風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

一瞬

2007年01月23日 | スピリチュアル
今朝も5時に目が覚めました。
ほかにすることもないので、座禅を組みました。

不思議なことに、坐禅を組んでいると、暖房も一切使っていないのに少しも寒くありません。
寒いとか暑いとかいう感覚が中断する感じです。
滝に入って冷たさを感じなくなるのと一緒かもしれません。

10分を過ぎた辺りからざわざわとした雑念が湧き出てこなくなります。
油断すると雑念が顔を出しますが、呼吸に意識を戻すとすぐ消えます。
今日は普段よりも呼吸に集中できました。

普段の意識というのは、息を吐いている、あるいは吸っているという事実を認識分別します。
その認識自体は、珍しくも面白くもないものなので、それ以上呼吸というものに意識を向け続けるのが苦痛になります。
意識は何か他の刺激的なことを考えようと、聞き分けのない子供のようにじたばたします。
それでも、意識を呼吸に向け続けます。
やがて、意識はじたばたするのを諦めて、吸う息、吐く息にピタリと沿うようになります。
それをどんどん深めていきます。

で、今日はじめて感じたのですが、スーッと息を吐くわけですが、その一息が一呼吸なのではなくて、
スーッと吐いている3秒くらいの間には、無数の「今」という瞬間がひしめいているのです。
つまり、普段の意識というのは、「今呼吸した」という認識分別をして、それでハイお終いなのですが、
普段の意識のフィルターを外すと、「呼吸した」という認識作用は起こらず、ただ瞬間瞬間の「スーッ」があるわけです。

禅の道場などでよく交わされる会話があります。

導師「一息とは何か?」
初心の修行者「えーっと、息を吸って吐くこと・・・ですか?」
導師「馬鹿者!(頭を拳固でしたたか食らわせる)」
        ↓
導師「一息とは何か?」
要領を覚え始めた修行者「・・・(足を組んで、静かに息を吐き、吸う)」
導師「よし!ぼやぼやしておらんで、とっとと道場に行って、座って来い!」

まぁ、こんな感じなのですが、要は禅では認識分別を徹底的に排して、瞬間の経験そのもになりきらせようとします。
スーッと息を吐いている瞬間の経験は、言葉で表現しようがなく、スッーっと息を吐く以外に表現できません。
スーッと息を吐いている瞬間のことは、「呼吸」というような分別のための言葉では表現できないわけです。

ちょっと分かりづらいでしょうか。
例えを仕事にとってみます。
朝8時から5時まで会社のデスクの前にいて、言いつけられたことをこなせば「仕事をした」とはなりません。
そんな感じで仕事をしているつもりの人も中にはいるのでしょうが。
時間を守って、言われたことをしていればいいというのは、ただ無駄に時間を空費したとしか言いようがありません。
要するに、家を出て、電車に乗るときから「仕事」は始まっています。
電車の中で出社したらなにをするべきかを考え、自分のデスクについたら、すぐさま動けるようにしているかどうか。
すぐさま動けば、動いた結果として次から次へとすることが発生します。
仕事において、動いた結果というのは、次の動きの原因となりますから、考えるまもなく「仕事」は連鎖していきます。
こんな感じで、「仕事」というのは、一定時間、身を拘束されるということではなく、
瞬間瞬間の、内容のある自立的な「動き」の連鎖であるということです。

社長「仕事とは何だ?」
新入社員「はぁ、与えられた業務をこなすことです・・・か?」
社長「馬鹿者!」
        ↓
社長「仕事とは何だ?」
将来の社長「会社組織内の自分の役割を考えた上で、あらゆる可能性を創造し、実現し、結果を積み上げていくことです」
社長「よし!ボーナスを上乗せしてやろう!」

坐禅という言葉は誰でも知っています。
でも、「坐禅」をするということは坐禅は足の痛みを克服し、退屈さを克服し、「一瞬」の意味を体得し・・・と、
どこまでも奥深い境地を、どこまでも「体験」していくことにほかなりません。

仕事も同じで、仕事を実際にしていく、体験していくことで、スキルも向上し、人格も陶冶されていくのでしょうが、
仕事と称する(とりあえず時間内に職場にいて、受動的な態度で時間を潰すこと)ことを何年しても、何の役にも立たないでしょう。

さて、誰にも言いつけられることがないからと、ひたすらダラダラしている人は誰でしょう?(笑)