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伊豆下田の「打ちこわし騒動」

2012-12-23 10:36:48 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

去る1219日付のブログに伊豆下田の歴史年表を添付したが,その中に「打ちこわし騒動」や「入会地をめぐる争い」が幾度となく出てくる。温暖で長閑なこの地で歴史に残るような騒動があったと,旅人は感じることもあるまい。

黒船,幕末外交の舞台,唐人お吉などについては誰もが知るところであるが,その裏には民間人の騒動や紛争事件が数多くあったのだ(その他に,鎌倉室町時代の武士や小豪族たちの争いはあるが,ここでは含まない)。これも歴史の一コマである。

 

図説下田市史(下田市史編纂委員会「図説下田市史」2004)には,打ちこわし騒動として「天保のうちこわし」と「明治の打ちこわし事件」が記載されている。その中から一部を引用しよう。

「天保のうちこわしは,天保7年(1836718日夜,一団の若者が4軒の米小売商を次々と打ちこわした。天保4年から続いた慢性的飢餓のため米穀流通が逼迫し,米価が異常な高騰を繰り返し・・・。韮山代官江川英龍から厳しく警戒を命令されていた町役人は狼狽し,韮山御役所に注進の使者を送ったが,中途にして町頭や周辺村々名主の反対にあって穏便な解決を要請され,事件はうやむやに終わるに見えた。ところが,・・・突如手代根本又一,長沢与四郎が出張し厳重な取り調べが行われ,芋づる式に若者が捕えられた。・・・14名が韮山へ送られ入牢となった。・・・主謀者と目された3名は,1人が重追放,2人が所払いに処せられ,他は過料銭で・・・」とある。

 

また,明治の打ちこわし事件は,「明治28月,岡方村の名主(両替屋でもあった)平七が,1両の金札を銀435分にしか通用しない,という廻し文を出した。これが引き金となり,怒った稲梓・稲生沢の農民たちが大挙して下田に押し寄せる騒ぎとなった。85日夜,河内の河原に集合した700人の農民は篝火をたいて一夜を過ごし,翌6日の明け方行動を開始・・・,役人や町頭全員が出て応対に努めなだめようとしたが農民たちは収まらず,岡方村名主宅を叩き壊してしまった。・・・この騒動は翌明治35月に落着し,徒罪(懲役刑)4人,押込め(他出禁止)・過料数十人と言う結果になった」とある。

 

前者の「天保のうちこわし」は,享保・天明に続く江戸三大飢饉のひとつ「天保の大飢饉」に連なるものである。全国で多数の餓死者を出し,江戸での救済者は70万人,大阪では毎日100150人の餓死者が出たとも伝えられている。この大飢饉の影響は,奥伊豆の下田まで襲いかかっていた。ちなみに,甲斐の国百姓一揆,大阪で起こった大塩平八郎の乱も,天保の大飢饉が誘因であった。

 

後者は,幕末から明治新政府への変動期の経済混乱に起因している。稲梓・稲生沢の農民たちが主役であったのは,農耕と山仕事を生業とするこの地域がより貧しかった故かも知れない。

 

いずれにせよ,両騒動に共通する時代背景は,奉行所廃止にともない下田の経済が凋落する時期であったということだ。苦悩する下田の一面である。その後,幕府依存から脱却した下田は,住民の力で再び歩みを始めることになる

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