風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

農村ビジネス

2005年08月31日 | 世相
どうも体調が悪いです。
酒のせいかもしれません、それほど量は飲んでいるつもりはないんですが。
飲めなくなるのはいやなので、少し減らします。←口だけ番長

東京で、選挙演説の最中、若い男が候補者に暴力を振るって逮捕されました。
何でも、名前の連呼ばかりで、政策を語らないことに腹を立てたのだそうです。
この若い男に同情してしまいます。
政治に興味を持ち、どんなヴィジョンがあるののかと聴いてみようと思い立ち、
聞いてみれば名前の連呼。
これじゃあ、ふざけんな、ひっこめ、ばかとぼくでも言いたくなるでしょう。

あの選挙カーの名前の連呼は腹が立つだけです。
夜勤で昼に寝ている人や、赤ん坊を寝かしつけたお母さんにとっては、殺意さへ沸くでしょう。
選挙運動の方法って、どうにかならないもんなんですかね。
広場を開放して、日替わりに候補者の演説を聞けるようにするとか、公共のホールで討論会をするとか。
真昼間に選挙カーでがんがん喚いたって、そんなもの勤め人やら学生は聴こうったって聴けないんだし。
選挙に行こうキャンペーンってどうも本気でやっているようには思えません。
投票率を高めたくない、組織票だよりの人々の思惑が働いているのでしょうか。

ところで、話は変わりますが、農業をビジネスとして取り組む何かいい方法はないかと考えています。
ただ作物を作るだけでは、報われない重労働と、低収益性に泣くことになります。
付加価値を高め、既存のルートではない方法が必要です。
ちょっと考えていることがあり、実験段階に踏み込もうかと思っています。
唯一の心配なところは、ぼくの怠け病です。
まぁ、だけど、やってみます。

農業ビジネスで大事なことは、近辺のジーさん、バーさんにフルに手伝ってもらうことができると、
非常にコストパフォーマンスが良くなります。
また、ジーさん、バーさんでもできることでないと、農村部でビジネスはできないことだと思います。
少子化の今、若者を農村に縛り付けておくのは土台無理な話です。

農村に限らず、漁村というものにも、もっと可能性があるように思うのですが、
漁村に関しては知らないことが多すぎます。
いつかイカ釣り船かなんかに乗ってみたいと思ってはいるのですが。

農村にしろ、漁村にしろ、そろそろ垢抜けて欲しいです。
自然はおしゃれだと気がついて欲しいです。
今最もドンくさいのは、都市部です。
時間に追われ、金に追われ、流行に追われ、心が貧乏です。
田舎に住んでいる人の豊かさを再発見することができれば、農村ビジネスは成立します。

楽しみだなぁ←ヒトゴト


野蛮

2005年08月30日 | スピリチュアル
造反議員に対する刺客として送り込まれたのが、ほとんど女性議員であることが話題になっています。
誰かが、こういう機会でもないと、優秀な女性がどんどん立候補できないからいいことだと言っていましたが、同感です。
テレビで彼女たちの発言を見てますと、頭が切れ、品性もありそうです。
女性だから、男だからなんてことはいちいち意識するのも疲れます。
男であろうと、女であろうと、政治家として優秀ならそれでいいです。
一昔ですと、女性だからという理由だけで、わけの分からないおばさんが、続々国会に送り込まれました。
彼女たちの「台所感覚」が、どれほど国政の場で役立ったのか、聞いてみたいものです。
「庶民感覚」だの「台所感覚」だの「女性としての感性」だのという空虚な言葉が、
政治から聞こえなくなったのはいいことです。

女性の感性にしろ、庶民としての感性にしろ、そんな実体のない気まぐれな「感性」で政治を左右していいいのなら、
まだ中学生の感性を信用しますね、ぼくは。
色気づく前の中学生というのは、妙に健気で、真面目なところが残っていますから、「感性」ということで言えば、
生活に疲れ、うそをつくことも覚え、僻みっぽくなったおばさん、おじさんより信用できます。
一人一人の感性はもちろん大事なのですが、「庶民の感性」とか「女性の感性」とかいういい加減極まりない曖昧な
言葉を使って恥じない人には、少なくとも国政は任せたくありません。
そういう、言葉に対する感性が鈍い人は、ある意味危険だと思うんです。
逆に言うと、スローガンに酔いやすいということでもあるわけですから。
スローガンに酔って国政を動かすと、ろくなことがありません。
野蛮な民主主義になります。

野蛮といえば、ある学者が修験道は野生の、野蛮な宗教だと言っております。
この野生の、野蛮のというのは、既成宗教が形式的になり、その宗教的活力を失ってしまった状況に対しての、
好意的な意味で使われています。
修験には荒行といわれる命がけの修行がつきものです。
肉体的にも、精神的にも死のふちまで自らを追い込みます。
一例を挙げますと、比叡山の千日回峰をする行者は、その修行の終盤、一切の水も食も断って護摩焚きを行じます。
すると次第に行者の体から死臭が漂いだすのだそうです。
意識も朦朧状態になり、何もかも打ち捨てて、「行」になりきった時に、何かを掴むのだそうです。

