「眠れない…」
暑くて寝れないわけではない。
先日のNHKで放送された,あの民間に遺棄され行政に殺害されたミニチュアダックスフンドのその〝黒い瞳〟が私の眼光に焼きついて眠れないのです。
ペットショップから回収され、黒いゲージに入れられ,動物管理センター(犬ゲットー)に到着したまだ若い,まだ10年はこの地球上で色々な思い出とともに生きられたであろう,そのミニチュアダックスフンドの無邪気に上目づかいに真っ黒い瞳を輝かせて愛嬌たっぷりにカメラに向かい,新しい飼い主が来ることを夢見て微笑むその3秒程度のシーンが忘れられないのです。
一方的な行政の勝手な収容期限を満了したその数日後,毒ガス処刑され,一方でそういった犬たちの怨念の処刑までの過程を収録したビデオに咽び泣く女性の姿とともに紹介されていました。
犬はよく人間の比喩としても使われるのは周知の通りで(「国家の犬」,「犬のおまわりさん」〈←これは警察官に対して失礼である〉,「○○さんの犬」など),それゆえに第二の人間なのです。とりあえずの公僕の仕事とはいえその第二の人間をガス室に強制連行し虐殺し焼却して埋めるとは…。
自分らも誤って密閉されたコンクリートの室に入室し施錠され毒ガスを噴霧されたらどのように思うのだろう。
視聴者である今の私の無力にあらためて愕然と着ました。いやしくも動物愛好運動家と自称する方々は今の日本の行政に対して頭で考え,体を使った行動においては律儀に法律に左右されて何もしていないように思えます。
つまり同じ哺乳類だということでの捕鯨禁止を,人間の負傷者を出しても容赦はしない,海賊旗を翻した船体を日本の捕鯨調査船に激突体当たりさせる〝グリーンピース〟のような行動,つまりこの場合,あくまで犬をガス室に強制連行し,虐殺し続けている行政の事実に対してその処刑施設である全国の動物管理収容所へ最後通牒をもってそういった行動を彼らが現実に実行できるのか,ということです。
犬には自分たちに関して人間が勝手に作ったシステム(利潤の獲得のために人工的に生ませ,余れば法を施行し行政的に殺す)はどうでもよく,自身への解放は気持ち的にストレスへの解放,心身の自由への安堵にほかなりません。おそらくは感謝の念でいっぱいでしょう。こういう行動を民主的に言いますと〝解放運動〟といいますがここまでくるとマルクス的に〝解放戦線〟,歴史的には〝十字軍〟といわなければなりません。
レーニンも目的のためには武装蜂起も持さない,とはいっていますが,非合法だからというよりも,過激という点で,私は好みません。
ただキリスト教や浄土真宗などの古典的宗教の教義を信じ,倫理的にも正しければ人間はその信条を信じてプログレッシブすべきです。百年ほど前の英国人エドモンド・パークは次のように述べています…。
The only thing necessary for the triumph of evil is for good men to do nothing.(善なる人々が行動を怠れば,必ず悪が勝利する。下線引用者。)
さらに人と動物の生存権利という点で言うならば,私は次の映画のワンシーンを即座に思い出します…。
Ref.16753コンビ・茶アップライトGMTをしたクリント・イーストウッドが出演して有名な映画『IN THE LINE OF FIRE』(邦名『ザ・シークレット・サービス』)のチャプター36〝試し撃ち〟のシーンで,ジョン・マルコビッチが水辺で模型船を標的に手作りの合成強化プラスチックの二連ピストルで試し撃ちをしているとき,その銃声を聞きつけ,二人の狩猟家が走ってくる。クリケットらしい時計をつけた一人の狩猟家が池の野鳥に向けて借りたそのピストルで試射する。その彼がマルコビッチにピストルを自分に売却して欲しいと懇願するがマルコビッチはピストルは売れないと拒絶する。その理由を「大統領の暗殺にね」と彼は回答する。そう言う彼に対して二人の狩猟家は馬鹿にしたように笑うが,その狩猟家の一人がさらに「何のために?」と彼に言う。すかさずマルコビッチは「じゃあ,おまえら何で鳥を殺すんだよ!」と言うと即座に二人の狩猟家を射殺した。
『怨』…分けも分からずに処刑された〝犬〟の関係各位への思い。ガス室前で手を合わせて我々を見送っても絶対許しはしない。
『呪』…〝許す,しかし忘れない〟処刑された犬である我々は我々を処刑した関係各位を三途の川辺で覚えのある君らの顔をいつまでも待っている。そして今度は逆に無間地獄へ連行する。
神も私たち愛犬家も処刑され今や涅槃に居る,君らすべての犬たちの上記すべての怨念の行動を容認する。
なぜなら彼らは躊躇なく『犬と私の10の約束』を足蹴にしたのだから…。