風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

やせ我慢

2011年10月31日 | 雑感

アメリカのドラマを見ていると、特に男は基本的に励まされたり、同情されたりといったことが嫌いなのが分かります。
どんなに親密になっても、別れるときは素っ気ないほどかっこいいという美学があるようです。
そして、励ましたり、同情する方も、それを受け取る受け取り方には一切頓着しないふりをするのが美学のようです。

この辺りは日本人顔負けの腹芸です。
乱暴に言ってしまえば、優しさを通じ合わせようとする日本人に対して、
やせ我慢を含んだかっこよさを追求するアメリカ人といったところかも知れません。

まぁ、アメリカはハードボイルドが定番の国です。
でも、ハードボイルドが流行るということは、その正反対の繊細な優しさが人々の心の中にあるということです。
ハードボイルドを地で行動する人々の間で、ハードボイルドは流行りません(キッパリ)。
無表情で人の情念を無視する人々の間で、無表情は受けません、受ける要素がありません。

やせ我慢というのは日本文化にもあります。
でも、それは大抵義理を欠いたらいかんとか、誰かの面目を失わせたらいかんとか、
おれはいいからおまえだけは幸せになって欲しい、とかだったりします。
いきなりぷいと顔を背けてどこかに行ったりはしません。
要するに自分のかっこうよさも含まれてはいますが、それだけではありません。
直接的にせよ婉曲的にせよ心情をお互いに伝え合って別れます。

ところが、アメリカのドラマを見ている限り、その心情を伝えるというのがどうも苦手のようです。
愛しているだの、昇進したいだの、真理は何かといったプラス思考の論理展開は得意なのですが、
マイナス思考を絡んだ微妙な心情吐露というのは苦手なのでしょう。

やせ我慢の方向性が微妙に違っているのでしょう。
アメリカ人は自分のかっこうよさのために我慢し、日本人は他人のためという大義名分が少しだけ多めに含まれる。
そんな感じでしょうか。

なんか酔っ払ってものすごく下らない文章を書いているような気になってきました。

 


2011年10月29日 | 雑感

昨日突然前に勤めていた会社の社長が訪ねてきてくれました。
ぼくのような人間にも一切手抜きなしにすべてをさらけだしてくれる社長です。
フランスから文化勲章を貰い、年商は数十億を超えています。
それでも、このじれったくもぐうたらな男に、心の底からアドヴァイスをくれます。

ただ有り難いだけではすまないものがぼくの胸の内に宿ります。
社長のテーマは本物の「美」を通じた感動と喜びの創造です。
そうして、周囲の誰もが疑っている環境の中で、社長は次々と壮大なプロジェクトを実行・実現していきました。
それを可能にするのが、社長の高邁な「志」です。
そういう「志」を欠いているぼくは、社長を尊敬することはあれ、真似しようと思ったことがありません。
自分に自然発生的に燃え上がるパッションこそ「志」なんであり、人の方向性を真似した「志」もどきほど嫌らしいものはありません。

そういう意味で、パッションというものに無縁なぼくのことを社長は心配してくれます。
係わる人とぬくぬくと楽しく過ごせばいいというぼくを心配してくれます。
そうのようなスタンスで今の時代を切り開いていけるほど、今の時代というのが甘くはないのを社長は知っているからです。

そして、社長のその話はその通りです。
深々と納得するばかりです。
でも、どうすればよいうのかという解決策は見つかりません。
「志」というのは、頭であれこれ考えて編み出すようなものではありません。
ずばりと心に根付くものです。
そういうものをぼくは欠けています。

なんか情けないです。
滝行をしたり、禅の修行もしています。
でも、どこか常に醒めたところがあります。
醒めたら、せっかくの修行も醒めたものになるのは当然です。

無我夢中になるということがありません。
経営者としては、致命的な欠点なのかも知れません。
なるようになればいいというのは、経営という責任を放棄したものに等しいのかもしれません。

で、そういう迷いのさなかに社長は訪ねて来てくれました。
そして、このままで終わっていいはずがないと、檄をくれました。
いつでも終わってもいいというのは嘘ではないのですが、それが負け惜しみの単なるポーズになってしまったら、最悪です。
もう一度、歩んできた道、これから歩むべき道の再点検が必要です。
自分の心が自分に嘘を言うようになったらお終いです。
本当のことだけを心が言うようにするには、妥協のない修練が必要です。

