人間は一生に何回ぐらい転居するものだろうか。生まれた家、育った家、学生時代の寮や下宿、結婚当初のアパート、子供が出来てから手に入れた住宅など、人生それぞれ差はあるだろうが通常かなりの数になる。私自身も数えてみたら17回転居していた。本項では南米で暮らした頃の住宅について触れてみたい。
南米で生活拠点となったのは、アルゼンチンではコルドバ州のマルコス・フアレス市、パラグアイではエンカルナシオン市だった。マルコス・フアレス市はパンパ平野畑作地帯の中にポツンと存在する人口3万ほどの田舎の町、周辺には大豆や小麦畑が広がった長閑な街だった。外国人の居住者は私たち一家族のみ、セントロの借家に2年間暮らした。一方、エンカルナシオン市は人口10万、同国第二の都市で日系移住者の方々も多く住んでいた。パラグアイへは断続的に三回長期派遣されたので、エンカルナシオンでは3軒の借家に暮らしたことになる。それぞれに思い出すことは多い。
◇マルコス・フアレス市の古い住宅(アルゼンチン)
私たちが入居した家は、市の中心部を東西に横切るサン・マルチン大通り(独立の英雄San Martin将軍に由来)に面していた。近くには古い教会が立つホセ・マリア・パス将軍広場があり、西に一区画進むと警察、バスターミナルがある。この通りには肉屋、八百屋、薬局、レストラン、カフェテリアなどが並び、生活に便利な場所だった。
建物はレンガ造りの一階建て、壁は白ペンキで塗られていたが所々剥げ落ち、古色然とし、ヨーロッパのように両脇の建物と壁を接している。建物自体は小さいが、表から見えない奥に中庭があり、裏の中通りにまで繋がっている。大きなユーカリと数本の柑橘が植えられ、中庭の壁にはジャスミンの蔓が這い、季節になると白い花から強い香りが漂っていた。
玄関を入ると真っすぐ居間に通じる廊下が延び、両脇には二つの小さな寝室と応接間があった。応接間には大きなテーブルと10脚の椅子、古式然としたシャンデリア、壁には開拓時の農場と家屋を描いた油絵が飾られていた。おそらく家主が所有する農場の昔の姿、祖先が暮らした家なのかも知れない。道路に面した窓には鉄格子と厚い木製のブラインドが付いている。このブラインドは日よけの他、騒音防止、暑さ除けであることを後になって気付いた。ブラインドを開けたままにしておくと、暑い国では外の暑さが侵入してくるので、朝に空気を入れ替えたら日中は閉じるものだと知った。
居間は台所と一体の形で、長椅子と食事用テーブルが置かれていた。居間の古いテレビは、電波状況が悪くいつもチカチカしていた。中庭には洗濯場とメイド室、屋根の雨水をためる井戸が地下に設けられていて、貯めてあった用水をポンプで屋上タンクに組み上げ給水する仕組みになっている。この地方ではどこの家でも雨水を貯蔵して使用するのだと言う。地下水はヒ素が含まれることがあるので井戸水より雨水の方が安全だと聞かされたが、本当かどうか分からない。洗濯、シャワー、調理などには専ら貯水した雨水を使っていたが、飲用水は市販の水を配達してもらっていた。山が近く水のきれいな場所に工場があり、この町まで販売システムが構築され、レストランでも同じブランドを使っていた。炭酸ガスを入れたコン・ガス(con gas)と入っていないシン・ガス(sin gas)が一般的に流通していることも珍しかった。郊外に出ると地下から水を汲み上げる風車があちこちに立っている風景が見られ、これらは牧畜用の用水であるが、牛には問題ないということなのだろうか。
当時の家賃契約書(Contrato de Locacion、西語)が残っていたので確認すると、家主はテンペスチーニ氏、住所はサン・マルチン1165となっている。家賃は500米国ドル。契約内容は、準拠する法令と共に詳細に記載され、備品や什器は皿一枚、グラス一個まで記述されている。その細かさにも驚かされたが、そのシステムも初体験であった。作成は弁護士事務所で、弁護士の署名により契約書が保障されているのだ。
1978年10月2日から2年間この家で暮らした。妻と息子2人(小学生)にとっても初めての海外生活。言葉が不自由な異文化の中での暮らしは、楽しさもあったが想像以上にストレスは大きかったように思う。
◇エンカルナシオンで1か月暮らしたホテル(パラグアイ)
赴任地パラグアイ国では、エンカルナシオン到着後ホテル・アルツールに一か月滞在した(2000年5月19日から6月16日、イラサバル大通り)。市街の東端に位置する小さいが小奇麗な三星ホテル。オーナーはブラジル人で、レセプションの若者は愛嬌のある青年だった。隣に同系列の焼き肉店(シュラスケリア)があり、夕食はそこで食べることが多かった。このホテルは改修され、隣の焼き肉店もべブエナ・ビスタ地区へ移り、後には中華レストラン「ドーニャ・スサーナ」に替わった。ホテルはその後改築され、近くにあったオーナーの住宅もアルツール・パレス・ホテルとなっている(グーグル地図情報)。室料は日額8万3千ガラニー、当時のレートで換算すると約25米国ドルに相当する。
