風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

一点

2014年06月25日 | 雑感
このところ毎日の様に弁当の配達があり、今日も午前と午後の二回に分に分けて弁当を届けました。
普段は無感動のまま、というか何も感じる余裕もないままに配達していましたが、今日は違いました。
午前中は、山を二つ三つ越えたようなかなりの郊外に行きましたが、なんというか見るもの、感じるものすべて、
車窓から吹き込む風、空に浮かぶ雲の形、風になびく樹木、すべてがあるがままに歓喜しているような、そんな感じがしました。

季節の歯車がカタリと一つ進んで、夏の気配が濃厚だったからかもしれません。
でも、なぜか車窓に流れるすべての風景が愛しく思われました。
平々凡々たる田舎道なのですが、すべてはそこにあるという感じです。
だあれにも見もされず、認知もされずとも、そこに充足してある。
うまく表現できません。
都心に近付くにつれ、運転にも気を取られるようになり、そういう何とも言えない至福感は薄れていきましたが。

午後は田舎ではなく割と都会の病院に配達に出かけましたが、その独特の感覚は続いていました。
もちろん運転に気を取られてはいたのですが、それでも高速道から頭上に広がる空はなにかを語りかけていました。
何を語っているのかはわかりません。
少なくとも、不吉なことではありません。
励ましとか、示唆とか、警告でもありません。
ただただ微笑んでる。
そんな感じです。

ただただ微笑む。
あらゆるエネルギーの終局形なのだと思います。
ただ、そこはエネルギーですから、その終局形を自ら打ち破って、混沌の宇宙に飛び込んでいくのがエネルギーというものなのでしょう。
どうやら、安心というのはある一定の状態にあるのではないようです(愛してるだとか、儲かってるだとか、人を意のままに扱うだとか)。
動き回り続けることを宿命としながら、微動だにしないエネルギー源である一点を知ること。
その一点とは何か、ということなんだろうと思います。
一点であるということは、無限と同義です。
そこに我彼の縮尺寸法を持ってくると、たちまちに勝った負けた、得した損したの毎度おなじみの窮屈な世界が現前します。

なんにせよ、明日はWCサッカーの最終戦です。
とにかく悔いのない試合をしてもらいたいです。