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恵庭の碑-2,開拓を支えた治水事業「共同用水記念碑」

2014-11-16 10:04:25 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

治水」という言葉がある。洪水などの水害を防ぎ,また水運や農業用水の便のため,河川の改良・保全を行うことを意味する(大辞泉,小学館)。歴史を紐解けば,名君と称される為政者の多くは治水事業を成功させていることに気付くだろう。

北海道開拓にとっても治水は重要な案件であった。河川の氾濫から田畑を護り,主食であるコメ生産のために「水」は極めて重要で,用水を巡る水利権争いもあった。恵庭でも漁川や柏木川の水を利用した開田(稲作)が進められた。有志相はからい用水事業を起こし,官の認可を得て,地域ごとに強い絆の用水共同管理が行われたのである。特に北海道は,開拓期から食糧増産政策の過程に至るまで多くの公的資金を投入した基盤整備が行われ,記念碑も多く建立されている。

恵庭市郷土資料館のHPによると,恵庭市内だけでも以下の5記念碑が紹介されている。

1.漁共同用水記念碑

2.柏木川共同用水紀念碑

3.盤尻用水記念碑

4.島松共同用水紀念碑

5.拓土農魂之碑

1.漁共同用水記念碑(大正9年11月建立,恵庭市上山口)

漁川に沿って走る「川沿大通り」は,中恵庭地区で道道600号島松千歳線と交差する。その信号近く,川沿大通りに面して「漁共同用水記念碑」がある(上山口36,写真は2014.11.10撮影)。しめ縄で飾られた様子からも,今なお共同用水に込める関係者の気持ちが伝わってくる。

碑表面の書は,従六位吉野幸徳(北海道文書館によれば,吉野幸徳は,明治13年太政官雇となり,内閣会計局,内務省県治局,青森県内務部,石川県内務部,沖縄県宮古島司などを経て,明治35年に北海道庁長官官房文書課長を務め,明治42年に退職した官僚)。また,碑背面には明治28年(1895)12月北海道庁許可,起業者竹本勘次郎,嘉屋菊之助,滝本國太郎,田中梅太郎,他六十名と刻まれている。

基石には碑建設委員(委員長北岡善作ほか委員大西佐右衛門ら19名),起業以来就職役員(野原久蔵ら10名)及び部長(柳澤豊太郎ら51名)の氏名が刻まれている。また,碑建設敷地寄付者(溝口榮次郎)と「大正九年十一月建設,札幌區南二條東一丁目渡邊健太郎刻」の氏名が刻まれているが,年を経て判読できない文字もある。

傍らの説明板には,「漁用水組合は,明治二十六年(1893年)頃,竹本勘次郎氏,嘉屋菊之助氏,瀧本國太郎氏,田中梅太郎氏(いずれも山口県人)らが発起人となり開田を計画して,明治二十八年十一月(1895年)に水利権の認可を得た。その後明治三十年七月(1897年)拡張工事を行い四十七名の加入の認可を受け,再び大正十二年十二月(1923年)に拡張確認の認可を得て,加入面積671haとなった。この記念碑は先人の功績を讃え,大正九年(1920年)に建立されたものである。恵庭土地改良区」とある。

碑の両側面に刻まれた文字は損傷著しく判読できないものが多い。記録は残されているのだろうか?

 

2.柏木川共同用水紀念碑(大正12年4月建立,恵庭市中島松)

柏木川に架かる「南18号柏木川橋」の下流右岸にある。其処は,橋からも,南18号線道路からも見えない低い場所で,初日には堤防を南17号まで往復したが見つからず,翌日改めて探すと畑の一角,草叢の中にあった(写真は2014.11.12撮影)。

碑の表には「紀念柏木川用水の碑」,背面には「大正拾貮年四月三十日建之,昭和三十年七月改築」と刻まれ,側面には「南十五号より十八号まで柏木川より引用する灌漑溝確認並拡張の件,大正九年七月五日願,大正十二年二月十二日諾許可(新字体に変更)」とある。もう一方の側面には,出頭人総代宗近與三吉,ほか青木藤三郎ら13名の氏名が記され,基石には敷地寄付者北国高一の名がある。

傍らに,恵庭土地改良区による説明板があるので転記する。

「柏木川水系は明治29年(1896),石井久兵衛氏個人が水利権を出願して許可を得ている。時同じくして原田三十郎氏,青木久七氏らが率先して造田計画により他15名と共に水利権の許可を得た。当時の取水口は,南24号下流150mの所であったが,取水困難により,南23号下流200mに取水口を変更した。南18号下流地域においては水不足で茂漁川より補水を必要としたが,玉川徳次郎氏(富山県人)が率先して他13名と共に86haの開田をして,大正6年4月(1917年)に水利権を出願した。更に宗近與三吉氏(福井県人)ら12名は32haの開田を,大正9年7月に出願し,大正12年2月に水利使用が許可された。柏木川水系は,昭和20年に土功組合に統合されるまでは,上流・中流・下流の3地区の組合に分かれて運営されていた。

この記念碑は先人の功績を讃え,大正12年(1923)に建立されたものである。恵庭土地改良区」

 

