国立の地域農業研究センター(CRIA)は,同国南部に位置するエンカルナシオン市の近くにあり,主要畑作物の育種センターとなっています。1979年から日本が協力して整備を図り,技術協力プロジェクトのサイトとしてきた歴史があります。プロジェクトは2002年に終了しましたが,縁あって2003年はフォローアップで,今回2006年からはフェニックスプロジェクトとして,この研究センターで仕事をすることになりました。
◆日本から遠い国
26時間余のフライトを終え(乗継ぎ時間を含めれば30時間を超えますが),首都アスンシオンに向け機首を下ろした飛行機の窓からは,亜熱帯多雨林の面影を残す木々の緑,赤い土壌が目に飛び込んできます。空から見るアスンシオン市は,緑が多く,森と草原に囲まれた自然豊かな都市と言った印象です。しかし,空港を一歩出れば,ムッとする熱気と貧困の臭いが溢れます。
街中を車で走れば,日本では見たことのないような広大な庭をもつ贅を尽くした豪邸が立ち並び,これがパラグアイかと疑うような通りがあるかと思えば,バラック建てで生活する人々がたむろする地域が混在し,冷房を効かした新車ベンツの横をドアの閉まらないバスが走り,信号で車が止まれば物売りとフロントガラスを洗う裸足の少年が駆け寄るなど,首都は同国経済の縮図です。
そして,アスンシオンから東部の穀倉地帯に向け車を走らせれば,草を食む牛の群れ,見渡す限り一面の大豆畑,庭先の木陰でマテ茶を回しながら寛ぐ人々がいて,長閑な田舎が広がります。パラグアイを南米の田舎と称することがよくありますが,忙しく動き回る我々にとっては気持ちの安らぐ風景です。このような大豆畑が広がる一画にCRIAはあります。
◆休むまもなく
CRIA到着当日,場長および大豆研究コーデイネーターに挨拶後,研究室で若い研究員(前カウンターパートが辞めたため,農牧省は3名の女性研究員を配置。転出した研究員は3倍の給与で民間に引き抜かれている)及び旧知の技術者らと打合せ。育種は畑で材料を良く見なければダメだ,育種は事業だから研究室全員が情報を共有すること,研究者は年に一つは論文を書けと話したら,翌日には若い生真面目な研究員が3か条に要約して「ドクトルは語った・・・」と壁に張り出したりして。ともかく,こんな調子で仕事をスタートしたのでした。
翌日は大豆国際セミナーに出席。イタプア県農学士会と農牧省が主催する会議で,ブラジル大豆研究センター(EMBRAPA),アルゼンチン農牧研究所(INTA),JIRCAS,パラグアイ国内の研究機関,種苗会社の技師等が研究成果を発表し,生産者も多数参加。さび病とシスト線虫が主要なテーマで,南米大豆作にとってこれらが重要課題であることを伺わせます。
そして,翌週は走行距離520kmかけてイグアス市にあるJICAパラグアイ農業総合試験場(CETAPAR)訪問。場長に着任挨拶の後,CRIAとの研究連携について協議。その夜は,当地でご活躍のKMご夫妻,ブラジルから来ていたSHご夫妻と,南十字星を眺めながら語る機会がありました。
さらに翌々週は,東北部の畑作地帯を走行距離1,100kmかけて大豆シスト線虫の発生実態調査。この地域はブラジルに隣接するため,ブラジル系の生産者が多く,種子も栽培技術も機械もブラジル製といった状況で,1,000haを超える大規模経営が行われています。
シスト線虫については,ブラジル(1991年),アルゼンチン(1997年)に次いで2003年にはパラグアイでも発生が確認されました。パラグアイでは,まだ15箇所しか汚染圃場の報告がありませんが,東北部の地域ではかなり高頻度に汚染されているものと推察されます。不耕起栽培のため汚染拡大が抑制されるだろうとの話もありますが,被害拡大は避けられないでしょう。
検定圃の設置を予定している圃場(東北部,レース3)では感受性品種に個体当り100~300のシスト着生が観察されました。気温が高いところですので孵化が早まると思われますが,どのような生態にあるのか詳細な報告はまだありません。前プロジェクトから継続しているCRIAの抵抗性育種は,特性が大分改良されてきましたので,新品種までもう一歩という段階です。
参照:1) 土屋武彦2006「パラグアイ事情」北農73(3)58-61 2) 土屋武彦2005「パラグアイ農業,最近の話題」北農72(1) 101-106 3) 土武彦2004「南米パラグアイの大豆栽培」農業及び園芸 79(1) 23-30,(2) 256-262,(3) 358-365.
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