豆の育種のマメな話

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寂空常然の生涯、伊豆の里山

2020-12-08 18:05:21 | 伊豆だより<里山を歩く>

奥伊豆の山村で、明治・大正・昭和の時代を強かに生きた一人の女性がいた。名は寂空常然(俗名つね)。百姓として生きた生涯を辿ってみよう。

◇誕生

常然(つね)は明治21年(1888)9月10日、賀茂郡須原村××0番地(現在の下田市須原)において父土屋傳蔵と母「せん」の長女として生まれた。三年後の明治24年1月15日には妹「なか」が生まれたが、母親(せん)は「なか」が生まれた十か月後に逝去している。父傳蔵は「せん」が死亡してから二年後の明治27年4月30日、下河津村縄地×7番地の鶯生長蔵の長女「ちやう」を後妻に迎えた。子供たちが未だ幼かったし、日清戦争(明治27~28年)で陸軍看護兵として出征することになったためである。

ところが、傳蔵は翌年の明治28年5月30日朝鮮国漁隠洞の病院にて死亡、「つね」7歳、「なか」4歳の時であった。傳蔵の死後「ちやう」が傳蔵籍を相続したが、私生子「たき」を産み、明治30年1月6日に離縁願いを出し生家である縄地の長蔵籍に復籍した(長蔵は明治35年「たき」を養子縁組している)。

継母「ちやう」の離籍を受け、明治30年2月19日「つね」は8歳6か月にして家督を相続した。9歳に足らずして一家の柱となった「つね」は、叔父(傳蔵の兄半吾)の保護を受けながら、叔父の家で多感な少女期を逞しく生き抜かねばならなかった。「妹はまだ6歳、しっかりしなければ」と何度も自分に言い聞かせたことだろう。家の仕事も率先して手伝い、朝から夜まで休まず働いた。「つね」の頑丈な肉体と男勝りの性格(優しさを秘めた)は、この十代の体験で形成されたと思われる。年齢を重ねてから「つね」はよく話した。「農作業の手順、味噌の仕込み、魚の捌き方、餅のつき方、繭から糸の紡ぎ方、反物の織り方・・・どれも教わったことはない。できる人の手元を見て覚えたものだ・・・」と。

ここで、父傳蔵の系譜について触れて置く。傳蔵は父土屋半右衛門(須原××5)と母「くま」の二男として明治3年(1870)に生まれた。長男には半吾(惣吉)がいたので、傳蔵は明治17年(1884)に土屋與左衛門(須原180)の養嫡子となり、與左衛門の四女「せん」を妻とした。更に法雲寺過去帳を辿れば、傳蔵の祖父は傳四郎(文化2年~明治24年)、曾祖父は傳三郎(~嘉永2年)、高祖父は圓山光月信士(~文政元年、俗名不明)とある。また、半吾の長男は彦恒、孫は伝四郎と言った。

◇婚姻

常然(つね)は19歳になった時、明治39年5月17日下河津村縄地×5番地杉山文次郎(杉山米吉と「つな」の二男、明治13年10月1日生まれ)と入夫婚姻した。届け出住所は稲梓村須原××0番地である。婚姻と同時に文次郎が家督を相続し戸主となり、妹「なか」に対しても後見人戸主となった。その後、同年10月9日に「なか」は同村須原××2番地土屋幸蔵へ養子縁組した。

6年後の明治45年2月25日、文次郎の弟喜太郎(杉山米吉と「つな」の三男、明治20年11月8日生まれ)は、前述の幸蔵と婿養子縁組し、同日養女「なか」と婚姻し戸主となった。つまり、「つね」と「なか」の姉妹は、「文次郎」「喜太郎」兄弟と婚姻し、稲梓村須原坂戸の山村に生活基盤を置くことになったのである。幼くして両親を亡くした姉妹は、常に寄り添えるようにと「文次郎」「喜太郎」兄弟と婚姻したのではあるまいか。姉と兄であった「つね」と「文次郎」は住み慣れた場所を妹夫婦に譲り、近くの稲梓村須原××3番地に居を構えた。

