豆の育種のマメな話

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アルゼンチンの大牧場主「伊藤清蔵博士」,札幌農学校から世界へ

2012-02-15 18:44:51 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

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明治の末にアルゼンチンへ渡り,南部パンパの地(ブエノス・アイレス州ボリーバル市)で牧場主となり,アルゼンチンの人々からドン・セイソウと慕われた男がいたSeizoの「zo」はスペイン語で「ソ」と発音する)。伊藤清蔵博士である。

 

博士は,1875年(明治8)山形県河北町生まれ,旧制山形中学から1892年(明治)札幌農学校予科に転入,1900年(明治33札幌農学校を卒業後,恩師佐藤昌介教授(のち初代北海道大学長)のもとで助教授,新渡戸稲造教授の勧めでドイツ・ボン大学へ留学,帰国後は盛岡高等農林学校(現,岩手大学)教授として農業経営学を講じた。

 

札幌同窓会員名簿によると,博士は明治337月農業経済学科を卒業しており第6期生である。学生時代,米独留学から帰国したばかりの新渡戸稲造教授から大きな影響を受けたとされる。博士がその後ずっと持ち続ける「学問は実行なり」とする考えは,この頃培われ,ドイツ留学を経て信念となったものであろう。

 

1910年(明治43)アルゼンチンに移住,35才であった。博士をアルゼンチンに呼び寄せたのは「一人の男と一人の女と一冊の本」である,と著書(南米に農牧30年)の中で述べている。一人の男とは,アルゼンチンの牧場主で富豪のカルロス・デイアス・ベレス氏(オルガが娘の家庭教師をしていた),一人の女とはドイツ人の婚約者オルガ・デイシュ,一冊の本とは農学者カール・カエゲールの「スペイン植民地とアメリカの農業」であった。

 

入植したのは,首都ブエノス・アイレスから南西方向直線にして約300kmサン・カルロス・デ・ボリーバル市の郊外であった。資金が十分でなかった博士は,夫人の預金と夫人の伯母からの借金を元手に,他の牧場の牛を預かる方法で牧場を始めた。15年後の1925年(大正14)には「富士牧場」所有地4,000ha,借地4,000ha,家畜12千頭に達していたという。博士は同国農業や牧畜への技術指導にも熱心であった。博士の考えは,1938年(昭和13)ブエノス・アイレス大学農学部での講演によく表現されている。

 

①投機的な冒険で農場・牧場経営は行わない。

②土地の酷使は避けなければならない。

③経営はできるかぎり,農業と牧畜の混合経営で行うこと。

④天災は避けられない。適切な措置をとれば被害の軽減は可能。

⑤農牧業生産者は農牧場に居住すべきである。(Manuel Urdangarin,ウルグアイ・フィールド科学センター,2002による)。

 

すなわち,「牧場主たる者は自ら汗を流して働き,如何にしたら利益が上がるか計量しながら経営する堅実性,併せて時代の動きに対し大胆な選択をも試みる冒険性が重要」と説く。

 

働かせてくれと訪れる日本の若者達は多かったが,博士は首都近郊の花栽培や野菜作りを勧めたという。牧場での生活の苦労,広大な自然の中でのガウチョ(牧童)生活は日本の若者には無理であると考えたようである。その中で,ただ1人の例外となった人物が札幌生まれの宇野悟郎青年であった。彼は博士の牧場でガウチョ生活4年間を体験し,後に共同経営者となった(彼の活躍については別項で紹介する)。

 

博士は,日本が太平洋戦争に突入しようとする194111月(昭和16),狭心症で急逝。牧場のオンブ-の大木が同じ年に倒れたと,語り継がれている。その後,オルガ婦人は30年続いた牧場を処分し全財産を修道院に寄付,孤児院を開設した。この孤児院はボリーバル市で現在も「イトー女子孤児院」として活動している。

 

夫妻の墓はボリーバル市にあり,当時住宅であった建物も残されている。在ア山形県人会は博士夫妻の顕彰碑を建て,ボリーバル市民と共にその偉業を称えた。

 

博士は「アルゼンチン移民の先駆者」「草の根技術協力のパイオニア」と評されるが,パンパの土と帰した博士は「日本とアルゼンチンの架け橋」として生涯を捧げたといえるだろう。「太平洋の架け橋」になりたいとアメリカ留学した新渡戸稲造の心は,伊藤清蔵にとってもこの地で結実した。

 

ところで,「学問は実学なり」の思想は,今も北の学徒に受け継がれているだろうか? 札幌の北大構内を歩きながら考える。

 

アルゼンチンの穀倉地帯といえば,ブエノス・アイレス州北部,サンタフェ州,コルドバ州など湿潤パンパを指す。湿潤パンパ地帯は,現在世界の穀倉として大豆,とうもろこし,小麦の産地であるが,一方パンパ南部は雨が少なく広大な牧野が広がる地帯である。

 

19781980年にかけて私がアルゼンチンで暮らしたのは,湿潤パンパの中央部に位置するコルドバ州マルコス・フアレス市であった。首都から北に450kmの場所にあったため,ブエノス・アイレス州南部を訪れることは滅多になかった。ただ一度だけ,1979年(昭和54)であったろうか,バルカルセ北方にあるINTAボルデナーベ農業試験場(ボリーバル市はこの市とブエノス・アイレスの中間)を現地調査のため訪問した記憶がある。この農業試験場の周りには牧場が広がり,エスタンシア(大農場)の住宅であった建物を庁舎に使っていた。玄関につながる並木が大きく日陰をつくり,その景色は印象的であった。町は乾燥して砂埃が舞っていたが,試験場は砂漠のオアシスのようにみえた。