このような行は、仏教(密教)というよりも、日本古来から伝わってきた山岳信仰、つまり修験の流れが
本流になっているようです。
それでは、その修験というのが何かといいますと、簡単に言いますと、「死」と「再生」を全身全霊で「体験」することです。
「死」の苦痛と断絶から「再生」の喜びと解放へ至る時、自然界すべての存在の有難さを全存在を上げて思い知る。
あくまでも、体験しなければ、何一つ先に進めない宗教です。
机上では、手がかりさえも掴めません。
宗教学者が修験に関してはあまり語らないのも、体験していないので、語ろうにも語れないからにほかなりません。
(ちなみに、上述の修験道が野蛮の宗教だと語った学者は、精力的に修験行者と行を共にしました)

ぼくらなども、真冬の身を切るような滝に打たれるわけです。
ちょー野蛮です(笑)
ところが、まだまだ死に切れていません。
こういうのを、往生際が悪いというのです。
ゆえに、再生もしていません。
でも、死に切れば、再生するのは確信を持ってはいます。







三段論法

2005年08月29日 | 雑感
土曜日には、ジャズのコンサートに行きました。
意地でも行きました(笑)
ところが、これが良かったです。
グレード、高かったです。
どうも日本人ジャズミュージシャンにはある種の臭みがあって、苦手だったんですが、
そういう類の臭みがなく、テクニックもセンスも申し分なしでした。
この街在住のドラマーとサックスとベースの人は経験値と洗練度において劣るように思いましたが、まぁご愛嬌です。
名前を忘れましたが、ボーカルの女性は一押しです。
声量のあるハスキーヴォイスで、歌心がある若い女性でした。
若い人たちも、アンドロイドみたいな顔した、キンキン声の歌手の歌なんか聞いていないで、
こういう本格的な歌手の歌を聴き慣れていって欲しいとは思いますが、まぁ、どうでもいいです。

それから、真夜中の滝行に行きました。
初めて見る方が何人かいて、平均年齢を一気に押し下げていました。
相変わらず、ロウソクの灯りはきれいです。
ジワーンとしみじみとした滝になります。←何を言っているのか分かりませんよね、あはは

今日は二ヶ月ぶりくらいにネクタイをつけて店に出ました。
挨拶回りもしました。
今まで店に青大将のごとくにとぐろを巻いていたので、少し動いただけで、疲れます。
寿命切れ間近の携帯電話みたいに、すぐバッテリーが上がります。

人間の場合、バッテリーはどこにあるかといえば、どうやら丹田にあるらしいです。
丹田を鍛えるのは呼吸法です。
ヨガでも、禅でも、滝でも、大切なのは呼吸法です。
これは理屈をいくら学んでも身につきません。
修練しかありません。
ぼくがすぐ疲れるのは、修練が足らないからです。
きわめて簡単な三段論法です。

道の向こうにある目的地に着きたい

目的地に行くには歩く(修練)ことが必要だ

だから歩く(修練する)

人は往々にして、きわめて簡単な三段論法にも反逆します。
どの道を行くにも必要条件である「修練」を省こうと無駄に抵抗します。
節制しないでやせたい、お客さん回りをしないで宝石を売りたい、自分のことしか頭にないわがままな性格なのに
もてたい、年に数えるくらいしか滝に入らないのに冬の滝を寒いと感じないようになりたい、等等、
人は三段論法に逆らうこと、鬼の如しです。

こういう仕組みから逃げられないとは分かってはいても、逃げようとする人を世の中では愚か者といいます。
指を指されて、くすくす笑われます。
そういうわけで、ぼくはいつも笑われています。





ジャズ

2005年08月27日 | 雑感
今日の夕方のジャズのコンサートのチケットが5枚あります。
誰かお客さんに上げようと思っていたら、誰も行くという人がいません。
4000円のジャズのチケットですよ?
普通、喜んでもらいませんか?
夏の日の夕暮れ、ジャズでも聞こうというような人はいないんですか?>この街の人たち

まぁ、それはそれでいいです。
それほど熱心に勧めたわけでもありませんし。
仕方がないので、ぼくが誰かを誘っていきます。

その後、年に一回だけの真夜中の滝行というのがあります。
夜中の12時にロウソクの灯りだけで滝に入ります。
今年で三度目ですが、なかなか気持ちがいいものです。
朝より水が冷たく感じません。
ロウソクのオレンジ色の光もきれいですし。
先日滝に行った10人のうちの一人の28歳の女性も張り切って参加するそうです。

したがって、ビールを2-3本本飲んでからジャズのコンサートに行って、イタリヤ料理でも食って、
バーでぐちゃぐちゃ話すというわけにも行きません。
素面でジャズを聴くというのいは、薬味なしでそうめんを食べるようなものだと思うんですが。
バカ真面目にステージを見つめていたって、面白いものでもありませんし。
まぁ、いいです。
真夜中の滝に打たれて、その後、みんなで24時間営業の資さんうどんを食います。
なんて楽しいんだろう、あはははは←乾いた笑い

今日、相談事が2件ありました。

一件目
最近、友達に誘われて、太極拳を始めた。周囲の人間もみな親切で、楽しい。
ところが、友達の態度がどうもおかしい。どうやら、「新人の座(親切にされるポジション)」を
この人に奪われたことが面白くないらしい。どうしたらいいか。

