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豆の育種のマメな話

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北海道の「裸大豆」(無毛大豆),品種の変遷

2012-02-11 09:45:46 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

現在,栽培の実態はないが,昭和の初めから第二次世界大戦後のしばらくの間(1930-1960年,昭和5-35)北海道で広く栽培された大豆の品種群がある。いわゆる「裸大豆」と呼ばれる種類で,茎,葉,莢の表面に毛(毛茸)が生えない特性を示す品種である。19281958年(昭和333)にかけて8品種が北海道優良品種に登録され(別添:裸大豆品種一覧),栽培面積の10-20%はこれらの品種で占められた。ちなみに品種名は,登録順に「早生裸」「中生裸」「大粒裸」「長葉裸」「白花大粒裸」「長葉裸1号」「十勝裸」「ホッカイハダカ」である。

この時代,何故「裸大豆」が広まったのか?

答えは,「裸大豆はマメシンクイガの被害が少ない」ことであった。

 

北海道開拓後,大豆生産は道南地方から道央へ,さらに道東(十勝)・道北へと拡大を見せた。そして,明治末から大正にかけて北海道で栽培が一番多かった大豆品種は「大谷地」,次いで「赤莢」「白小粒」「早生黒大粒」「吉岡大粒」「鶴の子」等であったが,生産者はマメシンクイガによる被害に悩まされていた。

 

松本蕃「マメシンクイガによる大豆被害の品種間差異による研究」(北海道農事試験場報告58)に総括されているが,多くの研究者により「裸大豆」は被害が少ないことが見いだされ,報告されていた。マメシンクイガの被害は,成虫が莢表面に産卵し,孵化した幼虫は莢の中に進入し子実を食害することによる。「裸大豆」の被害が少ない根拠は,莢の表面に毛がないため,マメシンクイガ成虫の産卵を促さないのだという(その他に,マメシンクイガの発生時期と大豆生育相との関係がある)。

 

実は,北海道で最初に大豆の人工交配が行われたのは1927年(昭和2)のことで,マメシンクイガ抵抗性が育種目標であった。そして,1936年(昭和11)「大粒裸」が交雑育種法による最初の優良品種として登録されている。裸大豆「大粒裸」は歴史に記録される品種となった。

 

「裸大豆」は何故消えたのか?

30年間にわたって栽培されてきた「裸大豆」は,度重なる冷害の被害を受け(低温抵抗性が弱い),また収量性も低かったことから,次代の多収品種「十勝長葉」や耐冷多収品種「北見白」等へ栽培が移行した。また,1960年代(昭和30年代後半から40年代にかけて)殺虫剤(バイジット等)が普及したことも,「裸大豆」の栽培を終わらせる引き金になった。北海道では,「ホッカイハダカ」を最後に,1975年(昭和50)すべての「裸大豆」が優良品種リストから除かれた。

 

十勝農業試験場では育種目標の一つに耐虫性を掲げ精力的に事業を展開していたが,1966年(昭和41)にはこの目標を中止することになった。最後まで保持された無毛茸の育成系統「十育153号」を納豆用として登録できないかと,「十系421号」(後のスズヒメ,毛茸あり,極小粒)と同時に加工試験に挑戦した経緯があるが,「十系421号」の線虫抵抗性特性が評価され「十系421号」に軍配が上がった。

 

しかし,無農薬栽培が志向される時代となり虫害が顕在する状況で,「裸」は優位特性になるかも知れない。また,毛茸の有無が耐干性に関係がありそうな体験もしたが,確認はしていない。

 

「裸大豆」の呼称はどこから来たか?

毛がないことを,何故「裸」と呼んだのか。感覚的に分かるが,理屈に合わない。

 

北海道農事試験場では1907年(明治40)に全国から67種を取り寄せ試験を行っているが(高橋良直,福山甚之助「大豆の特性に関する調査及び試験成績」(北海道農事試験場報告10),その中に野幌村産「毛無大豆」,秋田県三浦道哉氏産「裸大豆(「水潜」として)」,静岡県田方農林学校産「裸大豆(「水潜」として)」,山形県村山農学校産「裸大豆(「赤花裸」として)」,伊達村産「裸大豆」,茨城県立農事試験場産「裸大豆」,群馬農事試験場産「水潜」,秋田県大曲農学校産「水潜」などがあり,無毛~毛少と記されている。このことからも,北海道では一般的に,全国的にも広く「裸大豆」という呼称が使われていたのだろう。

ちなみに,「水潜」は水に浸かっても枯れなかった(耐湿性)との理由から,名付けられたと推測されている。

 

大豆の毛に関する形態的な研究は古くから存在する。一般には,①剛毛(直生),②軟毛(伏生),③無毛(短毛)と分類され,裸大豆は③無毛(短毛)をさす。無毛といっても,顕微鏡下では突起している細胞が観察されるが,長く伸びていないので肉眼では毛が無いように見える。また,毛の色は渇と灰白色に分かれる。

 

麦類の場合は,「裸麦」(Naked barleyHordeum vulgare L),「裸燕麦」(Naked oatAvena nuda L.)など「裸」に結び付く言葉が使われているが,大豆ではGlabrous(無毛の)またはNo pubscence(無毛)という。「裸」に結びつくような言葉ではない。

 

広辞苑の「裸」の項には「転じておおいや飾りのないこと」の意味が上げられている。また漢和辞典にも,つくりの「果」は「外皮のないはだかの木の実。桃,梨,梅など」とある。まあいいか。

 

「無毛大豆」を「裸大豆」と誰が最初に呼称したのか,どなたかご存知ですか?