 

何年かたった頃(2003年?),齋藤正隆氏からオイスカ・ウルグアイ総局出版の冊子を頂いた。大先輩の伊藤清蔵博士がアルゼンチンで訪れたことのある地で牧場を経営していたこと,この地に眠っていることを知った。当時,博士のことを知っていたなら,ボリーバル市の牧場跡を訪れる機会もあったのにと思う。あの頃,博士の足跡に触れることができなかったのは至極残念だ。

 

参照:1) アルゼンチンの大牧場主―草の根技術協力のパイオニア伊藤清蔵博士(オイスカ・ウルグアイ総局,2002),2)海妻矩彦「伊藤清蔵の生涯」(岩手県立博物館だよりNo.105, 2005.6),3)河北町役場HP「河北町の偉人」

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ソフィア王妃芸術センターの「ゲルニカ」(スペインの旅-9)

2012-01-18 18:41:07 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

マドリードではソフィア王妃芸術センターで,ピカソの「ゲルニカ」を観た。作品の芸術性評価や解説は多くの書物に論じられているので,ここでは詳しくは述べない。

 

 「ゲルニカ」(Guerniika)は,パブロ・ピカソがスペイン内戦中に都市無差別空爆を受けた町ゲルニカを主題に描いた絵画として知られている

 

 スペイン内戦中の1937426日,スペイン北部バスク地方のゲルニカがフランコ将軍を支援するナチスによって空爆を受け,人口6,000人のうち598人が死亡,1,500人が負傷したと伝えられている。当時パリに居たピカソは,この報を聞いて義憤を覚え,急遽パリ万国博スペイン館の壁画としてこの絵を完成させた。戦争への怒りと生命の尊厳を独自の手法で表現している。

 

 スペイン内戦はフランコ将軍の勝利により終結したが,この絵はヨーロッパの戦火を避けて1939年ニューヨーク近代美術館に預けられる。第二次世界大戦後スペインとニューヨーク美術館の間で返還交渉が行われるが,1981年になってようやくスペインに返還され,現在はソフィア王妃芸術センターにある。

 

ソフィア王妃芸術センターはアトーチャ駅の近くにあり,ピカソ,ダリ,ミロ等の現代芸術を代表する作品が展示されている。2階と4階が常設展示場で,「ゲルニカ」は2C室にある。縦3.5m,横7.8mの大作,カンバスに工業用絵具ペンキによってモノクロールで描かれている。この絵は,作品誕生の経緯から反戦のシンボルとみられてきた。

 

 一室に独占展示されている「ゲルニカ」は,一つの鑑賞グループが説明を受けているところであったが,壁一面にその存在感を示していた。

 

 「あー,ゲルニカだ」と思わず近づくと,

 「セニョール,ノー,ノー・・・」とガードマンが近づいてきた。

 

ガードマンが指さす床には,壁から2mほどのところに線が引かれており,この線が立ち入り禁止ラインということらしい。作品の迫力に圧倒され,足下に注意を払わなかったため,一歩踏み込んでいた。

 

 ニューヨーク展示中にスプレーで落書きされたことがあり,スペインに戻ってからはバスク独立運動にからんだテロを警戒し,自動小銃を抱えた兵士が警護し防弾ガラスに囲まれていたこともあったというが,今は近くから直に鑑賞できる

 

バスク地方のビルバオに1997年グッゲンハイム美術館が完成してから,ソフィア王妃芸術センターとの間で所蔵論争が起きているという。論争の絶えない作品だ。

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ラス・カサスに学ぶ,「ビラコチャと見間違えた」では済まされない

2011-12-29 14:11:39 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

中南米大陸に栄えたマヤ,アステカ,インカ帝国など「インデイオ文明」が滅びたのは,15世紀末コロンブスによるアメリカ大陸発見以降のスペイン侵攻に始まる16世紀に入るとスペインは,航海大国をめざし黄金を求めて殖民征服事業を推し進めた。

インカ帝国の滅亡を描いた各種書物によると,スペイン軍は甲冑に身を固め馬に乗り,村に入ると老人や子供までも無差別に虐殺し,ある時は策を弄して黄金を略奪し,残虐極まりない行為を繰り返したと記されている。その状況は目に余るものがあったはずである。征服軍にはキリスト教司祭も同行していたが(大義は布教だが,実際は従軍神父として兵士を弔う目的があった),これらの行為をどのように捉えていたのだろうか?

 

コロンブスが大陸に到達した翌年の14935月,教皇アレクサンドル六世はスペイン国王にあて「贈与大勅書」を発布した。この勅書は国王に征服した土地の支配権を与え,それによりインデイオにキリスト教を布教し,インデイオにキリスト教の信仰を確立することであった。だが実際の軍の行為は,インデイオの村に押し入り残虐を尽くし,黄金を略奪することになったのである。

 

さすがに,これらの行為に心を痛めた神父もいたのであろう。行為を正当化するために,「降伏勧告状」と称する詭弁が考え出されている。インデイオの村を攻撃する前に,村の入り口で文書を読み上げるというのだ。

 

「この土地はローマ教皇によりスペイン国王へ贈与された。それ故,スペイン国王の支配下に入り,キリスト教の布教を受けよ。さもなくば,捕え財産も没収するから心得よ。戦で命を落とし被害を蒙ることになっても,それはお前等の責任であり,これは正当な戦いである・・・」

 

しかし,突然現れた異国人が早口でしゃべるのを,誰が聞いていたというのだろう。たとえ聞いたとしても,それに従うお目出度い人間が何処にいるのであろうか。結果は,教皇と国王の権力を笠に着て,暴虐の限りを尽くす征服者の姿が其処にあった。

 

 この侵略論理はどこにあるのか?