ぼくの知ったことではありませんよあなた、と言いかけましたが、なんとかやめました。
この人の友達という人からも、実は先日相談を受けていました。
要するに、この人の友達というのが、やや必要以上に神経質な人で、この人ののろまな動きやらなんやら、
必要以上の手間を周りに取らせているのが気になるというのですね。
ようするに、「気に障る」ということなんです。
ふんふんと聞き流していましたが、その「気に障られた」当の本人が今日こうして来ているわけです。
あんたたちは友達でもなんでもないから、お互いに好きにばらばらにやったらよろしいと口から出かけましたが、
何とかやめました。
で、今思ったありのままをその友達に手紙に書いて見たらと言うと、そうしますと言って帰っていきました。

二件目
大学に通う息子さんが、立て続けに二度交通事故にあった。息子のほうから、お祓いをしたいんだがという
電話があった。何らかの自覚があるものと思われる。何とかならないか。

これはそのまま導師に頼みますから、と伝え、息子さんが帰ってくる日時か決まったら連絡をくれるようにと言いました。

ぼくの店にもぱらぱらお客さんが来るのですが、滅多に商売の話にはなりません。
もっぱら家庭内のいざこざだの、市長の悪口だの、家で買っているメダカが子を産んだだの、そんな話ばかりです。
ありがたい、ありがたい、あはははは←(ry 






破壊

2005年08月26日 | 雑感
台風が関東方面に上陸し、去って行ったようです。
ぼくの育った東北地方では台風というのはそれほど大きな脅威ではありませんでした。
北上するにつれて勢力が弱まって、普段より雨風が激しいやつが来たという感じでした。
で、そういう時は長靴とカッパを着て、家の前の細い路地に出ます。
舗装されてない路地はまるで小川のようになっています。
石ころや泥をかき集めてダムを作ります。
何を見たいのかというと、できるだけ大きなダムを作って、水がひたひたに増し、臨界点を超え、
泥と石ころのダムが一気に決壊するのが見たかったのです(笑)
カタストロフィというやつですね。

ダムを作っては壊れ、壊れては作ります。
そのうち雨脚が弱まり、決壊の威力がなくなると、面白みを失って、家に帰ってテレビで「巨人の星」やら
「サザエさん」を見るわけです。

破壊というのはある種の魅力を持っています。
創造の魅力と、おそらくは背中合わせなのだと思います。
組織なり体制なりの自律的運動エネルギーが弱まり、組織なり体制なりの維持保存エネルギーだけが残った場合、
破壊衝動が内部より生まれます。
要は、保存維持エネルギーというのは「面白みにかける」のです。
持続が重要なのではなく、何に向かって、何のためにという「目的・意義」が人間の意識にとっては重要です。
重要かどうかという話になると、いろいろ異論も出てきますから、
要するに、持続・保存のためにエネルギーを使うというのは、子供や、特に男の意識から言うと、
「つまらない」のです。
まぁ、個人差がある話ではありましょう。

組織なり体制なりが流動的であり、活動が活発であるうちは破壊衝動は生まれません。
破壊すべき対象が形となって現れてこないからです。
それらが流動性を弱め、固定化してくると破壊衝動が生まれます。
破壊衝動の裏側に、破壊した後に新たな何を作りたいかという創造意欲も大いに沸き起こってきます。
生物のうちで、こういう贅沢ともいうべき意識活動を持つのは人間だけです。
安定が続くとリスクを厭わず改変を望み、不安定な状態が続くと安定を希求します。

幕末の志士たちの徹底的な社会の改革運動は見事でした。
あれだけ少ない犠牲で体制をひっくり返すことができたのは、おそらく世界中に例がないと思います。
ポイントは、自らの属する武士階級というものを、破壊する、捨てる覚悟で改革を断行したことでしょう。
武士という階級を保持しながら改革を進めようとしても、自己矛盾に陥り、体制(旧幕府)側に潰されていたかもしれません。

自らを捨てて、改革を志す人間は強いです。
守りたいものがある人間は、その守りたいところを突かれると、ぐらぐらに揺れてしまいます。
逆に言うと、守りたいものがある人間にとって、すべてを捨てて改革をしようとする人間ほど、
恐ろしく、厄介で、憎らしいものはありません。
彼の改革の意思を挫くすべがないからです。

そして、つまるところ、「今」という時代をどう見るのかという視座が、
その人がどういう人生の選択をしていくかを決定するわけです。
「今」を発展途上の通過点と見るか、行き詰まりの飽和点と見るか。
通過点と見る人は、不安定な状況に陥ることを嫌うでしょうし、飽和点と見る人はガラガラポンを望むでしょう。

さてさて、今はどんな時代だったのかと後世の歴史は記すのでしょうか。





大洪水伝説

2005年08月25日 | 雑感
古代インドのアーユルベーダ(生命の科学)によりますと、
古代は呪文で物を作れたが、未来(つまり現代)には物理的科学で物を作るようになるだろうと言っているそうです。
マヤやエジプトの巨大石造建造物などはいまだにその製造技術が解明されておらず、
ぼくなども、あれらは絶対一種の超能力で作られたものだという気がしたものです。

沖縄の海底で発見された巨大石造遺跡も、写真で見る限り、そういう類の建造物であるように思われます。
日本の山の頂にあるイワクラと称される巨大な石も、そういう類なのかもしれません。

