
自分の内側に広がる自然界には、清濁明暗の価値対立のない、明白な「なにか」があるような気がして成りません。

 

 


2011年11月30日 | スピリチュアル

前にも書いたことがあるかもしれませんが、以前あるスピリチュアル系のイベント会場で瞑想をしたことがあります。
イメージ上の自分の部屋でリラックスした後、扉を開けるとその外には何が見えるか、という瞑想でした。
見える光景は人それぞれで、お花畑が見えたり、草原であったり、日差しの注ぐ庭であったりしました。
ぼくが見た光景は紺青の空でした。

昔「ライトスタッフ」という映画があり、宇宙空間に飛び出す前の人類がジェット飛行機で大気層の極限まで、
高度を上げていくという映画でした。
ジェット飛行機では、酸素も薄くなり、温度も低くなりますから、肉体の限度が飛べる高度の限界になります。
その限界ぎりぎりまで高度を上げた飛行士が観た地球の空の色がぼくが瞑想で観た紺青色でした。

さらに瞑想を続けていますと、その空の下方になにか動くものの気配があります。
姿は見えませんが、巨大な龍が、深海のような色をした空中を、悠然と身をくねらして飛んでいるのが分かりました。
姿が見えないのになぜ巨大な龍だと分かるんだと聞かれても困ります。
そのイメージが心にダイレクトに飛び込んできただけです。

龍の色はメタルブルーに近い色です。
おそらく身長は数百メートルから数キロメートルです。
地球を覆う大気の中を楽しげに、堂々と、気高く泳いでいます。
そして、龍はその一匹だけではなく、離れたところに何匹かが同じく悠々と泳いでいるのが感じられました。

行きたいところに行くという瞑想のワークショップでしたから、なぜぼくが行きたいのが紺青色の遙か上空であったかは分かりません。
だた、ひたすら心が震え、爽快感に満ちたのは覚えています。

もう5,6年前の話です。

なんていうこともないふとした瞬間に、その時に見た紺青の空を思い出すときがあります。
色々な鬱積した感情やらなんやらが一気に引いていきます。
なぜだか知れない平安さが一瞬にせよ訪れます。
次の瞬間現実に帰ると、たちまち一気に引いたはずの色々な感情やらなんやらが押し寄せてきます。
そうして、その感情やらなんやらに溺れ埋没していきます。

そういう感情やらなんやらを味わうのはいいのですが、溺れ引きずられてはいけないでしょう。
溺れ引きずられるのが人間の常とは言え、度を超すと文字通り感情に溺れます。
感情を過度に抑制した冷たい人間になる必要はありませんが、感情は溺れる対象でもありません。
感情は自分の立ち位置を示す敏感なコンパスみたいなもので、上手くコントロールできればよりよい方向性を示すことが出来るでしょう。

龍のごとく、楽しげに、堂々と、気高く。
そう生きたいのは山々なのですが、情けなくも悪戦苦闘してばかりいます。

 

 


積もる感情

2011年10月17日 | スピリチュアル

身体に長年の疲労や老廃物や毒素が蓄積するように、心にも解消されない悩みや痛みや後悔が蓄積されます。
それらが積もり積もって、あるとき無気力や絶望感やらに襲われます。
それを解消する方法としては、どんなものがあるのかと考えてみます。

薬やアルコールは論外です。
さらなる後悔を蓄積させるだけです。
旅行やレジャーで気を紛らわすという方法も、気を紛らわすだけで、積み重なったマイナスの感情を昇華する力はありません。
心療内科や精神科に通ったところで、適当な薬を処方されるだけです。

マイナスの感情というのは、プラスの感情を持って正面から対峙したときにのみ、初めて解消されるもののようです。
何しろ自分の心が相手ですから、一切のごまかしが効かない相手です。
無気力や絶望感に囚われているときに、どんなプラスの感情を持って、自分の心に蓄積されたマイナス感情に対峙できるでしょうか。

そんな否定的な感情に支配されているときに、自分の心と対峙するというようなハードな闘いは無理です。
勝ち目がありません。
何もかもが嫌になってしまうのがオチです。
それではどうすれば良いのか。

誰かに相談したところで、いつかどこかで聞いたり読んだりしたことのある言葉が返ってくるだけです。
要らぬ慰めや心配は帰って息苦しくなるだけです。
自分の心の問題は、誰かに頼れば頼るほど、問題解決の道筋から外れていきます。
それではどうすれば良いのか。

一旦、自分の心を捨てきることです。
何とかしたいという気持ち、救われたい気持ち、辛いという感情、どうしようもなさで得体の知れない怒りにも似た感情。
そんのものを一切合切無条件に捨てきることです。
無条件というのがポイントです。
心を「無条件」という虚空にも似た空間に放り投げてしまいます。
そうするとその心が各種様々な否定的な感情で痛んでいるのが見えてきます。
もう限界を超えて心が痛みにもだえているのが見えてきます。

さて、それからどうしたらいいのでしょう。
目をこらしてその痛みの一つ一つを見ていきます。
一つの痛みに焦点を当てたら、その痛みと同化して、その痛みを再体験します。
なぜその痛みが起きたのか。
誰によってその痛みは引き起こされたのか。
そうして、なぜ自分はそれを痛みとして経験しようと選択したのか。
それを痛みとしてではなく、何かの学びとして経験することは出来なかったのだろうか。
何かの学びの経験にそれをすることができたなら、それは痛みではなく「喜び」に変えることが出来たのではないだろうか。

そうやって一つ一つの痛みを「喜びの経験」に変換していく作業が成功したなら、その痛みの炎症は鎮まります。
こう書いていても、とても面倒くさく、根気の要る作業になります。
でも、これが人知で出来る心の癒やし方の限度であるように思います。

その他に方法はないのかといえば、あると思います。
どの宗教に限らず、「祈り」の世界に没入することです。
「祈り」の世界には、その世界に完全に入り込めさえすれば、「自分が、自分は、自分の」という自我の世界が消えますから、
自分の感情の蓄積も消える可能性があります。
ただ、現代の理屈っぽい人間にとって、「祈り」の世界は近そうで実際はとても遠い世界です。

お勧めは、やはり「禅」といいうことになりそうです。
マイナスの感情も、プラスの感情も、自分自身をぶん投げた地平からその世界は開けます。
(人の自我が)何かがあって欲しいと思えば、何もない世界でもあり、何もなくても良いと思えば、
なにひとつないものはないという豊穣の世界が広がります。
自我の関与できない無限の世界です。
そこに入れば、心に蓄積された感情などは心のウンコが積み重なっただけです。

まぁ、言葉は汚いですが、そんなもんです。
適当に書き始めたら、最後は禅のお勧めになりました。
チャンチャン。

 