当時のホテルはまだ古い建物だったので、トイレでは紙を流さないように屑籠が置いてあった。流した紙が下水排管に詰まってしまうのだと言う。新しい建築物では改善されているようだが、南米にはまだまだこのような建物が多い。異文化体験の一つとも言える。
◇清美さんの邸宅(パラグアイ)
借家が決まらずホテル滞在で難渋しているとき、当市在住の森谷さんから建築中の家があるから入らないかと誘われた。聞けば、娘の清美さんが自宅を建築していて間もなく完成するので、作業を急がせると言う。場所は先のアルツール・ホテルの近くで、高級住宅が並んでいるホセ・アスンシオン・フローレンス通りにあった。二階建ての洒落た造りである。
契約書によれば、家主名義はアルテミオ・ロメロ(清美さんのご主人)、契約期間は2000年6月17日から2001年6月16日まで(1年後の契約更新で2002年5月13日まで。更に任期延長で同年9月27日まで)、家賃は家具類・備品類の使用料込みで月額×××米国ドルであった。細部の工事は残っていたので住み始めてからも工事人が出入りしていたが、持ち主であるロメロご夫妻が入居する前の新築住宅に2年間暮らすことになった。森谷ご夫妻、ロメロご夫妻には大変お世話になり、家族同様のお付き合いを頂いた。
一階は玄関を入ると脇に小さな部屋とトイレがあり、事務室にも使えるような設計。エントランス正面には吹き抜けの大きなホールがあり、ホールの手前半分は洒落た石畳、奥半分はフローリングになっている。中庭との境は全面ガラス張りで芝生の庭とプールが臨める。ホールの脇に食堂と台所があり、庭の奥には離れが一室ついている。また中庭はテラスが広がり、焼き肉の設備が整っていた。プールで泳ぐことはなかったが、ホールと中庭を使ってしばしばアサード・パーテイを開き、客人をもてなすのに役立った。
二階につながるオープン階段を上ると、ペチカが置かれた居間があり、居間の奥に書斎と主寝室、バス・トイレとクローゼットがある。二階の反対側(道路側)には子供部屋に使えるようなバス・トイレ付きの寝室が二つ。車庫は一階に組みこまれ、車庫の上にメイドの部屋と洗濯場がある設計。
玄関は大きくて重厚な扉、車庫の入口も木製の重いシャッター、コンクリートの壁で周辺を囲い、外から中を覗き見る事も出来ない。治安の悪化で注意喚起が発せられる時代となっていたので、モダンな外観の中にも安全性を考慮した住宅であった。
◇歯科医院の二階に住む(パラグアイ)
プロジェクトのフォローアップで訪れた2回目のパラグアイ(任期は2003年2月10日から8月9日)。歯科医の跡部さんご夫妻が営む歯科医院の二階に住むことになった。場所はエンカルナシオン市街の北部、国道六号線の北側ポサダス通りにあった。二階への階段を上がってエントランスを抜けると居間と台所があり、奥には寝室とバス・トイレが付いている。隣は大家さんの住まいで裏階段から行き来できる。台所で「肉じゃが」など料理していると、跡部家の一員である大型犬が鼻を上に向けて、台所を見上げていることがよくあった。家賃は月額×××米国ドル。跡部ご夫妻には何かとお世話になった。
◇アルマス広場に面したアパート(パラグアイ)
エンカルナシオン市の中央にアルマス広場がある。この広場に面して建つ高層アパート(カルロス・ロペス通りとトマス・ペレイラ通りが交差する角)の二階の一室を借りて暮らすことになった。3回目のパラグアイ暮らしである。大豆育種の技術協力要請がパラグアイ国から出され、それを受けての滞在であった(任期は2006年2月15日から2008年3月25日)。
アパートの一階及び中二階にシテイ・バンクが入っていて、その上部階から住居フロアとなっている。入口には管理人が常時いてドアの開閉や郵便物の収受を行い、安全性が高い建物だった。エレベーターで上がり部屋のドアを開けると右に書斎兼居間、左側には食堂と台所、その奥に寝室が二部屋とバス・トイレがあった。屋上には共用のプールと焼肉設備があり、夏にはアパートの子供たちで賑わっていた。台所の窓からはアルマス公園や小学校の校庭が見下ろせ、四季折々の行事が手に取るように感じられる場所だった。また、夕食後に公園の周りをウオーキングするのにも便利だった。
駐車場は地下に設けられていたが通路が狭く、駐車には苦労した。そんな話をしたら、一区画ほど離れたアパートの地下に駐車スペースを所有しているとのことで、そちらを使わしてもらっていた。家主は秦泉寺さん、高知県出身、農場主である。奥様の律子さんから野菜や果物を届けて頂くなど、家族同様のお付き合いを頂いた。家賃は月額×××米国ドル。
このアパートで暮らした2年目(2007年)、デング熱が大流行し非常事態宣言が出された。感染媒介のネッタイシマカを駆除するために街中を消毒車が走り廻り、アパートの各部屋をも市職員が消毒して回った。一定時間過ぎて室内に戻ったらヤモリが壁で弱っているのを見つけ、外に逃がしたのを思い出す。