あえて、振り出しに戻ろうと思います。


再び仙台へ

2011年10月26日 | 雑感

先週末仙台に帰ってきました。
石巻にも行ってきました。
前回は行けなかった沿岸部の松島寄りのところに車を走らせたところ、そこはまだ何も手つかずでした。
3月11日のまま、破壊された家屋と瓦礫が延々と泥に埋もれていました。
大型ダンプがひっきりなしにその地域に入っていましたので、これから瓦礫の除去が開始されるというところだったのでしょう。

それに比べて、仙台の街は以前よりも大分活気づいているように思いました。
復興需要の拠点が仙台ですから、お金が回り始めているのかも知れません。
仙台の三越にはティファニー、ブルガリなどの高級ジュエリー店が入っていましたが、どの店にもお客がいました。

前回と同様に作並温泉も行きました。
前回は新緑の時期でしたが、今回は紅葉の時期を迎え始めていました。
露天風呂の下を流れる渓流には相変わらずイワナだかヤマメだかの魚が泳いでいました。
20cm程の魚がペアで泳いでいるところに、一匹の同種の魚が入り込んできました。
するとペアの片割れが猛烈な勢いでその迷い魚を追い散らかしていました。
おそらく夫婦になったペアなのでしょう、縄張りから追い出したようです。

まぁ、その他にも所用があったのですが、それは割愛します。

なんにせよ、故郷に帰る度に色々な感慨が湧きます。
一々感想を数え上げることは止しますが、総じて働いている人たちの感じが良かったです。
特に若い人たちの感じが良かったです。
今若い人が感じが良いのはもしかして東北なのかも知れません。

福岡から仙台への直行便が取れなかったので、東京経由で行きました。
浅草で一泊しました。
張り切ってホッピーを飲みに行ったのですが、なんか以前の素朴さが失われているような気がしました。
観光地化されてしまっている感じがしました。
上野のガード下に行けばまだまだ大丈夫だとは思うのですが。


正気

2011年10月18日 | 雑感

このところ10時間以上寝ていて、体調も復活気味です。
なんだか下腹部に地雷を埋め込んでいるような気分ですが、無茶しなければ大丈夫でしょう。

これからの時代はおそらく他人の目を気にしていても、なんの効果も発揮しなくなる予感がします。
いかに自分自身の心身をシェイプアップするか。
それにかかっているように思います。

他人の目を気にして何かをするのではなく、他人のために何を出来るかをシンプルに考える。
人の評価を気にせず、自分の選んだ道を突き進む。
自分が心の底から幸せだと感じる瞬間こそを信じる。
そんな感じなんだろうと思います。

人の評価を気にして、その評価の基準に沿って生きていけば良いという時代は終わってます。
自分が自分の人生に評価を下し、自己評価が低ければ頑張るだけだし、高ければさらなる高みを追求するだけです。
くよくよ悩む余裕はなくなりますから、くよくよ悩むタイプの人は、変えられるものならば方向性を変えた方がいいと思います。
悩むというのは時代に色々な意味で余裕があったからこその習慣です。
本当の意味での悩みなら真剣勝負ですが、悩むのが常態となるのは贅沢病です。
悩もうと思えば身辺すべてのことに関して悩むことは出来ます。
でも、今後は悩んでいる人に親切に手を差し伸べてくれる人が存在できないほど余裕のない社会が来ると思われます。

なんだか政界、財界ではTPPをなし崩しに推進しようとしています。
これが通れば、日本は日本でなくなります。
日本人がユダヤ人のように流浪の民となる可能性が大きい条約です。
一度参加してしまえば、その恐ろしさに気がついても、一抜けたとはいかない世界との契約になります。

円高(日本のものが売れない)のこの時期に、自由貿易にしたら農業だけではなく国内の産業すべてが崩壊します。
さらには、人的交流の自由化も含まれています。
低賃金でも働こうとする人々は世界中から日本に押し寄せてきます。
ただでさえ国内でも仕事にあぶれている人が増え続けているというのに、海外から労働力を流入させれば、
日本という国は死にます。
外国資本に乗っ取られた企業は存続する可能性はありますが、日本という国は死にます。
人種国籍が雑多に混淆した無国籍国家ができあがります。
そんな国に魅力を感じますか?

