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恵庭の碑-1,先人の偉業を讃える「開拓の碑」

2014-11-15 17:43:38 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭の開拓が緒に就いたのは,開拓使が置かれ(明治2年),蝦夷地を北海道と呼ぶようになってからである。明治2年8月千歳,勇払,夕張郡の支配被命を受けた高知藩(土佐藩,明治初年の正称が高知藩)は,藩士岸本円蔵,北代忠吉,従者杉本安吾らに現地調査をさせ,明治3年(1870)に開拓者を漁太などに送り込んだ。藩の積極的な支援を受け,開拓者らは洪水被害を蒙りながらも1年間で7町歩を超える開墾を行ったが,分領制度が廃止(明治4年)されると全員が引き揚げ(明治5年),開拓は頓挫してしまう。

因みに,河内の人中山久蔵が島松村1番地(現,島松沢137)に入植(明治4年)し,水田50坪を拓き,道南大野町から買い入れた水稲「赤毛」の種籾を苗代に播いたのが明治6年(1873)であり,ちょうどこの頃の事である。

その後,恵庭の開拓が本格的に動き出すのは,明治19年(1886)に山口県岩国・和木地方からの集団入植である。岩国の人々に北海道移住を決意させた背景には,明治17年の洪水により耕地が流亡,再耕不能になったことがあげられる。明治19年,島田勘助,田中梅太郎の実地調査を受け65戸(2か月後に3戸が加わり358名)が,明治20年には萩藩士族49戸219人が入植した。官から旅費と営農支度料(小屋,農具,種子代)が支給されたが,士族出身の入植者は環境に適応できず転出帰郷する者が多かったと言う。厳しい環境下での苦労が推察される。

さらに,明治26年(1893)には加越能開耕社(加賀・越中・能登)一行が入植した。石川県・富山県・福井県のこの地域は,地籍乏しく,立地条件に恵まれない零細農家が多かったからであろう。その後も呼び寄せ入植などが続き,開拓は進展した。このような先人の労苦を礎にして,繁栄する恵庭の今があると言えよう。

現在,恵庭市の人口は6万9千人,財政規模も220億円を超えるまでになった。農地は4,000ha,農業総産出額は毎年50億円を超えている。農家戸数の減少など課題はあるものの,この豊穣は先人たちが築いた礎の上にあることを忘れてはなるまい。

先ずは,恵庭にある「開拓の碑」を辿ろう。

1.山口県人恵庭開拓記念碑

2.富山県人開拓之碑

3.(恵南)開拓の碑

4.拓望の像

5.廣和魂

1.山口県人恵庭開拓記念碑(昭和31年10月8日建立,恵庭市新町)

恵庭市民会館の東側,会瀬洞門通りグリーンベルトに開拓記念碑がある(写真は2014.1.25及び2014.10.4撮影)。記念碑上部に横書きで「山口県人」,中央に縦書きで「恵庭開拓記念碑」と刻まれ(元総理大臣岸信介揮毫),碑の基礎石には当時の入植者氏名が刻まれている。先に記したように,明治19年(1886)山口県岩国・和木地方から68戸,翌20年(1887)には旧萩藩士族45戸が開拓者として漁川沿いに入植したのが,恵庭開拓の始まりとされる。山口県移住者の子孫は,恵庭の礎となった先人の苦労を偲び偉業を讃えるため,明治44年(1911)11月3日天融寺境内に記念碑を建立した。現存の碑は,当初の碑が損傷著しくなったため,昭和31年(1956)10月8日この地に再建されたものである(発起人:槌本貞一,村本寛,本田恒美,槌本正義,藤本良男ら)。さらに,入植者氏名を記した基礎石等は,昭和60年(1985)改修が行われた。

碑背面には永山金治の揮毫により以下の撰文が記されているので紹介しよう。

「原始の森に暗くアイヌの住家,漁川の清流をはさんで点在するだけであったろう。この地に明治十九年四月山口県岩国地方団体六五戸,次いで翌二十年山口県鳴門国萩藩士四五戸開拓の雄図を抱き,生息死別の悲壮な決意のもとに海路波濤と戦い死線を超えて入植し開拓に着く。然しその業の困難が如何に言語に絶したものであったかは,古老の昔語りに忍ばれる。食うに食なく住むに家なく衣にも事を欠き,特に食に至っては粟蕎麦薯粥をすするにさえ不足勝であったと言う。けれども苦節死闘幾十年,今開村六十周年を明年に迎える。思うにその基を築いた先人の苦労業績は大きく称えられてよく,其の偉業を忍び我等集い碑を建立永く伝えようと思う 昭和三十一年十月 発起人一同」(恵庭市史から転記)

 

2.富山県人開拓之碑(昭和62年6月建立,恵庭市南島松「恵庭開拓記念公園」)

恵庭開拓記念公園に「富山県人開拓之碑」がある(写真は2014.9.12撮影)。傍には「恵庭開拓の祖を讃える」碑文が置かれている。その文章を引用しよう。

「富山県下の農民は打ち続く大洪水に塗炭の苦しみに喘いだ。明治25,6年に小矢部市薮波村村長兜谷徳平氏は,県民百戸近くを漁村に移住せしめた。風雪は開拓小屋を吹き抜け,ひぐまの横行する原始林に,いばらを押し分けつつ開拓の鍬を打ち下ろし飢餓に耐えながら言語に絶する苦難を克服し耕地の拡大に励んだ。その後,縁故入植や北陸の人々で恵庭の開拓は進められた。氾濫を繰り返す漁川を克く利水し,開田に努め大正の末期には田畑五千町歩余りを開墾し,実り豊かな恵庭村は出現した。「噫々その偉業何にたとうべき哉」これらの事を後世に語り継ぐべく杉森梅次郎氏は,有志と諮り恵庭冨山県人会を創立した。それから十年,和と親睦を深めつつ今日に至る。現在恵庭市は,道央の拠点都市に発展するも,百年前を想起し開拓に心血を注いだ先人の方々に深い感謝の誠を捧げ,ここに記念碑を建立する。謹白。恵庭冨山県人会会長杉森勝義」

