風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

草原の風

2007年05月31日 | 雑感
今日は朝から秋みたいな空と風でした。
そのままどこかへ行きたい気分でした。

そう言えば、最近自転車に乗るとき、ハンドルの前についているカゴに鞄を入れます。
その鞄の皮の肩紐を左手に持ちます。
そうです、自転車が馬で、鞄の肩紐は手綱のつもりです。

そう思い込めば、そう思えるものです。
大草原を馬に乗って闊歩している気になります。
交差点で信号に引っかかり止まるたびに、手綱をぐいと引きます。
再びこぎ出す時は、手綱を二回ピシピシとします。

朝、出勤する時は、雲の様子を仔細に眺めます。
空というのは、毎日驚くほどその表情を変えます。
帰りは、空に浮かぶ月を眺めたり、夜の街を歩く人々の様子を眺めたりします。
耳にはイヤホンからお気に入りの曲が流れているので、その時々のそれなりの世界に入り込めます。

今朝の風は、なんか草原の風という感じの風だったもんですから、書いてみました。

ホッと一息

2007年05月30日 | 雑感
なんとか決算が終わりました。
というか、無理やり終わらせました。
税理士事務所の佐藤さん、また多大なご迷惑をおかけしました。
ごめんなさい。

でも、さすがに心が軽いです。
滝行も今週一杯で満行です。
禁煙、禁酒に加え、決算が加わった「行」でしたので、正直きつかったです。
でも、まだ数日残しています。
油断するつもりもありませんが、大切に滝に行かせていただきます。

行に入るたびに思いますが、残り3分の一を切ると、滝に入っていても、心の底からありがたいという気持ちになってきます。
滝場も、それを見守るお不動さんも、お地蔵さんも、何もかもが愛しく見えてきます。
それに、今年は新緑が格別にきれいで、滝の帰り遠回りして緑の峠道を楽しみました。

ブログまで手が回りませんでしたが、明日からまた復活させたいと思います。



新緑と決算

2007年05月21日 | 雑感
今年の新緑は恐ろしくきれいですね。
毎朝、滝の帰り道を遠回りして、峠越えの道を選んでいます。
割と大きな貯水池のほとりに、お気に入りのケヤキの大木が立っていますが、
その木がいつも金色の朝日の中で身震いするように揺れています。
金の粉を撒き散らしているかのように見えます。

滝は入るとまだ苦しいです。
身内の苦しさが来るから、仕方がないと導師に言われました。
ああ、そうか、そうなら仕方がないと腑に落ちました。
この季節の滝で、こんなに苦しい感じはいまだかつてなかったものですから、
どうしたことだろうと思っていました。
この苦しさが抜けた時、身内の苦しさも少しは楽になるみたいです。
逆に、こんなに苦しい思いをしているんだと、改めて思いました。
どうだこうだお願い事をすることもなく、日々ありがたく滝に打たれようと思います。
滝行に入ってよかったです。
南無観世音菩薩様、です。

決算は泥沼の状況を呈してきました。
手が進みません。
3歳児のように、目の前の課題から逃げ出そうとしてばかりいます。
店を出て、このままいなくなってしまおうかなどとも考える始末です。

そうは言っても、何とかするんですが。
とにかく、気が重いです。

五感の冒険

2007年05月18日 | スピリチュアル
風が妙に強い日が続いています。
今朝、滝の帰りに、遠回りして貯水池の周りをドライブして帰ったのですが、
朝日に照らされた新緑の木々が、身をよじるように強い風の中で踊っていました。
池の水面にも珍しく波紋が立ち、銀色に煌いていました。

その昔、人は神として宇宙を創り、銀河を創り、惑星を作り、自然を創り、生き物を作り、人間という神の乗り物を創ったそうです。
この3次元の世界を経験するためには、神の意識が乗るための3次元の生命体=人間が必要でした。
そこまでして3次元の経験は何のために必要だったのか?