 


 


北海道のあお豆(大袖振大豆),品種の変遷

2012-02-02 10:49:05 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

北海道では古くから,子実の種皮色が黄緑色の大豆(あお豆)が栽培されていた。品種を区別するとき,種皮色が「緑」「黄緑」と表記される品種群である。詳細に観察すると,種皮色は「黄色地に緑色が子実の腹部から鞍掛状に覆い,全体としては黄緑色を呈する」ことに気づく。また,緑色の発現にも若干の強弱がある。これら品種群は,一般に「袖振」「大袖振」として流通している。何故「袖振」と呼んだのか,由来は定かでない。

明治から大正にかけて,「小袖振」「早生袖振」「早生袖振枝豆」「吉岡中粒」と呼ばれる早生品種,「青白」「大袖振」「吉岡大粒」と呼ばれる中生品種が,道東や道北地方を中心に子実用または枝豆用として広く栽培されていた。いずれも来歴不明な在来種である。

 

これらの中で,最初に北海道の優良品種に登録されたのは「吉岡大粒」(本第2065号)である。北海道農事試験場本場が1912年(大正1)夕張郡由仁村古山の松浦某より取り寄せたもので,品種比較試験の結果1914年(大正3)優良品種に登録している。また,当時「吉岡中粒」(十支第8191号,短茎の極早生種)が,根室や宗谷地方で主として枝豆用に栽培されていたとの記録がある。

 

北海道立農業試験場北見支場は,1951年(昭和26)に収集した手塩産の在来種から,早熟多収な「早生緑」(北支4014号)を系統選抜し,1954年(昭和29)優良品種に決定した。「早生緑」は,早熟で作りやすいことから農家に好まれ,大袖振銘柄の主流品種として長く活躍した。本品種は種苗業者や加工業者からの評価も高く,多くの業者がこの品種を基にして「早生緑」系の枝豆用品種を開発した。今でも「早生緑」の血を引く多くの品種が販売されている。

 

また,北海道立農業試験場十勝支場は1957年(昭和32)十勝管内の在来種1,200点を収集した中から,帯広市川西町南基松の農家清水清が栽培していた「大袖振大豆」を,品種比較試験の結果「アサミドリ」として1962年(昭和37)優良品種に決定した。本品種は,収量性や品質で「早生緑」に優ったが,耐倒伏性が劣ったため栽培は伸びなかった。

 

一方,十勝地方の音更町を中心に1950年(昭和25)頃から栽培されていた「音更大袖」は,冷害年の早熟安定性が評価され急速に普及し,1985年(昭和60)には900haの普及をみた。北海道立十勝農業試験場では道内関係機関の調査を経て,1991年(平成3)優良品種に登録した。

 

冷凍技術の進歩にともない冷凍枝豆の流通が増加すると,枝豆用として白毛品種が求められるようになった(褐毛は汚れにみえる)。北海道立十勝農業試験場では,「十育186号」(臍色が黒のあお豆系統)を母,「トヨスズ」(臍色が黄でダイズシストセンチュウ抵抗性強の黄大豆)を父とする人工交配を行い,1992年(平成4)「大袖の舞」を開発した(参照:土屋武彦「豆の育種のマメな話」など)。初の交配育成品種。現在,「大袖の舞」はJA中札内ほか各地で,枝豆用等で好評を博している。

 

なお,北海道あお豆の栽培は現在5001,500haで推移している。

 

もう一つ北海道には,種皮色だけでなく子実の中(子葉)まで緑の品種群がある。「青豆」「緑豆」「青」「黄粉豆」などと呼ばれる在来種であるが,異名同種,同名異種のものも多い。緑色の「きな粉」として商品化している事例もあるが,優良品種に登録されたものはない。育種技術の手が入っていない品種群,興味をそそられる対象ではないか。

 

 参照:1) 砂田喜與志,土屋武彦1991「北海道における豆類の品種」日本豆類基金協会 2) 土屋武彦2000「豆の育種のマメな話」北海道協同組合通信社

   

 


北海道の黒豆(黒大豆),品種の変遷

2012-01-28 14:18:46 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

黒豆とは子実の色が黒い大豆の総称で,極大粒の兵庫県丹波篠山「丹波黒」,光沢がある北海道「光黒」銘柄が有名である。「黒豆」は新年のお節料理に欠かせない材料として知られるが,その他にも煮豆,枝豆など広く利用されている。なお,黒豆は価格変動が甚だしいため栽培面積が大きく変動し,最近の10年間をみても1,0006,000ha(北海道)と振幅が大きい。

価格変動は,気象に影響される生産性の不安定さに起因する。黒豆の安定生産を目ざして,品種改良の試みは長く続けられてきた。先ず,その経緯を振り返ってみよう。

 

北海道における黒大豆の品種改良は,当初在来種から優良品種を選定することに始まり,第二次世界大戦後は交配育種が試みられた。しかし,黒大豆の改良は育種事業の本流とはならず,十分な成功を収めたとは言い難い。この原因には種皮色の複雑な遺伝様式がある。

 

1.在来種から優良品種を選定した時代(北海道開拓から第二次世界大戦まで)

 

記録に残る最初の黒大豆は「早生黒大粒」である。来歴は不詳であるが古くから栽培されていたものを,北海道農事試験場が1902年(明治25)から品種比較試験を行い,1905年(明治28)に優良品種(北海道における大豆最初の優良品種)に決定した。