 

3.(恵南)開拓之碑(昭和54年11月建立,恵庭市恵南)

恵庭市恵南28寺田牧場(みるくのアトリエ)南側に隣接してある「開拓之碑」は,「馬頭観音」「牛頭大王」の碑と並んで建っている(写真は2013.10.19撮影)。

昭和20年(1945)10月,道内各地から桜森地区(現・北海道大演習場)へ桜森開拓営団の入植が始まったが,間もなくアメリカ軍に接収されたため立ち退きを余儀なくされ,その一部が戦後緊急開拓者としてこの地へ移り住むことになった(昭和23年12月)歴史がある。もともとこの一帯は,明治9年(1876)より官設漁村放牧場(後に北海道農事試験場漁放牧場)として牛50頭余りを飼育していた場所で,従事していた職員も戦後この地に定住した。

開拓の碑は,戦後入植から30周年を記念して,昭和54年(1979)11月建立されたものである。碑背面の撰文は判読できない文字もあるが,次のように読み取れる。

「国破れて山河あり,窮乏と荒廃の国土の中から祖国再建えの使命を擔い,昭和二十三年十二月緊急開拓者として原始の森と不毛のこの地に入植せるを以て恵南開拓は始まる。以来同志克く協力相和し幾多の苦難を克服し,粒々辛苦風雪正に三十年痩薄の火山灰土化して沃野となり営々として業に勤しむ,茲に開基三十年を迎えるにあたり往時を回顧し同志相諮り碑を建て以って記念とす,昭和五十四年十一月吉日建立」

さらに文章下段に,鍋島金蔵ら13名の名前が列記されている。

また,並び立っている「馬頭観音」は昭和23年桜森から立ち退く際に移設されたものであるが,本来の建立年は不詳。「牛頭大王」碑は,豊栄(恵南の旧称)地区で乳牛飼育が100頭を上回ったことを記念して建立された(昭和38年11月17日)と言われる。

 

4.拓望の像(昭和54年8月建立,恵庭市南島松「恵庭開拓記念公園」)

先に紹介した恵庭開拓公園内の「拓望の像」(竹中敏弘作,写真は2014.9.12撮影)も,先人の功績を讃える記念碑と同系列にある。山口県から現地調査に入った島田勘助,田中梅太郎の姿を,彫像作家竹中敏弘が表現したものだと言う。詳しくは,本ブログ(恵庭の彫像-4,2014.10.9)を参照されたい。

彫像の傍らに碑文が置かれているので紹介しよう。

「拓望の像,明治十八年わが郷土の先達は,はるかに馬追山からこの恵庭市の平原を相し,酷寒にいどみ飢餓と闘い心血をそそいで鬱蒼たる原始の巨木にいどみ,いばら多き原野を拓き,互いに希望の火を漁川のほとりに焚き,百折不撓ついに今日の隆昌発展の礎石を築いた。いまここにその功業を偲び拓望の像を建立し感謝の意を捧げると共に,永く志を後代に伝えんとするものである。昭和五十四年八月建立,恵庭市長浜垣実」

 

5.廣和魂(大正6年10月31日建立,恵庭市下島松)

本碑の由来を確認していないが,ここでは「開拓の碑」と同列に置く。本碑も,開拓に携わった先人同胞の苦労業績を偲び建立されたものだろう。

本碑は恵庭市下島松にある。道道46号江別恵庭線の西島松から,ホクレン恵庭研究農場と道央農業振興公社の間の道路を直進し,突き当りを右折して,島松川が流れる沢に下る途中にある。本碑の所在を確認しようと訪れた一回目は地番を頼りに探したが見つからず,二回目は幸いにも近所の方に場所を聞くことが出来た。見つからなかった訳だ,「廣和魂の碑」は雑木林の中,草叢に隠れるようにあった(写真は2014.11.12撮影)。近づいてみると,櫟の木に囲まれ,碑足元の草は刈られていた。

碑の表面に,「廣和魂」の文字が大書され,裏面に「大正六年十月三十一日」とだけある。基石に,発起人氏名(水野熊三,山平與六,伊藤万吉,若松藤治郎,谷口与作,菅原平作,鍾下寅吉),賛助員氏名(山川由太郎,大山口源平,奧田豊造,好川梅吉,藤井周一,中野甚太郎,津田吉三郎,小川与作,谷口惣次郎,田辺余市,中村惣次郎)が彫られているだけの素朴な姿である。

傍らに,「馬頭観世音菩薩」(昭和七年二百十日,大山口源平)がある。開拓の苦労を分かち合った馬の供養が行われていたのだろう。恵庭市内に馬頭観音や獣魂碑は多い。馬頭観音については別の機会に紹介する。

*追記:「廣和魂」は顕彰碑の意味合いが強い。広島村開祖 和田郁二郎氏を顕彰して建立された。昭和54に高台から現在の場所(島松沢)に移設された。

人は誰でも,故郷や仕事に愛着を持とうとすれば,その生い立ちや先人の足跡を知る必要があるが,時代の流れに追われがちな現代人にとって歴史を学ぶことは蔑になりやすい。活字離れの風潮も歴史を軽んじることに拍車をかけているのかもしれない。

このシリーズは,恵庭の歴史を知ろうと歩いた「石碑物語」である。「恵庭の碑」については郷土資料館のHPを参考にした。また,所在地の詳細情報について同資料館のOさんに御教示賜った。感謝申し上げる。

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