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芥川は芥川でいるかぎり死に至る。
太宰は太宰でいるかぎり死に至る。
三島は三島でいるかぎり死に至る。
そしてヘミングウェイもヘミングウェイであるかぎり死に至る。
漱石は漱石でいるかぎり胃を壊す。
鴎外は鴎外であるかぎり孤に陥る。
村上は村上であるかぎり脱に拘る。
そしてドストエフスキーはドストエフスキーであるかぎり現実と空想の間を逡巡する。
そしてタカハシトオルはタカハシトオルであるかぎり全てを逸脱する。
かぎりのない虚無に向かって。
タカハシトオルとは虚無の海に浮かんだ虚無の船。
どんなに実のある荷を積んだとしても、虚無の海の底に沈める虚無の船。
虚無は虚無、なにもかもが無意味な地獄のマグマ。
無とは無だからこそ全ての可能性が開ける、全てがそこから産まれいずる豊穣の海。
それでも、豊穣の海は地獄のマグマの熱量を吸収する。
そうして、ありとあらゆる熱帯魚が南の海で乱舞する。
無の豊穣は豊穣であるがゆえに、秩序とともに混沌も同時に産み出す。
秩序と混沌のせめぎあいこそ豊穣なのだ。
是非が螺旋状に渦巻くのが地表での出来事だ。
タカハシトオルは声を失う。
おれは何に参加したいいのだとタカハシトオルは言う。
したいようにどうぞと風は答える。
タカハシトオルはうなだれる。
騙されるものかと思う。
でも、誰も騙してはいない。
優しかろうが、ズルかろうが、われ関せずであろうが、人はそれぞれの縁起にしたがってあるようにある。
それだけのことだ。
ただ、タカハシトオルには、それだけの縁起の自覚がない。
「いま、ここ、じぶん」の自覚が薄い。
厄介だ。
答えをわかりつつも、そう生きられないどこまでも小賢しい阿呆。
そうして本来尊い時間というシステムを空費していく。
面倒くさいです。もうすべてと直結したいです。
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