 

さらにもう一つ古くから栽培されていたもので,北海道農事試験場十勝支場が品種選定試験を行い,1914年(大正3)優良品種に決定した品種「中生黒大粒」がある。この品種は,大豆の主産地が道南・道央から十勝地方に移行した時代,明治後半から大正にかけて当地方の基幹品種として広く(普及率20%)栽培された。

 

また,来歴は不詳であるが枝豆用として使われていた品種もある。1933年(昭和8),北海道農事試験場十勝支場は札幌農園から園芸用に「極々早生(千島)」として取り寄せ,1936年(昭和11)根室支場に分譲され「極早生千島」として保存されていた。

 

「中生黒大粒」に替わって十勝地方に普及した品種が「中生光黒」である。本品種は,北海道農事試験場十勝支場が品種比較試験を行い,1933年(昭和8)優良品種に決定し「中粒光黒」と命名したもので,1935年(昭和10)「中生光黒」に改められた。なお,この品種はそれ以前の1920年(大正9)十勝国本別村の農会技手立石幸助が函館から少量入手し,同村本別沢の小林秀雄に増殖させ,本別農業協同組合から出荷したとの記録がある(砂田喜與志:豆類の品種,日本豆類基金協会)。

 

また,「中生光黒」と同じ年に優良品種となった「晩生光黒」は,熟期が遅いため,1933年(昭和8)道南地方の限定優良品種に決定し,「大粒光黒」と命名,1935年(昭和10)に「晩生光黒」と改名されている。この品種の前歴については,1912年(明治45)渡島国厚沢部村焼尻の由利徳治の妻が秋田県雄勝郡秋ノ宮村から移住の際携帯した大豆の中に光沢のある黒大豆2粒を発見し,増殖したもので,1920年(大正9)頃より函館市場で好評を博したことから栽培が広まったと伝えられる。その後,「晩生光黒」は渡島地方厚沢部町を中心に最近まで栽培され,特産品として活用されていた。

 

この時代,北海道農事試験場檜山支場では,道南地方の在来種から純系分離を行い,1942年(昭和17)優良品種「檜山黒1号」「檜山黒2号」を開発している。荒木喜六・有賀文平(北農第10巻第4号)によれば,「晩生光黒」を選出した「在来光黒」の原種と称せられる五葉種光黒大豆の種子を,昭和13年厚沢部村小鶉の中條善次郎から譲り受け試作した中から選抜したとある。

 2.人工交配による新品種開発の時代(第二次世界大戦後)

黒大豆の需要を支えてきた「中生光黒」「晩生光黒」は,度重なる低温年の被害が大きいため,安定品種の開発が熱望されていたが,新品種の誕生まで半世紀を要した。

50年という年月は,「光黒」「黒大豆」と呼ばれる変異に富んだ品種群を農家の庭先に生み出したが,安定生産には至らなかった。

北海道立十勝農業試験場は,早熟多収な黒大豆の開発を目指して,1967年(昭和42)「十育122号」(後のキタムスメ)を母,「中生光黒」を父として人工交配し,以降選抜を続け,1984年(昭和59)に優良品種を育成した。この品種は「トカチクロ」と命名された。

半世紀を経て初めて誕生した品種であった。育成に関わる困難さがうかがい知れる。黄大豆と黒大豆の交雑後代からの選抜苦労については「土屋武彦:豆の育種のマメな話」にその一端が紹介されている(このブログ「パンダと呼ばれた黒大豆」参照)。

さて,もう一つの新品種は「いわいくろ」。北海道立中央農業試験場が「晩生光黒」に「中育21号」を交配し,1998年(平成10)に開発した。豊満で粒ぞろい良く,食味良好,栽培しやすいことから,2003年(平成15)以降は栽培面積が黒豆の中で最大になっている。

北海道の大豆栽培100年の歴史の中で,育種家の手によって交配され,育成された品種は「トカチクロ」「いわいくろ」の2品種のみで,ちょっと寂しい。この2品種には,まだまだ改良の余地が残されているのだが・・・。

Web

*2012年(平成24127日の「北海道農作物優良品種認定委員会」で,「中育63号」が優良品種に認定された,同総研中央農業試験場育成,命名登録申請中で名前はまだない(当面は系統名で呼んでください)。晩生,極大粒の黒大豆で,煮豆適性が高い。シスト線虫抵抗性(レース3)である。道南地方に適する
2012.2.4追記)。

*「中育63号」は2014年(平成26)に農林登録され、名前は「つぶらくろ」(2021.12追記)。

 


第二次世界大戦中も育種の種子は引き継がれ,「十勝長葉」が誕生した

2011-11-20 15:37:16 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

十勝長葉育成功労者頌徳碑除幕式における式辞から

再び,十勝農業試験場親睦団体の機関誌「十勝野*」第5号(1971,昭和46)に,桑原武司さん(元支場長)が寄稿している文書から引用する。十勝長葉育成功労者頌徳碑除幕式における式辞の抜粋であるが,「十勝長葉」育成の状況が読み取れる。

・・・十勝支場では早くから豆類の品種改良を行っていましたが,昭和二年にはじめて本格的育種事業に着手することとなり,その担当者として藤根,嶋山の両氏が任命され,次いで四年十月,上川支場より赴任されました玉山支場長はこの仕事に関し殊のほか熱心に指導監督の任に当たられたのであります。