こういう話に興味のある方は、グラハム・ハンコックの「神々の指紋」「神々の世界」を読まれることをお勧めします。
例のごとく、科学的にはインチキだのトンチキだのと批判されてはいますが、豊富な写真とともに
楽しんで読んでみてください。

1万2千年前ごろ、地球上を超ドキュウの大洪水が襲った。
それまでの大文明が瞬く間に激流に飲み込まれてしまった。
旧約聖書の箱舟伝説やプラトンが書いているアトランティス大陸伝説はその洪水の時の話だというのです。
そういえば、日本が大陸と切り離されて、今のような形になったのも、1万2千年前です。

ハンコックによれば、その文明(アトランティスとムーの両大陸)わずかな生き残りが、
その文明の存在した証を残すために、マヤやエジプトや世界各地の巨石文明を残したというのです。
呪文で巨大な建造物を作るような力は、おそらく選ばれた人間だけに許され技で、口伝であったでしょうから、
その口伝は途絶えたのでしょう。
一説によりますと、そもそもその巨大文明が滅びた理由は、
選ばれた聖職者だけに許されていたその呪術的力が、ある権力者に盗まれ、悪用されたためにその文明は
瞬く間に滅びたのだそうです。
まるで「ナウシカ」の世界ですね。

ぼくの興味は、そのような話がすべて事実であるかどうかよりも、
そういう仮定があったほうが、「日本」という国の成り立ちが説明しやすくなるのではないかと思っています。
何でもかんでも大陸(つまり中国や韓国)からの文化の流入ということで、今までの文献至上主義的な歴史学者は
説明してこようとしてきましたが、一読してウソコケというような説も結構流布してきました。

そういう意味で、沖縄の海底遺跡の調査分析には期待しているのですが、
この国の学会がそれを本格的に取り上げる気配は、例のごとくありません。
一部の学者は取り組んでいるでしょうが、予算や技術に限りがあるでしょう。

ぼくの個人的仮説では、この国の修験道や神道という精神的流れは、大陸からではなく、
いまや水没した文明からの細々ながらもしぶとく流れ続けた精神の連続なような気がするのです。
もちろん儒教、仏教、陰陽道などが大陸から流れ込んでは来たのですが、それらは大いに取り込まれはしましたが、
基本的な素朴な自然崇拝心はこの国の人の心から消えることはありませんでした。

うーん、中途半端な話になっていますね。
とにかく、修験道というのはまともな文献がないからあれなんですが、役の行者や空海を研究する場合欠かせませんし、
なんだかとてつもない精神的地下水脈とつながっているような予感はします。




滝行Ⅱ

2005年08月24日 | スピリチュアル
昨日の話の通り、今朝は10人の挑戦者を連れて滝行に行きました。
般若心経一巻と、ご真言で3-4分間滝に入ってもらったのですが、みな物足りなさそうでした。
4人がやめてもいいという合図を出した後も、自主的に延長して入りました。
あとで聞くと、ほとんどの人がもっと入っていたかったそうです。

10人もの人間の滝に入るさまを間近で見ていますと、
自分ひとりがちゃっちゃか入るのとは、また別の体験があります。
まさに十人十色で、滝行の奥の深さを、ありがたさを感じます。
最後まで苦しそうな人、初めてなのに至福そうな顔になる人、一瞬ひるんだ後に元気一杯を回復する人・・・

一人だけ、滝行のあと具合が悪くなる人がいました。
A氏の手当てで回復しましたが、A氏によると、彼女は内臓器官全体が悪いようです。
長年の不摂生や、体質的なもので、血が濁っている人は、頭が痛くなることがあるようです。
数回我慢して、滝行を続ければ、頭が痛くなるようなことはなくなるのですが、
痛くなったことの経験が、滝行を続けることを躊躇させることもあるでしょう。
その辺の判断は、ぼくにはちょっとできかねます。
が、彼女が一番乗り気だったので、続けられることができればいいなぁとは思います。

そのあと、8人の挑戦者と(二人は用事で欠席)食事をしたのですが、
さすがわスピリチュアルグループで、いろいろ面白い話が出ました。
詳細は、面倒くさいのと、眉唾に思われるかもしれないので、省きます(笑)

話の結論は、これからの時代、一人一人が「自分」というものを再発見し、一人一人が、一人一人らしく光り輝くこと。
そのためのムーブメントが急速に世界中で広がりつつあるということ。
こう書くと、きわめて平凡なのですが、ディティールを加えると深みがある話でした←強引ぐまいうえい

なんにせよ、10人の人たちは、滝行という得がたい経験をしました。
何人の人が、ご縁を得て、続けるかどうかはぼくには分かりません。
28歳の女性だけはやる気満々ですが。
滝行を経験している、していないに関わらず、精神的な世界のネットワークはこれからますます広がります。
その中でも、滝行という奥深い世界のほんの入り口でも覗いてくれる人が一人でも増えるのは、とても嬉しいことです。





滝行

2005年08月23日 | スピリチュアル
2-3ヶ月前からちょくちょく店に遊びに来るようになった、とてもスピリチュアルな女性と、
そのお仲間9人を連れて明朝、滝行に行くことになりました。
導師は別の滝行に行かねばならず、ぼくが10人もの初心者を滝に入れます。
滝仲間のA氏がたまたまこちらに帰省しているので、手伝ってもらうことになりました。