修道士ラ・カサス(新大陸における蛮行を告発し続けた)に対峙する論敵の言葉として,概略以下のようなことが述べられている。

 

「インデイオは偶像を崇拝し,人間を生贄にささげ,野蛮人である。このような愚鈍な人間は徳の高いスペイン人の支配に服従すべきだ。支配を拒否する場合は戦いを仕掛けて征服し奴隷とする,これが正義である。真の宗教を信じるスペイン人に征服されれば,インデイオは慈悲心や文明を身に着け魂が救済されるのだから,大きな恵みを受けることになる。金銀はインデイオには必要ないものだ。その代わりに鉄を手に入れることができ,文明が進化する。小麦や農畜産技術もスペインが持ち込んだもので,十分な代償ではないか」(参照-岩根圀和著「物語スペインの歴史人物編」)

 

これに対して,ラ・カサス(Bartolome de Las Casas)のような聖職者がいたことは救いである。彼は,1484年スペインのセビリア生まれ。1502年に新大陸へ渡るが,コロンブス率いるスペイン軍による略奪と虐殺を目のあたりにする。1506年セビリアに戻って司祭職となり,従軍司祭として再び新大陸に渡る。そこで,スペインが国家を上げて進めていた殖民征服事業における不正行為と先住民に対する残虐行為を告発することになる。その後1547年にはスペインに戻り,ロビー活動や執筆活動で生涯告発を続けた。

 

しかし,大義をかざす布教の構図は今も変わっていないのではないか。世界のあちこちで繰り返される紛争にも,ご都合主義の大義が見え隠れする。インデイオ文明滅亡の歴史が繰り返されているようにさえ思える。

 

インデイオは我々とルーツを一つにするモンゴロイドであるが,太陽や自然の神々を崇拝し,高い文明を築いていた。征服者が自分たちの宗教を強制する必然は何だったのか。黄金略奪が目的であったと言わざるを得まい。そのために,都合の良い論理(思想)が構築される。今もこの時のように,「贈与大勅書」「降伏勧告状」が罷り通ってはいまいか。

 

インカの神話に「天地創造神ビラコチャ(Con-Tici Viracocha)は,髭を生やした大きな白い人間で・・・助けにやってくる」とあったため,インカの人々が初めて見るスペイン人にこの神話を重ね合わせ,ピサロ率いるスペイン軍に敗れたとの話がある。戦後の日本人も自由と平等を掲げるビラコチャをみたのではないか。昨今のグローバリズム論争も,後になって「ビラコチャと見間違えた」では済まされまい

 

2011.12.29

 

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マドリード王宮,豪華絢爛スペイン王室の歴史(スペインの旅-8)

2011-12-28 16:11:45 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

マドリードではプリンシペ・ピオ(Principe Pio)駅前のホテルに滞在したので,高台の王宮(Palacio Realへは,カンポ・デル・モーロ庭園を回り込むようにして,アルムデーナ大聖堂への坂を上った。王宮はこの大聖堂と向かい合い,アルマス広場(Plaza de Armas)を抱え込むように立っている。フランスのルーブル宮殿か,イタリア風というべきか,外観は明るくしかも重量感がある。王宮の東側にはオリエンテ広場(Plaza de Oriente)と王立劇場(Teatro Real),北側にはサバテイーニ庭園がある。

この場所はもともと回教徒が築いた城砦で,その後幾度か改修されるが,フェリペ二世は贅沢を好まず手直しをして使っていた。ブルボン王朝の出で初代国王となるフェリペ5世(ルイ十四世の孫)は,焼失した王宮跡にベルサイユの宮殿と庭を意識し,イタリアから建築家を呼び寄せて造らせたのが現在の王宮である。王宮は簡素なものでよいとしていたスペイン王室の伝統は,ここに覆ったのだという。なお,現在のフアンカルロス一世と王族はこの王宮には住まず郊外の宮殿に暮らしている。ただ,国の公式行事は今もこの王宮で行われる。

行事がないときは一部の部屋が一般公開されるということで,見学した(ガイド付きのグループ見学)。建物内部の写真撮影は禁止されているので紹介出来ないのが残念であるが,外部からは想像できない豪華絢爛さに驚く。収集した美術品や家具,天井や壁など荘厳な装飾は目を見張るばかりである。

王宮正面玄関を入って右側のサバテイーニが作った豪華な階段を上るECの加盟調印が行われた「列柱の間」,豪華な赤いビロードと銀糸で覆われた「玉座の間」,ゴージャスなシャンデリアやタペトリーが印象的な「饗宴の間」,磁器で飾られた「磁器の間」,ベルサイユ宮殿を真似て大きな鏡で飾られた「鏡の間」,ゴヤの絵が掛かったカルロス三世の居室「ガスパリーニの間」,美術品を集めた「東洋の間」など,王室の歴史に触れることができるだろう。150m四方の建物の中に2,700もの部屋があると聞いたが,これが権勢を誇り,中南米の大半を占有したことがあるスペイン王国の宮殿というものなのだろう。