 その後昭和八年には新たに人工交配を始めましたが,それが本日の盛典をもたらすに至った,「十勝長葉」を産む機縁となったのであります。この年交配によって結実したのは,僅か十二粒足らずでありましたが,この収穫をおえて翌十年一月に藤根氏は産まれた子の行く末を案じつつ本場へ栄転されました。

 今当時を回顧しますと,三十度を超える炎天の大豆畑にボロ傘でようやく暑さを避けながら桟俵の上に腰をおろし流れ出る汗を拭きふき,細い針の先で小さな花を調べたり袋をかけたりする仕事は,一見のんびりしたものに見えるが,当の本人にしてみれば,眼は疲れ,暑さのために倒れそうになることも日に幾度かあったとのことです。

 一日がかりで五,六十の花の交配をなんとか終えて家へ帰るころは疲れ果てて,しばし呆然とする辛さは,けだしこれを経験したものでなくては,想像できないものであります。また秋には霜をおそれて畑に寒冷紗をかぶせたり,いよいよとなると燻煙に夜を徹したことも幾度かあったと聞きますが,やがて新品種が世に出る時のことを思えば,その苦労の中にもまた何とも言えぬ楽しみがあったことでしょう。

 藤根氏の転任後は嶋山氏が専らこの仕事に当たり,爾来系統選抜と生産力検定を経て,十五年から従来の品種と比較する段階にまできましたが,この年五月同氏は樺太庁中央試験所へ転出したのであります。嶋山氏の後は金森氏に引き継がれ,各系統に十育番号をつけ,もっぱら品種間の比較に主力を注いだのであります。この間絶えず前記三名の仕事に対し,懇切な指導をしておられた玉山支場長は,十七年四月北海道農事試験場長に栄転されました。玉山支場長の後任として上田氏が赴任され,さらに翌十八年四月には貝塚氏が育種担当者として迎えられ,金森氏より本事業を引き継がれました。

貝塚氏は上田支場長の指導の下に苦心を重ねた末,有望系統十育五十五号に個体選抜を加え,これらをもとにして,熟期その他の特性より新たに優良な四系統を育成することに成功したのであります。然し同氏が十勝長葉誕生の日を目前にして二十一年三月帯広畜産大学へ転出されたのは,御本人としても誠に心残りであったと思います。

貝塚氏のあとは再び金森氏がこれを引き継ぎ,先に選抜した四系統の中からついに待望の多収良質の一系統を選出し,これを二十二年春の本支場長協議会に提出審議の結果,優良品種と決定,「十勝長葉」と命名されたのであります。

 

この育成に要した年数は交配以来実に十四年,玉山,上田両支場長の下で,担当者のかわること五回にして今回の成果を得ましたことは,本事業に対する両支場長の深い理解に満ちた御指導によることは勿論でありますが,最初これに手をつけられた藤根氏が,交配材料の母親として,「本育六十五号」を選び出し,これを我が子以上の愛情をもって育てられた努力と,先輩藤根氏の残した事業を後継者が忠実に受け継ぎ各々その責任を果たした賜であります。

藤根氏はその後倶知安農学校長に栄転され,農業教育に専念されましたが,十勝長葉の完成を見ぬまま十九年に生徒の勤労作業監督中,不慮の災難にあわれて殉職されましたことは誠にお気の毒であり残念で御座います。

また玉山氏は本場長を退職後も北海道種苗会社社長として,更に精魂を育種事業に傾注しておられましたが,二十二年永眠されたため,御二人とも本日の盛典に御臨席いただけないことは,返す返すも遺憾の極みであります。なお十勝長葉育成の陰には,ここに名をとどめていない数多くの方々の御協力があったことは申すまでもありません。この席を借り深く感謝の意を表します。

 

以上十勝長葉育成の経過について御説明申し上げましたが,育成功労者にこのような盛儀をもって報いて下さいました農民同盟並びに大豆栽培農家の方々の御厚意に対し,衷心より御礼申し上げます。昭和二十七年六月十日,十勝長葉大豆育成功労者表彰記念式典協議会長,十勝支場長,桑原武司・・・(式辞抜粋)

 

桑原さんの式辞にあるように「十勝長葉」の開発は,玉山豊支場長と上田秋光支場長の指導の下,藤根吉雄(十勝支場勤務T15.6.17-S10.1.24),嶋山〇(金偏に甲)二(同T14.5.7-S15.4.30S21.3.1-S33.4.1),金森泰次郎(同S10.3.5-S29.3.15),貝塚久夫(同S18-S21.3,十勝農試の開設80周年・100周年記念誌の旧職員名簿から漏れている)の担当者によって進められた。藤根が交配と初期世代の個体選抜,嶋山が中期世代の系統選抜,金森・貝塚が系統評価を主として実施したことになる。(昭和8)の交配後,個体選抜・系等選抜を経てF7代から「十育55号」の系統名で生産力検定試験を実施し,またF11代には系統内の変異を認め4系統(十育55-14)を作出して試験を継続している。この4系統の中から「十育55-1」が「十勝長葉」,「十育55-3」が「北見長葉」として優良品種に認定されている。

 

系統の最終評価である生産力検定試験の時期は,第二次世界大戦と重なる。十勝支場・北見支場・幸震高丘地試験地・士幌村・御影村で地域適応性を評価する試験を実施したのは終戦の昭和20年から混乱の昭和21年。苦労は並大抵のことだはなかったろう。この時期に系統の種子が引き継がれたことに,「育種は継続なり」と感慨を覚える。