店で何気なく滝の話をしたら、あれよあれよという間に10人の仲間を集めて、実際に滝行に行くことになったのです。
今日はほかの事は手につかず、本堂の前で上げるお経を10人分印刷し、心構えを整えます。
彼女たちはなぜかとても滝行を楽しみにしています。

滝に入るというのは、簡単そうで、難しくもあり、難しそうで、簡単でもあります。
要は、心構えが崩れてなければいいのですが、それがなかなか自己判断できませんし、
素人が外から見ても分かるものではありません。
そこを見極められる「導師」がどうしても必要なのは、そういう理由からです。

お不動様の見守る、結界を張った滝場で滝に打たれるわけですから、
その人なりの背後の霊が動くこともあります。
そういう場合には、ぼくのようなその方面の感覚が閉じている素人はお手上げです。
感じとして何かを感じても、それが何なのか、何のメッセージなのかなんていうのは皆目分かりません。
そういうことを的確に把握し、必要な処置を施し、今後の指針を与えることができないと、
とても生命の危険すらないとはいえない滝行を指導することはできません。

そういうことではあることですし、無謀なような気もしないでもないのですが、
何かのご縁でこうなったような気もしていますので、
今回は、思い切って、思い切りスピリチュアルな10名を滝に連れて行こうと思っているわけです。

自分ひとりで滝に入る分には、自分の命に執着しさえしなければいいのですが(笑)、
他人様の命を預かるというのは、考えれば考えるほど、その資格や覚悟や能力がぼくにはないことを思い知ります。
いつも見守られる側ですから気楽なもんですが、
いつも見守る側の覚悟や洞察力や気遣いに改めて感謝します>導師

というわけで、
明日はすべてを天の計らいに任せて、彼女たちの期待にこたえるような、爽やかな実り多い滝行になれば、と思います。
今日は導師の指示通り、酒、肉、淫欲抜きです。
昨夜1時過ぎ、ビールを飲みそうになったのですが、もう今日になっていることに気がつき、
ビールを諦めて座禅を組みました。
我ながら偉いなぁーと思うことしきりでした。←ウソです







涼風

2005年08月22日 | 雑感
朝夕が涼しくなりました。
日が射せばそれなりに暑いのでしょうが、厚い雲がそれを覆っています。
昨日の夕方、雲の切れ目から、夕日が街をオレンジ色に照らし出しました。
雨上がりの澄み切った大気のなか、久しぶりに懐かしい夕暮れ時です。

なぜ懐かしく感じたのかと考えて見ますと、
昔は例え夏でも夕暮れ時になると涼しい風がどこからともなく吹いてきたものですが、
最近ではアスファルトの照り返しで夜になってもムシムシ暑いままだったからでしょう。
雨上がり、冷えたアスファルトの上を涼しい風が吹き抜けます。

ぼくの子供のころは、夕暮れにもなりますと、あちこちの魚屋が炭火でカレイや秋刀魚の干し物を焼いていました。
猛烈に空腹を覚えたものです。
そういう匂いも、涼しい風も、白い割烹着姿の母親たちも街から消えてしまいました。
車の騒音と、パチンコ屋のギラギラしたネオンばかりが街中に満ちています。

この街は港に面しています。
行こうと思えば、自転車でもすぐ港に行けます。
でも、いざ堤防に行ってみると、空き缶だらけで、釣り人がぶちまけたアミの腐った臭いで、のんびり座ることもできません。
海峡を挟んだ対岸の街の夜景もきれいで、歴史的にも由緒ある海峡なのですが、アベックが散策することもないし、
旅行者が訪ねてくることもありません。

香港などでは、海岸べりに高級ホテルが立ち並び、対岸の夜景を楽しみ、海岸べりはアベックや観光客の
人気スポットになっています。
香港やニューヨークやベニスに限らず、世界中どこでも海際の街は、海辺の景観を大事にし、活かします。
ところが、この街はまずは工場が、倉庫が、鉄工所が海辺を占領しています。
たまに市民が立ち入れる堤防は、空き缶と釣り人が残したゴミと悪臭です。

日本人が自然を大切にする民族だなんて、何かの冗談としか思えません。
たまたま残った日本の自然は、たまたま経済効率の点から、開発に取り残されたところばかりです。

アメリカの国立公園では、例え山火事があっても消火しません。
雷などで、自然に発火した火事は、それもまた自然の摂理であるからという理由で、
あくまでも人の手を入れることをしないのです。
イエローストーン国立公園などは、燃えるに任せて、ものすごい面積の森林を失うがままにしました。
それでも、翌年には新芽が芽吹き、動物たちも帰ってくるのです。

ドイツのモーゼル川の流域の小さな町も、たびたび洪水に見舞われます。
被害も受けます。
それでも、川岸を堤防で閉じ込めるようなことは決してしません。
1973年にはここまで水位が上がったとか、洪水の歴史をホテルの壁に刻み込んでいるばかりです。