円高になったら不況になるとメディアはしょっちゅう騒ぎ立てます。
そりゃ自動車をはじめとした輸出産業はダメージを食らいますが、大多数の国民にとっては円高というのは、
本来豊かさを謳歌するチャンスなのです。
大英帝国でも、かつての栄華を誇ったアメリカでも、世界でダントツに通貨が強い国でした。
通貨が強ければ、上質の資源を輸入し、国内のインフラをどんどんグレードアップすれば良いのです。
町や村に運河を通すのでもいいし、ビルの屋上は片っ端から緑化するのでもいいし、
景観のいい至る所に遊歩道を設置するのもいいでしょう。
そうすれば国内でも通過が循環し、市場に富が流通します。
上手くやりさえすれば、日本が世界中で最も豊かな国になれるチャンスだとぼくは思っています。

でも、絶対にそうなりません。
不思議でしょうがありません。
日本人が稼いだお金が、どこかに吸い込まれています。
で、TPP加入となったら、ジ・エンドです。
簡単に言うと、日本が勝つことを許さない世界的な条約です。
日本の蓄えた富は無条件に吐き出せという条約です。

これを推進している政府、経団連、マスコミ、正気の沙汰とは思えません。
まぁ、ここ数年、こんなのばっかりです。


積もる感情

2011年10月17日 | スピリチュアル

身体に長年の疲労や老廃物や毒素が蓄積するように、心にも解消されない悩みや痛みや後悔が蓄積されます。
それらが積もり積もって、あるとき無気力や絶望感やらに襲われます。
それを解消する方法としては、どんなものがあるのかと考えてみます。

薬やアルコールは論外です。
さらなる後悔を蓄積させるだけです。
旅行やレジャーで気を紛らわすという方法も、気を紛らわすだけで、積み重なったマイナスの感情を昇華する力はありません。
心療内科や精神科に通ったところで、適当な薬を処方されるだけです。

マイナスの感情というのは、プラスの感情を持って正面から対峙したときにのみ、初めて解消されるもののようです。
何しろ自分の心が相手ですから、一切のごまかしが効かない相手です。
無気力や絶望感に囚われているときに、どんなプラスの感情を持って、自分の心に蓄積されたマイナス感情に対峙できるでしょうか。

そんな否定的な感情に支配されているときに、自分の心と対峙するというようなハードな闘いは無理です。
勝ち目がありません。
何もかもが嫌になってしまうのがオチです。
それではどうすれば良いのか。

誰かに相談したところで、いつかどこかで聞いたり読んだりしたことのある言葉が返ってくるだけです。
要らぬ慰めや心配は帰って息苦しくなるだけです。
自分の心の問題は、誰かに頼れば頼るほど、問題解決の道筋から外れていきます。
それではどうすれば良いのか。

一旦、自分の心を捨てきることです。
何とかしたいという気持ち、救われたい気持ち、辛いという感情、どうしようもなさで得体の知れない怒りにも似た感情。
そんのものを一切合切無条件に捨てきることです。
無条件というのがポイントです。
心を「無条件」という虚空にも似た空間に放り投げてしまいます。
そうするとその心が各種様々な否定的な感情で痛んでいるのが見えてきます。
もう限界を超えて心が痛みにもだえているのが見えてきます。

さて、それからどうしたらいいのでしょう。
目をこらしてその痛みの一つ一つを見ていきます。
一つの痛みに焦点を当てたら、その痛みと同化して、その痛みを再体験します。
なぜその痛みが起きたのか。
誰によってその痛みは引き起こされたのか。
そうして、なぜ自分はそれを痛みとして経験しようと選択したのか。
それを痛みとしてではなく、何かの学びとして経験することは出来なかったのだろうか。
何かの学びの経験にそれをすることができたなら、それは痛みではなく「喜び」に変えることが出来たのではないだろうか。

そうやって一つ一つの痛みを「喜びの経験」に変換していく作業が成功したなら、その痛みの炎症は鎮まります。
こう書いていても、とても面倒くさく、根気の要る作業になります。
でも、これが人知で出来る心の癒やし方の限度であるように思います。