 

「北農」第14巻第81ページに,貝塚久夫・金森泰次郎は「大豆新優良品種十勝長葉の特性」を紹介している。

 

写真は日本マメ類基金協会「北海道における豆類の品種」68pから引用


大豆一升運動で建設された,「十勝長葉」育成功労者頌徳碑

2011-11-19 13:45:05 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

「十勝長葉」育成功労者頌徳碑

 

北海道芽室町にある北海道立総合研究機構十勝農業試験場の前庭に,「十勝長葉育成功労者頌徳碑」が東を向いて建っている

作物品種の育成者を讃える碑は全国にいくつかあるが,大豆ではおそらくこれが唯一のものだろう。何故この碑が此処にあるのか。その顛末を記録しておこう。

 

◆十勝長葉育成功労者頌徳碑の建設

十勝農業試験場親睦団体の機関誌「十勝野」第5号(1971,昭和46)に,桑原武司さん(元支場長)が寄稿している文書を引用する。

 

・・・昭和二十七年六月十日,新緑が初夏の日差しに映える帯広市で,豆の国にふさわしく,十勝長葉祭が盛大に繰り広げられた。同じこの日農試の前では,頌徳碑除幕式が厳粛にとり行われていた。この碑はその後芽室へ移り,新庁舎中庭の一角に,ほぼ当時と同じ型でたっている。しかしこの頌徳碑が建立されるまでの経緯を詳しく知る人はきわめて少ないので,ここにその時のあらましを記録し,先輩の労苦を知る縁ともしたい。

 

頌徳碑建立の動機は,昭和二十六年九月四日,十勝地区農民同盟第十回執行委員会の席上,豊頃村の美馬耕一氏が「十勝の農民は「十勝長葉」によって莫大な利益を得ることができたが,品種の育成者に対して何ら報いていないのは誠に遺憾である」との緊急提案に端を発している。

協議の結果,報恩の資金とするため,まず管内の盟友一人当たり大豆一升を持ち寄ることとしたが,この企てに感動した一般農民も協力することなり,二十七年の春には早くも目標額の三十万円を達成した。そこで碑石には仙台石を運び,碑の題字は当時達筆で名の高かった広川農林大臣に揮毫を依頼することとした。なお大臣からは式典当日功労者全員に色紙の揮毫も頂くことにした。碑の工事一切は農試職員と同盟青年部有志の勤労奉仕によって,五月二十八日無事完了したのである。

 

式当日農林大臣はじめ多数の祝辞の中で,高倉代議士がいみじくも述べられた次の言葉に,頌徳碑建立の経緯をよく物語るものがあって感慨深かった。「十勝農民同盟といえば,常に農民のために政治活動と闘争に邁進してきたのであるが,この政治活動とは別に,今回病虫害に強い,しかも反収の多い新品種の出現が,十勝農業経済に大きく貢献したことに想いを致し,育成者の功績を永久にたたえるため,頌徳碑を由緒ある農試の一角に建設せられたことは,全国稀にみる壮挙であり感謝に堪えない」・・・

 

なお,育成者の嶋山二らは,1956年(昭和31)「十勝長葉」「北見長葉」の育成功績により農林大臣賞を受賞している。

 

◆頌徳碑の移設

 文中にもあるように,帯広で建立された頌徳碑は農業試験場の芽室町移転にともない,1960年(昭和35)十勝農業試験場の中庭に移転され,帯広時代の旧庁舎(移転後,図書館・陳列館・講堂として使われていた)と並んで,図書館と陳列館の間に西を向いて建てられていた。

 

その後,この場所に管理科の事務所を建設することになり,頌徳碑は前庭(現在地)に移設することになる。移設に当たり関係者で移設地鎮祭を行うこととし,芽室神社の宮司にお願いするとともに,町のフードセンターまで供物の調達に走ったことを思い出す。1985年(昭和60)のことであった。

 

◆「十勝長葉」という品種

 「十勝長葉」は北海道農事試験場十勝支場において,1933年(昭和8)「本育65号」を母「大豆本第326号」を父として交配を行い育成したもので,1947年(昭和22)優良品種に決定した。第二次世界大戦をまたいで開発が続けられた品種である。

 

小葉は長葉で,いわゆる柳葉形を呈する。花色は赤紫,毛茸は多く褐色,熟莢色は褐色,1莢内粒数が多い(ほとんど3粒,稀に4粒)。百粒重は20g程度の小粒で,種皮は黄色,臍色は褐色である。伸育型は有限で直立型,倒伏は少ない。成熟期が10月上~中旬で,十勝では晩生種に属する。栽培品種であった「大谷地2号」や「石狩白1号」に比較し,マメシンクイガ被害が少ないことも特性として挙げられている。これは,「十勝長葉」が多莢で小粒であったためと被害回避されたことによると推測されるが・・・。

 

第二次世界大戦後で食糧増産が求められ,しかも生産資材は不十分,中国からの大豆輸入が途絶えたこの時代,「十勝長葉」は多収性と耐倒伏性が好まれ急速に普及し,195254年(昭和2729)に普及率は50%(約50,000haと推定される)を超えた。しかし,1954年(昭和29),1956年(昭和31)と相次ぐ冷害で晩生の「十勝長葉」は打撃を受け,作付けの主体は早・中生種の「北見長葉」「鈴成」「北見白」へ移った。「十勝長葉」が生産現場で活躍したのは10年ほどであったが,本品種は交配母本としても優れたところがあり,北海道のみならず東北地方や中国北部でも,その後代に優れた品種を誕生させている。

 

十勝農業試験場で大豆育種に携わっていた頃,農家の老人から「十勝長葉」を懐かしむ声をよく聞いた。「多収の品種だった・・・」と。この言葉と頌徳碑は,当時の仕事の励みでもあった。

 

ところで今,農家の庭先で若い研究者に語りかける(期待を込めて)老人はいるだろうか? 研究者諸氏は現場に足を運んでいるだろうか?


