tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

平成という時代、再論の初めに

2017年12月03日 13時10分34秒 | 経済
平成という時代、再論の初めに
 この7月に「 平成という時代、日本経済としてみれば」をかきました。
 経済から見た平成の30年は、バブル経済末期からアベノミクスに至る30年で、その大部分は、鍋底というにはあまりに巨大な鍋の凸凹な底を、日本経済が這い回った時期だったという事になるようです。

 この巨大な失敗の経験を繰り返さないためにも、これから折に触れて、平成の時代を振り返って、いろいろと考えてみたいと思っています。

 今回は平成よりずっと以前、高度成長期の日本経済があんなに元気だったのに、今の日本は・・・、いったい何が違うのだろうかなどと考えながら、気の付くことをいくつか並べてみたいと思いながら書いてみます。

 勿論、かつては、国民がみんな若く、 国家再建の意気にの燃えていたという事もあるでしょう。しかし高齢化しても、日本人は元気です。勿論大多数の若者は、将来を目指して意気盛んです。
 現状の日本経済の持ち直しも、その元気によって大きく支えられていると言って間違いないでしょう。

 戦後の日本経済は不況を何回も経験しました。主なものを上げれば、終戦直後の復興の中でインフレ阻止のためのドッジラインによる不況、朝鮮動乱終了による不況、神武景気の反動の鍋底不況、戦後最大と言われた昭和40年不況、さらには2度にわたるオイルショックによる不況、オイルショックは確かに深刻でしたが、これも世界に先駆けて克服しています。

 然し、1990年代からの円高不況には20年余にわたって深刻で長期な不況を経験しました。
 通観すれば、オイルショック以前の不況は日本経済に内在する構造要因による不況でした。ですから、自分の判断で、自分の力で対応できたのでしょう。

 しかしオイルショックは、外来の要因です。 一時はパニック状態にもなりました。ただしこの場合は、産油国への世界の富の移転という事で、世界共通の問題でした。
 そして未だ後遺症の残る円高不況は、1985年の強いられた円高の結果で、これは世界の中で日本を狙い撃ちにした日本だけが不況を強いられるというものでした。

 残念ながら、これには日本は、適切な対抗手段お持ちえませんでした。真面目な日本人は、円高を受け入れて、その上で、何とか経済を回復させようとしたのです。
 今考えてみれば、2年間で円の価値が2倍になるような円高を受け入れて、それに対応するような経済を作ることは不可能とだれも思うでしょう。

 しかし当時の日本、政府、日銀、そして企業まで、何とか出来ると考え、今回の不況も、日本人の勤勉さで、ある程度の短期で克服できると思っていたようです。
 「円が高くなったという事は日本の価値が上がったという事だから、歓迎すべきことだ」などと言う意見の方が強かったようです。しかしこれは誤算でした。

 この辺りは「 為替レートとゴルフのハンディ」でお分かりいただけると思いますが、こうして経験を通してみると、日本人は、自らの行き過ぎや失敗による不況への対応には優れた能力発揮してきましたが、外来の要因に対しては、残念ながら対応がまずかったという傾向があるようです。

 特に、日本経済だけが狙い撃ちにされた「プラザ合意」による円高には全く対応を誤ったようです。
 こうしたことを経験するたびに、日本経済は賢く、強くなるのでしょう。世界でもやはり「出る釘は打たれる」でしょうか、今後も、益々国際化する世界経済の中で、いろいろな問題が起きるでしょう。日本人の対応能力の「拡張」が必須のようです。