恵庭市役所庁舎前に「恵庭市民憲章碑」がある。庁舎入り口に近いので、市役所を訪れた人はどなたも気づかれるだろう。題字は北海道知事堂垣内尚弘の書で、恵庭市民憲章碑と彫られている。
また、市民憲章全文を記した碑が添えられている。内容は以下のとおり。
〇恵庭市民憲章(昭和45年11月19日制定)
わたくしたちは、恵庭岳のそびえる、恵庭の市民です。
わたくしたちは、漁と島松の川に広がるこの地に父祖の労苦をしのび、かおりたかい鈴らんにたがいの幸せをねがい、みんなの力でこのまちを発展させるため、ここに市民憲章をさだめます。
・自分の仕事を愛し、じょうぶなからだで働きましょう
・たがいに尊重しあい、なごやかな家庭をつくりましょう
・自然を愛し、緑の美しいまちをつくりましょう
・きまりをまもり、住みよいまちをつくりましょう
・知性をたかめ、かおりゆたかな文化のまちをつくりましょう
〇市民憲章
三輪直之「市民憲章情報サイト」によると、全国にある813市のうち市民憲章を制定しているのは693市、制定率が85.1%だと言う(ちなみに北海道は100%、平成27年現在)。
市民憲章が制定されるようになったのは第二次世界大戦後のことで、昭和25年に広島市が「市民道徳」を制定、昭和31年に京都市が「市民憲章」を制定したのが最初とされる。北海道では札幌市が昭和38年に制定(昭和61年改正)したのが最初で、「わたしたちは、時計台の鐘がなる札幌の市民です・・・」の文言は、道民の耳に馴染んでいる。
市民憲章の制定過程を考えると、憲章は市民の心構えを述べ、市政の進むべき道を示したものと言えるだろう。具体的には「住みやすいまち」「みどり豊かなまち」などという表現で理想とする都市像を述べ、「思いやり」「文化の香り」などという表現で心構えや方向を示している場合が多い。そして、市民憲章の理念をもとに、市の基本構想や総合計画などが策定される。同時に、市民憲章を拠り所として、市民への啓蒙活動・学習活動などが進められる。
更には、「子供憲章」「高齢者憲章」を制定した市町村も出てきている。
〇恵庭市民憲章について
恵庭市民憲章は昭和45年に制定された。内容は当時の社会情勢を反映したもので、至極当然なことを謳っている。最近、恵庭市が主催する式典などで唱和する機会も多いが、何故か記憶に残らない。どうして? と読み直してみると、「文章表現、文脈」「主語のあいまいさ」など日本語が気になりだした。
例えば、
(1)「恵庭岳のそびえる、恵庭の市民・・・」とあるが、”恵庭岳のそびえる“の後の句読点の是非、さらには「そびえる」の表現。恵庭岳山頂の帰属については恵庭と千歳の間で論争があったこと、国土地理院の地図でも境界を示していないのは承知の上だが、恵庭の真ん中に恵庭岳があるわけではないので「恵庭岳がそびえる恵庭」の表現は気になる。感覚としては、「恵庭岳をのぞむ(眺める)」と言う方が近い。恵庭岳の名前に拘ったのだろうが、昔は千歳嶽と呼んだこともあったそうだ。恵庭岳は果たして恵庭の象徴だろうか。境界論争を考慮して敢えて取り入れたのだろうか。
(2)「漁と島松の川に広がるこの地・・・」も気になる。言いたいことは分かるが、“川に広がるこの地“と言う表現は日本語として理解できない。
(3)「かおりたかい鈴らんにたがいの幸せをねがい・・・」。何故に鈴らんに互いの幸せを願わねばならぬのか。鈴らんが「市花」だとしても、此処に持ち出すことの意味が薄弱。
(4)前文の主語は「わたしたち」と明確だが、憲章の項目部分は「意思」「呼びかけ」が混在し曖昧である。例えば、「たがいに尊重しあうことにより、なごやかな家庭をつくる」のか、「たがいに尊重しあいましょう、なごやかな家庭をつくりましょう」なのか。
(5)「きまりをまもり、住みよいまちをつくりましょう」、「きまりをまもる」はそもそも憲章に入れるようなことなのか・・・。決まりを守れば住みよいまちが出来るのか、とへそ曲がりは考える。
恵庭市民憲章も制定後50年。もう一度、憲章を読み直してみようと思う方々が現れることを期待したい。
参考までに、平成19年に制定された北斗市の市民憲章。
わたしたちは 豊かな大地と歴史に結ばれた夢と希望をふくらませ ともに喜び感じるまちをつくる 北斗市民です
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