北海道で栽培された緑肥用大豆,「茶小粒」「早生黒千石」

2011-11-16 18:05:13 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

北海道で緑肥用大豆が栽培されたことがある。優良品種に登録されていたのは,「茶小粒」「早生黒千石」の2品種。いずれも晩生で小粒なため,子実収量は低いが,総体の乾物重は多かった。しかし,その後豆作比率が高まるにつれ,線虫被害が拡大するなどの理由から大豆の緑肥栽培はほとんどなくなった。だが,今後の状況次第で,利用する場面が出てくるかもしれない。

茶小粒北海道農事試験場本場が収集した在来種で,1926年(大正15)に緑肥用大豆として優良品種に決定し栽培されたが,1984年(昭和59)に優良品種から除かれた。現在,栽培はなく,種子は独立行政法人農業生物資源研究所及び地方独立行政法人北海道総合研究機構等に,遺伝資源として保存されている。

 葉形は円葉,花は赤紫色,毛は褐色で,莢は小さく黒褐色,子実は扁球形で,種皮色は褐色,百粒重が78gと極小粒である。主茎長は160cm前後と高く,茎葉の繁茂が旺盛で生育収量が多い。極晩生である。「茶小粒」は青刈り飼料用として使用されたこともあったが,ムギなどの間作緑肥として一時かなり普及した。熟期が遅いため,北海道では道南地方でないと採種できない。

 

早生黒千石道内の種苗会社が「黒千石」という名前で販売していたものを,北海道農事試験場十勝支場(現,十勝農業試験場)が収集し,1941年(昭和16)暫定優良品種に決定した。栽培実態がなくなったため,1959年(昭和34)に優良品種から除かれた。現在,種子は独立行政法人農業生物資源研究所及び地方独立行政法人北海道総合研究機構等で,遺伝資源として保存されている。

葉形は円葉,花は赤紫色,毛は褐色で,莢は小さく黒褐色,子実は球形で,種皮色は黒くやや光沢があり,百粒重が1011gと小粒,子葉色(種皮を剥いだ子実の中身,発芽のとき子葉として展開する)は緑である。主茎長は95cm内外と高く,十勝地方で開花期は8月中旬,成熟期は10月中旬となり極晩生である。(参照:北海道における豆類の品種,豆類基金協会)

 

ところで,最近になって北海道では「黒千石」大豆の栽培がみられ,加工食品の開発,販売が行われている。「黒千石」大豆は,その特性から判断して,上記の「早生黒千石」と同類の品種であろう。

 

「黒千石」大豆が注目されたのは,北海道大学遺伝子病制御研究所の田中沙智,西村孝司教授等の研究論文が端緒である。2008年に北海道大学遺伝子病制御研究所により免疫を担うリンパ球が刺激されて感染抵抗力やがんへの免疫を高め,アレルギー症状を抑えるインターフェロンγの生成を促す物質が発見された。新たな豆のパワーの発見である。他の黒大豆や豆類に同様の効果が認められる物質は発見されていないという。

 

また,2007年と2006年に日本食品分析センターが行った機能性成分分析結果では,他の黒大豆よりも「黒千石」のイソフラボンおよびポリフェノールの値が高かった。小粒のため,同量で比較すると黒色子実の表面積が大きく,また子葉の緑であることも関係しているかもしれないが。これを機に,道内各地で「黒千石」大豆への関心が高まり,事業運営母体として設立した黒千石事業協同組合などにより,安定供給が可能な生産体制の整備が進められている。 


北海道における大豆生産の挑戦(4)実需要求に応えているか?

2011-09-21 17:47:35 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

加工適性

北海道における2010年の大豆種類別作付けは,大中粒白目が64%と主体をなし,中粒渇目の秋田大豆が減少し(2%),納豆用の極小粒(20%)や黒大豆青大豆(12%)の比率の高まりが観察される。輸入自由化後良質の白目大粒が主体を占め,また納豆適性の高い極小粒の「スズヒメ」(1980),「スズマル」(1988),「ユキシズカ」(2002)が育成され需要に応えられるようになったことから,小粒大豆の作付け比率が高まり,また一定の需要がある黒大豆や青大豆の比率は総体面積の減少にともない,高まっていると考えられる。

 

実需要求に応えているか

2010年,北海道の大豆作付面積は24,000haであり,品種別作付面積の順位は,第1位「ユキホマレ」,第2位「スズマル」,第3位「トヨムスメ」,第4位「いわいくろ」,第5位「ユキシズカ」となっている。

 