左袖の建物にある王宮薬剤局(昔の調剤道具,処方箋などの展示した博物館)を見学し,サバテイーニ庭園からサン・ビセンテ坂を下った。ちなみに,サン・ビセンテ坂を反対側に進み高架橋をくぐれば,ドンキホーテの騎馬像が立つスペイン広場に出る。

 

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プラド美術館でみる夢(スペインンの旅-7)

2011-12-24 13:27:47 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

マドリードには名のある美術館が多い。エル・グレコ,ベラスケス,ゴヤの作品が豊富なプラド美術館Museo nacional del Prado),ピカソの「ゲルニカ」やダリ,ミロの作品を展示するソフィア王妃芸術センターMuseo Nacional Centro de Arte Reina Sofia),世界有数の個人コレクションで名高いテイッセン・ボルネミッサ美術館Museo de Thyssen Bornemisza,ボルネミッサ男爵が二代にわたって収集した印象派やシュールレアリズムまで含む幅広いコレクションが有名)などである。

プラド美術館は時間をかけて鑑賞するとよい。ガイドがいれば効率的に回れるし,個人の場合は管内図と案内イヤホーンを片手に目当ての作品をじっくり鑑賞できるだろう。

 

1. エル・グレコ

 1541年ベネツイア共和国クレタ島のギリシア人家庭で生まれた。ドメニコス・テオトコプロスが本名。エル・グレコとは「あの,ギリシア人」の意味である。1567年ベネツイア,1576年ローマ,1577年マドリッドに移り,その後トレドに住む。理論家で個性的な画風によって,風変わりな矛盾をはらんだ人物と評されていたようだ。

 その絵画や彫刻建築はフランスの画家や誇飾主義の詩人たちから称賛され,ベラスケスの先駆けとして認識された。宗教画,世俗画,肖像画を描いているが,宗教画の「羊飼いの礼拝」「精霊降臨」「受胎告知」「キリストの復活」「キリストの洗礼」などが目にとまる。

 背が高くデフォルメされた人体,主人公だけでなく画面全体からあふれる光。テンペラと油彩を使っているように思えるが,この画風はビザンテインに生まれイタリアで10年間過ごしたことと密接な関係があるのだろう。

 作品の査定額,図像上の問題でたびたび訴訟騒ぎを起こしたとの話もある。「あの,ギリシア人」の名前がなぜかリンクする。

 

2. ベラスケスの寡黙な主張

 デイエゴ・ベラスケス,1599年セビリア生まれ,フェリペ四世に37年間仕えた宮廷画家であり宮廷官吏である。官吏として忙しく,また外部に作品が出てこなかったこともあり,その名は一般に知られていなかった。1865年マネが「画家中の画家」と称えてから,ベラスケスの地位は確固なものとなる。宗教画,歴史画も描いているが,肖像画が多い。

 ただ,ベラスケスの絵には鑑賞者を釘付けにするような力,意外性がない。多くの批評家たちが「鏡のようなレアリスム」「世界の上に置かれた一枚のガラス」と評しているが,確かに美術館でも一連の作品を眺めながら自然に通り過ぎてしまうような感じである。

傑作と評される「ラス・メニーナス(侍女たち)」という油彩がある。宮廷内の画家のアトリエとおぼしき天井の高い部屋で,中央に幼い王女マルガリータを配し,その周りに複数の女官がかしづいている。右隅に矮人の女性がこちらを向き,犬に足をかけている。左隅には黒い衣服の画家が絵筆とパレットを持って巨大なキャンバスの前に立っている。どうやらこの画家はベラスケスで,キャンバスに何を描いているかは見えないが,部屋の奥に鏡がありそこに映っている一組の男女(国王フェリッペ四世夫妻)を描いていることを示している。実は,この絵は国王夫妻の瞳に映っているままの光景という構図であるらしい。

 何故,作者が描かれているのだろうか。ずっと国王に仕えたベラスケスを,真面目,内気で孤独,寡黙で誰とも争わない穏やかな性格であったと論じる評伝が多いが,そのような穏健な性格だからこその自己主張がこの絵にはある。私には,作者の「私はここにいるよ」との声が聞こえるような気がする。また,画家の胸の十字章は彼が羨望していたサンチアゴ騎士団の十字章で,これも自己主張の表現ではないだろうか。

 さらにベラスケスは,先天的に異常を持って生まれた小人を登場させている。この絵では中央の美しい王女より小人の方が主役のようにさえみえる。彼の作品には,知恵おくれの表情を見せる道化師「バジェーカスの少年」や「道化師カラバシージャス」,小人の「ドン・セバステイアン・デ・モーラ」などの肖像画が多くあるが,これらが特に良い。モデルの人相の豊かな表情は見る人に問いかけ,強く印象に残る作品群である。絵画の対象は日常の平凡さの中にあると,ベラスケスの寡黙な主張が聞こえてくる。

 

3. 聴覚の消えたゴヤから聞こえるもの

 宮廷画家フランシスコ・デ・ゴヤ,1746年サラゴサ近郊フェンデトドス生まれ。46歳で原因不明の病により聴覚を失う。幻覚をモチーフに,政治の腐敗と宗教の堕落,人々の無知と愚鈍を辛辣な風刺した銅版画集「ロス・カブリチョス」が有名。80点を収蔵した本書は27冊販売したところで,異端審問所の追及を恐れ二日目には販売を中止している。その後,原版を王室に献上するなどして追及を回避。打算的な面もうかがえる。

