Altered Notes

Something New.

誰が演奏すべきか 個人的見解

2022-09-06 16:16:00 | 音楽
イギリスの老舗プログレッシブ・ロックバンドの一つであるイエスがアルバム「危機(Close To The Edge)」を50年ぶりに再現する日本ツアーの為に来日中である。冒頭から自慢めいて申し訳ないが、筆者は1973年3月9日に東京・渋谷公会堂で当時のイエスに依る「危機」の演奏を聴いている。(*0)

1973年当時の来日メンバーはジョン・アンダーソン(vo)、スティーブ・ハウ(g)、リック・ウェイクマン(kbd)、クリス・スクワイア(b)、アラン・ホワイト(ds)の5人だ。「危機」レコーディング時のドラムはビル・ブルーフォード(*1)だったが、日本公演直前にビルが退団したので急遽アラン・ホワイト(*2)が起用されて来日したのであった。起用から来日まであまり日数がなかったが、イエスの複雑な曲を全て頭に叩き込んで完璧な演奏を披露したのは流石である。

イエスのオリジナルメンバーは上記メンバーに比してギターとキーボード、ドラムが別人だったが、「危機」の2つ前のアルバム「サード・アルバム」の時にスティーブ・ハウが加入し、一つ前の「こわれもの(Fragile)」制作時にリック・ウェイクマンが加入している。そして、この「こわれもの」~「危機」の時期の5人がイエスの全盛期だったのではないかと筆者は考えている。作品にも演奏にも生命力が溢れており、最もクリエイティブで音楽に依る表現がストレートに伝わるパワーを盛っていた。それは「自ずから然り」な音楽になり得ていたように思う。


それで、ようやく今回のテーマにたどり着く。


今回の『イエス「危機」50周年記念ジャパン・ツアー』だが、筆者はこの公演にはあまり関心が湧かない。「危機」は当時の面子で演奏されて初めて意味と価値が生じると考えている。50年前と共通のメンバーはスティーブ・ハウだけだ。
これはロックなどのポピュラー音楽だから言えることかもしれないが、その曲を聴くならオリジナル版のメンバーに依る演奏が聴きたい…そういう気持ちが強いのである。(*3)

曲は譜面に書かれており、その譜面通りに演奏すれば誰でも形の上での再現は可能だ。だが、音楽の魅力は譜面に表記できない部分に負うところが非常に多い。アルバム「危機」の魅力は1972年当時にこれを演奏したメンバー達の個性の魅力でもあるのだ。音楽を演奏する上で譜面は手がかりでしかない。最終的にはその時の演奏者の表現力・センスがモノを言うのであり、5人の個性が組み合わさった結果としての「危機」の演奏なのである。

ジョン・アンダーソンのヴォーカルは唯一無二のもので、あの声質は彼だけのものである。ヴォーカルだが、ある意味でこれは一つの楽器として捉えるべきものでもある。あの声で歌う事でイエスのサウンドが成立していたのだ。「危機」を聴くなら彼のヴォーカルが良いのだし、他の楽器も同様だ。

もちろん今回の『イエス「危機」50周年記念ジャパン・ツアー』を全否定するつもりもない。メンバーはスティーブ・ハウ以外は違っているが、しかし作品に全く新しい価値を与えることに成功していれば、それはそれでOKである。逆に単なる再現だけならば…ちょっと幻滅、かもしれない。音楽は常に新しい価値というか新鮮なサムシングが加えられて初めて”生きた音楽”になり得るからである。

こうしたオリジナルの面子に依る演奏への拘りはロックなどのポピュラー音楽ならではのものかもしれない。その顔ぶれでなければ出せない味…そこが大きな価値となっているのだ。
イエスで言うなら有名な「ラウンド・アバウト」だってそうだろう。この曲は「危機」当時のメンバーでの演奏が唯一無二の正解なのであり、あのメンバーが出したサウンドだから価値があるのだ。


