風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

直接体験

2011年06月30日 | スピリチュアル
ぼくもずいぶんと精神世界を探索してきた方だとは思いますが、最近はその熱がだいぶ薄れてきたように思います。
興味がないということではなくて、探索をしてきてある程度の地図が頭の中でできてきたかなぁという感じです。
霊能者といわれる人たちの間で、あるいはコンタクティーと呼ばれる人たちの間で、言うことが食い違うことが多々あります。
要するにいくら探索を広め深めたところで、これ一つという世界像には行き着きません。
そういう人たちの数だけ、多種多様の世界像が提供されていると言っても過言ではありません。
ぼくは彼らがウソやでたらめを言っているとは思いません。
彼らが観ているもの、感じているもの、聞こえているものが違うのでしょう。
どんな存在が彼らに介在するのかは、彼らの個性や人格や道徳性や理解力や想像力によって違ってくるのでしょうから、
発せられるメッセージも食い違って当然だと思うようになりました。
そんななかで、どの人のどのメッセージをどれくらい信用するかというのは、
ぼく自身の個性や人格や道徳性や理解力や想像力によって選択されていきます。
もうこれは致し方のないことです。

何かで読んだ話があります。
ある未開の地の海辺に一艘の帆船が近づいたのだそうです。
ところがその地の原住民にはその船の姿が見えなかったそうです。

つまり、人というのは自分が見たものの意味やら名称を知らなければ、脳の認識の対象にならないということです。
ちょっとありえないような話かもしれませんが、そこの原住民がよほど純朴で警戒心を知らない人たちだったのなら、
ありえるかも知れない話だと思います。

自分が真理だと思う事象についても同じで、自分の個人的な経験、理解力、想像力、方向性によって、判断します。
何を真理とし、何を偽とするかは、その真実性ではなく、当人のキャラクターによる恣意的なものということになります。
例えば、宝石が美しいというのは何も万人に共通したものの見方ではありません。
美醜だけではなく、旨い不味い、善悪、真偽、なんでも個々人のフィルターを通して決定されています。
聖書を読めば誰でもクリスチャンになるわけではありません。
坐禅道場に通えば、誰でも仏性というものを掴めるものでもありません。
UFOと呼ぶしかないものを実際に見たとしても、それでも信じない人だってたくさんいます。
すべての現象自体、すべての人々に共通して認識されているのではなく、ある人には重要な事象が、
ある人にはどうでもいいことだったりするのが、現実の我々のあり方です。

同じことが精神世界でも言えるということが分かってきたように思います。
精神世界だから、きっと深遠な本物の世界が広がっていると思うのは間違いです。
人の世界よりも広く深いだけに魑魅魍魎の世界が複雑怪奇に層をなしている世界でもあると思うのです。
その世界においても、何を真とし偽とするか、美醜、善悪も同様にそれを探ろうとする個々人の資質によります。

ですから、現実世界の事象に対する判断も人それぞれテンでバラバラなように、
精神世界に対する各事象に対する判断はさらに複層化して、テンでバラバラにならざるをえません。

なにが言いたいのかというと、人は見たいものを見、知りたいものを知るだけだということです。
真実や真理というものは、当人にとっての真実や真理であり、同じものを見て同じように感じる、
つまりは同じ価値観を持つ人とのみ分かち合えるものです。

精神世界においても同じことのようです。
その人の資質と同質のものに惹かれていくだけのことです。
ただ、そういう相対的な世界観を超えた絶対的な境地がないかというと、ぼくはあると思っています。
そうなるとそういう世界を精神世界とは呼ばなくなるわけですが。

まぁ、十人十色の精神世界を覗き回って、あれこれ比較対照するというようなことは飽きてしまいました。
きりがないのです。
今でもおもしろいことはおもしろいのですが。

後は3次元的な思考法に閉じ込められた人間が、どこまで絶対的な境地に近づけるかというのが今の興味です。
滝行や禅も一つのツールです。
思考では決してたどり着けない直接体験です。
なかなか一筋縄ではいきませが。

