風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

名も無き人々

2007年10月30日 | 雑感
思えば、ぼくのブログでは「~だと思う」「~らしい」「~だといいですね」などの言葉で埋められています。
それに対して、禅師方の言葉は断定です。
核心を見た人間の言葉は断定に決まっています。
核心を得ることもなく、今日も風に吹かれています(笑)

笑いごとではないのが、防衛省の元事務次官です。
国策を歪め、税金をあぶく銭位にしか思っていない人間が、省の中枢を握ることのできるのが今の日本の現実です。
こんなことは防衛省に限ったことではないのですが、内部告発もなければ、外部からのチェックもありません。
許す、許さないというような話ではありません。
江戸の昔なら、有無を言わさず切腹、お家断絶ものの話が、今の政治の中枢では日常茶飯事の裏の常識になりました。
官僚たちをエリートと持ち上げる必要もありませんし、政治は難しいと思う必要もありません。
おかしいことはおかしいと思う自由闊達さこそこの国を救えます。
腹を立てる必要さえありません。
面と向っておかしい行動を取る者に対して、「おかしいよ」と言えればそれで国は変わります。

メディアが率先しておかしい言説を垂れ流すものですから、人々は自分の考えというものに自信を失いつつあります。
日本国民という民族に自信を与えてはいけないという勢力があるのはご存知の方はご存知でしょう。
日本民族として誇りを持つ必要はありません。
生きている人間として誇りを奪われないようにすればいいのです。
日本という文化は生きている一人一人の人間によって担われ続けてきたものです。
一人一人の人間が勇気と力と自信を持つ、それだけが唯一、余計な勢力やら意図やら思惑に惑わされない道です。

茶道というのは千利休によって確立された。
能というのは世阿弥によって完成された。
それはそれで事実でしょう。
でも、その千利休を、世阿弥を支持し、理解し、世の中に広めた名も無き圧倒的多数の人々がいたからです。

誇りと勇気と喜びを持った名も無き一人になりましょう。
日本という国は、そういう名も無き人々に支えられてきたのだと、ぼくは確信しています。

今日はできるだけ「~と思う」という口調を止めてみました(笑)


2007年10月29日 | 雑感
近頃、禅の本を読み直しています。
以前は歯が立ちませんでしたが、いろいろ一巡りしたせいか、これは凄いやと思って読むことが出来ます。

「お寺に参ろうが,念仏申そうが,坐禅しようが,何にもなりはせん。
 われわれが一生することはみなこれ無功徳である。
 人間,なんぞになると思うてするくらい卑しいことはない。」
                           by 澤木興道老師

一切のハカライを捨てたところに、宇宙と一体となった「空」を体得する。
しかも、空を体得する「ため」に坐禅するのではない。
仏の相(形)である結跏趺坐にピタリとタダひたすらに成りきる。
本来成りきりであるものを、迷いの凡夫はああでもない、こうでもないと右往左往して「今」を失う。
「今」を失えば、生きることを失う。
残るものは、言葉のカスと欲のカスだ。

そんな感じの言葉がスパスパと出てきます。
以前は頭ではなんとなく理解できるような気がしていたのですが、自分の実感にピタリと重なりませんでした。

百姓は百姓になりきればいい、商人は商人になりきればいい。
なりきることが「今」をつかむということ。
「今」さえ掴んでおれば、生死は裏表、一如であることを知る。

もう読んでいて痛快です。
ぼくが今頭の中で意訳した言葉はどうも的を外している感じがしてなりません。
それはそうです、坐禅もろくに組んだことがない人間が語れるような言葉ではないです。
禅師の本を直接読むと、言葉の一つ一つがずっと直裁で、ユーモラスで、深いです。
禅の世界では「飾る」という発想がありませんから、何一つ無駄な言葉がありません。

神道のカンナガラの世界とも重なる部分も大いにあるような気がしてます。
もちろん、滝の世界とも大きく重なる部分があると思っています。

なんだか面白くなってきました。

2007年10月24日 | スピリチュアル
仏教では「一切衆生悉有仏性」と言って、すべての人に本来仏性が備わっていると言います。
もともと仏であるのが、様々な煩悩で心鏡が曇ってしまっていているから、仏性が隠れてしまう。
自ら曇ってしまうから、曇った目で見、曇った耳で聞き、曇った意識で物事を判断し、迷いの道に入り込む。
簡単に言うとそういうことだと思います。