3.盤尻用水記念碑(大正13年10月26日建立,恵庭市牧場)

恵庭柏木通りの文京町3丁目信号,恵庭中学校の筋向いに当る一画(文京町4丁目19番地西側,行政区は牧場)に本碑は建っている(写真は2014.11.11撮影)。碑の表には「盤尻用水記念碑」の文字が草書体で刻まれ,その横に書家の名前と刻印があるが判読できない。

基石には,建立年月日と発起人氏名(大正十三年十月二十六日建立,発起人槌本磯五郎,長田佐一,永山百合熊,國廣留市),歴代役員氏名(起業以来就職役員,水利長山森丹宮,副水利長林愛助,水利長小柳明實,副水利長林愛助,水利長林愛助,副水利長長田作一),拠金者氏名,敷地寄付者氏名(山森丹宮),移設敷地寄付者(中川義孝),及び石工の名前が彫られている。

傍らに,恵庭土地改良区による説明板があるので紹介する。

「盤尻用水組合は,明治二十四年十月(1891年),山森丹宮氏,小柳三太夫氏(福井県人)らが発起人となり,盤尻番外地において漁川から取水する権利を得て約36haを開田したのが始まりである。大正九年三月(1920年)の拡張確認申請の時は116.5haとなり,明治二十四年より大正九年までの三十年の永きに亘り,山森丹宮氏は医業のかたわら寝食を忘れて尽力されたが,この地帯は火山灰層が厚く,水田経営に安定を欠き,昭和七年(1932年)に26.5ha約13名が地区除外をすることになり,水利使用を廃止した。

この記念碑は先人の功績を讃え,大正十三年十月(1924年)に建立されたものである。恵庭土地改良区」

4.島松共同用水紀念碑(昭和3年11月建立,恵庭市恵み野北)

恵庭市恵み野北7丁目の一隅,団地環状通が北海道々600号島松千歳線に交差する一画に本碑はある(写真は2014.10.22撮影)。石碑正面中央に「紀念碑」の文字が大書され,「島松共同用水」と添えられている。「紀年」とは,ある紀元から数えた年数を意味するので,用水組合結成から数えて35年を記念し建立したのだろう。碑側面に「昭和3年11月建立」とある。

基石には,歴代組合長(小柳三太夫,植松藤兵衛ら7名),用水功労者(新山常八,田中梅太郎,井上和助,西佐左ヱ門,植松藤兵衛,小柳三太夫,原田三十郎,岩井與三吉,瀧本国太郎,藤本豊槌,五十嵐多作),記念碑建設寄付者氏名等が刻まれている。

傍らの説明板には,「茂漁川水系は明治二十年頃(1887年),島松地区の造田に着目した原田三十郎氏,小柳三太夫氏(福井県人)の両氏が水路掘削を発意したが,当時においてはこの地方における水稲栽培に確信を持つ人がなく,他の人達の同意を得ることができなかった。両氏においては当時の価格で六百円(当時米六十キロ一円四十六銭)を投じて水路を啓開して造田に着手したものである。この成果は急に造田の熱を高める事になり,明治二十七年八月(1894年)には原田三十郎氏,小柳三太夫氏ら十一名が発起人となり,島松共同用水を設立して水利権を得たものである。この記念碑は先人の功績を讃え,昭和三年(1928年)に建立されたものである。恵庭土地改良区」とある。

 

5.拓土農魂の碑(平成元年9月9日建立,恵庭市春日)

時代が変わって昭和40年代に入ると,北海道農業は機械化が進み圃場の大規模化が余儀なくされ,各地で圃場の整備事業が行われた。北海道営圃場整備事業(恵庭地区)は,昭和46年(1971)から20年の歳月をかけ,上山口地区ほか8地区で推進された。

本碑はこの事業の完成を記念して建立されたもので,碑の正面には「拓土農魂の碑」の文字が刻まれている(写真は2014.9.12撮影)。拓土農魂の文字は北海道知事堂垣内尚弘書。

隣に事業の沿革を記した碑があり,恵庭市,千歳市,北広島町及び恵庭・千歳・北広島の各農業協同組合,恵庭土地改良区の7団体が実施機関となり,3,303ha,約268億2千万円を投入推進した基盤整備事業である旨,刻まれている。その裏には,センター構成の役職員,歴代運営審議会委員ほか関係者の氏名を刻し,北海道農政部長笹田隆史は「風雪二十年に耐えて,その偉業を讃える」の書を添えている。

場所は恵庭市春日,川添大通りを進み,恵庭中央から春日地区に入った所にある。

 

用水記念碑を見るたびに,思いは複雑に絡み合う。開田し稲を育てコメを生産するために,北海道へ移住した人々が如何に苦労したか。寒冷地でのコメ安定生産のために生産者はどれだけ頑張ったか。その顛末が,稲作制限となり耕作放棄地の出現と言うのはおかしくないか。

その一方で,喜ばしいのは道産米の食味向上だろう。「ゆめぴりか」「ななつぼし」等々,府県米を凌駕している。先人の苦労は報われたとも言えよう。

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