どうも日本は大切なものを見失っているような気がしてなりません。




効率

2005年08月20日 | 雑感

効率良く動けることが現代社会でもとても大事なことには変わりがありません。
ただ、効率を追いすぎると、効率悪いものがとても無意味なものに思えてきてしまいます。
A地点からB地点に行くことが目的だとすると、B地点に如何に早く、無駄なく到達するかだけがすべての行動の目的となります。
A地点からB地点への過程にある風景やら、温度やら、瞬間瞬間の味わいというものが無造作に切り捨てられていきます。

結果がすべてに優先するのはその通りなのですが、
結果に至る道程の意味を見失うと、次々と新たな結果を追わずにいられない心理的圧力を感じるようになります。
目に見える結果をひたすら追った結果、無駄なことと思われることはことごとく行動パターンから排除するようになります。
仕事人間が家庭を顧みないというのは良く聞く話です。
家庭が大切と思わない人はいないのですが、仕事の結果を追うには、時として家庭の煩雑さは煩わしいと感じるようになります。
そういうパターンに入ってしまいますと、時が来て家庭からの反逆を食らうことになります。
離婚、引きこもり、家庭内暴力、エトセトラ。
おれは今までの人生何のために生きてきたのだろうと感じることになりかねません。

本来は、自然界に無駄な存在というのがありえないように、無駄な時間などはないはずなんです。
結果が欲しいばかりに、身の回りに流れる時間や事物を鑑賞する余裕を失うんですね。

なかなか難しい問題ですが、要するに、切り替えが必要なんだと思います。
結果を追い、結果を取らなければいけないことも逃げようもなくあります。
ただ、すべての時間を結果を追うことに費やすと、心身ともに余裕のない人生になってしまうんだと思います。
結果を追うときは全力を尽くす、その結果に直接的には関与しない他者と時間を共有する時は、
きっぱりと結果を追う心を振り払って、その人、その時間とともに「他者といる」という経験を共有する。
慌しく生きていると、なかなかじっと他者といて、それを味わうなんてことは難しいんですけど。

ところで、今日も滝行でした。
滝仲間のQちゃんが二回目の21日間の「行」に入りました。
これから毎日のレポートを読んでみてください。
日常では感じられないいろいろな経験を垣間見ることができると思います。
http://katamich.exblog.jp/

それでは、今日はこれから焼き鳥を食いに行ってきます!








改革

2005年08月19日 | 雑感
改革というのは本当に難しいものだと思います。
物事には何事にもプラスとマイナスの面があるわけで、ある物事を切り捨てようとすれば、
そのマイナス面とともにプラス面も切り捨てられざるを得ないわけです。
ただ、そういう改革に反対する人たちの議論一般に欠けているのは、
切り捨てた後の、あるいは切り捨てなかった場合の国全体としてのヴィジョンを示しえないということです。

だれだって物事のプラス面を語れば、そりゃ切り捨てることには抵抗を感じるものです。
しかし、その物事を包む大きな全体像の中では、その物事があるために全体としての機能不全に陥る可能性があれば、
いくらそのプラス面が大きかろうと、ばっさりと切り捨てるしかない場合もあろうというものです。
今までの便利な郵便局なくなると、皆さん困りますよなんていうのはあまりにも国民を馬鹿にしたものの言い草です。
問題は、郵便局の背後にある350兆の巨大な資金であり、その金をどう有効活用するかという問題に尽きます。
その問題を放置して、行政改革、税金、年金、特殊法人、天下りの問題に踏み込めません。

国会議員は国政を預かる場にいるのですから、全体像がない議論はもういい加減にしてもらいたいですね。
首相の政治的手法がどうの、今までの仲間に対して情がないだの、そんな飲み屋の愚痴みたいな話はどうでもいいのです。
何をどう変えるのか、変えないのか、その具体論を国民に堂々と問えばいいのです。
それを国民に問いかける政治家としての説得力が問われているのであり、政策実現能力を問われているのです。
情けない中傷合戦をしている政治家は自分の無能振りをさらけ出しているということに気がつかないみたいです。

あまりブログで政治的な発言はしたくはないのですが、
その政策の是非に関しては、それぞれ有権者が判断すればいいのですが、
政策の是非ではなく、イメージ操作や中傷合戦で有権者に判断させようという手法が不愉快です。

政治の不愉快さは何も国政に限ったことではありません。
地方の政治のほうが腐敗度は高いのではないかと思っています。
誰がどんな政策を掲げ、実際に何をしているのかなんてほんの一部の人間しか知らないと思います。
選挙では、支持団体と身内の票を当てにして、それだけです。
市民の参加などと盛んにスローガンを掲げますが、実際の市制に加わる有識者の会やら委員会やら評議会がどんな基準で、
どんな人間が選ばれているのか、話を聞いた限りではそのいい加減さは噴飯ものです。

そしてどうしても話が行き着くところは、政治が腐っているのは、市民が腐っているのだと言われても仕方がないということです。
誰かが勝手に立候補して、当選して、まぁいいように政治をしてくれるだろうと人任せの態度があるうちは、
市民意識が腐っている、民主主義の根幹が腐っていると言われても仕方がない面があります。

それから、メディアが権力の監視役というのも、現状では全く機能していません。
自らの第4の権力の座を守るだけの、利権組織だといっても過言ではありません。
一例を言えば、中国のチベットに対する蹂躙に関するまともな報道を目にしたことはありません。
日頃、人権、人権と騒ぐメディアが、チベット問題を報道するに足らないことと思っているわけはありません。