本来、太平安楽な生命の実相から離れて、不安、恐れ、怒り、妬み、退屈、怠惰などの感情に囚われて、
迷いの心のままに世の中のイメージを作り上げ、その自分の作ったイメージに自ら捉えられてしまう。
世の中を地獄と観ずれば、目の前に地獄が映ります。
世の中を極楽と観ずれば、目の前は極楽です。
ところが、人は目の前の自分で作ったイメージ映像を現実のものと思い込むものだから、そこから抜け出せない。
そこで、仏教では、すべては本来「空」なのだ、と説くわけです。

「空」というのは、「無」とは微妙に違います。
「空」は人の思いや想念しだいで、いかなるイメージも一瞬にして映像を結ぶ「場」です。
「怒り」の想念を抱いて世の中に目を転ずる時、世の中は許すべからざる腐敗と不義に溢れかえって見えます。
「喜び」の想いで世の中を見るとき、街行く人々は楽しげで、空は美しく、風が心地よいです。

長々と何が言いたいのかというと、我々が現実と思っている世界は、自分の思いの投影でしかないということです。
極楽も地獄もあるとかないとかの話ではなく、人があると思えばある、ないと思えばない、ということです。

ですから、地獄があると思えば、本当に地獄は世界としてそこにあるようになるのです。
そして、地獄があると思う世界観からは、恐れや恐怖や不安という感情が生まれます。
人の心に生じた感情はリアルですから、その感情に縛られて生を送るということになります。

聞くところによりますと、冥界、幽界というようなものは元々はなかったらしいです。
しかし、長年、人は地獄を創造し、鬼を想像し、悪魔を想像しているうちに、その想像するエネルギーが凝固して、
リアルな世界像を「空」の場に結んだものらしいです。

これはどういうことかというと、本来すべては「空」と感じることのできるいわゆる悟った人には、
冥界、幽界からの干渉というのは不可能になりますが(すべては人の迷ったイメージの集積にすぎませんから)、
迷ったイメージに囚われている人には、冥界、幽界からの干渉はリアルにありえるということです。
迷ったイメージを現実だと思っていれば、迷ったイメージであるところの幽界、冥界の存在も現実になってしまうということです。

ですから、禅では霊とか悪霊とかを相手にしません。
「魔境」の一言で退けます。
本来すべては「空」と知った者が、霊とか鬼とか迷いの想念の塊を相手にするはずもないのです。

「外から人の身体に入るもので人を汚すことが出来るものはなにもなく、
 人の中から出てくるものが、人を汚すのである。 (中略)
 人から出てくるものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出てくるからである。
 淫らな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、好色、妬み、悪口、傲慢、無分別など、
 これらの悪はみな中から出てきて、人を汚すのである」  (マルコ福音書7-15~20)

このキリストの言葉も同じことを言っています。
人の中から出てくるもの、それが迷いの想念であり、それこそが自分自身も他人をも汚すのだ、と。

「外」というのは本来「空」で絶対の中立です。
そこに人は色々な勝手な思いで、「色」を付け、好きだとか嫌いだとか言うわけです。

ちょっと説明が下手で、分かりづらいかもしれませんね。
要するに、誰々がこうだから悲しいだとか、誰々のせいで腹が立つだとか、すべては迷いの妄言だということです。
すべて、自分が抱く想いのフィルターを通して世の中を見ているからこその幻の感情です。

じゃあ、どうすればいいのか。
一気にすべてが「空」だと観ずる悟りの世界に行くのは難しそうです。
でも、そういう自分勝手な幻想で自分は世の中を見ているのかもしれないな、という自分の感情・感覚から一歩離れて見てみる。
そういう辺りから、自分の世界観を見直してみるという辺りからなら、始められそうです。                         
                         



DNA

2007年10月23日 | 雑感
昨日紹介したネギの吸い物を自分で作って飲んだら風邪は治ったみたいです。
効果抜群です。

基本的にぼくは薬を飲みません。
基本的に薬というのは劇薬だと思っています。
かなり不摂生をしているのですが、今までたいした病気にならないのは薬を飲まないからだ、
というのは書きながらも言い過ぎだとは思いますが。

体温が39度を越えるとガン細胞が死滅するらしいですから、たまに高熱を出すのも摂理の一部かもしれません。
熱が出るとすぐ解熱剤を飲むのも良し悪しです。
幼児が高熱を出すのは危険らしいですが。

ま、風邪気味になってしまったら、是非ネギの吸い物をお試しください。

あ、それから、かなり不摂生していますが、睡眠はよくとります。
寝たいだけ寝るというのが近いんですが。
寝たいだけ寝るために、自営の道を選んだといっても過言ではないかもしれません。
この年になるまで寝たいだけ寝てきたので、睡眠欲は充分に満足している感じがします。
だから早起きするのが以前ほど苦痛ではなくなりました。
必要がなければ早起きはしませんけど。