その他に方法はないのかといえば、あると思います。
どの宗教に限らず、「祈り」の世界に没入することです。
「祈り」の世界には、その世界に完全に入り込めさえすれば、「自分が、自分は、自分の」という自我の世界が消えますから、
自分の感情の蓄積も消える可能性があります。
ただ、現代の理屈っぽい人間にとって、「祈り」の世界は近そうで実際はとても遠い世界です。

お勧めは、やはり「禅」といいうことになりそうです。
マイナスの感情も、プラスの感情も、自分自身をぶん投げた地平からその世界は開けます。
(人の自我が)何かがあって欲しいと思えば、何もない世界でもあり、何もなくても良いと思えば、
なにひとつないものはないという豊穣の世界が広がります。
自我の関与できない無限の世界です。
そこに入れば、心に蓄積された感情などは心のウンコが積み重なっただけです。

まぁ、言葉は汚いですが、そんなもんです。
適当に書き始めたら、最後は禅のお勧めになりました。
チャンチャン。

 


正念場

2011年10月16日 | 雑感

前線が通過し急に秋めいてきました。
サツマイモの収穫も終わり、冬野菜の植え付けが始まっています。
大根とカブを植えたいのですが、一度は枯れかけたカボチャが復活して実を付けて畝を占領しているので、抜くに抜けません。
白菜、キャベツ、ブロッコリーなど、冬野菜はアブラナ科が多いのですが、去年畑を始めた頃はアブラナ科の野菜は、
植えるやいなや片っ端から虫にやられたものです。
今年はぼくも勉強して、アブラナ科の間にキク科のレタスやサンチュを植えてみたところ、虫の被害が今のところありません。
虫の被害がないのはそのせいだけだとは思いません。
全般的に虫の個体数が去年に比べて極端に少ないです。
トンボの姿を見ないということは前にも書きましたが、チョウチョの数も激減しています。
秋空に群舞していたチョウチョが、数匹そこらを舞っているだけです。

まぁ、異変は色々な側面で噴出中です。
何かがおかしいと思い始めた民衆のデモが世界中に拡散中です。
革命だとか改革だとかいうデモではありません。
いかなるイデオロギーからも自由な、心の叫びのデモです。
まったくデモ隊自身が組織化されていませんから、甚だ脆弱ながら、しぶとく拡散していくでしょう。

ぼくの身体も異変が起きました。
黒々とした色の下痢が続きました。
これはやばいとその日はおかゆにし、酒を控えました。
次の朝もおかゆにしました。
下痢が治まったので、数杯の焼酎で我慢しました。

そのいきさつを友人に話したところ、黒い便は胃か十二指腸のからの出血による由。
ネットで調べたら、その通りでした。
不摂生自慢をしている場合ではありません。
無駄な酒は飲まない。
本気で養生しないと、後がないかなと強い予感がしました。

で、今日も酒を控えようと思っていたら、夕方になって道場の仲間が店に来て酒を飲ませろといいます。
当然酒宴になります。
なぁ~に、こんな流れに負けるものかと思うのですが、その思いは甚だ弱々しいです。

これからますます、自分の心の中に、なんでもスパリと切れる名刀を持つ必要があります。
切るのはもちろん、自分のいい加減さ、都合の良さ、傲慢、怠惰、etc。

いつだって天は適切なときに、的確な示唆を与えてくれています。
それに気がつきながら、それを無視すれば、最悪的には破滅です。
観念で破滅を思い描いても案外平気なものですが、現実の破滅が生身の身体に襲ってくれば、そりゃもう井戸の底です。

変えるべきことを変える勇気と素直さを持たなければいけません。
正念場です。
いつだって正念場なのですが、特に今は正念場です。
そのチャンスさえ逃すようなら、自分で自分に見切りを付けるしかありません。

なにはともあれ、よみがえれトンボ、よみがえれモンシロチョウです。
きまじめにこの世を考えたら生きる意欲を失います。
大いなるユーモアでこの世を乗り切るしかありません。

 


紺青色

2011年10月05日 | 雑感

今、NTT西日本のカレンダーをぼーっと見ていました。
今月10月のテーマは「紺青」です。
毎月、日本の色彩をテーマに、渋い風景写真が展開されています。
どこかの入り江の上方に、金色の満月が浮かんでいます。
岩礁に寄せ来る波がその満月の光の帯を映し出しています、
その光の帯と、漆黒の海面との微妙な境目が、いわゆる「紺青色」になっています。