なお、文次郎の出生地である下河津村縄地は伊豆半島東海岸に位置し、稲梓村須原坂戸とは山を一つ越えたところにある。当時は、現在の国道(下田街道)が整備されておらず、山越えの道を往来するのが常だったので距離感は今より近い。

文次郎は真面目で正直者、「つね」は村一番の働き者で生活力に長けていた。昼は畑仕事に山仕事、夜なべに炭俵を編み、野菜や果物を市場や行商で小銭を稼ぎ、養蚕に徹夜し、知人に小銭を融通し合うことまでしていた(和紙を綴じた「つね」名義の明治36年新調貸付臺帳が残っている)。

◇7人の子供を育てる

常然(つね)は7人の子供を産み育てた。長女喜代子(明治39年8月25日~昭和3年5月6日)は昭和2年9月16日下田町××7番地小澤福松と婚姻するが産後病を得て離婚後に逝去した。享年23歳であった。長男朝義(明治42年3月7日~昭和9年7月15日)は尋常高等小学校、農業補習学校、同研究科を修了するとともに青年団活動に精励し、満州事変の勃発を受け歩兵七16連隊に入隊するが、昭和9年岡方村5番地において急性肺炎で逝去、享年26歳であった。

二男啓二(明治44年10月11日~平成14年8月18日)は、兄朝義の死去に伴い家督を継ぐことになり、昭和14年12月28日稲梓村須原×4番地の土屋寅次郎・あさの五女「つね」を妻に迎えた(母親と同名であるが偶然である)。三男幸太郎(大正3年生まれ)は稲梓村須原×××8番地稲葉喜久治と妻「しう」の養女「しづ子」と昭和12年婿養子婚姻。四男進(大正6年生れ)は稲梓村椎原××9番地土屋傳の次女「栄子」と昭和22年婿養子縁組婚姻。五男健吾(大正9年生れ)は昭和23年土屋春子と婚姻、妻の氏を称し稲梓村須原×××9番地に新戸籍編成。六男素六(大正15年生れ)は豆陽中学校卒業後に土地家屋調査士の資格を取得、昭和26年村山愛子と婚姻、妻の氏を称し稲梓村加増野××5番地に新戸籍を編成した。

5人の子供たちは同一村内に住み農業を生業としたが、それぞれの地域で部落、農協、消防団、PTAなどの役職に就き信望を集めた。父文次郎、母「つね」の生き方は子供たちに大きな影響を与えていたのだろう。五人とも既に鬼籍に入る。

◇土地を耕し、山に木を植える

禮堂文義(文次郎)と寂空常然(つね)は7人の子供を育てながら、水田や畑を開墾し、山を手に入れては炭を焼き、杉や檜を植え、牛乳や卵を採り、堆肥生産のために家畜を飼った。文義(文次郎)と常然(つね)は村でも働き者で知られ、寂空常然(つね)の仕事の速さは有名だったと聞く。両親の忙しく働く姿を見て、子供らも働くことの意味を自覚していたに違いない。

土地の登記謄本によれば、文次郎死去に伴う啓二への遺産相続は土地27筆(約3.5ha)と建物(居宅と納屋)が記載されている(昭和29年5月24日)。この他に、啓二名義で取得した土地(農地法改正で購入した土地など)や分筆・地目変更地を含めると40筆余(約9.4ha)になる。継ぎ接ぎしたような小さな土地の集積だが、田畑は自分で石垣を積んで整備し、堆厩肥をすき込んでは地力の維持を図った。また植林した山林では間伐や枝打ち、下草刈りなど管理作業に汗を流した。

常然(つね)が父傳蔵から引き継いだ土地がどの位あったか分からないが、多くはこの時代に取得されたものと思われる(和紙で綴じられた文次郎名義の大正五年地所買入臺帳が残っている)。

◇晩年の「つね」

寂空常然(つね)と禮堂文義(文次郎)の晩年について、いくつか書き留めておこう。

(1)朝の習慣:洗顔漱口し、日の出に向かって手を合わせた。何を祈るのだと聞けば「健康に感謝し幸せを祈るのだ」と言う。そして大きく深呼吸し「朝の空気をいっぱい吸え」と言う。冷涼とした大気が身体に染み入り、清々しい気分だった。炭酸同化作用の言葉を覚えてからは、木々に囲まれた朝の空気は一層美味しかった。