以前は早起きをすると一日中不機嫌で、頭がぼうっとしたものです。
きっと一種の病気だったのかもしれません。

滝行などをして分かることは、人の身体は適応力が想像以上にあります。
冬の滝などは理論的にも感覚的にも肉体的にも入るのが無理だと思うのですが、
入ってしまえば肉体は底力を発揮して適応します。
普段は眠ったままのDNAが目覚めるのかもしれません。

星野円道さんという方が、比叡山中の明王堂で断食、断水、不眠、不臥を9日間続ける「堂入り」を終えましたが、
これも医学的にはとうてい説明がつかないのだそうです。
堂入り中には身体から死臭がするらしいです。

トマトなども、土壌の肥えていない荒地のほうが美味しいものが出来ると聞いたことがあります。
過酷な状況下でこそ開花するDNAというのがあるような気がします。
食べるのに困らない環境になると人間の能力が伸びるなんているのは完全に幻想だと最近の世の中を見れば分かります。
伸び伸びとした環境におけば伸び伸びとした人格に成るわけでもなさそうです。
生きている限り、困難に打ち勝っていくという基本線に沿って、DNAは配置されているのでしょう。
困難度が高ければ高いほど、DNAは出番を待ってぞくぞくしているのかもしれません。

そういう意味では、ぼくは最低レベルの困難でことを済まそうという傾向があります。
せっかく持って生まれたDNAを目覚めさすことがないままに死んだら、もったいないかもしれません。
自分に課題を課すということが苦手なのですが、再考の余地がありそうです。

 

風邪

2007年10月22日 | 雑感
家内が2週間ほど風邪を引いていまして、娘に移らないかと冷や冷やしていました。
そしたら、ぼくが風邪を引いてしまいました。
鼻の奥が炎症を起こしている感じです。
しかし、よくもまぁ家内と一緒に寝ている娘に移らないものです。
まだ一度も病気をしたことがありません。
熱さえ出したことがありません。
たいしたものです。
昨日も滝に打たれて、風邪なんか引かないぞとタカを括っていましたがアッサリ引いてしまいました。

ということで、うちのばぁちゃん秘伝の風邪引きかけに飲むと抜群に効く「ネギの吸い物」の紹介です。

1.トロロ昆布を一掴み、カツオの削り節を一掴み、お椀に入れます。
2.長ネギを大量に刻んで、お椀に入れます。
3.醤油を少々お椀にふりかけます。
4.熱湯(←重要)をお椀に注いで出来上がりです。

一分でできるスペシャル料理です。
美味しいとか不味いとかは抜きにして、熱々のうちに飲み干すのがポイントです。
風邪気味くらいなら一発で治りますよ。
それから、飲んだらすぐ寝る。
これもポイントです。

しかし、うちの家内はぼくの言うことを聞くということをまずしません。
移るから早く治せと早く直せとあれほど行っていたのに、薬も飲みません。
娘が風邪を引いたら、きっと口を極めてぼくを罵るはずです。
そういう理不尽が多い今日この頃です。

因みに、うちの親父はイカの塩辛を作る名人でした。
ワタも残さず入れます。
柚子を少々入れます。
市販のものとは違って、塩辛くなく甘くて濃厚です。
2週間くらいしか持ちませんが。

そんな親父も痴呆が入ってきていて、塩辛の作り方を教えてもらう機会を逸しました。


沈黙

2007年10月20日 | 
目が覚めるとカーテンが青白く揺れていた。
女は立ち上がって身支度をしていた。
かける言葉もなく毛布にもぐりこんだ。

何度も繰り返す駆け引きと口喧嘩と芝居がかった別れ。
さよならも言わずに出て行く女と閉まるドア。
こういうのは慣れることはない。

罠にかけられたのはおれだったはずが、いつの間にか裏切り者になってしまう。
立場が逆転する瞬間というのがある。
おれが思っていることをそのまま言ってしまった時だ。

目がさえて立ち上がり、カーテンを開けて外を見る。
夜明け前の青い歩道を女は足早に去っていく。
もう会うこともないその後姿は、おれの何か大切なものをも道連れにしているはずだ。