物質を五感で味わうこと、喜怒哀楽の感情を味わうこと、最も波動の低い物質レベルでも神の神秘を感じることができること。
天使も羨む人間の経験、だそうです。
人間が当たり前のようにしてい日常の一つ一つの経験、行動、感情の動きが、天使から見ればうらやましくてしょうがないのだそうです。
それはそうかもしれません。
安食堂でうどんを食べるのも、疲れ果てて布団の中でまどろむのも、酒を飲んで管を巻くのも、
焼もちを焼くのも、好きな人をからかうのも、感情を持った肉体を持つからこその経験です。
肉体を持たなければ、うどん一つ食べることができません。
もっとも、肉体がなければ、空腹ということがないのでしょうが。
空腹がないと、空腹というのを経験したくなるのが、なんというか本来冒険家である「魂」なのでしょう。

本来、人間の想像力(創造力)というのは、凄い力があったそうです。
今でもその力はあるのですが、自分でその力があると思わなくなっているだけだそうです。
思えば、なんでも現実化する。
シンプルに思うことができなくなっていますから、思う力が弱くなってしまったんですね。

でも、この世に生まれでて、貴重な人の人生を生きています。
それを選んで、それを実現しているのは、間違いのない事実です。
天使も羨む人間であるという夢を実現しています。
愚痴やら恨みやらを言っている暇はありませんね。
生まれて来て、何をしたかったのか、思い出す必要があるかもしれません。
もう、したいことがあって、やりたくてウズウズしてこの世に生まれてきたんだと思います。

生命は楽しむこと、嬉しいこと、ワクワクすること、でいいと思います。
シンプルであればあるほど輝くはずです。

日々五感を喜ばせることから、ですかね。







苦行

2007年05月16日 | 雑感
滝行に入って5日目です。
水に入ると、まだ手足の先が痛く感じます。
最初の一分間ほどは、どうしても指先と背中が丸まってしまいます。
身体が縮こまってしまうのを止められません。
よほど身体の循環が悪くなっているのでしょう。

禁欲は、以前のように一々気にしていません。
多分、煙草の禁断症状も重なって、寝つきが悪かったり、頭がぼ~っとしたりしてますが、気にしていません。
頭がぼ~っとしたまま、冷たく痛い滝に打たれています。
今回は、気持ちがいいという感じでは全然ありません。
この感じをきちんと受け止めつつ、きちんと最後まで滝に入らせていただくような、そんな感じです。

で、この時期は決算と重なっているわけです。
見事に何一つしていないので、もう・・・。
できることからしなければなりません。
唯一確かな書類があります。
貯金通帳です。
それをコンピューターに打ち込むことからです。
といいながら、一週間経ってしまいました。
滝行よりも、はるかに苦行です。
毎年毎年、もう・・・。

物事は逃げなければ何とかなると思っています。
逃げはしませんが、身も心も重たいです。

重い時期もあるから、それから解放されたときの喜びもあるわけで。
滝行と決算がほぼ同時期に終了します。
そしたら、ビアガーデンで夕焼け見ながら思い切り・・・。
まぁ、よしましょう。

滝行、再び

2007年05月12日 | スピリチュアル
今朝は久しぶりの滝です。
初夏でもあるし、と思いながら滝に入りましたら、なかなかなじむのに時間がかかりました。
滝というのは「慣れる」ということはないのだと、改めて思いました。
滝場への参道で、持参した奉納用のお酒を落としてしまい、割れました。
ちょうどお不動さんの前で拝もうとした時です。
う~、お酒を取り上げられるという暗示なのでしょうか・・・

今雨が本格的に降っています。
明日も水量が多いでしょう。
張り切って入ろうと思っています。

考えてみれば、「滝行」がしたいときにできるというのは、ちょっとありえないくらいのありがたさです。
近場にもってこいの滝場があり、受け入れてくれる導師がおり、励ましあう仲間がいるわけです。
例によって、滝に入りますと、一日中その余韻が残ったままその日を過ごすことになります。
その日その日によって余韻が違います。
贅沢な日々の過ごし方ですよね。

それでは!


自立と感謝

2007年05月11日 | スピリチュアル
これからはどんな集団も当てにならなくなると思います。
どんな集団に属していても、一人一人の心がバラバラに動いていくように感じます。
別に悪い意味ではないですよ。
どこかの集団に属することで感じることができていた安心感や肯定感が、その効力をどんどん失っていく気がします。

それならそれで、一人一人が自分の心との会話を深めていけばいいんです。
今までは、誰かと繋がることに使っていたエネルギーを、自分と繋がるエネルギーに振替える。
今の時代は、意外と自分と繋がると言う方法論が乏しいものですから、なかなかどうしていいかつかめないかもしれません。

そのあたりは、一概にこれがいいという決定打はないかもしれません。
ある人は瞑想だったり、ある人は祈りだったり、ある人は自分の気持ちを書き連ねることだっりするかもしれません。
いずれにせよ、最終的には深いところで「生きていることの感謝」が生まれることが望ましいと想います。
「生きていることの感謝」がないと、どうしても手放しで自分を肯定することができない感じが残ります。
肯定できてから感謝が生まれるのじゃないかと思うのも当然なんですが、
強欲で迷い深き人間、なかなか自分を丸ごと肯定できる境遇まで進めません。