レッド・ツェッペリンの曲目なら、あのジョン・ボーナムが太鼓を叩き、ジミー・ペイジがギターを鳴らし、ロバート・プラントが高音で吠え、ジョン・ポール・ジョーンズ(*4)がベースで下支えする、あのオリジナルメンバーに依る演奏でなければ、曲が同じでも魅力が半減以下になるだろう。ちなみに(また自慢で申し訳ないが)、筆者はレッド・ツェッペリンの演奏を1972年の10月に日本武道館で聴いている。レッド・ツェッペリンとしては最後の来日になった機会でもあった。ちょうど4作目のアルバムが出た直後だったので、「ブラック・ドッグ」「ロックンロール」「天国への階段」などの日本初演を聴いたのであった。もちろん、全盛期のツェッペリンなので凄い演奏であったし音楽的な満足は得られたのだが、元々武道館は音楽ホールではないので、レッド・ツェッペリンのような音量の大きなバンドは音響的に不向きだな、という確認ができた…という記憶もある。(笑)

アメリカの有名なブラスロックバンドであるシカゴもそうだ。幾度もメンバーチェンジをしているので、現在のオリジナルメンバーは少数になっていると思うが、例えばヒット曲である「サタデー・イン・ザ・パーク」を聴くならオリジナルメンバーでの演奏が聴きたいところである。オリジナルメンバーの演奏にロバート・ラムのヴォーカルとカウンターメロディーを歌うピーター・セテラの声が合わさることであの曲のサウンドが完結するのである。彼らの初期の名曲である「イントロダクション」や「クエスチョン67&68」「長い夜」などもジャズにも精通していたオリジナルメンバー(リズム・セクション+ホーン・セクション)の演奏に価値を感じるものである。
またしても自慢で恐縮だが、オリジナルメンバーのシカゴの演奏を筆者は日本武道館で1973年に聴いている。もちろんギターのテリー・キャスも当時は健在で、ケニー・バレルを思わせるジャズ的な演奏を聴かせてくれたのは良い思い出である。オープニングがビートルズの「マジカル・ミステリー・ツアー」だったのには度肝を抜かれた。だが、考えてみれば管楽器が重要な構成要素である曲なのでシカゴ向きの曲と言えよう。


・・・と、ここまで書いておいてなんだが…、若干の例外もある。
それは今回の来日でも健在なスティーブ・ハウが自身のプロジェクトでやっているジャズ・トリオ演奏のことだ。これはスティーブ・ハウのギターの他にオルガンとドラムに依るベースレスのトリオである。このスティーブ・ハウ・トリオでは「危機」も演奏している。しかしその演奏コンセプトはイエスのそれとは全然異なる。「危機」をあくまで即興演奏の素材かつプラットフォームとして使用しているのであり、中心になっているのは3人のアドリブ演奏なのである。ここではジャズ演奏として立派に成立しており、”オリジナルの面子がどうのこうのは関係ない”のだ。逆にこのトリオは興味深い。世界中見回してもイエスの「危機」を演奏するジャズグループなんてこのトリオしかないのである。

また、イエスと同様の老舗バンドでキング・クリムゾンという有名どころがある。こちらも1969年から活動しており歴史が長いのだが、キング・クリムゾンの場合はリーダーのロバート・フリップ(g)が全ての音楽的采配をしているので、ロバート・フリップが居ればキング・クリムゾンになるのだ。実際、このバンドはメンバーチェンジが激しいことで有名だが、他のメンバーはオリジナルである必要も固定である必要もないのである。いわばバンド全体がロバート・フリップの個人プロジェクトのようなものであり、これはこのバンドならでは、の事情と言えよう。



ここまで縷縷記してきたように、ロック音楽・ポピュラー音楽の場合は、リスナーが最初に認知して気に入った当時のメンバーに依る演奏に拘りがあるのに対して、ジャズやクラシックの場合は曲目というよりも演奏者それ自体へのこだわりが強い。