わかっているのだが、おれには女の視点というのが欠けている。
いつだって自分の都合で頭を埋め、スケジュールを埋める。
自分の都合だけで動く男を女は憎む。

女と共同でどうやって頭とスケジュールを埋められるのか、いまだにわからない。
おれはタイ料理店や温泉の隠れ宿や沖縄なんかには行きたくないのだ。
精神世界やアロマテラピーや昨日飲んだワインの話など聞きたくもないのだ。

おれはマックス・ピカートの「沈黙について」という本に心酔している。
豊潤な沈黙、すべてを生み出す源であり、すべてがそこへ回帰する沈黙。
女は決して沈黙の深さ、豊潤さ、ピュアさ、可能性を理解しない。

おれは語れば嘘つきになる。
だから語らない。
だが女はおれに嘘つきになれという。

日が昇り始め、金色の光がベットにさしこむ。
女はいつだっておれに粗いヤスリをゴシゴシかけては去っていく。
磨かれて光るのか、それとも、傷だらけになって、血だるまになるんだろうか。

とにかく、いまは語ることはないし、裏切り者はおれだ、ということでもいい。
ただ、女の残した太い憎しみが心に突き刺さったままだ。
沈黙に回帰するには時間がかかりそうだ。


*当然ながら、これはフィクションですから(笑)




2007年10月19日 | 
星座の名前も、草花の名前も、魚の名前も、人の名前も憶えられない。
憶えているのは辺りに漂っていた空気の匂い。

春めいてきたころの土の匂い。
夏の青い森から来る風の匂い。
秋の湿った枯葉の匂い。
冬の雪の溶ける匂い。

誰かがそこにいて、何かがそこにあった。
でも、心にはその辺りに漂っていた空気の匂いばかりが残っている。

星の匂いさえ憶えている。
金星の暖炉の匂い、北極星のレモングラスの匂い。

アメリカはトウモロコシ畑の匂い。
ドイツは掘り返した黒土の匂い。
イタリアは太陽に温められた赤レンガの匂い。
イギリスは大理石から蒸発する雨の匂い。

だからぼくは写真を撮らない。
誰かや何かが写っているだけだからだ。

時々、今いるここの匂いがたまらなく飽き飽きしてしまう。
どこか遠くの違う匂いをかぎたくなる。

ツンドラの凍えた大地の匂いを。
風吹きすさぶアイルランドの孤島の匂いを。
キリマンジャロの万年雪の匂いを。
サハラ砂漠の砂嵐の匂いを。

その土地に吹く風を深々と吸い込むとき、ぼくはすべてを了解する。
語るべきことなど初めから最後までなかったのだ。
すべては風に含まれているのだから。





ジャージー・ガール

2007年10月18日 | 雑感
YouToBeでぼくにとってのお宝映像を発見しました。
ブルース・スプリングスティーンの「ジャージー・ガール」のライブ映像です。
ジャージーというのはマンハッタンから川を隔てたニュージャージー州のことです。
日本で言えば、埼玉か千葉といったところでしょうか。
要するに、少し野暮ったいプアホワイトの青年たちの歌です。

酔いどれトム・ウェイツの歌をスプリングスティーンがリカバーしました。
「ジャージー・ガール」はライブアルバムにしか入っていない曲です。
5枚組みのレコードアルバムを持っていたのですが、全部他のレコードとともに捨ててしまいました。
離婚後、レコードを聞ける環境ではなくなったからです。
それが映像付きで見れるのですから、感激です。

適当に訳を付けてみました。


JERSEY GIRL
(Tom Waits)

I got no time for the corner boys         通りの向こうでたむろして大騒ぎしている奴らや
Down in the street making all that noise        街角に立っている女たちにかまっている時間はない
Or the girls out on the avenue             だって今日、おれはおまえと一緒にいることにしたんだ
`Cause tonight I wanna be with you           今夜は車に乗って川向こうのジャジーに行くんだ
Tonight I'm gonna take that ride            彼女をずっと車に乗せて一緒にカーニバルに行くんだ
Across the river to the Jersey side           
Take my baby to the carnival
And I'll take her on all the rides

`Cause down the shore everything's all right      向こう岸ではずべてが上手く行くさ
You and your baby on a Saturday night          おまえも、おまえの娘も、土曜の夜だ 
You know all my dreams come true            おまえと一緒に通りを歩く時
When I'm walking down the street with you        おれの夢が叶うんだ

Sha la la la la la la                  シャララ ・・・
Sha la la la la la la la la
Sha la la la la la la
Sha la la la I'm in love with a Jersey girl       おれはジャージーの女に恋しちまった