直接体験

2011年06月30日 | スピリチュアル
ぼくもずいぶんと精神世界を探索してきた方だとは思いますが、最近はその熱がだいぶ薄れてきたように思います。
興味がないということではなくて、探索をしてきてある程度の地図が頭の中でできてきたかなぁという感じです。
霊能者といわれる人たちの間で、あるいはコンタクティーと呼ばれる人たちの間で、言うことが食い違うことが多々あります。
要するにいくら探索を広め深めたところで、これ一つという世界像には行き着きません。
そういう人たちの数だけ、多種多様の世界像が提供されていると言っても過言ではありません。
ぼくは彼らがウソやでたらめを言っているとは思いません。
彼らが観ているもの、感じているもの、聞こえているものが違うのでしょう。
どんな存在が彼らに介在するのかは、彼らの個性や人格や道徳性や理解力や想像力によって違ってくるのでしょうから、
発せられるメッセージも食い違って当然だと思うようになりました。
そんななかで、どの人のどのメッセージをどれくらい信用するかというのは、
ぼく自身の個性や人格や道徳性や理解力や想像力によって選択されていきます。
もうこれは致し方のないことです。

何かで読んだ話があります。
ある未開の地の海辺に一艘の帆船が近づいたのだそうです。
ところがその地の原住民にはその船の姿が見えなかったそうです。

つまり、人というのは自分が見たものの意味やら名称を知らなければ、脳の認識の対象にならないということです。
ちょっとありえないような話かもしれませんが、そこの原住民がよほど純朴で警戒心を知らない人たちだったのなら、
ありえるかも知れない話だと思います。

自分が真理だと思う事象についても同じで、自分の個人的な経験、理解力、想像力、方向性によって、判断します。
何を真理とし、何を偽とするかは、その真実性ではなく、当人のキャラクターによる恣意的なものということになります。
例えば、宝石が美しいというのは何も万人に共通したものの見方ではありません。
美醜だけではなく、旨い不味い、善悪、真偽、なんでも個々人のフィルターを通して決定されています。
聖書を読めば誰でもクリスチャンになるわけではありません。
坐禅道場に通えば、誰でも仏性というものを掴めるものでもありません。
UFOと呼ぶしかないものを実際に見たとしても、それでも信じない人だってたくさんいます。
すべての現象自体、すべての人々に共通して認識されているのではなく、ある人には重要な事象が、
ある人にはどうでもいいことだったりするのが、現実の我々のあり方です。

同じことが精神世界でも言えるということが分かってきたように思います。
精神世界だから、きっと深遠な本物の世界が広がっていると思うのは間違いです。
人の世界よりも広く深いだけに魑魅魍魎の世界が複雑怪奇に層をなしている世界でもあると思うのです。
その世界においても、何を真とし偽とするか、美醜、善悪も同様にそれを探ろうとする個々人の資質によります。

ですから、現実世界の事象に対する判断も人それぞれテンでバラバラなように、
精神世界に対する各事象に対する判断はさらに複層化して、テンでバラバラにならざるをえません。

なにが言いたいのかというと、人は見たいものを見、知りたいものを知るだけだということです。
真実や真理というものは、当人にとっての真実や真理であり、同じものを見て同じように感じる、
つまりは同じ価値観を持つ人とのみ分かち合えるものです。

精神世界においても同じことのようです。
その人の資質と同質のものに惹かれていくだけのことです。
ただ、そういう相対的な世界観を超えた絶対的な境地がないかというと、ぼくはあると思っています。
そうなるとそういう世界を精神世界とは呼ばなくなるわけですが。

まぁ、十人十色の精神世界を覗き回って、あれこれ比較対照するというようなことは飽きてしまいました。
きりがないのです。
今でもおもしろいことはおもしろいのですが。

後は3次元的な思考法に閉じ込められた人間が、どこまで絶対的な境地に近づけるかというのが今の興味です。
滝行や禅も一つのツールです。
思考では決してたどり着けない直接体験です。
なかなか一筋縄ではいきませが。

ある瞬間

2011年06月07日 | スピリチュアル
どうやら本当に梅雨入りしたみたいです。
あっという間に初夏が通り過ぎていった感じです。

ここ数日、異様に身体がだるいです。
知り合いもそう言ってました。
そんな中でも昨日はあえてスポーツジムに行きました。
一ヶ月以上ぶりのジムでしたから、少々きつかったですがいつもどおりのメニューをこなしました。
そのせいか、今日は別の意味で身体がだるいです。

さて、先日ふと感じた瞬間があります。
考えとか感情といったものではありません。

そのときは、支払いのことやら、震災のことやら、あれやこれやで進展きわまるという感じでした。
神経も頭もすり減っていくような、そんな感じでした。
朝起きて、朝日が溢れるベランダに出て、山並みの緑をぼんやり眺めていました。
ふと時間が途切れ、違う流れにぼくという存在が入り込んだような気がしました。
とても寛いだ、甘美な感じの時空間です。
すべてが赦され、喜び合う、そんな感じの流れでした。
その流れがぼくの全存在を満たしたかと思うと、すうっと消えていきました。
後にはいつも通りの日常が再び流れ始めていました。
街のくぐもった朝の騒音、鳥の声、プランターのハーブを揺らす風。

ほんの一瞬ぼくを満たしたその流れの感触は確かにぼくの中に消えずに残りました。
それを思い出すと、一瞬にしてこの現実のあれやこれやらが、その存在意義を失い、虚空に消えます。
思わず笑みがこぼれてしまいます。

こうやって言葉に置き換えると、とても表現し切れていないのを感じます。
悟りというのとは違います。
元々自分の中に流れていた流れを垣間見たような、そんな感じです。
おそらくは人の中には三次元的な現実の思考的心理的な流れと、超次元的な分析を超絶した何かの恩寵の二つの流れが
併行して流れているのではないかと思います。
自分の都合を優先しようとするという利己的な流れと、すべてがそのまま尊いという無私無欲の流れ。
どちらも生命という流れの支流ではあるのでしょう。

どっちの流れが本物だということではありません。
自分のことで頭がいっぱいになることもあるでしょう。
被災地の人のことで頭がいっぱいになることもあるでしょう。
その二つをどう融合した道を作れるかというのが、生きるということの課題なのでしょう。

