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黒船艦隊が下田から持ち帰った植物

2012-09-05 16:30:23 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」

嘉永663日(185378日),米国のペリー提督率いる「黒船」が浦賀沖に姿を現したときの混乱ぶりが,この狂歌に象徴されている。それまでにもイギリスやロシアの帆船を目にしてはいたが,ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船の姿は幕末の世を圧倒するものであったのだろう。この黒船来航を契機に幕府は日米和親条約を結び,開国につながった歴史事実を,私たちはよく知っている。

 

当時,産業革命を迎えたヨーロッパ諸国はインド,東南アジア,中国へと熾烈な植民地獲得競争(市場確保)を進めており,一歩出遅れたアメリカ合衆国も太平洋航路の確立とアジアでの拠点づくりを目指していた。また,産業革命を支える鯨油を得るために当時は世界中の海で捕鯨が行われていたが,太平洋を中心に操業していた合衆国は航海拠点(薪,水,食料補給)の確保に駆られていた。合衆国大統領はペリー提督に親書を託し,日本に開国を迫ったのである。

 

この歴史的外交の裏で,プラント・ハンターが活動した事実を知る人は少ないだろう。黒船艦隊は,「米国北太平洋遠征隊」の名のもとに植物学者と植物採集家を遠征隊のメンバーに加え,琉球,小笠原,薩南諸島,伊豆下田,横浜,箱館及び北海道周辺で大がかりな植物採集を行い米国に持ち帰った。

 

ここでは,小山鐵夫博士1)が解説している111種の中から採集地が下田のものを抽出して表に示した(黒船艦隊が下田から持ち帰った植物標本)。この他にも,多くの種子や標本が持ち帰られたと言われている。

 

1次採集(ペリー艦隊)は,1853年ペリー提督率いる黒船艦隊が初めて浦賀に現れた遠征の年で,浦賀,横浜,下田,箱館で採集した。在マカオ米国領事館員ウイリアム氏(S. Wells Williamas)とモロウ博士(James Morrow)が遠征隊に同行し収集にあたり,標本総数は353種,新種は34種だという。

 

2次採集(ロジャース艦隊)は,1854~55年にかけて小笠原,沖縄,奄美大島,九州,下田,箱館,北方諸島など大がかりに行った(採集に関与した黒船は旗艦ヴインセンス号とハンコック号の2隻で,前者にはライト博士Charles Wright,後者にはスモール氏James Smallが乗船して収集にあたった)。下田では,185551328日に採集している。第2次採集隊の標本総数は第一次をはるかに上回り新種63種を同定した。

 

1次及び第2次遠征で採集された標本は,植物学の権威ハーバード大学グレイ教授(Asa Gray)によって同定・研究され,同大学植物標本館に現在も保存されている(ニューヨーク植物園にも同標本のほぼ完全な一セットが保管されていることを小山鐵夫博士が見出した)。調査報告書を基にグレイ教授は北米と極東アジア地域植物相の類似性を指摘し,植物地理学上注目すべき仮説(隔離分離)を発表している。

 

感嘆に値するのは,19世紀のこの時代の米国で植物学の基礎研究のために海軍が便宜供与を与えていたという事実である。植物遺伝資源の重要性を認識する先見性である。

 

下田を訪れたら,19世紀の時代にプラント・ハンターが路傍や野山で植物採集をしている姿を想像してみるのも面白い。

 

1)小山鐵夫「黒船が持ち帰った植物たち」アポック社1996

 

 

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