無敵

2011年06月25日 | 雑感
梅雨明けかと勝手に判断して、一旦塩漬けした梅を天日に干したら、雨がぼとぼと降ってきました。
天気予報もダテではありません。
干した梅が濡れてなければいいのですが。

漬けたラッキョウがいい感じに仕上がっていました。
砂糖が足りない感じですが、ぼくにはそれでいい感じです。

このところ、神社仏閣に行った方がいいという人と、行かない方がいいという人に分かれています。
それぞれ理由があり、それなりの説得力はありますが、まぁ、人それぞれの素直な心に従うのがいいでしょう。
ぼくは行きたくなったら行きますが、行かなければならないというような気持ちはありません。
神社というのは、基本的に呼ばれていくようなところのような気もします。
呼ばれなくても行ってもいいでしょうが、なんというか、パワースポットと称して、何かを「貰う」ものではないような気がします。
何かを「上げる」ところのような気がします。
そのあたりは、人それぞれの縁やらなんやらがありますから、言葉を濁すしかありませんが。

「日月神示」が世の中で大々的になってきました。
ぼくが初めてそれに触れたのは4年くらい前だったと思います。
「日月神示」の紹介者として知られる中矢伸一の本の古本をアマゾンで片っ端から購入して、読みあさりました。
こういう本は読むに耐える人と耐えない人がいるように思います。
どちらがどうということではありません。
それでいいのだと思います。
決して実証されえない世界で遊ぶ人と、遊べない人あるいは遊ばない人。

逆に言えば、果たしてこの世の中で有史以来実証されたものなどあるのか、という議論も成り立ちます。
例えば、生命の意味。
例えば、存在するということ。
例えば、愛するということ。
これらは実証されるものではなく、方向性としてしかありえないものではないか、という議論も成り立ちます。

方向性というのは、ある段階まで到達すればよいというものではなく、無際限に突き進もうとする性向ですから、
再現性を趣旨とする実証科学の範疇を飛び出していきます。

方向性を問うのか。
確実性を問うのか。
人の態度はその辺りで分かれるのでしょう。

なんにせよ、人の人生は数十年の一度きりです。
悔いなく生きるということは、なかなか難しいことです。
なぜなら、一人の人生の生き方は、他人の生き方を参考にすることはできますが、他人の生き方をなぞることはできません。
なぞることができない以上、自分の歩いた人生に対する評価は、自分が歩みを止めるとき、つまり死ぬまで分かりません。
あくまでも自分の前に広がった風景の中を、自分の足でルートを探して歩いて行かなければなりません。
分からぬ行き先を、分からぬ意志で歩みを進める以上、はたしてそれが悔いが残るのか残らぬのかなど知りようがありません。

まぁ、どんなに自分の眼前に見慣れぬ風景が広がったとしても、そこを突き進むことを楽しめる境地になれればいいのですが。
そういう意味では、禅というのはとてもいい修行法だなと、今改めて思いました。
今ここの主人公になるというのが禅の眼目だからです。
どういう風景が目の前にあろうが、そこで自由活発に自分の生命を躍動させる。
ある意味、無敵ですね。

無敵。
いい言葉です。



タフでクール

2011年06月21日 | 雑感
神棚の榊の花が咲きました。
スズランの花みたいに小さく可憐な花が咲きました。
今日は梅雨に晴れ間、久しぶりの強烈な日差しです。
ベランダの植えたばかりのミニトマトの苗にたっぷりと日が当たっています。
店の玄関脇には水瓶を置き、お客さんに貰った金魚を3匹入れました。
朝一回餌をあげるのですが、水面にぱらぱら餌を撒くと、匂いをかぎつけるやいなや水面に急上昇し、
猛烈な勢いでむさぼり食います。
九州のここら辺りは安泰です。