スピリチュアル・ウォーカー

2011年04月25日 | スピリチュアル

だんだん気持ちのいい初夏の訪れを感じる今日この頃です。
「ヤスの忘備録」というブログからの引用です。
長くなりますが、読んでみてください。
以下引用。


プロの人類学者

ハンク・ウェセルマンは、コロラド大学ボーダー校で動物学を専攻し、カリフォルニア大学バークレー校で人類学の博士課程を終了したバリバリのプロの人類学者である。昨年の10月、エチオピアで約440万年前の人類、アルディピテクス・ラミダス(ラミダス猿人)の全身化石が発見され、猿人と人類とを結ぶミッシングリンクが見つかったとされたが、ウェセルマンはこれを発見した国際調査隊のメンバーでもあった。ラミダス猿人の特徴はこの調査隊に参加した人類学者たちが書いた11の論文に詳しくまとめられているが、ウェセルマンもこの論文の執筆者の一人である。現在はハワイ大学などで教えているようである。

ウェセルマンの別の顔

しかし、ウェセルマンには人類学者とはまったく異なった顔がある。それはシャーマンとしての顔である。いや、ウェセルマンがシャーマンの研究者であるというのではない。彼自身がシャーマンなのだ。

30歳の時の体験

今回、アメリカの深夜ラジオの「Coast to Coast AM」に出演し、自分の体験を詳しく語った。

おそらくウェセルマンは60代前半であろうと思われる。ウェッセッルマンが博士課程に在籍していた30歳のころ、彼はスーダンで行われた人類学の調査に参加した。目的は猿人の化石の発掘である。調査隊は現地に長期滞在するため、現地人のとはひときわ友好な関係を結ぶように努力したという。発掘にも多くの現地人が参加した。

あるときウェセルマンは、発掘のあと現地の人々とくつろいでいた。すると急に、明らかに誰かに見られているという強い実感に襲われた。その感じは時間が経つにつれ強くなったという。すると、目の縁にちらっとトラの皮を被ったような生き物の姿が見えた。そばにいた誰にも見えないようだった。すると、近くにいたシャーマンだけには見えるようで、その生き物を自分とともに凝視していたという。

ウェセルマンは現地語で「いまのはなにか?」とシャーマンに聞いた。すると、「霊だ」という答えがかえってきた。

ウェセルマンはこの体験をしてから、たびたび同じような生き物と遭遇するようになったという。それはまさに、自分が人類学者として研究している伝統的な部族社会の神話に出てくるような生き物を、じかに体験するようなことだったという。

スピリチュアルウォーカー

しかし、ウェセルマンの体験はこれに止まらなかった。これはほんの始まりにしかすぎなかったのだ。

1994年の夏のある日、深夜ハワイの自宅の寝室で妻と休もうとしていたとき、心臓の鼓動が頭の中で鳴り響いたかと思うと、いきなり鼓動が止まったのだ。するとウェセルマンは、自分の体を抜け出て別の人間の体に入ったのに気づいた。それとともに、ハワイの自宅とはまったく異なる環境にいるのが分かった。それは、自意識が二つあるような状態だという。向こう側の世界にいる別の人物の意識があるが、それをウェセルマンの意識が客観的に観察しているというような状態だ。

ウェセルマンが成り代わった相手は20代後半の屈強なハワイ原住民の青年だった。彼の名前はナイノアといった。ナイノアは、自分が所属する部族から、この部族にはまだ未知の土地の探索を命じられ、長期間の旅に出た。そこは、熱帯雨林の原生林に覆われた土地だった。

これ以来、ウェセルマンは幾度となくナイノアになり、彼の世界を体験した。体験は、たいてい寝る前になんの予告もなくいきなりやってきたという。そして、ナイノアとして熱帯雨林のジャングルを探検するうちに、ナイノアが「偉大な時代」と呼ぶ大昔の過去の時代があったことを知った。それは249世代前、つまり約4900年前であった。ナイノアの探検している熱帯雨林のジャングルにはときおり、巨大なビルの残骸のようなものが見られた。

そこは、4900年後のカリフォルニアであった。現在のカリフォルニアのかなりの部分は水没しており、ところどころに陸地が残っているような状態だった。

ウェセルマンは幾度となくナイノアになり、ナイノアの世界を体験した後、これを本にまとめた。これが「スピリチュアルウォーカー」だ。1995年にベストセラーになっている。読んだ方も多いと思うが、プロの人類学者が自らの実体験を綴った名著である。お勧めの本である。

ウェセルマンのその後

「スピリチュアルウォーカー」の執筆以降、ウェセルマンはプロの人類学者らしく、自分の体験した世界がいったいなんなのかその解明に情熱を注いだ。自分の体験した世界は、特定の周波数の脳波のもとで現れる世界であり、現実というのは、異なった種類の脳波に合わせて複数存在していることが分かった。

ウェスルマンが体験した世界は4から7ヘルツのシータ波のもとで現れる世界だという。ウェスルマンの脳に興味をもった大脳学者が彼の脳波を計測したところ、シータ波の数値が異常に高いことが分かった。

さらにウェスルマンは、シータ波から現れる世界は、多くの伝統的な部族社会でシャーマンが体験している世界であり、そしてそれは、どの部族社会でも行われているドラムの特定のリズムを再現することで、現代のわれわれも比較的に難無く体験できることを発見した。

ウェスルマンのワークショップ

いまウェスルマンは、古代から延々と受け継がれてきたドラムのリズムに合わせ、自分が体験した世界を多くの人々にも体験してもらうワークショップを多数開催している。そうしたワークショップでは、普通の現実とは異なった次元に存在する新たな世界と、そうした世界に存在する生き物たち(霊たち)と直接出会うのだという。

いつものワークショップは、大学や学校などの普通の環境で行われる。だがときおり、遠方の霊と出会うためにエジプトなどにツアーを敢行し、ピラミッドや古代の神殿の中で行うのだという。

ウェスルマンは自分の体験をブログで詳しく報告している。その報告には驚愕するものがある。

エジプトの体験

2009年12月8日、ウェスルマンは王家の谷の近くにあるラムセス3世の葬祭殿、メディネト・ハブに立ち寄った。そのときウェスルマンは、暗がりから自分を見ている目を発見したという。その日は大人数のツアーをガイドしていたので、翌日の9日、ウェスルマンだけで再度訪れた。

ウェスルマンを見つめていたのは、明らかにこの現実には属さない生き物であった。彼はコーランに記載されており、イスラム教の創始者のムハンマドも交流したといわれるジンという存在だった。男性はジン、女性はジニーと呼ばれる、アラビアンナイトに出てくる存在である。

ウェスルマンは、ジンとの間の実に興味深い会話を記録し、これをブログに発表している。以下がその簡単な要約である。

ジンとの会話

最初にジンは蜂蜜を欲しがった。そこで私はジンに、彼の名前を教えてくれれば蜂蜜を渡すことを約束した。ジンは自分の名前を知っているものに対してはウソをつくことができないと神話にあるからである。ジンは同意したので、私はボール一杯の蜂蜜をイメージすると、それを目の前のジンに差し出した。するとジンはそれをゆっくるりと飲み干した。

ジン:
私はジンである。人間こそが創造者であり、われわれジンにはそのような能力はない。模倣するだけである。だが、これで私はあなたに仕えることができる。

ウェセルマン:
私に仕えるといっても君は何ができるのか?