先祖に感謝し、周囲に感謝し、地球に感謝し、すべての存在に感謝することができれば、
要するに心からいかなる「不安」も一掃されます。
自分の存在が「感謝」そのものになりますから。

口先だけの感謝でも、はじめはしょうがありません。
現代人は心から感謝することが本当にヘタになりましたから。

前にも書きましたが、感謝すれば救われるというのではありませんよ。
これはくれぐれも混同しないで下さいね。
自分が救われるためにする感謝は、他人を利用した利己的な行為です。
大いなる安心には繋がることができません。
本当に心から感謝を感じ、心が充たされることだけが大切です。、

ぼくはある掲示板で知った方法を試していますが、試している最中ですのでまだ書けません。

それから、重要なことは精神世界に逃げこむ口実となってはならないということです。
「感謝」という理念が必要なのではありません。
「感謝が大切だ」といくらしたり顔で言っても、考えても、何にもなりません。
分かった気分になるだけです。
生きているということが、本当に感謝すべきものなのだと「知る」ことが大切です。
それを「知る」ことのできるのは、もちろん身の回りの日常です。
どこかのセミナーや講習会やワークショップではありません。
それらは、何かの入り口を気づかしてくれたり、理念を教えてくれたりしますが、
自らの心から沸き起こる感謝は、自分の日常を、自分の足で歩いていく中にしかありえません。

そして、「自分で歩けること」。
このことに対して、何よりも感謝が大切です。

群れから離れ、自分で歩き始め、そのことが「ありがたいこと」だと知ると、怖いものはなくなります。

自分に嘘をつくのも良くないです。
だれかれに感謝しろって言っても無理な話です。
まずは先祖、親、身内から、あれやこれやを思い出しながら感謝してみることからはじめるのがいいかと思います。

ぼくは明日から21日間の行に入ります。
なぜかとても楽しみです。

想念

2007年05月10日 | スピリチュアル
なにかに書いてあった話を基にした話です。

原初にあるのは「想念」。
「想念(意志)」がエネルギー化したものが「光」。
「光」が波動を限りなく落として固形化したものが「物質」。

「想念」の次元では時間も距離もない。
想うだけで対象に繋がります。
介在する空間も物質もないのですから、時間と距離が存在できません。
瞬間移動とか、テレパシーとかの世界です。
花を想えば瞬時に「花」があり、誰かを想えば瞬時にその誰かが目の前にいます。

「光」の次元で初めて「速度」が生まれる。
「伝導する」というその性質上、距離と速度が生まれる。
「伝導」とは何かから何かに伝わることですから、そこには自ずと距離と速度が生まれる。
そして「光」は全てのエネルギーの元というか、物質界を支えるエネルギーそのもの。

その「光」=エネルギーが型をまとったのが物質。
物質として型をまとったときに、「因果」と「位置」が生まれる。
その型をまとい、どういう物質的変遷を経ていくか、その過程が「因果」であり、
その因果の結果、地上のどこに存在するかが決まることが「位置」。
何らかの方法で物質の固定化を解くと、凝縮していたエネルギーが爆発するのが核爆発。

で、こうして書くと小難しく感じますが、
要は、原初の「想念」が今では曇りに曇り、すっかり見失われた状態ではないかと。
当初の「想念」を忘れていくにつれ、想念の結果に過ぎない「因果」と「位置」に囚われてしまった。
「因果」に囚われるということは、「自分の意志の力」を信じられなくなるということです。
「位置」に囚われるということは、自分の状況を嘆き悲しむ対象とすることです。

原初の「想念」が何であったかというのは、
キリスト教であれば「愛」と応えるであろうし、仏教であれば「慈悲」となるのかもしれません。
ぼくが思うに、もう一つ加えるとすれば「成長の喜び」ではないかと思っています。

「想い」→「光」→「物質」というかくも七面倒くさい過程を経てまで、
なにを人間は、動物は、地球は経験しようとしているのか。
「因果」と「位置」に拘ると、なにも見えてこないような気がします。
感謝があるから成長があるのか、成長するから感謝があるのか。
ぼくはその両者はDNAの二本の腺が絡み、螺旋を描くように同時に上昇するのではないかと思っています。