(2) 文義(文次郎)の晩年は持病の喘息で気弱になっていたが、信心深い人間だった。正月には注連飾りを作り、神棚や水場を始め万の神に捧げた。ある日、一刀彫の小さな恵比寿・大黒像を持ち帰り神棚に祭った。集落を訪れた旅の僧が彫ったものと聞いたような気もするが、自分で彫ったものかも知れない。囲炉裏の煙で黒ずんだ二つの像は今わが家に置かれている。長く統計調査員・日赤会員など奉仕活動に関わったが、昭和29年3月3日永眠。享年75歳。新しい住宅を建設中だったため、葬儀は一年後の完成を待って行われた。

(3)常然(つね)は晩年になっても矍鑠として家を仕切っていた。もちろん実質は息子(啓二)の代に替わり実作業は石堂(啓二)と貞寿(つね)の二人であったが、寺のこと、親戚への対応、村の親睦旅行に孫を連れて参加するのは常然(つね)だった。盆や暮れに家族の衣類を買いに行くのも、魚を仕入れてくるのも、農作業の手伝いの人々を振舞うのも常然(つね)の役目だった。

(4)常然(つね)は孫の私を連れ歩いた。お陰で、盆や暮れの買い物では店主との価格交渉を学んだ。春には山菜や野菜出荷のため青果市場までついてき、その仕組みを覚えた。秋には柿や栗を背負い、山越えの道を歩いて河津村谷津に下り、河津浜まで行商に行くこともあった。柿は次郎柿・富裕柿と言う名で、栗は丹波栗と言う種類だと知った。

また、椿の実を拾い集め、乾燥した子実から油を搾るため精油工場へ行くこともあった。河津村見高の精油工場は納屋の片隅に小さな精油機を置いただけの規模だったが、機械から黄金色の油が流れ出るのは感動だった。「あれが大島、椿油で有名だ」と指さす先には、ぼんやりと伊豆大島が横たわって見えた。帰りには河津浜の磯で貝を拾い、夕食にみそ汁で食べたものだ。

(5) 常然(つね)は沢山の野菜を育てていた。収穫した生姜は梅と紫蘇漬けし天日に干した。塩の結晶が浮き上がるほど塩辛かったが「おにぎり」にはよく合った。切り干し大根、干し芋、干し柿などの作業工程も脇で眺めていた。網代に広げ縁側に干し、軒先に吊るし、暫くすると飴色に替わり白い粉を吹く。遊び疲れて帰り、摘み食いするのは何とも至福だった。

(6)何年かは養蚕を行ったが、常然(つね)は出荷後に残った屑繭から糸を紡いだ。大鍋で茹でた繭から器用な指先で糸を操りながら糸車を回した。足踏みの機織機を使い、紡いだ糸で反物を織った。反物を染めるために稲生沢村高馬にあった染物屋へ行ったこともある。工場で職人さんが張った布に型押しで染色する様子を眺めた。ある時は、糸で巻いて染色すると絞り柄になることを知った。綿打ち工場へ行った記憶はあるが、どうして布団を運んだのか覚えていない。子供らが結婚したとき、孫が北海道へ渡るときも、常然(つね)は自分が紡いだ作った布団と丹前を準備した。

(7)「祖母危篤」の電報を恵迪寮(札幌市)で受け取り「直ぐ帰る」と連絡して夜汽車に飛び乗った。まだ飛行機を利用する時代ではなかった。家に着いて聞いた話によれば、電報発信は既に死亡後のことだったらしい。「仕事から戻ると布団に倒れていたので、医者を呼んだが手遅れだった」と言う。病院へ行く事もなく元気に動き回っていたが、心臓の病があったらしい。叔父たちは「あの医者は・・・」と嘆いたが、大往生だった。昭和38年(1963)12月17日逝去、享年76歳だった。下田市三玄寺墓所に眠る。

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