ジン:
あなたを敵から守ることげできる。

ウェセルマン:
私は他者を傷つけるようなことはしない。君はヒーリングのようなことはできるのか?

ジン:
人間の魂には運命が刻まれている。同意を破ることなくして、人間の運命に介入することなどわれわれにはできない相談だ。

ウェセルマン:
それは誰との同意なのか?

ジン:
世界を監視している上位の存在との合意だ。

ウェセルマン:
ジンはその上位存在よりも下位の存在なのか?

ジン:
もちろんそうだ。若いジンはときどき常軌を逸した行動をとるが、上位存在たる監視者は彼らにアプローチし、適切に行動するようにたしなめる。

ウェセルマン:
君のいう監視者とは誰のことか?

ジン:
高い知性をもった上位存在でこの世界に責任をもつ存在だ。われわれジンは人間の運命には介入できない。

ウェセルマン:
それはグノーシスでアルコンと呼ばれる支配者のことなのか?

ジン:
あなたはアルコンのことを知っているのか?だがアルコンは霊ではないぞ。上位存在ではない。彼らは人間の思考が作り出した産物だ。それらは人間の思考に寄生してる存在だ。

ウェセルマン:
思考に寄生している?どうやってそんなことをするのか?

ジン:
人間の思考や、人間が信じている信念の体系から直接エネルギーをもらうことによってだ。彼らは、人間が彼らに関心をもっている限り生き続けることができるが、人間が関心をもたなくなるとエネルギーがなくなり消え去ってしまう。彼らは本当の霊ではない。こうしたアルコンをわれわれジンは「欺くもの」と呼ぶ。ジンと同じように彼らは模倣はできるが、創造はできない存在だ。

ウェセルマン:
ならば彼らは地球外生物のような存在なのか?

ジン:
「欺くもの」は人間の信念体系からエネルギーをもらい、さまざまな姿形で現れることができる。そうした存在の中には他の世界からやってきたものもいる。

ウェセルマン:
他の世界?なぜこの世界にやってくるのか?

ジン:
彼らは訪問者としてやってくる他者である。

ウェセルマン:
そうしたエイリアンはなぜ人間を拉致して実験などに使うのか?

ジン:
彼らはそんなことはしない。そのようなことをするのは「欺くもの」である。

ウェセルマン:
「欺くもの」?なぜ彼らはそんなことをするのか?

ジン:
人間は「欺くもの」よりも偉大である。あなたは彼らのことをアルコン(支配者)と呼ぶが、彼らは人間のように創造することができないのだ。彼らができることは模倣することだけであり、そのエネルギーも人間から引き出しているのだ。人間だけが力があり、「欺くもの」はその力が欲しいのだ。

ウェセルマン:
君のいう監視する上位存在はなぜそのようなアルコンが人間に介入するのを止めさせないのか?

ジン:
「欺くもの」は霊ではない。それは、人間の思考に住んでいる存在だ。だから上位存在は影響を及ぼすことはできないのいだ。

ウェセルマン:
ところで、君達ジンはもともとどこから来たのか?

ジン:
すべてのジンはグノーシスではソフィアと呼ばれている精神の現れである。ジンだけではなく、この世の存在すべてがソフィアの現れである。

ウェセルマン:
ソフィアとはなにものなのか?

ジン:
ソフィアはこの世界を作り出している精神である。

ウェセルマン:
ソフィアは物質的な存在なのか?

ジン:
そうだ。この世界そのものがソフィアの物質的な現れである。

ウェセルマン:
ではソフィアは女神なのか?

ジン:
分からない。ソフィアは意識のある光として出現した。ソフィアが夢に見るすべてのことが現実となる。

ウェセルマン:
ところで、ジンは魂をもっているのか?

ジン:
あらゆる存在は魂をもっている。

ウェセルマン:
では位の高いジンと低いジンはいるのか?

ジン:
いる。

ウェセルマン:
君は位の高いジンなのか?

ジン:
いや違う。

ウェセルマン:
では位が低いジンなのか?

ジン:
いやそうではない。

ウェセルマン:
位の低いジンとはなんなのか?

ジン:
位の低いジンとは、自己意識が芽生えつつある魂のあるエネルギー体のことだ。

ウェセルマン:
彼らはどこで生まれたのか?

ジン:
ソフィアからだ。ソフィアは夢を見る。その夢の産物がジンだ。

ウェセルマン:
ということは、位の低いジンというのはオーブのことか?

ジン:
オーブというのは、魂をもった成長過程の光のことだ。彼らは人間の感情と思考に興味を持ち、人間に引き寄せられる。

ウェセルマン:
彼らはジンなのか?

ジン:
これからジンになろうとしている存在だ。

ウェセルマン:
話は変わるが、クロップサークルは君達ジンが作ったものなのか?

ジン:
いやそうではない。おそらくクリップサークルは人間とは異なる高度な知性が、人間に警告するために作ったものだろう。

ウェセルマン:
ところで、神が人間を作ったのだろうか?

ジン:
いやそれは違う。人間はソフィアの現れである。

ウェセルマン:
ということは人間はソフィアの創造物ということか?

ジン:
いやそれも違う。ソフィアは創造はしない。ソフィアは夢を見て、その内容を発散するだけだ。意図的に創造するのは人間だけだ。

ウェセルマン:
ならば、人間の魂もソフィアの夢の発散で誕生したのか?

ジン:
いや違う。人間の魂を創造したのは創造主だ。感情は人間の身体と一体化し、それは人間に属している。魂はそれとは異なる。魂は魂である。それは霊であり、人間ではない。

ウェセルマン:
ではキリスト教やユダヤ教などの一神教のとなえる父なる神は君のいう創造主のことなのか?

ジン:
いや違う。

ウェセルマン:
では一神教がヤハウェ、エホバ、アラーなどと呼ぶ神はなにものなのか?

ジン:
こうした神こそ先に述べた「欺くもの」である。それらはグノーシスの言葉でいうなら、支配者アルコンのことだ。

ウェセルマン:
支配者アルコンとはなにものなのか?

ジン:
それは人間の思考に寄生している存在で、作られたときから人間の敵として機能している。

ウェセルマン:
ということは、そうした一神教の神というのは、人間が信じているように創造主ではないということなのか?