ジャズに於いては、極論的に言えば曲目は符丁に過ぎず、聴衆は眼の前の演奏者がどのような即興演奏を繰り広げてくれるのか、に関心を持っている。「あの曲」ではなく「あの演奏者」への拘りである。オリジナルの演奏はその時のその面子での演奏であって、そもそも再現し得ないものであり、再現する意味もないのだ。

ジャズを知ったつもりの半可通がジャズクラブで歌手に対して「”センチメンタル・ジャーニー”をやってくれよ。ドリス・デイで」などとリクエストしたりする。(*4) 本人は通ぶっているが、実はジャズを”わかってない”のであり、歌手に対して極めて失礼な要望をしているのだ。その歌手はドリス・デイではないのであり、ドリス・デイ風に歌うことは「単なる再現」をやれ、と言っているのと同じである。その歌手にはその歌手の個性と表現があり、聴衆は素直にそれを受け取るべきなのである。


クラシックもジャズと同じところがある。
リスナーは曲目への拘りもあるのだが、しかしそれ以上に眼前の演奏者がその曲(素材)をどのように表現してくれるのか、に関心を持っている。ジャズ同様に現在それを演奏する人に拘りがあるのだ。クラシックの場合は、原曲が作曲されてから100年~200年以上の経過が有る場合が多く、そもそもオリジナルの演奏も記録されていないので、前提から異なるのだが…。
ブラームスの「交響曲第1番」を聴く時に何に拘るのかと言えば、曲目への拘りではなく、それをカラヤンのベルリン・フィルが演奏するのか、小澤征爾のサイトウ・キネン・オーケストラが演奏するのか、への拘りで人は聴くのである。ちなみに筆者は小澤征爾版が好みである。




・・・などと、『イエス「危機」50周年記念ジャパン・ツアー』をきっかけに筆者の思いを綴ってみた。なお、これらはあくまで筆者の個人的見解であり、他者が全く異なる見解を持っていても、それはそれで結構である。ただ筆者の場合はこうだ、という事を述べたに過ぎないからである。ご了承願いたい。








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(*0)
開演前からストラビンスキーの「火の鳥」の終曲が流れ、曲がエンディング(クライマックス)に達した時に幕が開いてイエスの演奏がスタートするのだが、1曲目の「シベリアン・カートゥル」から彼らの演奏に引き込まれて幸福な時間を過ごすことができたのであった。当時、最も喫驚したのは「レコードで聴いたサウンドがそのままライブで再現されている」ことだった。(笑) いや、これは決して笑い事ではない。ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツ・クラブバンド」以来、ロックバンド、なかんずくアーティスティックなグループの作品は録音・音響技術を駆使してサウンド作りを行った上でレコーディングしているので、そのサウンドがライブでそのまま再現できる事自体が一種の驚きとして受け取られた時代だったのだ。

(*1)
イエスをはじめ、キング・クリムゾンやジェネシスなどでも演奏し、自己のバンドであるアースワークス(*1a)ではジャズを演奏する、幅広い音楽性を持つ優れたドラマーである。インタビューでも「自分のルーツはジャズだ」と語る通り、非常に繊細で音楽的な演奏ができる素晴らしいドラマーである。日本のジャズギタリストである渡辺香津美とも共演しており、「Spice of Life」という作品でその演奏を聴くことができる。

(*1a)
アースワークスで来日したこともある。

(*2)
実はジョン・レノンの有名な「イマジン」のレコーディングでドラムを演奏していたのがアラン・ホワイトである。ジョン・レノンお気に入りのドラム奏者でもあったのだ。

(*3)
1973年来日時メンバーの中で既にクリス・スクワイアとアラン・ホワイトは故人となっており、その意味では厳密な意味でのオリジナル・メンバーに依る演奏は不可能である。

(*4)
もしも「ドリス・デイ」ではなく、「松本伊代で」と言った場合は、それはリクエストではなくてネタでありジョークであって、根本から違う話になってくる。










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