「ユキホマレ」「トヨムスメ」などの中大粒の白目品種は,「ユキホマレ」が10年間,「トヨムスメ」が20年間にわたり基幹品種の地位を占めている。これからも白目中大粒種は北海道を代表する種類となることから,改良に当たっては煮豆および豆腐加工適性の向上をこれまでにも増して念頭におくべきだろう。一方,「キタムスメ」など中粒渇目の秋田大豆銘柄は栽培が減少しているが,古くから味噌や煮豆など美味しいとの評価があり,しかも耐冷性も概して強いことから,今後も一定の需要が見込まれるだろう。

 

極小粒の納豆用の「スズマル」(1988)は,納豆業者から北海道に「スズマル」有りとの評価を得て,既に20年近く栽培されている。「ユキシズカ」(2002)は納豆加工適性の評価が高く,ある納豆業者の製品が農林大臣賞を得るなど,道東地方で順調に生産を増やしている。

 

黒大豆は煮豆用として「中生光黒」(1935),「晩生光黒」(1935)が使われてきたが,これらの早生化を図った「トカチクロ」(1984),生産安定性を高めた「いわいくろ」(1998)が現在は主流となっている。さらに,古くは緑肥用として栽培されたことのある子葉緑の小粒黒大豆「早生黒千石」(1941,子実の中が緑)が,ポリフェノール含量が多いと言われ,一部の地域で栽培が試みられている。

 

あお大豆は,「早生緑」(1954),「アサミドリ」(1962),「音更大袖」(1991),「大袖の舞」(1992)が栽培されているが,製菓や枝豆としての利用が多い。また一方では,黒大豆,あお大豆を豆腐や納豆など差別化商品して利用する試みが増え,興味深い。

 

また,北海道の極大粒種は「鶴の子銘柄」として道南地方を中心に晩生の「白鶴の子」(1934)などが栽培されてきたが,中央農試ではこの品種の早生化を図り「ユウヅル」(1971),「ユウヒメ」(1979)「ツルムスメ」(1990)を育成し,さらに極大粒種「タマフクラ」(2008)を開発した。「タマフクラ」は何しろ大粒,100粒重が64gもある。世界一の大きさであろう。この品種は大粒ゆえに発芽障害を起こしやすいが,その大粒性は実需者サイドから大きな興味がもたれている。

 

これら品種は,実需者の要求に応えようとした育種家の苦労の末に生まれた傑作。それぞれの品種に関った育種家の顔が浮かんでくる。

 

生産者に求められるのは,北海道で生産された大豆は品質がよいとの評価に甘えることなく,加工適性を意識した良品質の生産を心掛け,安定供給への努力を図るべきだろう。生産者みずからが,実需者や消費者の要求に応えているかと自問しながら,生産に取り組む時代である。

 

多様な需要に対応するために,育種家の腕が試される

 

参照土屋武彦1998「北海道における大豆生産の現状と展望」豆類時報 10,9-21に加筆

 

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北海道における大豆生産の挑戦(3)省力機械化への対応

2011-09-13 18:48:01 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

遅れていた機械化

北海道の農家戸数は,1965年の20万戸から2009年の45,000戸まで,45年間でおよそ22%にまで減少し,減少傾向はなお続いている。また,高齢化も急速に進み,大豆生産において機械化,省力化が必須の条件となってきた。

北海道における大豆の10a当たり投下労働時間は,15年前には17時間で,てん菜の19時間に比べればやや少ないものの,馬鈴薯の9時間より多く,小麦の3時間に比べれば極めて多い状況にあった。平成22年の10a当たり投下労働時間をみると,大豆で8.09時間まで半減していて,かなり機械化が進んだことを示している(因みに,てん菜14.91時間,ばれいしょ8.33時間,小麦3.68時間)。当時の作業体系では,収穫脱穀調製作業に45%,除草作業に35%を要する点が特徴であり,収穫脱穀調製作業の軽減を第1の目標として挑戦した。

コンバイン収穫への歩み

わが国の大豆は,耐裂莢性が易であり,点播のため最下着莢位置が低く収穫作業のネックになる点が多いこと,大粒で流通上外観品質が重要視されていることなどが機械化を遅らせた要因と考えられる。しかし,秋が遅く寒い時期に,腰を屈めて実施するニオ積み作業はつらく,埃まみれになって行う脱穀作業は,大豆の作付け意欲を減退させる大きな要因であった。

1961年にはビーカッタ,1968年にはビーンハーベスタが開発され,ビーンハーベスタは急速に普及が進んだ。1980年代後半には7075%の普及率である。しかし,この時代のビーンハーベスタによる収穫は,裂莢損失を裂けるため,朝露の残る早朝に作業をしていた。この頃,コンバインの導入も始まったが普及は2%前後で試行錯誤の時代であった。その後,クリーナなど調製機械,機械化適応性品種の開発,機械収穫を前提とした条播密植栽培技術の確立などが進み,コンバインの普及率は1995年で27%まで増加した。

十勝農試の成果 「カリユタカ」から「ハヤヒカリ」「ユキホマレ」「トヨハルカ」

大豆の機械収穫のために重要な特性は,耐裂莢性,最下着莢位置,耐倒伏性,密植適応性,枯れ上がりの良さなどが考えられる。耐裂莢性は,コンバイン収穫時の衝撃による子実の飛散損失に影響し,最下着莢位置と耐倒伏性は刈残し損失に影響する。

十勝農業試験場では,1975年から機械収穫向き品種の育成を目標に品種改良に取り組んだ。北海道の白目大粒の良質品種に,東南アジア,アメリカ合衆国および中国品種から難裂莢性因子を取り組むことを当面の目標にした。難裂莢性の導入品種は小粒,晩熟,無限伸育で耐倒伏性が劣るなど難点があり,難裂莢性の導入は必ずしも容易でなかったが,1991年「カリユタカ」を育成することができた。しかし,「カリユタカ」はまだ耐冷性,耐病性が不十分であり,さらに改良の余地を残していた。