ジン:
これらは「欺くもの」であり、なにも創造することはできない。これらはアルコンなので、模倣しかできないのだ。

ウェセルマン:
ではこうした一神教の神はなぜこれほどまでに強力で、人間が崇拝する存在なのか?

ジン:
これらは「欺くもの」であり、それらこそが創造主だと強く信じる人間のエネルギーで生かされているだけである。それらが創造主であるはずがない。

ウェセルマン:
それらは創造主ではないのだな?

ジン:
その通りだ。それらは支配者アクロン(欺くもの)だ。

ウェセルマン:
ではそれらは悪魔なのか?

ジン:
そうではない。

ウェセルマン:
それらは善悪を対立させ、否定的な状況を作り出すのか?

ジン:
そうだ。それらは人間に道を誤らせる存在だ。

ウェセルマン:
なぜそんなことをするのか?

ジン:
それがそれらの性質だからだ。それらは「欺くもの」なのだ。

ウェセルマン:
では、悪のもともとの源泉はなにか?

ジン:
悪の源泉は人間そのものだ。一神教の神として現れる「欺くもの」は人間に過ちを犯すように働きかけ、人間が自分で過ちを正すことができない地点にまで人間を追い込んで行く。ここにきて人間は悪を行うのである。人間こそが創造者なのだが、人間は「欺くもの」に影響されている。

ウェセルマン:
ということは、悪というものは人間が創造しない限り存在しなかったというわけだな?

ジン:
そうだ。

ウェセルマン:
では一神教の神として現れている支配者アクロンは悪なのか?

ジン:
いやそうではない。それは人間の敵として機能している「欺くもの」だ。

ウェセルマン:
宗教戦争があまりに多いのはこれが理由なのか?また、中世にはあまたの女性が魔女狩りの犠牲者になったが、それが理由なのか?

ジン:
そうだ。ユダヤ、キリスト、イスラム教の神は支配者アクロンであり「欺くもの」なのだ。これらの影響で人間はとてつもない悪を行うようになったのだ。だが、それらはまだ人間に悪い影響を及ぼしている。

ウェセルマン:
それらはまだそんなことをする力を持っているのか?

ジン:
「欺くもの」である支配者アクロンは力など持ってはいない。それらは創造者ではないのだ。人間こそが創造者であり、なにを創造するのかは人間次第なのだ。人間が、自分自身に悪影響を及ぼすものをものを作ったのだ。

ウェセルマン:
ということは、選択は全部人間にかかっているということか?

ジン:
まったくその通りだ。人間は悪も創造できるし、善も創造できる。

ウェセルマン:
では、悪にはどうやって対処すればよいのか?

ジン:
私には分からない。それは人間の責任である。もし悪を創造できるなら、それを消すことだってできるはずだ。

ウェセルマン:
どうやって消すのか?

ジン:
悪の反対を創造することでだ。人間の思考を変えればそれはわけがないことだ。一神教の神は「欺くもの」なので人間の思考と感情からすべてのエネルギーを得ている。人間こそが創造者なので、すべての選択は人間にある。だが、「欺くもの」を信じてしまうと、これらの言うなりになり、悪い影響を得てしまう。一神教の神は、人間の貪欲、競争心、自己欺瞞などを喜び、戦争と暴力を引き起こす。

ウェセルマン:
もう一度聞くが、われわれ人間が神を作ったということなのか?

ジン:
その通りだ。

ウェセルマン:
では創造主とだれのことなのか?

ジン:
誰も知らない。大いなる神秘だ。

ウェセルマン:
では、創造主はどこにいるのか?

ジン:
あらゆるところに存在している。

ウェセルマン:
創造主があらるゆところにいるということなのか?

ジン:
いや、創造主は意図して創造はしない。発散するだけだ。意図的に創造するのは人間だけだ。

ウェセルマン:
では、そうした創造主をわれわれ人間がコミュニケーションをとることは可能なのか?われわれ人間の祈りを聞いてくれるような存在なのか?

ジン:
いやそれは不可能だ、創造主は存在し、自らを発散しているだけだ。

ウェセルマン:
では君の言うこの創造主が本来の神のことなのか?

ジン:
いいや、違う。それは創造主だ。神ではない。

ウェセルマン:
ではわれわれ人間の祈りの声を聞き届け、それを実現してくれる神はいるのだろうか?

ジン:
もちろんいる。そのような神こそ人間自身の魂だ。人間の中で死なない部分こそが魂だ。人間の魂は本物の霊で、霊の世界に住んでいる。それはいつもまどろんでおり、夢を見ている。

ウェセルマン:
何の夢を見ているのか?

ジン:
自分自身の夢だ。

ウェセルマン:
ということは、われわれが大いなる神に祈っているときは自分自身に祈っているということなのか?

ジン:
その通りだ。人間は自分自身の魂、つまりハイアーセルフといわれる神としての自己自身に祈っているのだ。魂をもつ霊的な存在である人間は、神的な存在になる過程にいるのだ。そして君達が夢をみるとき、その夢はハイアーセルフの夢なのだ。

ウェセルマン:
ジンは人間のような神的な存在なのか?

ジン:
われわれも神的な存在であり、霊である。そして自由意思をもっている。

ここでこのユニークな会話は終わった。

以上である。一神教の神が人間の創造物であり、一度創造されると逆に人間の思考や感情に悪影響を及ぼすというのは、実に面白い描写である。

ただ、ウェセルマンのこうした体験がどこまで現実のものでどこまでがウェセルマン自身が想像したものなのかははっきりとは確定できない。

しかしウェセルマンがいうには、われわれが普通に日常の世界を体験するように、あまりにリアルな体験として経験されるのだそうだ。そしてそうした体験の引き金になるのは、ドラムによる特定のリズムで脳に与える振動なのだという。

スピリットワールドに覚醒して

この3月に入ってから、ウェセルマンは新著「スピリットワールドに覚醒して」を出した。ウェセルマンが経験したシャーマニスティックな世界の集大成であるという。

そしてこの本にはCDがついてくる。それは、脳を刺激しシータ波の発生を促進させるドラムの音だという。ウェセルマンがいうには、横たわってリラックスして、ヘッドフォンで10分も聞くとたいていは誰でも何か大きな変化が感じるそうである。

本はいまアマゾンでめちゃくちゃ売れている。ベストセラーになること間違いないようだ。

筆者もさっそく注文した。体験はブログで報告する。

引用以上。
ウェセルマンとジンの会話は非常に含蓄が深いです。
なんかいろいろスピリチュアルの世界を覗き見てきて、これが最終章のような気がします。
「この世」を創造しているのは、「人間」だと。

このブログを読んで、「スピリチュアル・ウォーカー」を買って読みました。
「スピリットワールドに覚醒して」もアマゾンで注文しました。
人の精神の覚醒の先にはとんでもない広がりと深さを持った世界が待ち受けているようです。