市民一人一人が、権力を、メディアを監視する以外には、民主主義が健全に機能することはないと思います。
「知る」ということは、まず第一の力です。
事実を事実として知らせようとしない政治、メディアに対しては、厳しい態度で臨むしか浄化しようがありません。
政治、メディアが知らせない情報をどう「知る」ことができるのか。
それはご存知インターネットです。
ぼくですら好きなことを書けるのです。
世界中にはあらゆる情報が満ちています。
その真偽を自分の目で確かめ、目にかぶさったうろこを払い払いして、民主主義体制に属する市民としての
役割を果たさなければなりません。

そういう意味でも、大きな時代の変換期に来ているとは思うのです。
どう変換させるのかは、どこかで誰かが選んだ政治家ではなく、あなたやぼくがどう考え、
どう行動するかにかかっているのだと思うのです。
青くさい話なのですが、こういう変換期は、訳知り顔でなぁなぁに過ごすと時代に翻弄されてしまう気がします。



2005年08月18日 | 雑感
朝夕になると涼しい風が吹き始めたように思います。
近頃の夏は我慢の限度を超えてますから。
もっとも完璧なクールビズを実践して、短パン、ポロシャツ、草履で出勤してますから、
それほど大変でもないんですが。
スーツ、革靴着用の皆さん、ご苦労様でした。

友人が離婚しました。
直接の原因は旦那の浮気です。
浮気ぐらいなんだと思われるかもしれませんが、浮気は引き金としては強力です。
これ以上語るのは墓穴を掘りますのでやめときます。

で、彼女はこれから児童福祉手当などをもらいながら働いて生活を立てなければならないのですが、
前途は厳しいには違いありません。
年頃の子供を抱えて離婚するというのは、そういう現実的な困難を伴います。
困難を乗り越えて、人間的に成長すればいいなどというのは傍観者だから言えるのでしょう。
何かぼくにできることがあれば、手を貸してあげたいのですが、
いかんせん、ぼくに力がなさ過ぎます。
色男、金と力はなかりけり、です。←笑うとこ

今、雷がなっています。
しばらくぶりに降る雨です。
じゃんじゃん降ればいい。
四国にも降ればいい。
雨が降ればアンティーク屋が儲かるという諺がありますし。←ウソ

そういえば、今年は一度も海水浴に行ってません。
最近、日に焼けるとどっと疲れが出るようになりました。
このまま衰弱していくと、しゃべるのも、食べるのも疲れるようになるかもしれません。
だるい病進行中です。

昨日、何かのテレビで中原中也の詩を英語に訳して出版したアメリカ人が出ていました。

「ほんに別れたあの女 いとし思いに身もそぞろ」
とか
「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」
とか
どう工夫しても訳しようがないと思うんですが、まぁ、翻訳というのはそういうものですしね。

今日も、取り留めのない話でした。
集中力を欠いています。
ぼんやりと頭の中に霞がかかっているみたいな感じです。
雨が降ると、大抵は頭の活動も低調です。
こういう言い訳も、だらしがなく低調です。

もう黙ります。 








地震

2005年08月17日 | 雑感
盆は近場をうろうろしただけで過ぎ去りました。
仙台に帰っていたら、地震に巻き込まれていたわけで。

地震のおかげで、テレビで石巻やら女川という懐かしい地名とともに、海辺の風景が移されます。
あのあたりの沖合いは黒潮と親潮がぶつかるところで、たくさんの魚が取れます。
海に潜ると、若布の間にウニやらアワビやらが採れます。
子供のころはよく泳ぎにいきました。
子供ですから、日光浴などをするという発想もなく、暗くなるまでひたすら潜ります。
時々海水を飲んでしまったり、足をつったりするわけですが、楽しくてたまらなかったような気がします。
それでも、今ほど水温が高くなかったので、結構体が冷えました。
寒イボができました。
泳いだあと、僅かなお小遣いで、イカのゲソを醤油で焼いたものを屋台で買って食べるのも楽しみでした。

ある人の話では、9月に大きな地震が来ると言っていました。
それが今回の地震なのか、別物なのかは分かりません。
ただ、この程度の被害ではないような口ぶりでしたから、別物のような気はしています。

地震に関しては対策の取りようがありません。
天に運を任せるしかありません。
死ぬなら死んでもいいという気がします。

神戸の地震の時も、訳あって発生後5日ほどで現地に入りました。
電車は西宮までしか走っておらず、そこから芦屋までリュックと両手に食料とお菓子とを持って歩きました。
道端の古い家は屋根瓦だけを地表に残してべしゃんと潰れています。
車がいないせいでかがらんとした広い国道を、被災者たちが両手に荷物を抱えて行き来しています。
戦災にあったのと同じ状況でしょう。
かなり重い荷物を持っていたのですが、つらいとか疲れたとかという気持ちは起きませんでした。
届け先に何とか早く送り届けたいという一心でした。
緊急時というのは、人の心を意外と強くするものだと思います。
道を行く人たちの表情も、決して明るくはないのですが、力強く淡々としていました。