You know she thrills me with all her charms       彼女の魅力で俺の胸はくらくらだ
When I'm wrapped up in my baby's arms          彼女の腕に包まれると
My little girl gives me everything            おれのすべてが充たされる
I know that some day she'll wear my ring         いつか彼女は指輪を受け取ってくれるはず
So don't bother me man I ain't got no time        だから邪魔しないでくれ、時間がない
I'm on my way to see that girl of mine          この世に何一つ重要なことなんかないぜ
`Cause nothing matters in this whole wide world     男がジャージーの女に恋していれば 
When you're in love with a Jersey girl

Sha la la la...                     シャララ ・・・

I see you on the street and you look so tired      通りでおまえに会うとき、おまえはとても疲れてみえる
I know that job you got leaves you so uninspired     おまえのついた仕事がとてもしんどいのは知ってるよ
When I come by to take you out to eat          食事に誘って迎えに来ても
You're lyin' all dressed up on the bed baby fast asleep きれいな服に着飾ったまま、ベットで寝てしまっている
Go in the bathroom and put your makeup on        さあ、バスルームに行っておめかしするんだ
We're gonna take that little brat of yours and drop her  おまえの小生意気な娘をおまえのおふくろさんに預けよう 
off at your mom's                    タダでダンスが踊れるところを知っているんだ 
I know a place where the dancing's free         さあおれと一緒に行こう
Now baby won't you come with me             
`Cause down the shore everything's all right      向こう岸ではすべてが上手くいくさ 
You and your baby on a Saturday night          おまえも、おまえの娘も、土曜の夜だ
Nothing matters in this whole wide world        この世に何一つ重要なことなんかないぜ
When you're in love with a Jersey girl         男がジャージーの女に恋していれば

Sha la la la...                     シャララ ・・・

ニューヨークのダウンタウンで辛うじて生計を立てているであろう男女が出会い、
男は娘持ちのその女に恋をする。
土曜の夜に女の故郷であるニュージャージにドライブして、タダで踊れる酒場に行こうと誘う。
男らしくて切ないですね。

この曲をニュージャージでスプリングスティーンが歌うと、それはそれは盛り上がります。
みんな一緒に泣かんばかりに声を合わせて歌います。
アメリカではとっくの昔から格差社会でした。
それにめげることなく、アメリカでもどこでも、頑張る人間は頑張っています。

日本語

2007年10月17日 | 雑感
昨日、出雲神社ツアーの時にお世話になったファミリーと夕食を食べました。
朝の2時に出雲を出て、九州の神社を巡り、ネネさんの友人のヒーラーさんのところに行ったのだそうです。
色々興味深いお話が聞けました。

本では読んだことがあるのですが、出雲のそのファミリーの年長の方は見事に「ズーズー弁」でした(笑)
東北生まれのぼくは何の苦もなく聞き取れるのですが、他の参加者は聞き取りに苦労するみたいでした。
どうして出雲と東北の訛が一致するのかは諸説あるようです。

いわゆる天孫族が出雲に攻め込んだ時に逃げた先が東北であった、とか。
諏訪神社はそういう意味では間違いなく逃げた先なのでしょうが、あの辺りはズーズー弁ではなかったと思います。
東北地方から出雲に人々が移動したとは考えにくいですから、やはり出雲→東北のルートで、
なんらかの大量移住があったのだろうと、ぼくは思っています。

それにしても、いつ頃、どういう理由があったにせよ、東北と出雲という遠く離れたところに、
全く聞き取りに違和感のない訛が残っているというのは面白いです。
その辺に学者さんたちがあまり目を向けていないらしいのも、別の意味で面白いです。

コトバというのは、話し言葉の流行りすたりはあるにせよ、文化のルーツを探る時に最後の切り札になるような気がします。
アイヌや琉球の言葉というのも幾多の歴史の荒波にもまれながらも生き残りました。
大和言葉も漢字の流入、登用にもかかわらず、立派に生き残っています。
インドの言葉とヨーロッパの言語もルーツは一緒だということまで分かっています。

これだけ多様な文化文明を受け入れてきながらも、独自性を保ってきた日本語というものがあります。
面白いですね。

奇妙な夢

2007年10月16日 | 雑感
奇妙な夢を見ました。

近未来です。
脳内で色々なスペクタルを経験するコースに参加しています。
詳細は分かりませんが、脳波をモニターして参加者を誘導する仕組みなんでしょう。

要するに、脳波に刺激を与えて幻想を見させ、現実ではかなわない冒険を脳内で楽しむという趣向です。
その辺りの説明は夢では省かれていますが、その脳内冒険に参加している意識はぼくにはあります。