先週いっぱいは毎日禅の接心でした。
その前の週はまでは、父親の葬式があったり、決算でてんてこ舞いしたり、友人が来たり、
その合間合間に畑に行ったりで、バタバタでした。
ラッキョウも漬けましたし、梅干しも仕込んでいます。
それから、娘の父親参観にも行きました。
飲みごとも接心中以外は毎日のようにありました。
少々疲れています。
というより、疲れが抜けません。
おそらく肝臓が疲れているのだと思います。
滝にはまだ行けていません。

今朝、夜中の2時頃に目が覚めてしまいましたので、本棚で目に付いたというか、目が会った本を読みました。
村上春樹の「羊をめぐる冒険」です。
20年以上も前に読んだ本でしょうか。
今読んでみてもとてもおもしろく感じました。
例によって、世俗と距離感を上手く持てない主人公と、意味ありげな特徴を持ったシニカルな女性と、
タフでクールな男たちが登場します。
この物語の進む時代背景と東京の風俗はぼくも辛うじて知っていますから、そういう意味でもおもしろく読めます。
村上春樹の文体の洒脱さから、チャンドラーやカポーティーやフィッツジェラルドなどからの影響を、
自他共に認め云々されていますが、ぼくはどちらかというと初期の頃からヘミングウェイやドストエフスキーの
創り上げた世界像の影響が強いと見ていました。
ただ、初期の頃には、本人がそれに比肩するだけの世界像を自分なりの手法で創り上げる覚悟と自信がなかったのだと思います。
最近の彼の小説(「1Q84」)は、彼なりの世界像を大胆に深め、拡げているように感じますが。
なんにせよ、読み始めたら止められなくなり、焼酎の水割りのお代わりを3回して、夜が白み初めて眠りにつきました。
あ、だから今ダルイのか(笑)

とにかくも、ぼくももうタフでクールな生き方に憧れる年ではなくなりました。
無口でへらっとした爺さんになれば、それでいいやと思っています。
世間を見てもイライラせず、余計なお世話もせず、話しかけられれば笑顔で応え、自転車で海を見に行く、
そんな爺さんになればいいです。
年頃になった娘がなんと思うか、などということは全く気にしない爺さんになりそうです。

今日も今からFMです。
なんでもネイルアートの店をしている人みたいです。
ネイルアートをしている人のゲストはこれで何人目でしょうか。
ネイルアートについてぼくが興味を向けることは、猫が野菜の作り方に興味を向けることに等しいです。



ある瞬間

2011年06月07日 | スピリチュアル
どうやら本当に梅雨入りしたみたいです。
あっという間に初夏が通り過ぎていった感じです。

ここ数日、異様に身体がだるいです。
知り合いもそう言ってました。
そんな中でも昨日はあえてスポーツジムに行きました。
一ヶ月以上ぶりのジムでしたから、少々きつかったですがいつもどおりのメニューをこなしました。
そのせいか、今日は別の意味で身体がだるいです。

さて、先日ふと感じた瞬間があります。
考えとか感情といったものではありません。

そのときは、支払いのことやら、震災のことやら、あれやこれやで進展きわまるという感じでした。
神経も頭もすり減っていくような、そんな感じでした。
朝起きて、朝日が溢れるベランダに出て、山並みの緑をぼんやり眺めていました。
ふと時間が途切れ、違う流れにぼくという存在が入り込んだような気がしました。
とても寛いだ、甘美な感じの時空間です。
すべてが赦され、喜び合う、そんな感じの流れでした。
その流れがぼくの全存在を満たしたかと思うと、すうっと消えていきました。
後にはいつも通りの日常が再び流れ始めていました。
街のくぐもった朝の騒音、鳥の声、プランターのハーブを揺らす風。

ほんの一瞬ぼくを満たしたその流れの感触は確かにぼくの中に消えずに残りました。
それを思い出すと、一瞬にしてこの現実のあれやこれやらが、その存在意義を失い、虚空に消えます。
思わず笑みがこぼれてしまいます。

