風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

濁り

2007年01月12日 | スピリチュアル
昨日は一滴も酒を飲みませんでした。
夜中に目が覚めましたが、それでも飲みませんでした。
我慢はできませんが、チャレンジならできるものです。
煙草は・・・今日数本吸いました。
徐々に禁煙に持っていきます。

禁酒禁煙を誓うというようなことは、今回はしません。
今回は、誓いを立ててするようなことではないような気がするからです。
飲みごとがあればのみますが、家でだらだら飲むことはやめます。
煙草も手元にあったものを吸ってしまいましたが、新たに買うことはやめようと思います。

魂の曇りというか、心の濁りをとる方法というのは、二通り在るのではないかと思います。

一つは、修行。
滝行や坐禅を通じて、感覚やら意識やらの盲動を徹底的に削ぎ落とすことによって、
心を空っぽにして清浄にして行くやり方。
要は心のあり方の根本に染み付いた汚れをごしごし洗い流してしまうという感じです。

もう一つは、慈愛の心を実践すること。
人間的な心の乱れを抱えながらも、見返りを一切期待しない「人のため」を実践していくこと。
要は、心というコップの中の水は濁っているのだけれども、「慈愛の心」という清水をコップの中に注ぎ入れ続けることによって、
いつかは心の中の水も入れ替わって、清浄に近づく。

水を汚す「煩悩」という元を取り除くか、水そのものをきれいなものを注ぎ込むことによって清浄化するか、ということです。

仏教では、修行と布施という形で、上記両方のあり方が取り入れられていますが、一般の人たちにとっては
修行も布施もなかなか実践するのが難しいことです。
難しい道ではありますが、心が濁ると、苦しみは増しますし、人生が行きがたくなります。
なんとか、晴れ晴れとした心持ちで行きたいのなら、どうしても己の心自体をクリーンアップする必要があります。

重要なのは、例え自分の心が濁り、それを何とかしたいと思っても、気づいて思っただけでは心の濁りは取れません。
濁りを取る何らかの実践が必ず必要になります。
そのような実践が、人それぞれの損得勘定が渦巻く日常生活でたやすくできるようなら困りませんが、
どうしても日常生活の心の動きを離れたところでの実践が必要になります。

実践の仕方は他にもいろいろあるのかと思いますが、要は、心の濁りを取るということが心の平安には必ず必要になってくる、
ということだと思います。

苦悩も悲しみも恐怖も、人それぞれの心が勝手に作り出すものです。
それを知りながら、自分の心が濁ったままでは、違うと知りながらも自分の心は勝手に苦悩や悲しみや恐怖を作り出し続けます。

では、心が空っぽな状態というのは、どういう状態でしょうか。

どこかを歩いていて、空を見上げた時、その美しさにうっとりできること。
往来を歩く老若男女を見ていて、懐かしい感じが胸に迫ること。
人が幸せそうなときに、自分も幸せになれること。
褒められたら、にっこり微笑み返すことができること。
朝起きたら、思わず鳥たちの鳴き声に耳を傾けること。
満天の星を見て、涙が出てくること。
打ちひしがれている人を見て、肩を抱いてあげたくなること。

そんな感じでしょうか。
ぼくは心が濁りに濁っていますから、あくまでも想像ですが。
そんな感じになりますと、生きているのが楽しくなるに違いありません。
楽しくなれば、生きていることがありがたく思えるでしょう。

そういう者に私はなりたい(by 宮沢賢治)