帯広市東3条南2丁目に小さな広場(中島公園)がある
場所は、十勝総合振興局の東側、国道38号を挟んで向かい側には帯広神社・護国神社が祀られていると説明した方が分かり易いかも知れない。
この公園の中央に十勝開拓の祖、拓聖と称される依田勉三翁銅像が建っている。台座が大きく、像は見上げる高さにある。笠を負い、蓑をまとい、鍬を手にした勉三の像、その表情から弛まぬ開拓の決意がくみ取れる。銅像制作者は彫刻家田嶼碩朗(クラーク像の作者でもある)。当時、十勝商工會連合會頭であった中島武市の尽力により建設された。昭和16年6月26日除幕式挙行。その後、戦火熾烈となり銅像は拠出され、昭和26年7月1日再建された。
因みに、中島武市(なかじまぶいち、1897-1978)は、岐阜県本巣郡土貴野村(現、本巣市)出身の実業家、政治家。シンガーソングライター中島みゆきは孫(武市の長男の第一子)。中島公園の名も由来する。
正面台座には「依田勉三翁之像」の文字、台座裏側には以下の「碑文」が刻まれているので、紹介しよう。碑文の一木喜徳郎は同郷、尾崎行雄は三田同門のよしみによる。また、佐藤昌介は札幌農学校の一期生にして北海道帝国大学初代総長、北海道農業の最高権威であった。
◇碑文(台座裏1)
功業不磨
咢堂題
依田勉三君ハ伊豆ノ人夙ニ北地開墾ノ志アリ明
治十五年晩成社ヲ組織シ自ラ一族ヲ率ヰテ此地
ニ移住ス凶歳相次キ飢寒身ニ迫ルト雖モ肯テ屈
撓セス移民ヲ慰撫激勵シテ原野ノ開拓ニ努メ更
ニ水田ヲ闢キ酪農事業ヲ興シ諸種ノ製造工業ヲ
試ムル等十勝國開發ノ翹楚トシテ克ク其範ヲ示
ス十勝國ノ今日在ルハ君ノ先見努力ノ賜ナリ岐
阜縣人中島武市此ノ勞效ヲ欽仰シ私財ヲ投シテ
之ヲ永遠ニ讚ヘントス誠ニ宜ナリト言フヘシ
紀元二千六百年二月十一日建立
題 字 正二位勲一等 男爵 一木喜徳郎
篆 額 正三位勲一等 尾崎行雄
撰 文 従二位勲一等 男爵 佐藤昌介
書 字 帯廣市長正六位勲五等 渡部守治
銅像製作 東京市 田嶼碩朗
建 設 帯廣市 中島武市
◇碑文(台座2)
賛辞
本日ここに十勝開拓の先人
依田勉三君の銅像除幕式が
擧行せらる誠に慶賀にたえ
ざるなり君の十勝開拓に志すや
終始一貫堂々としてたゆまず
あらゆる困苦欠乏にたえ初志の
貫徹に邁進すること四十有五年
今日十勝平野開發の基礎を
確立せるは洵に敬仰にたえず
今や食糧の生産確保に益々
飛躍進展を希求せらるる時機に
際し君が本道開拓の先覺としての
偉業を偲びその功績を永く後世に
傳えんがため十勝商工會連合
會頭中島武市君獨力で銅像の
建立をはかりここに建設をみたるは
蓋し機宜を得たるものというべく
世道人心の作興に資するところ
少なからざるべし
昭和十六年六月二十二日
農林大臣井野碩也
また、銅像の後方には「徳光皓」碑があり、以下の碑文が刻まれ、銅像再建に関わった方々の氏名が残されている(残念ながら)。
依田勉三翁は十勝国開拓の恩人たり即ち
明治十六年晩成社を司宰し郷里伊豆の国
より同志数十人を率ひ十勝原野に来住
千辛万苦幾多の凶荒に遭ふも屈撓せず遂
に農業十勝興隆の基礎を築きたり 中島
武市氏は夙に翁の功徳を敬慕し昭和十六
年独力よく晩成社開拓の地を卜して公園
を造成 翁の銅像を建設し 以て功績を
永く後世に伝えんとせり 然るに所謂大
東亜戦争熾烈となるや 銅像また之が犠
牲となり撤去せらる 時に昭和十八年十
二月八日なり 爾来春風秋雨実に七ヶ年
平和の春蘇り来れりと雖 放置されて顧
みられず我等深く遺憾とし 昭和二十五
年七月再建期成会を結成し債権の計画を
樹つるや翕然として大方諸彦の賛同を得
ていま再び翁の偉容に接する感激措く能は
ざるなり 茲に銅像の再建を記念し併せ
て本事業に参画せられた篤行の士を銘す
昭和二十五年文化の日
依田勉三翁銅像再建期成會長
帯広市長 佐藤亀太郎
2018年7月上旬、帯広の中島公園にある依田勉三翁銅像を訪ねた。奥伊豆で暮らしていた両親が、人生ただ一回の北海道旅行でやってきた折に案内して以来だから、おおよそ45年ぶりのことである。その時の写真はアルバムの片隅で色褪せたが、公園内の「勉三松」は大樹となっている。
参照:萩原実監修、田所武編著「拓聖依田勉三伝」