 フランス軍がマドリードに侵攻してくると,民衆との戦いを描いた「マドリッド,180853日」など戦争画を残す。18世紀末,宰相ゴドイの愛人ペピータ・トドウを描いた「裸のマハ」は有名。ゴドイの秘密の小部屋に飾られたとされるが,裸婦の絵は禁じられており異端審問所の追及を恐れて,同構図の「着衣のマハ」が描かれている。

ゴヤの絵で衝撃を受けるのは,何と言っても晩年の黒い絵シリーズだろう。「わが子を食らうサトウルヌス」「二人の老人」「魔女の集会」「サン・イシードロの巡礼祭り」の前では,誰もが立ち尽くしてしまう。デフォルメされた人体,絶望の群像,混とんと不安,暗い色調など,ゴヤが警鐘を鳴らし続けた人間の狂気や愚行が現在の世相に通じるからかもしれない。これらは,世間を避けて暮らした「聾者の家」の壁から剥されキャンバスに移されたものだという。頑固さと宗教心の塊であるゴヤの作品に,君は何を思うや?

黒い絵に気分を悪くしたら,或いは多数コレクションが発散するエネルギーに疲れたら,隣の王立植物園,近くのレテイーロ公園を散策することをお勧めしよう

 

 

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スペインの農業(スペインの旅-6)

2011-12-23 11:38:42 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

今回の旅で農村に立ち寄る機会はなかったが,移動中の車窓から農業の姿を眺めることができた。印象から判断すれば,観光に力を入れてはいるものの,スペインはやはり農業国だ。農業国で,しかも海に面しているため海産物も豊富で,何しろ食べ物が美味しい。イベリコ豚,バレンシアオレンジ,パエージャ,バルでの定番タパス・・・,誰もがこれらの食べ物からスペインを思い出すことだろう。

駆け足旅行の途中でも,レストランやバルでスペインワインを傾けながら疲れをいやす機会は多くある。旅から帰ってみると,旅先での食事が良い想い出になる。

 

例えば,マジョール広場からカバ・デ・サンミゲル通りに出て,メソン・デル・チャンピニオンを覗く。

 

「何を召し上がりますか?」

「そうだね,ハモン・イベリコ・ベジョータにチャンピニオン・ア・ラ・プランチャ,それとビノ・デ・カサ・・・」

 

近くのメソン・デ・ラ・トルテイジャにも梯子して,奥のボックス席に座る。

「トルテイジャ・パラ・ドス,ポルハボール,それに,プルポ・ガジェゴ・パラ・セニョーラ」

オルガン弾きが「北国の春」を奏でる。曲に合わせて歌うも良いだろう。

 

さて,スペインの農業概況であるが,農用地面積は,EUの中でフランスに次ぐ第2位の2,768ha(日本の6倍,なお国土面積は1.3倍),農業生産額はフランス,ドイツ,イタリアに次ぐ第4位で,農産が250億ユーロ,牧畜が140億ユーロほどである。

 

農業地帯は,大きく三つに分けられる。北部は比較的雨が多く夏は涼しく冬は温暖な海洋性気候で,麦類と畜産の生産が多い。中央部は昼夜の気温差が大きく夏は暑く冬は寒い大陸性気候で,麦類,ブドウ,畜産の生産が多い。東部および南部は一年を通し温暖で乾燥した地中海気候で,東部(カタルーニャ州,バレンシア州)では柑橘類や米,南部(アンダルシア州,ムルシア州)ではオリーブ,ブドウ,野菜,米等の生産が盛んである。

 

今回の旅で,私達を乗せたバスはバルセロナを出発する。カタルーニャからバレンシアへの道程では乾燥した麦畑と柑橘類が谷間に広がる(灌漑施設が目につく,灌漑農地は全体の20%という)。さらに,アンダルシアのセビージャからマドリッドに向かうと,コルドバを抜ける頃にはオリーブ畑が山肌を埋める。そして中央台地,ラマンチャに入れば荒涼とした風景が眺められる。

 

中でも,オリーブのプランテーションには圧倒される。立ち寄ったドライブインで,ついついバージンオイルとピクルスの瓶詰めを購入する。後々,重い荷物に閉口することになるが,これも旅の想い出というものだろう。オリーブは地中海沿岸が原産地とされ,葉が小さくて硬く,比較的乾燥に強いことから,生産は地中海沿岸諸国に集中しており,スペインが世界のトップで792万トンを産する。二位のイタリア328万トン,三位のギリシャ196万トンを大きく上回っている(FAOSTAT 2009)。

 

その他にも,生産量が世界上位に入る農産物が数多く,オリーブ(1位)のほか,タンジェリン・マンダリン(2位),いちご(3位),桃(4位),豚肉(4位),マッシュルーム(5位),ぶどう(5位)などである。日本ではスペインから,豚肉,ワイン,オリーブ油,かつお・まぐろ・たこ等海産物を輸入し,支払総額は300億円を越えている。

 

また,ラマンチャの特産品としてサフランが有名である。パエージャのあの黄金色の基である。サフラン(Crocus sativus L.)はクロッカス属で,観賞用の花サフランは日本各地で植えられているのでなじみが深い。サフランの「雌しべ」を乾燥させたものが香辛料として使われる。旅の想い出にとマドリッドのスーパーで小袋を購入したが,まだ台所の片隅に眠っている。

 

 

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ラ・マンチャの風車(スペインの旅-5)

2011-12-15 16:45:37 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

丘の麓にあるコンスエグラ(Consuegra)は,マドリッドの南方120km人口8,000人ほどの小さな町である。この旅では,コルドバからマドリッドへの移動の途中に立ち寄った。午後の時間帯であったこともあり通りに人の姿はなく,街は乾燥し,赤茶けて見えた。市街の坂道を家の軒に触れそうになりながら,バスは小高い丘の上に向かう。