 

 


おお寒い

2011年01月18日 | スピリチュアル
寒い日が続いています。
先日城下町の長府に行きましたら、地面の水たまりは凍っていて、功山寺の湧き水からはつららが垂れていました。
このあたりでつららを見るのは初めてかもしれません。

仏教では、五感が感得し、意識が「在る」と識得するこの世界を実在のものとはしません。
すべての因縁が複雑に織りなす幻想の集積であるということでしょう。
「つららが垂れ下がって、おお寒い」という通常の感覚は、その感覚に閉じ込められればそれはその通りです。
そういう物理的法則からも、因果因縁からも、自由自在に抜け出す境地があるというのが、仏教の立場です。
自由自在に抜け出してどうするのかといえば、「つららが垂れ下がって、おお寒い」なんですが(笑)

前者と後者に違いがあるとすれば、前者は寒さに条件づけられてしまいますが、後者は寒さを楽しみます。
寒さをどうしようもなく避けられない不快な現象としてではなく、あえてその寒いという状況を味わう境地です。

なんだか訳の分からない屁理屈にしか聞こえないかもしれませんね。
要するに、仏教ではこの世を苦に満ちたものとするわけですが、そこをの苦しさ一辺倒から抜け出し、
苦そのものを味わう、さらには楽しんでしまう、という境地でしょうか。

飢え・渇きの苦しみ、失う苦しみ、別れる苦しみ、執着する苦しみ、まぁこの世は苦しみに事欠きません。
苦しければ不満や怒りや苛立ちが蓄積し、それがさらなる苦しみを生み出す連鎖となっていきます。
その連鎖を断ち切ることのできる境涯にたどり着くことを、仏教では「悟る」というのでしょう。

幻想ではないものとはなにか?
そんなものはあるのか?
思うとはなにか?
考えるとはなにか?
自由とはなにか?
人とはなにか?

そういうキリのない問いに、スパリと答えを出せる境涯というのはあるのでしょうか。

「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」 道元禅師








奉仕

2010年12月06日 | スピリチュアル
光を外に求めると、外に光が見当たらなければ不安になります。
でも、一人一人の命が光だとしたら、外が闇であろうと、内には喜びしかありません。

なにを言っているんだと思うでしょうが、どうも最終的にはその結論しかないような気がしています。
人の脳の機能を10数パーセントしか使っていないとか、DNAの90パーセントは眠ったままだとか、そんな話を聞くにつれ、
ますますその感が強くなります。

今、我々が普通に考え、感じることを元にしていたのでは、当然その意識には到達しません。
喜びどころか、不安や恐れやいらだちや怒りといった感情が隙あらば入り込んできます。
そう感じ、そう感じたことに対応するだけでアップアせざるを得ない仕組みの中に生きているからなのでしょう。

金融資本経済というのは、間違いなく人々をお金の奴隷にするシステムです。
まともに稼いだら、堂々と心豊かに生きられるという仕組みを徹底的に破壊するシステムです。
1から5までありますが、観てみてください。

http://www.youtube.com/watch?v=iqlxMp3dR7Q&feature=player_embedded

人の意識というのはとてつもないパワーを秘めているのではないかと、前々から感じていました。
チャネリングやなんやらで盛んに繰り返し発せられているメッセージです。
要は使われていない脳機能の80パーセントをどう活用するのか、残りの90パーセントのDNAが活性化したらどうなるのか、
そういう話になるのだと思います。

ヒントになるのは、そういう宇宙存在のコンタクティーの話によれば、彼らの社会にはお金というのは存在しないということです。
じゃあ、働くというのは何かというと、自分の可能性に対する自発的な挑戦でしかない、ということです。
そういう社会ですから、自分という存在を傷つけたり、搾取する存在というのはいませんから、あくまでも全体の奉仕のために、
自分の想像力や意志の力を費やすのだそうです。
そういう社会においては、全体への奉仕は義務ではなく、喜びなのです。

なにか人々の意識がその段階に到達したときに、脳機能もDNAも眠りからら目覚め、フル回転を始めるような気がしてなりません。
ただ、フル回転を始めた人間の意識のパワーというものがとてつもない影響力を秘めているがために、
宇宙存在が息を凝らして人類の行く末を見守っているという感じがします。

人は本来スーパーマンなのかもしれません。
それを悪用されれば宇宙全体が破壊されかねません。

さてさて、全体への奉仕が喜びとなるような段階に、人々は到達するのでしょうか。
ぼくの個人的な感触としては、手が届き始めているような気がします。
あとは実践の段階にうんこらしょと重たい腰を持ち上げるだけのような気がします。






フィルター

2010年12月05日 | スピリチュアル
もう10日以上咳が止まりません。
ひっきりなしに咳が出るというわけではないのですが、時折発作を起こしたようにゴホゴホと出ます。

目の前の壁に、知人が作った日めくりが貼ってあります。
「手放すことが 時には人を強くする」と書いてあります。
日めくりなのですが、めくってなかったのでずっとこの文字が壁にありました。
「手放すことが 時には人を強くする」
その通りでしょう。

手放すことの反対は、溜め込む、執着する、こだわる、などでしょうか。
手放してしまえば、それに伴うかもしれない執着心や愛憎のあれやこれやも手放してしまいます。
ある意味で、無敵の処世術です。
何でもかんでも手放してしまえば、無責任のそしりを免れませんから、その兼ね合いが難しいところではありますが。

で、手放すというのは、その人であったり物であったり状況であったりする対象を手放すのではありません。
あくまでも、その対象に執着しようとする自分の心を手放すのです。
自分の心を手放さずに、対象を手放すとということは、心が引き裂かれるような思いがするだけです。

自分の心を手放すことに慣れていない人にとっては、自分の心を手放すという意味がうまく飲み込めません。
自分が自分でなくなるような不安感もあるでしょうが、自分の心に背くという感じがどうしてもするのだと思います。
自分の心の動きというものを、疑いもないものとして受け入れているのでしょう。
その心の動きをもって、自分は自分でありえるのだし、これからもこの心の動きとともに生きるしかない。
そんなかんじなのでしょう。

でも、そうでもないんです。
心(心といっても複雑な層をなしていますから一概には言えませんが、表層に浮かぶ意識の流れです)というのは、なかなかの策士です。
五感を通して感得した世界を解釈し、判断し、選択するのが、人の心です。
なぜかくも人それぞれに人の世界観というものは違ってくるものなのでしょうか。
それは、それぞれの人が持つ心というフィルターが違っているからです。
心というのは、世界を見る各々のフィルターです。
ところが、人は己のフィルターを通した世界しか見えませんから、
そうでないフィルターを通してみている人の意見に違和感を感じるわけです。
そして、各自自分のフィルターを通してみている世界こそ正しいと主張するわけです。