ぼくの最も好きな色が紺青色かもしれません。
上質なビルマ産のサファイアの色です。 
その色には、なにかすべての雑念が静まりかえるしかない、威厳のある静謐があります。
一切の言葉を超えた思いやりがどこまでも深く沈んでいきます。
赤系統の色が、表現される思いやりを顕わすならば、青系統の色は、表現を控える色なのかも知れません。

自分が何かに包まれて永遠に眠るとしたら、ぼくは紺青色の光りに包まれて眠りたいです。
こればかりは人それぞれに違うのでしょう。
ピンク色がいい人もいるでしょうし、黄緑色がいい人もいるでしょう。
どの色がどうだこうだということではありません。
ただ、ぼくが紺青色というものにわけもなく惹かれるということです。

音色という言葉があるように、匂色、味色、蝕色というのもあるような気がします。
これもまた、人それぞれに好きな音の旋律、匂い、味、触感が違います。
だからこそ、この世は色々な音楽、香り、料理、衣服や寝具といったもに溢れています。
文化というのはすべからく色、音、匂い、味、触感の五感の組み合わされた百花繚乱です。

でも、この紺青の色を見るとき、すべての百花繚乱がなりを潜めるような感じがします。
すべての五感の奔流は、紺青の色に吸い込まれていく。
そんな感じがします。

あらゆる自己主張も吸い込まれます。
あらゆる欲望も、観念も、創造も、吸い込まれます。
残るものは、漆黒の闇と金色の光の間にわずかに浮かび上がる「紺青色」。
シブイです。

写真はネット上で適当に探したものです。

 

 


腑抜け

2011年10月02日 | 雑感

写真は伊勢白山道さんのブログから転載しました。

http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/c88f5e456af012a58ca9ee08565a206f

もう一目見ただけで心が苦しくなります。
死んだ妹を背中に負ぶったまま焼き場にやってきて、直立不動で焼き場を見つめる少年。
母親も父親もいない中、少年は妹を守り続け、その甲斐もなく妹は死んでしまった。
二人ともそんなに痩せこけてはいませんから、妹は何かの病気で死んだのかも知れません。
薬だって手に入らなかったのかもしれません。

絶望という言葉でさえ少年の目の色を表すには言い足りません。
死体を次々と焼く焼き場の前で、少年は直立不動で立っています。
妹の死体が焼かれ、煙になって空に上っていったあと、少年はどこへ向かったのでしょうか。
帰る家はあったのでしょうか。
妹が最後に残されたたった一人の家族だったのかも知れません。
軽くなった背中に気がついて、たまらなく寂しく、辛く、悔しくなったのかも知れません。
生きる気力を振り絞って、どこかで生き続けてくれたことを願うばかりです。

戦争は言うまでもなくこういう悲劇をそこかしこにどかどかと容赦なく作り出します。
そういう言葉を絶する悲劇を乗り越えて、この国のご先祖様は立派な大国を再び立ち上げました。
立派な大国になったら、今度はわけも分からない複雑な不透明さに取り囲まれて、人の心は苦しみ出しました。
妹を理不尽に奪われる悲劇と比べようはありませんが、わけの分からない苦しみというのも、別の意味で苦しいものです。
わけが分からないだけに、きちんと問題に対峙して、きちんと乗り越えていくと言うことが出来ないからです。

苦しさはいつかは終わると信じられたなら耐えることが出来ます。
いつ終わるとも知れない得体のしれない苦しさは、耐えるのが難しくなります。
少なくともぼくは、この少年のように悲劇に面して直立不動で現実に対峙する気概と勇気とを持ち続ける自信がありません。
たった一人で妹を背負い、焼き場に行って、妹の昇天を見届けることは出来ると思います。
ただ、この今の時代のわけの分からない複雑怪奇な気の乱れ具合を直立不動で見守る胆力はありません。

正直に言って、逃げ出せるものなら逃げ出してしまいたいです。
でも、虹の彼方にもやはり逃げ出したくなるようなこの世がどこまでも連なっているのを知ってしまっています。

直立不動で何事にも対峙する。
それだけのことがとても難しいです。

ぼくは腑抜けになってしまっているのかも知れません。