丘の尾根に沿って風車が立っている。サイロのような円形の石積みの塔に,想像以上に巨大な羽が4枚。羽の向きを変えるために,屋根ごと回転させるための丸太(支柱)が恐竜の尾のようについている。ラ・マンチャの男ドン・キホーテ(Don Quijote)が巨人と思ったのも頷けるが,立ち向かうには大きすぎ,サンチョ・パンサが止めるのも当然だ。製粉のための施設であったが,今は使われていない。

 

 視界は360度,隣の町まで見渡せる。6月の初め,この地域は赤い土が風に飛ぶだけで緑はほとんど見えない。ラ・マンチャ(La Mancha)はアラビア語で「乾いた土地」を意味するというが,まさに曠野である。「なるほど,こんな所に風車が立つんだ」と思わせるほどに風が強い。

 

中央イベリアのこの地帯は海抜600mほどの台地で,カステージャ・ラ・マンチャ(Castilla La Mancha)と呼ばれる。カステージャとはスペイン語で「城」(castillo)を意味する。この地方にはレコンキスタ800年の歴史の中で生み出された城や砦が多いいことから,こう呼ばれるようになった。ちなみに,カステラの語源もカステージャであるし,中南米ではスペイン語のことを「カステジャーノ」と呼んでいるが,江戸のことば(東京弁)が日本語(標準語)になったようなものだろう。

 

イベリア中部のこの地帯は,昼夜の気温差が大きく夏は暑く冬は寒い大陸性気候で,麦類,ブドウ,畜産が主な産業である。統計には出てこないが,それにサフラン。スペイン人に「コンスエグラで思い出すものは何か」と聞けば,「アラブの城に風車にサフラン」と答えるという。サフランはクロッカスの雌蕊を乾かしたもので,パエージャの黄金色の素である。スペイン語でazafránと書き,その綴りからアラビア人が伝えたものであることが分かる。ラ・マンチャはイスラム教徒の入植が多かった土地だと聞く。

 

スペインの中では人口密度が少なく,経済的に恵まれなかった歴史がある。セルバンテスがドン・キホーテの舞台にしたのも納得がゆく(ドン・キホーテについては話題が多すぎるので,別の機会に譲ろう)。

 

ラ・マンチャの丘でドン・キホーテに触れた旅の一時だった。

 

 

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石柱の森のメスキータ,宗教に共存はあるか?(スペインの旅-4)

2011-12-11 14:21:35 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

回教王国の首都コルドバ

イベリア半島に侵攻したイスラム教徒が築いた回教王国の首都コルドバ(Cordoba)。この町では今,歴史に翻弄された巨大なメスキータ(Mesquita,イスラム教のモスクを意味するが,単にメスキータといえばこの元モスクである大聖堂をさす)に当時の栄華を偲ぶことができる。世界中から多くの旅人を迎えてやまないメスキータとは何なのか,疑問を抱いたままコルドバに立ち寄った。

コルドバは,アンダルシア州を流れるグアダルキビル川(o Guadalquivir,アラビア語で大きな川)の中ほどの川岸にある。当時は内陸のカステージャとジブラルタルを繋ぐ中間点にあり,交通の要所でもあった。

グアダルキビル川の対岸からメスキータを眺める。対岸からみるメスキータは,回教寺院の華やかさはなく(現在は大聖堂であるが,その面影もなく),崩れかけた古い城壁か大きな塊のような建造物に見える。メスキータに向かって,大きな石橋(ローマ橋Puente Romano)がかかっている。この石橋は,ローマ時代に建設され,その後部分改修はなされているが二千年を経た石橋である。その歴史を味わいながら,石橋をゆっくり踏みしめてみる。

戯曲「カルメン」では,作者の「私」がこの川辺を夕方散歩していたところ,水浴びから上がってきたカルメンと知り合うという設定になっている。当時の女性は,聖アンヘラスの鐘を合図に川で水浴する風習があったのだそうだ(中丸 明,「スペイン5つの旅」)。

メスキータ見学は,免罪の門からオレンジの中庭を抜け,シュロの門から礼拝堂へ入る。中は薄暗いが(教会に改造するとき,入り口をふさぎ仕切りの壁を作った)目が慣れてくると,大理石の石柱と楔形の煉瓦を組み合わせたアーチが広がり圧倒される。イスラムのミフラーブ(Mihrãb,メッカの方角を示す聖がん),キリスト教会の祭壇が混在している様子に,あなたは「何だ,これは?」と思うだろう。この異様さは,歴史をひもとけば理解できる。

この場所は,まずローマの神殿が建てられ,侵入してきた西ゴート族がサン・ビセンテ教会を建て,さらにイスラム教徒がモスクを建て,最後に国土を回復したキリスト教徒が教会を・・・と歴史的変遷を経ている。

少し詳細に述べよう8世紀に占領したモーロ人は最初教会の半分だけをモスクとして利用していた。初期のイスラム教徒は,キリスト教徒を同じ啓示の民として尊重し合い,金曜日にはイスラム教徒が,日曜日にはキリスト教徒が礼拝した,共存の時代があったのだという。ただ,当時の教会はもともとキブラ(メッカの方向を示す壁)と無関係な方向に建てられていたため礼拝に不便なことから,教会を壊しモスクに改築することにし,その後三次にわたる増築を重ね,間口137m,奥行き174mを完成させた。このモスクは990年の頃,メッカに次ぐ二番目の大きさだったという。礼拝堂には18列の石柱が並び,総数は1,012本に及んだ。「石柱の森」と呼ばれるにふさわしい光景であったろう。中庭と礼拝堂を合わせると6万人が礼拝できたという。石柱の上には二段のアーチが乗せられ,安定性と荘厳さを見せている。