ですから、ここでいう手放すというのは、そのフィルター、あれこれ選別する自分の心を手放すということです。
心というフィルターを手放すとなにが見えてくるのか。
花が咲いて、蝉が鳴いて、落ち葉が舞って、雪がしんしんと降るだけです。
人は、生まれてオギャーと泣いて、喜怒哀楽に転々とし、ことりと死ぬだけです。
そして見上げるといつだって空が広がり、風が吹いているだけです。

いったんフィルターを外した世界垣間見て、再度己のフィルターを通した世界を眺め直してみるのも一興です。
その変にねじ曲がった世界もこれまた風流という感じになるんだろうと思います。



流れ

2010年12月02日 | スピリチュアル
暗い空から雨が降り、風邪も治らぬままのさえない一日です。
雨が降っては畑に行っても何もできないので、風邪でも治そうと終日寝てましたが、熱も出ず、治りそうもありません。
風邪はがーっと熱を出して治すものだと僕は思っています。

師走に入ったわけですが、もう言葉を絶する時間の流れの速さを感じるばかりです。
ますます加速するのだろうと思います。
気を抜いていたら、そのまま流れに押し流されていきます。
「今ここ」にいるという訓練を本気で成熟させておかないと、えらいところまで押し流されてしまいそうです。

国会は与党の乱行ぶりが酷いですね。
いちいち取り上げてコメントする気力も失います。
己の損得勘定や、どっちがいい悪いという旧態依然の思考の枠組みで動いていますと、ああいう状況になるのでしょう。
ああいう状況に、誰も何も施す術もなく流されていくのが、「今ここ」から引き裂かれていく流れに乗るということです。
ああいう状況に対して腹を立てたり、批判したりしても、おそらく流れは変わりません。
流れを変えようとするのではなく、その流れから身を離すということが賢明です。

流れから身を離して、冷静に自分の周囲を見回してみる。
自分が何をしようとしていて、どこに流れ着いてしまっていたのかを、しっかり確認してみる。
方向が間違っていたのなら、しっかり行くべき方向を見据えて、新たな一歩を踏み出す。
一歩を踏み出すごとに、あれほど抗いがたい力を持っていたかのように見えた流れの音が背後に消えていく。
無味乾燥に思えた周囲の景色が見え始める。
昔懐かしい大地の匂いが風に乗って流れている。
もはや恐れや不安や焦燥はない。
目指す頂上が彼方に朝日に照らされて金色に輝いている。

そんな感じで、一人一人が流れから身を離し、自分自身の意志で、自分自身の足で、一歩を踏み出すことが大切な気がします。





2010年11月30日 | スピリチュアル
滝行にしろ、坐禅にしろ、しなければいけないということでは無論ありません。
ただ、それに参じた人しか見れない景色がある、ということだけなのかもしれません。
ぼくの場合は、そういう意味での好奇心は旺盛なほうなので、見れるものなら何でも見てみたいという感じです。

自分の目の前に転ずる景色が自分の心に適しているのなら、はなから問題はありません。
自分の目の前で転ずる景色に我慢ができない時に、脱皮を求めます。
何から脱皮し、何になるのかもわからずに、我慢ができないという一点の衝動のために、人生の進路を変えるわけです。

そうして何らかの修行を始めるわけですが、修行自体はどこにも繋がらない「方法」に過ぎません。
「方法」は「方法」で深遠なるものを秘めているわけですが、その方法を通じてどこへ行くのかが人の関心事です。

この世に生まれて、この世の現実の中で、見たい景色を見れるのか。
そもそも、何をこの世に「見たい」のか。

自分で見たいものは、自分で探し出すしかありません。
人が映し出す偽りの幻想を、自分の幻想に無自覚に重ねて酔っ払ってしまう愚は避けなければなりません。
キリスト教信者なら、キリスト様がキリスト様なら、俺もキリスト様になるという気概を持たなければならないと思います。
仏教徒なら、「衆生本来仏なり」という宗旨を決定すべく粉骨砕身するほかは道はないでしょう。

道はいつだって目の前にあります。
その道に一歩を進める勇気と覚悟の欠如が現代を覆っているような気がしてなりません。


局面

2010年11月22日 | スピリチュアル
このところ禅関係の行事が多かったですが、やっと一息つけそうです。
昨日は豊前の道場の帰りに畑に立ち寄って、丸々と太った可愛いキャベツを収穫してきました。
一株しか植えなかったので、唯一無二の貴重なキャベツです。
虫に食われても食われても、育ちあがった貴重なキャベツです。
せっかくのキャベツ、どのように食したらいいのか思案中です。

糠床も作りました。
毎日混ぜてますが、日々触る感触が変わります。
生き物が生き物を成熟させるのが漬物です。
なんか今の形での文明なんかいらないんじゃないだろうかと思う今日この頃です。

畑に行くと、行く度に風景が変わっています。
つい先日まで彼岸花が咲いていると思っていたら、名も知らない草花が週代わりに咲いては散って代替わりをします。
作業を一段落し、腰を下ろして一服して空を見上げると、その日ごとに空に浮かぶ雲の形が違います。
行った季節・時刻によって、大地を照らす太陽光線の色合いも違います。

なんというか、これ以上何がいるんだというような感覚になるわけですが、
そういう感覚に溺れますと、本業が見る見るうちに衰退して行きます。
なかなか難しいバランスです。

瞬間を手に入れられれば、永遠を手に入れられます。
無条件にすべてを手放せれば、すべては目前にあります。
そのことはもはや疑いようもありません。
でも、それを身体に染み込ませるのには時間も必要なのでしょう。
焦りはしませんが、モタモタしている自分の姿がもどかしいです。

なんらかの継続的な精神的な訓練が必要な気がしています。
時間と空間を滅する訓練と言いますか。
即今即自。
とてつもない空想で終わるのか、それとも、躊躇なく宇宙と自分を一体化させるのか。

なかなか難しい局面です。
でも、難しいからこそ、面白いです。



味わう

2010年11月14日 | スピリチュアル
瞬間瞬間をフルに味わうためには、心が完全に解放されていることが必要です。
心が完全に解放されている状態というのが、とりもなおさずいかなる思考にも占有されていない状態、
つまり考えていない状態なのだと思います。