ホテルのスイートルームみたいなところに娘と二人でいます。
怪物が近づいてくるのが分かります。
どんどん近づいてきます。
娘の安全をどう確保しようかと考えているうちに、ドアの前まで怪物がやってきます。
ぼくは娘を部屋に残したまま、怪物の横をすり抜けて逃げ出してしまいます。
頭の中に、これは所詮脳内ゲームなのだから、という言い訳がちらりと浮かんだからです。

部屋を抜け出したのはいいのですが、やはり娘が気になり引き返して部屋を覗います。
ドアは開け放したままで、部屋の中はしんとしています。
ゲームのルールで、何かの鍵となるものを見つけるなり、行動なりをすると、困難な状況から脱することができるはずです。
その鍵となるものも、行動もさっぱり見当が付きません。
ヤケクソになって、「コラーっ!」と大声で叫んでしまいました。
すると、部屋の大きな扉がばたんと閉じられてしまいました。
シマッタと思いましたが、後の祭りです。

どうしようと思いましたが、脳内ゲームは終了する気配もありません。
ゲームを続行するしか仕方がありません。

今度は悪の軍団との戦闘です。
敵の要塞に侵入し、次々と敵を倒して、最後に残った敵の大将とその側近が残りました。
側近がぼくに向って大型のロケットランチャーを発射した瞬間、ぼくも彼目がけてロケット砲を発射して身を伏せます。
側近は跡形もなく消え、続けさまにぼくはロケット砲を大将目がけて発射します。
ゲームは勝利しました。
そんなことより、ぼくは娘の安否が気にかかります。

だれか、ゲーム参加者にこのゲームから離脱する方法を聞きたいと思いますが、誰もいません。
ゲームで娘が死んだとすると、現実の娘にも何か影響があるのではないかという不安が大きくなっていきます。
どうしても娘を救い出さなければいけません。

それでも、お構いなしに次のゲームが始まります。
このゲームのことは思い出せません。
非常に苦しい怖い思いをして、ぼくが死ぬシーンで目が覚めました。

ぼくはテレビゲームなどは全くしないのですが、どうしてこんな夢を見たのか謎です。

こう書いていいて思い出したのがトム・クルーズ主演の映画「バニラ・スカイ」です。
ある成功した青年実業家が、女性の嫉妬で事故に巻き込まれ大怪我をします。
しかし、顔もめちゃくちゃになったはずなのですが、彼の意識は大怪我をおった記憶もありません。
そのまま成功した青年実業家の道を歩み続けます。

実は、近未来の進んだ医療によって、彼は脳派操作によって幻想を見せ続けられているのです。
事故の記憶も、女性の記憶も消されています。
ベットに横たわったまま、彼の意識は青年実業家の道を生き続けているのです。

「マトリックッス」の世界とも重なりますね。

なかなか興味深い夢でした。



託児所

2007年10月15日 | 雑感
家の近所に24時間営業の無許可の託児所があります。
仕事からの帰り道にあるのですが、真っ暗な路地にぼんやりとその看板の灯りがついています。
10畳ほどの部屋でいつも3~6歳くらいの子供が数人で遊んでいます。
オモチャもあまりないようで、身体を寄せ合ってなにやら狭い空間で遊んでいます。

おそらく、水商売の人たちが預けているのだと思います。
そのままそこに泊まる子もいるのでしょう。
楽しそうに遊んでいるように見えますが、心の中は母親が恋しくてたまらないのかもしれません。
一人ぼっちでアパートなりマンションなりの部屋にいるよりはずっとましなのは分かるんですが。

クリスマスなどはどうするのでしょうか。
水商売の人たちにとって、クリスマスの時期はかきいれどきです。
正月くらいは母親にいっぱい甘えられるのでしょうか。

10時を過ぎてもそこの子供たちは起きています。
遊び疲れているのか、壁に背をもたれかけて膝を抱えています。
そとからですと、表情までは分かりません。

色々な人生を抱え、色々な思いをして、それでも人は生きて行きます。
どんなに辛い思いをしても、何度か心から笑い喜んだ経験があれば、人は生きていけます。
あの子たちの心に、楽しかった時の思い出がいつまでも光り輝いているように、
決して色褪せることのないように、祈るばかりです。

帰還兵

2007年10月13日 | 雑感
ぼくが高校生くらいの時に流行った小説家にJ.D.サリンジャーという作家がいます。
「ライ麦畑でつかまえて」が有名で、村上春樹が最近新たに翻訳しなおしたそうです。