そして,レコンキスタ(キリスト教徒の国土回復運動)でメスキータを大聖堂に転用しようとする。当初は,現在のビジャビシオサ礼拝堂のように,従来の建築美を壊さない配慮がなされていたが,16世紀になって行われた大改造では石柱多数を取り除き,中心部に祭壇や聖歌隊席などからなる大聖堂を作った。

国王カルロス一世は,後にこの聖堂を訪れ,「どこにでも作れる建物のために,世界に一つしかない建物を壊してしまった」と,現場を見ずに工事許可を与えたことを嘆いたという。それでも,大改造で建築主任を務めたエルナン・ルイス親子がメスキータの価値を認識し,設計施工に苦心したおかげで,被害は最小限に抑えられ,現在の姿をとどめているのだと伝えられている。

929年に即位したアツラーフマン三世の時代にコルドバは最盛期を迎え,人口は50万人,300ものモスクを抱え,東ローマ帝国の首都であるコンスタンテイノーブルと繁栄を競った。この頃,40万冊の蔵書を誇る大学が建てられ,諸外国から学生を集め,教授陣はアラビア人が担い,ギリシア古典がアラビア語に,さらにラテン語に翻訳されて西欧諸国に広まったといわれる。ウマイヤ朝の首都であるコルドバで、イスラム文化が花開いたのである。

歴史の生き証人コルドバ大聖堂に,あなたは何を思いますか。宗教に共存はあるのでしょうか

メスキータを出てユダヤ人街を歩く。迷路のように入り組んだ道,白い壁に花の小鉢が飾られ,この街は旅人の心を癒してくれるだろう。ただ,王国の経済を支えてくれると歴代カリフに厚遇されたユダヤ人も,レコンキスタ終了後のユダヤ人追放令で追われている。

 

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落日に染まるアルハンブラ宮殿(スペインの旅-3)

2011-12-10 11:17:43 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

スペインの南部に位置するアンダルシアAndalucía)地方は,コバルトブルーの空,照りつける太陽,白い壁,陽気な人々,日本人が思い描くスペインを象徴するような土地柄である。その地方の一角シエラ・ネバダ(Siera Nevada)山脈の麓に,陰影の濃い歴史に満ちたグラナダGuranada)という町がある。

 

グラナダにはアルハンブラ宮殿Palacio de la Alhambra)があり,世界中から訪れる旅人を魅了してやまない。アルハンブラ宮殿は,「イスラム最後の楽園」,粘土質の丘に建てられた要塞「赤い城」など多くの表現で称えられるが,フランシスコ・デ・イサカの詩の一節がその姿を物語っている。

 

・・・妻よ,お布施をあげなさい

 グラナダで盲であるほどつらいことはこの世にないのだから・・・(中丸明)

 

詩は,宮殿内のベラの塔の入り口に刻まれている。

 

この宮殿を鑑賞するには,ヨーロッパ歴史に関してほんの少しの予備知識があった方が良い711年アフリカ大陸からジブラルタル海峡を渡ったイスラム軍隊は,20数年の間にフランスのポワテイまで侵攻し,イベリア半島にイスラム国家を建設する。756年ウマイヤ朝設立,アンダルシア地方のコルドバ(rdoba)は8世紀から11世紀にかけてイスラム国家として統治され,イスラム文化が花開いた。

 

キリスト教徒は,イベリア半島に侵攻してきたイスラム教徒からの解放をめざし,解放運動(レコンキスタ,国土回復戦争)を興した。レコンキスタは,1212年カステージャ,アラゴン,ナラバの連合キリスト教軍がアンダルシアに入ってムアヒッド朝を破ったのを契機に勢力を強め,イスラム勢力は撤退の道を辿り始める。

 

レコンキスタの勢いが増し,コルドバからもイスラム軍隊が撤退する中で,アブ・アラマールは1232年自らが君主であると宣言し1238年初代ナスル王朝君主となり,イスラム統治者の中でただ一人国王フェルナンド3世への服従を受け入れ,グラナダ王国を誕生させた。その後,グラナダ王国は254年間にわたり23人の君主が入れ替わり統治し,レコンキスタの嵐に揉まれながら小高い丘の上に要塞を築き,宮殿を建設する。

 

宮殿は,外部から見れば荒石積み,小丸石,煉瓦といった質素な材料の集大成であるが,内部は,タイルや化粧漆喰による装飾が精緻を極め,幾何学模様のイスラム芸術に彩られている(イスラムでは偶像崇拝はない)。この地方の一般の住宅も同じであるが,外観は重要性を持たず,中庭のみが裕福な家と貧しい家を分けているのに似ている。

 

また,山脈からの雪解け水を巧みに引き込み,水路,噴水など水を操っているのが特徴である。王族達は,雪解け水により空気を冷やし,風を作り,大陸性気候を和らげていたのだろう。乾燥地帯で栄えたイスラム世界が水を大事にしたことが理解できる。宮殿を訪れたのは6月の初めであったが,入場を待つ間もジリジリ照りつける太陽に辟易し,宮殿の内部でホットしたことを思い出す。

 