こうやって言葉に置き換えると、とても表現し切れていないのを感じます。
悟りというのとは違います。
元々自分の中に流れていた流れを垣間見たような、そんな感じです。
おそらくは人の中には三次元的な現実の思考的心理的な流れと、超次元的な分析を超絶した何かの恩寵の二つの流れが
併行して流れているのではないかと思います。
自分の都合を優先しようとするという利己的な流れと、すべてがそのまま尊いという無私無欲の流れ。
どちらも生命という流れの支流ではあるのでしょう。

どっちの流れが本物だということではありません。
自分のことで頭がいっぱいになることもあるでしょう。
被災地の人のことで頭がいっぱいになることもあるでしょう。
その二つをどう融合した道を作れるかというのが、生きるということの課題なのでしょう。

広場

2011年06月05日 | 雑感
6時半を過ぎていますがまだ外は明るいです。
6月は一番日が長い。
こんな日は広場に面したカフェに座って2時間くらいおしゃべりするのがお洒落でしょう。
東京に路面に面した野外カフェが出来はじめの頃、テーブルに座っているカップルたちが妙に緊張していたのを覚えています。
日本には広場がありませんから、車のブースカ通る騒がしい道沿いのカフェにならざるをえません。
通り過ぎる人々もショッピングや観光というよりも、仕事関係であったり、通勤であったりします。
さすがのカップルも緊張せざるをえなかったと思います。
今はだいぶこなれてきているのだとは思いますが。

ヨーロッパの街というのは、広場広場を網の目のような道で繋いでいます。
広場ごとにカフェがあり、噴水があり、教会があったりします。
そして広場ごとに特色があり、集まる人々の人種が違ったりします。
人種というのは国籍とか肌の色の違いと言うことではありません、念のため。

歴史の浅いアメリカの古い町にも、頑張って広場が作られました。
マディソン・スクェアとか、ワシントン・スクェアとか、スクェアというのは広場のことです。
スクェアがあるところには人々が集まりす。
なにをするでもなく、行き交う人々を眺めます。
季節の移り変わりを感じたりもします。
四季の移ろいをどの国の人も感じて味わっています。

日本でも縄文時代や弥生時代には広場を中心に集落が形成されていたはずです。
いつ頃から日本の街から広場というものがなくなっていったのでしょうか。
おそらくは戦国時代の戦術的な問題で、細い路地だらけの街並みにしていったのだと思います。

ともあれ、今の日本には広場という機能を果たす空間はなくなってしまったように思います。
そのかわり、無味乾燥な滑り台やらなんやらセンスの乏しい遊具が標準装備の公園はあちらこちらにあります。
大人の空間ではありませんね。
かといって、子供が喜んで行きたいと思うようなところでもない気がします。

なにを言いたいのかというと、四季の風情の豊かさを誇る日本の国民が、四季を十分に楽しみ味わっているのだろうかという疑問です。
人はお金を出してまで、他国の自然の風景を愛でに行くものです。
足下を見れば、世にも希なる四季折々の風景が広がっているのが日本でもあります。
なんとか楽しむ仕組みを作っていけたらいいなと思うまでです。

なにも名勝景観地を作ろうというのではありません。
その土地土地に季節ごとに渡る風を感じられるところがあればそれでいいのですが。



欲深

2011年06月04日 | 雑感
今朝は4時過ぎに目が覚めましたのでそのまま畑に行きました。
畑は夜露でぐっしょり濡れています。
空が白んでくるにつれて、鳥たちが鳴きだし、モンシロチョウチョが飛び回り始めます。
東にオレンジ色の太陽が昇り、空に雲がたなびきます。
ぼくはといえば、大きな麦藁帽子をかぶって、作業着に長靴です。
誰にも邪魔されず、誰をも邪魔しません。
ナス、ピーマン、キュウリ、カボチャ、トウガラシ、ダイコン、ホウレンソウ、トウモロコシ、シソ、バジル、カモミール、
イタリアンパセリ、ジャガイモ、ブロッコリー、チシャ、トマト、アスパラガス、ブルーベリーのお世話をします。
それに加えて、先日枝豆とショウガを植えました。

