積極的平和主義の何かを示せ
前回、安倍政権は「積極的平和」を提唱していることに触れましたが、何か気になるので、一度この問題について、一市民として論じておこうと思いました。
日本語にすれば同じ積極的秘話ですが、ウィキペディアによれば、すでに国際的には、ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥングが提起した「Positive Peace」という言葉があり、それが一般的概念のようです。
安倍政権の積極的平和は「Proactive (contribution to) Peace」と訳されているようですが、これは、上記の言葉の盗用でないことを示すものでしょう。
ただ英語ではそうでも、日本語は同じですから、これは困ったものです。
ガルトゥングの積極的平和は、概念が明確で、肉体的・精神的な直接暴力、貧困・差別・格差などの社会状態や構造を戦争の原因として提起し、単に「戦争のないことが平和」という平和論を人間問題、社会構造問題を含めて進化させたものでしょう。
ところで、安倍政権の積極的平和主義はどうなのでしょうか。
中身は説明されていませんから単なる「新造語」で解りませんが、こちらは人の心や社会構造とはあまり関係なく、地政学的な環境の中で、何とか平和を実現するための気構えといった感じが「匂う」ものです。
そういえば、日本の藤原氏以来の歴代の政権も、みんな「日本国内の平和を願って政敵を倒す戦争をし、それに勝つことで政権を握っていました。然し何れも次第に驕り高ぶり、最後は戦いに敗れて、次の覇者が平和を目指して戦い、政権の座に就いたのでしょう。
徳川300年は大変長い平和で、開国で環境が変わり、西南戦争を最後に、明治以来の政権争いに戦争はなくなりました。
考えてみれば、「魏書倭国伝」などに書かれた「倭国大乱」以来の日本の覇権争いも、今日までの世界の覇権争いも、場所が日本か世界かが違うだけで、人間の考えることは似たようなものという事なのでしょうか。
という事になりますと、いま世界の覇権争いに巻き込まれている日本の政権が、積極的平和主義といえば、なにか「戦って平和を勝ち取る」という人間の本性の中にある平和の求め方の「匂い」がするのも否定できない所でしょう。
そんな目で安倍政権の「積極的平和主義」を見ると、言葉では「平和を重んじる国」、「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」と言っても、それが直ちに「戦争のない平和な世の中」につながると考えてよいのか、確信の持てない人も多いでしょう。
理由ははっきりしていて、安倍政権の改憲へのこだわり、防衛関係予算の膨張、集団的自衛権についての態度、今回の敵基地攻撃能力問題などなど、客観的事実を見ていきますと、何処かキナ臭さが感じられてしまうのではないでしょうか。
究極の問題は、国際間の問題の解決手段の中に(どんな形であっても)戦争という手段が入るのか、あるいは、問題の解決は外交によって行う事が徹底して出来るのか,といった2つの行為の選択に収斂するのではないでしょうか。
嘗て、このブログでも指摘しましたが、「 田中角栄語録」の中の「戦争経験」の指摘は、まさにこの点についての危惧ではないでしょうか。
前回、安倍政権は「積極的平和」を提唱していることに触れましたが、何か気になるので、一度この問題について、一市民として論じておこうと思いました。
日本語にすれば同じ積極的秘話ですが、ウィキペディアによれば、すでに国際的には、ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥングが提起した「Positive Peace」という言葉があり、それが一般的概念のようです。
安倍政権の積極的平和は「Proactive (contribution to) Peace」と訳されているようですが、これは、上記の言葉の盗用でないことを示すものでしょう。
ただ英語ではそうでも、日本語は同じですから、これは困ったものです。
ガルトゥングの積極的平和は、概念が明確で、肉体的・精神的な直接暴力、貧困・差別・格差などの社会状態や構造を戦争の原因として提起し、単に「戦争のないことが平和」という平和論を人間問題、社会構造問題を含めて進化させたものでしょう。
ところで、安倍政権の積極的平和主義はどうなのでしょうか。
中身は説明されていませんから単なる「新造語」で解りませんが、こちらは人の心や社会構造とはあまり関係なく、地政学的な環境の中で、何とか平和を実現するための気構えといった感じが「匂う」ものです。
そういえば、日本の藤原氏以来の歴代の政権も、みんな「日本国内の平和を願って政敵を倒す戦争をし、それに勝つことで政権を握っていました。然し何れも次第に驕り高ぶり、最後は戦いに敗れて、次の覇者が平和を目指して戦い、政権の座に就いたのでしょう。
徳川300年は大変長い平和で、開国で環境が変わり、西南戦争を最後に、明治以来の政権争いに戦争はなくなりました。
考えてみれば、「魏書倭国伝」などに書かれた「倭国大乱」以来の日本の覇権争いも、今日までの世界の覇権争いも、場所が日本か世界かが違うだけで、人間の考えることは似たようなものという事なのでしょうか。
という事になりますと、いま世界の覇権争いに巻き込まれている日本の政権が、積極的平和主義といえば、なにか「戦って平和を勝ち取る」という人間の本性の中にある平和の求め方の「匂い」がするのも否定できない所でしょう。
そんな目で安倍政権の「積極的平和主義」を見ると、言葉では「平和を重んじる国」、「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」と言っても、それが直ちに「戦争のない平和な世の中」につながると考えてよいのか、確信の持てない人も多いでしょう。
理由ははっきりしていて、安倍政権の改憲へのこだわり、防衛関係予算の膨張、集団的自衛権についての態度、今回の敵基地攻撃能力問題などなど、客観的事実を見ていきますと、何処かキナ臭さが感じられてしまうのではないでしょうか。
究極の問題は、国際間の問題の解決手段の中に(どんな形であっても)戦争という手段が入るのか、あるいは、問題の解決は外交によって行う事が徹底して出来るのか,といった2つの行為の選択に収斂するのではないでしょうか。
嘗て、このブログでも指摘しましたが、「 田中角栄語録」の中の「戦争経験」の指摘は、まさにこの点についての危惧ではないでしょうか。