もちろん四半世紀の間には,宮殿内部で愛憎と情欲の血なまぐさい物語もあったろうが,イベリア半島におけるイスラム勢力最後のシンボルとして歴史を刻んだのである。

 

しかし,グラナダ陥落の時はついに訪れる。1492年ボアブデイル王(ムハマド11世)はカトリック両王(カステージャのイサベル女王と夫であるアラゴン王国フェルナンド王)に対し無血開城して,アフリカへ撤退する。レコンキスタの完了である。この年は,イサベル女王の援助受けたコロンブスが西インド諸島に到着した年にあたり,スペインが世界制覇の夢を抱いて突き進む大航海時代の幕開けの年でもあった。

 

ボアブデイル王は退却の途中,落日に赤く染まるアルハンブラ宮殿を遠く眺め落涙した。一説によれば,この時「戯けものめが,なにをメソメソしとるんだ,男らしく戦もしなかったくせに・・・」と母后がいさめた話が残っているが,戦っていても所詮レコンキスタの流れには勝てず,宮殿は火の海に覆われ,私達が鑑賞するアルハンブラ宮殿はなかったかも知れない。愚帝との評価もあるが,心優しいボアブデイル王がイスラム文化を現世に残したことになるのだろう。

 

さてここでも,キリスト教徒とイスラム教の確執を目にすることになった

 

     

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カタルーニャの芸術家たち(スペインの旅-2)

2011-12-06 18:40:06 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

カタルーニャの風土が育んだ反骨精神

バルセロナは僅か一夜の予定であったが,ガウデイの伝承とカタルーニャが生んだ芸術家たちのことを語らずに出発する訳にはいかない。カタルーニャ地方には,芸術の根源とは何かと語りかけるものがある

アントニ・ガウデイの葬儀には,国王からの弔辞が寄せられたほか,カタルーニャ地方の多くの浮浪者が参列したと伝えられている。新聞記者の質問に,或る浮浪者は「俺たち乞食やっとっても,下に恵む相手がいるってのは,幸せなことだっちゃ」と,応えたという。事実,ボロをまとった晩年のガウデイは,浮浪者たちから施しを受けることもあったと伝えられているが,真実のところは分からない。

サグラダ・ファミリアに泊まり込んで身なり構わず建設に没頭するガウデイの姿を,シルクハットにフロッグコートを着た絶頂時の写真からは想像できない。市電に撥ねられ病院に収容された姿を「白髪の老人で,たぶん浮浪者ではないかと思います。だぶだぶの黒服で,ポケットには福音書とハンカチと小銭が二十センチモ。それにクルミと干しブドウが入っていました。ああ,それから,服を安全ピンで留めていました」と尼僧に語らせている(参照-岩根園圀著「物語スペインの歴史・人物編」。さらに,国王にもカタルーニャ語でしか応えなかったという晩年の頑固さ,仕事を終え決まった道を決まった時刻にサン・フェリッペ・ネリ教会へ通う孤独な姿には,芸術家の有り様を感じないわけでもない。この頃ガウデイは,同教会の司祭アグスチン・マス神父を唯一魂の師と仰いでいた。

カタルーニャ語はカタランと呼ばれる。スペインでは歴史的な背景から,カステージョ地方の言葉(カステジャーノ)の他に,このカタルーニャ語,バスク地方のバスク語などがあり,それぞれの地方が独自の文化を育み,ある時期には中央の統制に反して独自の言葉を公用語としていたこともあった。中央政府に対する反骨である。スペイン内戦中はバルセロナがアナキストの拠点でもあった。

今でも,カタルーニャやバスク地方では,敢えて地方の言葉しか語らない男達がいる。日本で云えば,関西弁のようなものか。

「ブエナス・タルデス」(カステジャーンオで「こんにちは」)と云えば,

「そうじゃない,ボナ・タルダと云うんだ」(カタルーニャ語で「こんにちは」)と応える。

 

私達にとって,ガウデイはカタルーニャのモデルニスモ(ヌエボ運動)の芸術家として知るところであるが,その他にリュイス・ドメネク・イ・モンタネール1850-1923),ジュゼフ・マリア・ジュジョール(1879-1949),ラモン・カザス・イ・カルボ(1866-1932などが有名であり,モンタネールこそモデルニスモの旗手であるとする人もいる。モンタネールは若くしてバルセロナ建築学校の教授となり、ガウデイの師でもある。ジョジュールはガウデイの協力者として家具デザインなどの分野でも才能を発揮させている。カルボは風刺画,上流階級の人々の肖像画で知られ,彼の描いたポスターや絵葉書は,カタルーニャで発生した芸術運動モデルニスモを広く知らしめるのに役立った。

また,この地方ゆかりの芸術家として,パブロ・ピカソ(1881-1973),ジョアン・ミロ1893-1983),サルバドール・ダリ1904-1989等の名を上げることができる。ピカソは南部のマラガ生まれであるが,14才にしてバルセロナに移住し美術学校に入学,若い芸術家たちと交わりながら熱心に絵を描いている。その後フランスを舞台に活躍するが,1936年には人民戦線政府の要請でブラド美術館長に就任,スペイン内戦中の1937年バスク地方の小都市ゲルニカが空爆された事件をモチーフに,大作「ゲルニカ」を描いている。

ダリとミロは,ガウデイと同じくカタルーニャ地方の出身で,シュルレアリスムの代表的な画家として知られる。それぞれ独自の画風を打ち立てているが,ガウデイ,ピカソ,ダリ,ミロと並べてみれば,カタルーニャの風土が育んだ反骨精神を感じるではないか

貴方はどう思う?

  

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