それから数ヶ月の間に何度も神戸に行きました。
三宮の状況はひどかったです。
建物が半分にぱっかりと割れ、内部が剥き出しになったデパート、ぺしゃんこになった神社、
灯の全く消えた飲み屋街、道の真ん中に横倒しになったテナントビル。
そんな中でも、人々は力強く、淡々と動いていました。
飲み屋街にプレハブで臨時に立てた飲み屋ができ、散乱したゴミが道端から消え、ビルの再建が始まりました。
街に灯りがともり始め、電車が動き出し、道が開通し始めました。

大きな災害にあったときは派手な煽動も、過度な悲しみもいりません。
すべきことを淡々とこなしていく強さだけが必要です。

そういえば、被災して間もない西宮の近くで、一本1000円で焼きもを売っている屋台を見ました。
寒空の下、何日間も暖かいものを口にしていない被災者は食べたかったはずです。
しかし、誰一人買う者はいませんでした。











悪循環

2005年08月11日 | スピリチュアル
明日からお盆休みを取ります。
こないだ出羽三山に行ったときに墓参りをしたので帰郷はしません。
何かをする予定はありません。
引越しのあとの部屋の後片付けと、鋭気を養うことにします。
この秋は忙しくする予定です。

今まで自分の心地のよい空間に閉じこもってきましたが、
そろそろ外に出ての修行が必要な時機が来たと思います。
具体的に何をどうするということではないのですが、とにかく、外に出るということです。
外に出れば、閉じた空間での快適さもぐうたらさも通用しないのですが、
それは修業と捉えれば、摩擦も不快感も受けていくだけです。
ここ数年、外に出て、何かをする修行をする気にはどうしてもなれませんでした。

人は無為と安楽に落ちますと、好んで妄想に囚われます。
妄想は夢の世界を浮遊するだけです。
現実の流れから、乖離します。
現実の流れから乖離しますと、自分の存在感が限りなく軽く、薄くなります。
現実にある自分ではなく、妄想の中を漂う自分が存在感を増します。

妄想生活に慣れますと、それが妄想だと分かりつつも、現実の流れに戻れなくなります。
現実の流れはあくまでもリアルで、容赦がなく思われてきます。
そんな流れに乗らなければならない自分、乗れない自分が惨めに思えてきます。
自分を惨めに思わないためにも、さらに妄想生活の度合いを深めていくという悪循環にはまります。

そういう循環を断ち切る時が来たと思うわけです。

人の身についた癖というのは、なかなか削ぎ落とすのが難しいです。
削ぎ落とそうといくら考えたところで落とせるものではありません。
癖を直すためには、言語同断に、癖のままに行動する自分を許さないことです。

つまり、無為、安楽、妄想を自分に許さないということです。

無為
何かをすることは、ちょっと考えただけでもたくさんあります。「めんどくさい」、「まぁ、いいや」という言葉で、
今までは片っ端から葬ってきただけです。
しようと思ったことはする。それだけの世界に戻ることです。

安楽
本当の意味での安楽などではないのですが、他者と関わる煩わしさ、目標に到達する面倒くささ、
「しなければいけない」という思いのうっとうしさ、そんなものから逃避したところにある安楽さです。
こんなものは、怠惰としか名づけようもないことなので、ゴミ箱に捨てればいいのです。

妄想
これは根が深い癖です。どこまでが妄想で、どこからが現実だなどと言い出すと、それこそ妄想の洪水に
溺れますので、これは「禅」の修業の手助けを仰ごうかと思っています。

どこまで阿呆なんですかね。
中学生か>おれ

ま、とにかく、不毛のサイクルから抜け出すべく、この夏、一歩を踏み出してみます。

というわけで、16日まで、ブログもお休みします。
皆様も、有意義なお盆休みを!






菩提心

2005年08月10日 | スピリチュアル
昨日私事で相談に来た人が、今日手土産を持ってわざわざ御礼に来てくれました。
ありがたいというよりは、ますますこのままじゃいけない気になります。

言葉はいくらでも言えるのです。
それなりに心も込められます。
でも、それでは埒が明かないと自分で思う心が消えません。

こういえば、こうなるという見当をつけながら物を言います。
あながち見当違いでもないから、聞く人は有難がったり、面白がったりします。
でも、何か空虚な会話のゲームに過ぎない気がしてなりません。

人に物言うぼくの心の底に本物の菩提心がありません。
菩提心とはこういうものであろうという頭で理解した役者の物言いがあるだけです。
菩提心をいくら本物らしく演じたところで、それは本物の菩提心からますます遠ざかる業となります。
演じるのが上手くなればなるほど、業は深まります。
人は、いよいよぼくに演技を求め、ぼくの業はいよいよ深まります。

このサイクルから抜け出さなければなりません。

言葉そのものでの説得よりも、ぼく自身のあり方、行動、物腰すべてが「言葉」になっているようでなくてはだめです。
無論、難しい境地です。
でも、その境地に至らなければ、ぼくのこの苛立ちや後ろめたさは消えません。

ちょっと、動いてみようかと思っています。
身辺に起こるいろいろな機縁に従って、動いてみようと思っています。
あれこれ作為を弄するのはやめてみます。
不安が3割、楽しみが7割といったところです。

なにより、前に向かって動けそうだというのが、すくんで動けなくなっていたぼくにはうれしいです。