無条件

2007年05月09日 | スピリチュアル
子供を持って思うんですが、親が子供を愛するんではなくて子供から親が愛されるんですね。
子供からの無条件の愛を浴びているうちに、子供を無条件に愛していくようになる。
母親の気持ちはもうちょっと深いみたいですが、父親の場合のぼくはそんな感じです。
子供に愛し方を教わる感じです。

よく神からの愛は無条件だといわれますが、「無条件の愛」というのがピンときませんでした。
もの心ついてから我執の毒にまみれて生きて来たものですから、「無条件の愛」という言葉が
胸の中で虚しく響くだけでした。

無条件にこの素晴らしい地球上に存在させてもらうことに対する感謝の気持ちというのは、
本来は持って当たり前だったのかもしれません。

ぼくの子供もやがて「我」が芽を出し、肥大し、人を傷つけ、傷つけられるでしょう。
ぼくの子だから、「我」が暴走し、周囲を大いに困らせるかもしれません。
でも、その苦く苦しい経験を経てこそ、自分が無条件に愛される存在であったことに気が付く時、
大きな祝福と喜びに包まれるのでしょう。

人の人生はホント登山と一緒ですね。
登っている最中は、きつくて辛くて、なんでこんなことしているんだろうと自問自答を繰り返す。
道に迷うこともあるし、転落すれば命がないし、天候だってくるくる変わる。
でも、そんなこんなも、頂上に立ったら全てが吹き飛び、下山すれば全てがよき思い出。

山に限らず、路傍の花でも自ら咲かせたきれいな花を散らせ、枯れることで種子を残します。
翌年にはより多くの花を咲かせるために。
川も地上の塵芥を流し去り、土地の隅々まで命の水を行き渡らせ、海はその塵芥を養分とし、多くの生命を育みます。
自然はそのままで生きるヒントに満ち溢れています。
自然は昔のまんま目の前にあり続けてきたのですが、その自然を見る人の目が曇りに曇ってしまいました。
曇った目でいくら難しい本を読んでも、どこへ進んでいいかわからず右往左往するばかりです。

そんなこんなで、今日も五月晴れの青空です。

素直さ

2007年05月08日 | スピリチュアル
今日も快晴みたいです。
店から一歩も出ていないので、その気持ちよさを味わえませんでしたが。

昨日「素直さ」ということを書きましたが、以下は素直さについて他のところに貼り付けた文章です。

覚醒しつつ素直であるというのが一番なんでしょうね。
特定の人物や特定の思想・信条ににホイホイ着いて行く「従順さ」とは違いますね。
「従順さ」は外部の権威を前提としますが、「素直さ」は己の心が唯一の権威です。
「道」というのは自分が歩くから尊いんであって、人がどんな道を歩いていようが、本来どうでもいいことです。
自分の歩く道を嬉しく楽しく感じるのが素直さなんだと思います。
人の歩いている道が気になる人は、せっかくの自分の歩いている道端に咲いている草花や
かなたに広がる風景を見過ごしてしまうでしょう。

素直に受け取り、素直に差し出す。
心のどこにも曇りを残さず、目の前の道を楽しく嬉しく歩いていく。

そんな感じになったらいいですね。


鉛の時代

2007年05月07日 | スピリチュアル
今日は五月晴れでしたね。

連休の後半は家にいました。
赤ん坊がいると四六時中何かしらのお世話をしていなければならないのがよく分かりました。
全然嫌じゃないし、むしろ楽しいのですが、なんというか、仕事や考え事はできませんね。
赤ん坊が赤ん坊でいる間なんか瞬く間に過ぎていくのでしょうから、これはこれで大いに楽しもうと思っています。
でも、部屋にこもって、毎日毎日朝から晩まで世話を焼いている妻に対する感謝は足りないかもしれません、はい。

話は変わります。
スエデェンボルグという人は何かに導かれるように霊界を旅して回った驚異的な人物ですが、
あるとき超太古の霊の住む世界に赴いたそうです。
超太古の霊の人柄というか雰囲気は、とても素朴で好々爺のような感じがしたと言います。

で、彼らが言うには、人間の歴史にも黄金の時代があり、銀の時代があり、鉄の時代があったと言います。
黄金の時代には、人々は神と共に暮らしていたと言います。
一人一人が自分が神の分身であることを知っており、この世に生きることを「恩寵」として捉えることが出来ていたんだろうと思います。
銀の時代には、神様を崇めてはいましたが、個々人が直接神々と交信したのではなく、
それは神官やらの神職の仕事になっていったのだと思われます。
そして鉄の時代になります。
神々とのつながりは形式的なものになり、人々はおおらかに生を楽しむ気風を失っていったのではないかと思います。
さしずめ「今」はどんな時代なのでしょうか。
鉛の時代とでも言うのでしょうか。