その小説の主人公も感受性が鋭く、世間との折り合いがうまく付けられない人ばかりです。
その感情の捌け口をシニカルさと笑いのめすユーモアで昇華しようとする姿が痛々しいです。

現実のサリンジャーも極度の人間嫌いで、ボストンだかどこだかの自宅に篭って、人前に姿を現さなくなりました。
その後、ぷっつりと作品を発表していません。

いかにも小説家というような奇人振りでした。
今の時代はそういう奇人振りというのは受けないような気もしますが。
奇人が奇人でいられるというのは、ある意味懐が深い時代だったのかもしれません。
今は、出版社が流行作家を企画で作り出す時代ですから、
人付き合いの悪い人間は世に出るのが難しいかもしれません。

グラス家の兄弟がそれぞれ順番に主人公となり、いくつかの小説が有機的に絡まって大きな物語となります。
長男の名は、シーモアだったと思います。
「バナナフィッシュにうってつけの日」という短編に登場します。
新婚でハネムーンに来ているのに、シーモアの心は深いところで大きく傷ついています。
もちろん新婦はそんな心の傷は思いもよらぬことで、ユーモラスに新婚カップルのちぐはぐな会話が交わされます。
そのユーモアが痛ましいのです。

おそらく、シーモアは戦場からの帰還兵だったのではないかと思われます。
取り返しの付かない傷を心に受けていたのだろうと思います。

と、20年以上も前に読んだ小説の話ですから、記憶が曖昧なまま書いています。
たしか、シーモアはあっけなく自殺してその短編は終わるのだったと思います。

苦悩を苦悩として表現しないところに、サリンジャーの真骨頂がありました。
たわいもない言い争いやら、皮肉やら、冗談の合間に、ホンのちらりと人間の心の深遠を垣間見せます。
むき出しの感情を嫌う欧米人流の表現ですね。

同じく帰還兵の心境を描いた名作としては、ヘミングウエィの短編で「兵士の故郷」と「心が二つある川」があります。
ニックものと呼ばれる一連の短編群で、ヘミングウエィの自伝的要素の強い作品です。
こちらのほうは、ユーモアさえも削り取られています。
一切の感情描写もなく、乾いたセリフと必要最小の的確な情景描写のみで、帰還兵の冷えてしまった心が浮き彫りにされます。

帰還兵というのは、地獄の戦場からせっかく帰ってきたのに、かつての故郷を永遠に失ってしまったことを知る人間です。
友人たちとふざけ合い、希望に胸を膨らませたかつての自分が、戦場で死んでしまったのを知ってしまう人間です。
故郷にいながらにして、心は永遠に戦場をさ迷うことを知ってしまう人間です。

この辺りの切なさは映画「ディア・ハンター」にもの凄く上手に描かれていました。

たぶん、戦場での経験というのは情を込めるとかえって表現できないのかもしれません。
いかなる感情も凌駕する経験なのだと思います。
淡々と描けば描くほど、そのどうしようもない残酷さが浮き上がります。

どうも戦争というのは人の心を劇的に凍結させる破壊的力があるようです。
日本の戦後の帰還兵の方々も、心を封印し、なにも語ろうとすることなく、日本の復興に命を注ぎました。
きっと言うべきこと、言いたいことはたくさんあったのでしょうが、言葉が見つからなかったのだと思います。
今は言葉はそこらじゅうにてんこもりに溢れていますが、語るべきこと、語られるべきことはホンの少ししかないような気がします。

ぼくの今日のブログも書くことがないなぁと思いながらダラダラ書き続けたものです。
平和というのは良かれ悪しかれこういう状況なのでしょう。

合掌







スポーツ興行

2007年10月12日 | 雑感
昨日の内藤ー亀田戦、期待を裏切りませんでしたね。
実況アナウンサーや解説の面々もある意味で期待通りでした(笑)
こういう感じでスポーツの興行が行われているというのを世間に再度知らしめました。

要するに視聴者をもう徹底的に舐めきっています。
それを重々分かった上で興行を楽しむのがツウと言うものです(笑)
TBSのスポーツ番組の露骨さというのは止まるところを知りません。
K-1の秋山といい、バレーボールの幼稚なショー化といい、なんだかタガが外れています。
視聴者にはとっくに気づかれているのですが、豪快にタガが外れたままです(笑)