さらに違う畑に行ってみると、畝一面に雑草が生い茂っていてがっかりしました。
その土地を耕したときに、なんだか昆虫みたいな形をした堅い球根が地面にびっしりと張り巡らしており、
面倒くさいのでそれをそのまま土に鋤込んだら、とても頑固な雑草が一面に生えてきます。
そのせいでショウガもサトイモも芽を出しませんでした。
シシトウもピーマンも枝豆も雑草に負けました。
辛うじてトウモロコシとカボチャとサツマイモはひょろひょろと生えています。
このまま何回繰り返しても同じでしょう。
一度徹底的に雑草を取り除かなければなりません。
マルチシートという黒いビニールのシートを畝全体にかけ密封し、夏の日差しに晒して、
雑草の根や種や雑菌を一度根絶やしにしなければなりません。
まぁ、これもやってみなければ分からない経験です。

それから、一日に生きそびれた若松の恵比寿様に月初めのご挨拶に行きました。
それで家に帰っても十分に出社に間に合います。
夏に早起きすると、とんでもなく豊かな時間が使えます。
まぁ、それはそうなのですが今は少々眠たいです。
明日も早起きできたら、久しぶりに滝に行ってこようかと思っています。

どこにも不足はありません。
体力の衰えは日々感じるわけですが、スポーツ選手じゃあるまいし、どうってことはありません。

政治の体たらくはちゃんと見ています。
ものを言う気にもなれません。
小学校の生徒会並みというか、小学生より欲深なだけに始末に負えません。



正念

2011年06月03日 | 雑感
昨日は東京の友人が遊びに来たので、一緒に畑に行きました。
車中なんやかんや話をしたのですが、楽しかったです。
昔の友人に会うと、そのまんま昔に戻るのでなんか愉快です。

億という単位のお金を動かしている人なのですが、そういうことは関係ありません。
一緒に食事をして、冗談を言い合っていればいいわけです。
この人はお金を扱うことにはたけていますが、女性に対する扱いがはっきり言って上手ではありません。
真面目というか、不器用というか、なんか女性に対する期待値が大きすぎるような気がします。
適当にあしらうということができません。
あしらうというと聞こえが悪いですが、男だってかなり適当に女性にあしらわれています。
お互いに上手にあしらい合えば良いだけのようにぼくなんかは思います。

まぁ、そういうのはほんと人それぞれです。
どれが正解ということはありません。
歩きたい道を歩いて、見たい風景を見ているだけなのでしょう。
他人がとやかく言うたぐいのことではありませんが、昔の友人だから、ぼくはずけずけと思ったことをいいます。
彼も楽しそうに自虐していました(笑)

その上、彼はうちの商品を何点かまとめ買いしてくれました。
宝石ですから欲しくはなかったのでしょうが、ぼくを助けてくれようとしてくれたんだと思います。
こうやって、いつも誰かに助けられてぼくは生きてきました。
翻って、ぼくは誰かに手をさしのべているのだろうかといつも自問しますが、答えは出ません。
気まぐれで手を差し伸べることがあっても、気が変わってその手を引っ込めるというようなことを繰り返しているような気もします。
なんにせよ、信念というものを持っていないような気がします。
下手な信念なら持たない方がいいでしょうが、大きな意味での生きる信念は持たないと、なかなか人生の難関を突破できません。

禅の世界では「正念相続」ということがやかましく言われます。
つべこべ考える以前の本来の自分が、どっしりとこの世に相対し続けることです。
ぼくはあまりつべこべ考える方ではないのですが、考えないことが軽々浮薄になりがちです。
軽々と、しかもきっちり目前の「今」に対していく。
なかなかできそうでできません。
ややもすればたちまち「今」はこの眼前からすり抜けていきます。
ああだこうだと過去やら未来やらの幻影にと囚われます。

来週から禅の接心が始まります。
仙台に行って帰って、どうにか決算をやり終えて、正直心身が疲れています。
疲れた疲れたと言っていると、さらに疲弊感が深まります。
ここで心機一転できるかどうかが、人の地力というものでしょう。
さらには飲み続けというのもあります。
ちょっと滝に打たれたくなりました。