たしか、ギリシア神話でも黄金の時代、白銀の時代、青銅の時代、鉄の時代という区分があった説かれていたと思います。

来たるべきミロクの世というのは、その黄金の時代みたいなものかと思っています。
一人一人の心の岩戸が開きっぱなしの世界。

また、霊界ではこの世の知識のあるなしや、地位・名誉はまったく通用しない世界であったと
スエデェンボルグは言ってます。
「素直さ」が何よりの霊格の高低の基準であるらしいです。

そう言えば、好々爺、好々婆という感じの人が子供のころのぼくの身の回りにもたくさんいたんですが。

失せた光

2007年05月02日 | スピリチュアル
「ここらでまとめ」はまだ書こうとは思いますが、何かの本の孫引きみたいなことを書いていてもしょうがないので、
いずれまた書きたい衝動が起こったら書きます。

連休前、長い間会わなかった身内がもの凄く暗い声で突然電話をかけてきました。
進行性のガンに侵されているのは知っていました。
どうしたのと聞いても返事をしません。
連休に入ったら日程を調節して行くからと言っても返事をしません。
調節するなら来なくてもいいと言います。
じゃあ、とにかく明日行くからと言ったら、ようやく納得しました。

久しぶりに関東へ行く新幹線に乗りました。
車中から、気高く聳える富士山をじっくりと見ることができました。

もう十年以上も訪れていない住居に、道を迷いながら辿り着きました。
玄関を開けて出てきた彼女はすっかり別人になっていました。
顔も身体もそうですが、心が別人なのです。
木炭のような光の宿らない目で、ぼくの目を探るように見つめます。

被害妄想が出てきていて、盗聴器が仕掛けられているとか、誰かが見張っているとか言い出します。
正常な意識と、混濁した意識が交互に顔を出すような感じです。
とにかく話を聞いてあげます。
いいたいだけ言っているうちに、彼女は、結局全部自分の責任なんだと言い始めました。
残酷ですが、そうだ、とぼくは言います。
この現実はぜんぶあんたが作ったものだ。
いい悪いじゃない、ただこの現実を作ったのは間違いなくあんただ、とぼくは言いました。
彼女は素直に頷きます。

で、これからどういうふうに残った人生を送るかを話しました。
いまのまま、周囲の人間を疑い、自分の人生を否定し、際限なく孤独、寂しさ、恐れの闇を再生産して行ってはいけないと。
身体も心も苦しくて、きつくて、呪わしくてしょうがないのが痛いほど伝わってきます。
それでも、残された人生を行きぬかなければなりません。
周囲の人にも、自分にも不満や疑いや呪いを投げつけているだけでは、ますます状況は地獄化します。

周囲の人がしてくれたことに対する不満ではなく、してくれたことの感謝をしろと言いました。
苦しさを分かってくれない不平ではなく、苦しさを分かってくれようとしてくれることへ感謝しろと言いました。
この事態が自業自得と分かるのなら、それを分かった今から、心を入れ替えて精一杯生きろと言いました。
身体も丈夫で、今までどおり仕事をしていたら、あんたは絶対に気が付こうとしなかった。
それほど傲慢に生きていた。
そこまで言いました。

彼女はこんなぼくの残酷な言葉も受け入れたように見えました。
それでも、心は苦しくて苦しくてたまらないように見えました。
二日にわたって、すぐ同じところ(愚痴・悲嘆)に戻る彼女の話を聞いては遮り、遮っては聞きました。

帰りの新幹線、どこまで行っても同じような建てうる住宅が立ち並ぶ日本の風景を眺め、買い込んだ水割りやチューハイを飲みました。
彼女の光の失せた目を思い出すと涙が溢れてきました。
ぼくの言葉など何の役にも立たないのはぼくが知っていました。
なにも出来ないことを知っているぼくは、彼女と会うのをずっと避けてきていたのです。
ぼくは思い知りました。
彼女の苦しみは、ぼくの苦しみでもあることを。
そこから逃げることなど決して出来ないことを。
彼女には偉そうに自分の人生と向き合えなどと言ってきましたが、自分の人生から目を逸らしていたのはぼくでした。
戦っていたのは、彼女です。

近いうちに滝の行に入ります。
彼女を支える何かが動くように、先祖供養のための行に入ろうと思います。