五感がキャッチした外界の繊細な波動を感じ取り、そこで動く自身の意識のありようの変化のさまをも、思う存分味わう。
ふと目を上げてみたときに青い空が広がっていたら、その青に吸い込まれ、その青に融けていく自分を味わう。
風に乗って流れてくる枯葉の匂いを感じたら、そのふくよかで哀愁を帯びた、音楽と旋律と同様な匂いの重厚なハーモニーを味わう。
道行く人のコートの襟をたて、背中を丸めて急いで歩く姿に、仕事や家庭の中で苦闘しながらも
諦めずに立ち上がり続ける秘めた意志の炎を感じ取る。
こうして、すべてが味わう対象となった時、あれやこれや不平不満を鳴らし続ける思考の波は静まっていきます。

なにも好ましい感情だけを味わうわけではありません。
道路でこけて膝をすりむいた。
こすれた皮膚から、血がじんわりにじんできます。
ぴりぴりとした痛みが患部の周囲を包み込みます。
患部を消毒をして、包帯で巻きますと、安したかのように痛みが引いていきます。
痛みというのは、体の一部が精一杯そのメンテナンスの必要を叫ぶ姿であって、それ以上でもそれ以下でもないことを知ります。

あるいは、仕事で誰かがクレームを言ってきます。
その顔は怒りで歪んで、言葉は黒いエネルギーをたっぷり含んでいます。
そのエネルギーをまともに受け取らず、その怒りの大本にある「本当に言いたいこと」に焦点を合わせます。
何が彼の意にかなわなかったのかに焦点を合わせます。
仕事というのは、誰かと誰かの意が叶い合って成立するものですから、誰かの意にかなえなかったというのは、
基本的にはこちらの落ち度です。ああ、申し訳なかったなと素直に思えます。
素直に謝り、彼の意にかなうための、次策の提案を誠心誠意申し出ることができるでしょう。

例をあげていけばキリがありませんが、思考で目的や過程を分析し行動すれば、その目的や過程がその思考を凌駕した事態になれば、
思考は慌てふためき、事態から逃げ出したくなったり、他人のせいにしようとしたりします。

このように、きちんきちんと目前のことを味わって行動していけば、あれこれ不幸になっている暇はなくなります。
この状態が不幸かどうかを判断するよりも、目の前のことに全身全霊で対応していくようになります。

あれこれ考える前に、味わうということが何よりも効力が大きいのが対人関係でしょう。
思考は向き合った人をその肩書き、地位、力関係、容貌、などなどでその利用価値やら付き合う程度の深浅をあれこれ斟酌します。
思考は決してその人自身を把捉することができません。
それに対して、目の前の人をありのままに受け止めて、その人柄や醸し出す雰囲気を味わっていく。
もちろんその場合でも、味わうのが苦痛な場合もありましょう。
人間の相性と言うのはあります。
その場合でも、この人はどうだああだと判断は下さなくてもいいです。
その場をさっと去ればいいことです。
損得で人と付き合うよりもよほど健康的です。

味わうだけでいいのか。
それだけでいいのがこの厄介な3次元で生きるということのような気がします。

2010年10月22日 | スピリチュアル

昨日は自分の畑と道場の畑であれやこれやをし、今朝は朝早くから城跡の庭園での坐禅写経会。
このところずっと禅関係の行事が続いており、これからも道場の新参者の集まり。
明日も泊り込みで道場での打ち合わせの予定。
今のところ年中不定休で店を開けていますので、ちょっときつい感じになってきました。

ま、きついこと自体は嫌ではないんです。
きつくてふらふらになって、でも、それを通り越すといい感じに冴え渡ってくるということもあるものです。
でも、このきつさがスケジュールどおりに続いていくとなれば、ちょっと嫌かもしれません。
大体においてスケジュールどおりに動くというのが苦手です。
行き当たりばったりで歩むことに比すれば、大方70%くらい面白みが減少します。

予期せぬ人や事象に出会えるからこそ人生は面白いとぼくは思っています。
誰か特定の偉い人や有名な人に会いたいとか、重大な事件に遭遇したいとか思ったことは一度もありません。
山奥を走るバスの中でであった幼稚園児とか、イギリスの何の変哲もないパブの中での人間模様とか、
そんなのが面白いです。
そういうぼくが面白いと思う人の有様や事象にはスケジュール化された流れの中ではなかなか出会えません。

ようするに、わがままなんですね。
ある程度の「枠」という存在価値は十二分に認めますが、その「枠」を逸脱する自由はいつだって確保していないと気がすみません。
自由だからこそ、あくまでも自由自在の意志が「枠」を尊ぶというやり方です。

他人に通用する話ではありません。
だから、こういうことは誰にも話して納得してもらおうというような話でもありません。
ただひたすら、「枠」を尊重はするけれども、「枠」に閉じ込められるようなことはできない体質なのです。
そういうときは、何も言わずに「枠」からするりと抜け出します。

禅の「枠」というのは広大深遠で抜け出すもくそもないのですが、ちょっと自分の居る「枠」の中身を検討してみたいです。

 


迷い

2010年10月10日 | スピリチュアル
さて、昨日から一週間の禅の接心が始まりました。
泊り込みです。
道場でみんな並んで寝ますから、耳栓は必需品ですが、昨日持っていくのを忘れました。
何人かが爆音並みのいびきをかきます。
寝不足でふらふらします。

ちょうどいい機会ですから、酒を一週間抜いてみます。
タバコも値上げ前に買いだめした3カートンがなくなったら、禁煙しようかとも思っています。

禅とは究極的なことを言えば、ありもしない過去や未来という幻想を追い掛け回すことを止め、
今のこの瞬間に溶け合うことです。
そこには過不足やら、損得やら、善悪やら、優劣やらといった相対的な思弁の世界が入り込む余地はありません。
寒ければ寒い、暑ければ暑い、その当たり前の尊い世界が眼前するだけです。

過不足やら、損得やら、善悪やら、優劣やらといった相対的な価値観に渦巻く現世の真っ只中に生きながら、
花が咲いて散るように、当たり前に生きるという絶対的な視座をも持ち続けることができるようになることです。
当たり前に生きることに迷いがなければ、迷おうにも迷うことができません。
それだけのことなんですが、それだけのことを大切にできない自分勝手な自我に振り回されてしまうのが、
この世に生きる人の習いであるわけです。
自我に振り回されることを迷いというのでしょう。

迷いが深ければ深いほど、悟りの度合いも深いとも言われます。
迷っている人に迷うなと言ったところで迷いがなくなるはずもありません。
迷っていると思っているその自分の当体を、自分で見極めるところしか始まりません。
迷っている人は、自分が勝手に原因もないのに迷っているだけだとは決して思わないものです。
誰かのせいや、何かのせいで迷っていると思いたがるものです。
そこから抜け出す道が、禅です。

まぁ、ともかくもあと一週間、薄暗い道場で坐ってきます。