それに比べて、今朝のワイドショーに内藤選手が出ていましたが、チャーミングな奥さんと子供も一緒で、
好感度一気にアップですね。
なんでも、勝った内藤選手のファイトマネーが1千万で、負けた亀田が1億らしいですが、
家族で嬉しそうにテレビに出演している内藤選手はそれでも大金だと喜んでいるのでしょう。
見ているこちらも嬉しくなります。

親子揃って世界チャンピョンに向って「ゴキブリ」と面罵する神経は無敵です。
色々な意味でこれからも楽しませてくれるでしょう。
肘を使えとか、(出血した)目を狙えとか、金的を打てとか、セコンドで父親と兄が
弟をけしかけている映像がネット上に流れてしまっています。
家族ぐるみで反則をしろとけしかけています。
なかなかみれるシーンではありません(笑)

(笑)がやたらと多い今日のブログです。
少し下品になってしまいました。

これを機にスポーツの興行のあり方が考え直されるのかと言えば、そうは思えません。
ますますタガの外れ方が酷くなるような気がします。
チェックする能力も意志もまったく見受けられません。
問題が表沙汰になれば、担当者の首を切るだけでしょう。

ぼくは今最も大きな問題は政治よりもメディアの専横だと思っています。
物事というのは、そのありのままを知らされれば対応できないものはないと思っています。
ところが、事実が加工され、脚色され、切り貼りされると、対応すれば間違い、対応しなければ事態が悪化します。
今のメディアの報道で、ありのままの事実を知ることはまずありません。
そのせいで、いかなる重大事も「へ~」と傍観しているよりほかなくなってしまっています。

ま、事実を知れば知るほど嫌になってしまうということもありますから、
自分の道を元気に楽しく歩いていくのが一番です。

ブログ紹介

2007年10月11日 | 雑感

以前にも紹介しましたが、半年ほど読んできまして、ぼくには本物ではないかと思われるブログを再度紹介します。

 「伊勢ー白山 道」 http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/  です。 先祖供養の仕方・意味から霊界・神界の仕組みまですとんとぼくには腑に落ちることばかりが書かれています。特に、先祖供養と感謝想起がいかに大切かを繰り返し説いています。

 語り口が尊大なところや捻ったところが全然なく、ストレートであっけらかんです。ありがちの脅かしや押し付けもありません。 これを読んでいると、ぼくの中途半端なその筋の話などはする気が失せます。

もちろん、こういうことは読んだほうがいいとか、信じるに値するよとかいうつもりはありません。読みたい方が読み、ご自分でご自由に感じてください。 巷の商売霊能者に対する批判も厳しいものがありますが、スパリと切り捨てます。まぁ、あとは読まれた方の判断にお任せします。

因みに、ぼくは先祖供養を毎朝していますが、なかなか感じるところがあります。ご利益信仰を戒めているのも好感を持っています。 ま、紹介はこの辺で止めておきます。

それから、コメント欄がこことは違って毎日100コくらい付きます(笑)


2007年10月10日 | 雑感
昨日は大量に雨が降ったので、今朝は滝に行ってみました。
外気温が18度で、とても気持ちのよい滝でした。
ぼくの感覚では、最低気温が15度以下だと冷たく感じ、10度以下だと冬の滝になります。
逆に、20度以上になりますと夏の滝になりまして、少々物足りなくなります。
初夏と今頃の滝が一番気持ちがいいかもしれません。

滝場で何度か見かけたことのあるご夫婦が先に来ていました。
それはいいのですが、奥さんのほうがシャワーキャップを被って滝に入ります。
違和感を感じないのでしょうか。
感じないから被っているわけですから、余計なお世話ですね。
でも、その姿を見るほうはダイナミックに違和感があります。

話は変わって、今日懐かしい恩人が来て一緒に昼ごはんを食べました。
そのついでに一人で角打ちに行きました。
角打ちというのはおそらく九州独特の飲み屋で、いわゆる立ち飲み屋です。

次から次へと色々な人が来ます。
つまみを一品頼んで、コップの焼酎か酒を煽って、またどこかへ去って行きます。
どの客も10分と店にいません。
酒飲みの見本のような人たちです。

客同士会話することも、人定めにじろじろお互いに見ることもありません。
おそろしくシンプルです。
店のおばちゃんも余計なことは口にしません。
10分で去っていく人たちが相手ですから、手早さが最重要課題です。

焼き鯖、いわしのミソ炊き、トマトスライスなどのつまみは一律200円、焼酎一杯200円、酒一杯300円です。
シブイです。

今、とても気持ちがいいです。
空は晴れ上がり、雨上がりのせいで空気は澄みに済んでいます。
秋は一番好きな季節です。
しばらく楽しめそうです。