その後十勝農業試験場では,耐冷性の褐目中粒種「ハヤヒカリ」(1998,十系679号×キタホマレ),早生の白目中粒種「ユキホマレ」(2001,十系783号×十系780号),耐冷性の主茎型・大粒種「トヨハルカ」(2005,十系739号×十交6225)などコンバイン収穫適性の高い品種を順次開発した。中でも,「ユキホマレ」は早熟性が生産者に好まれ普及が進み,北海道の主幹品種として貢献している。

省力化の目標値は10a当たり3.7時間

機械化による省力化,軽労働化は,今後の大豆生産振興にとって極めて重要な課題である。道立農業試験場では「21世紀初頭における技術的課題と展望」1994で省力化の目標を検討したが,コンバイン収穫の導入と手取り除草省略のための狭畦幅栽培によって,10a当たりの投下労働時間を小麦に近い3.7時間と推定している。この目標値は現行の45%強で,まだ目標値に達していないが,小麦のように大豆をつくるという畑作農家の夢は実現しつつある。

参照:土屋武彦1998「北海道における大豆生産の現状と展望」豆類時報 10,9-21に加筆 

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鼓琴の悲

2011-09-13 18:37:07 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

中国の「世説新語」に鼓琴の悲しみという言葉がある。琴をこよなく愛した顧彦先が死んだ時,家人は故人が愛用した琴を霊前に置いた。そこへやってきた友人の帳季鷹は悲しみの余り,その琴で一曲ひき,「顧彦先は再びこれを弾じることはないのだ」と言い,泣きながら,家人に挨拶もせず帰ったという故事に基づく。ここに掲げた故人は,どなたも十勝農業試験場での在任中に交際を頂いた方々である。故人らの愛した,自然,人と酒,仕事に,琴の調べを奏でたいと思う。

◇泥臭いまでの育種家

谷村さんは,十勝農試大豆育種の3年先輩で,19676月に創設なって間もない中央農試大豆育種指定試験地へ異動になった。その時,筆者は2年目を迎えたばかりであったが,彼が分担していた育種材料を全部引き継いだという因縁がある。その後彼は,中央農試でダイズわい化病抵抗性育種に情熱を傾け,さらに植物遺伝資源センターでは種子生産と遺伝資源収集に力を注いだ。退職後はパラグアイの地で,種子生産の専門家として活躍した(1993-95)。

育種家には,系統を維持し続ける愚鈍なまでの頑なさと,系統の廃棄を決断する時に求められる大らかさが合わせ要求されるとすれば,谷村さんはまさに泥臭いまでの育種家であったのかも知れない。彼の野帳に選抜の系譜を辿りながら,ふと思うのであった。

 人を愛することから育種は始まる

十勝農試へ着任した時,犬塚さんは隣の研究室にいた。インゲン豆の育種担当であった彼は,若い研究者達に育種の何たるかをいつも語りかけていたように思う。人を愛することから育種は始まるのだと。

作物は生きている。生産物は人が食べるもの。だから,育種において誤魔化しはいけない。畑を歩け,草を取れ,作物と語れ,と常に諭されていたように思う。彼は,「銀手亡」「福粒中長」「福白金時」「北海金時」など菜豆の育種を担当した後,作物科長として小麦や蕎麦の試験に取り組んだ。その後,彼は上川農試の専門技術員として異動するが,この試験場でまた一緒になるという巡り合わせであった。研究室は違ったけれども,同じ屋根の下での18年である。

十勝農試職員の親睦会誌「十勝野」に掲載された,後木さんの紹介記事によれば「曲がったことが大嫌い。耐アルコール性やや強。飲むほどに声量が増し,時と場合によっては酋長の娘が踊りとなって飛び出す」とある。頑ななまでに貫いた正義感。併せ持つ陽気で柔和な顔。それは,人を愛し,育種に賭けた男の生き方だったのだろうか。

◇確かな記録は武器になる

背が低く,色白であるが,体躯はがっちりした男。柔和な顔と物静かな語り。元気な頃の松崎君である。彼は,1967十勝農試へ就職し,甜菜の試験研究に従事する。私とは1年前後しての研究生活スタートであり,約20年間一緒に十勝農試で過ごすことになる。しかし,彼は働き盛りに,志半ばにして病魔に見舞われる。彼の強い意志は繰り返される治療に耐え,小康を保つかに見えたが,医療の効果もなく長い闘病生活に入ることになる。中央農試験勤務になり,久しぶりに再会した彼は,もはや私を識別できるような状況でなかった。そして,19941112日帰らざる人となった。享年50才。

研究者にとって,新しい発想や工夫が大事であることは言うまでもないが,設計を綿密にし,確かな記録を残し,理論的な解析を進める事も極めて重要である。のデータ収集,整理の緻密さは際だっていた。不明な点は彼に問合せるのが最善と,何度お世話になったことか。また,彼のアイデア,確かな記録が多くの場面で役立った。パソコンが普及していなかった時代に,彼が示した情報収集と整理の努力を,いま我々は見習うべきでないだろうか。精度の良い試験があって,正確なデータを示せるからこそ,いつの世にも研究者は信頼を得ているのだから。

マラソン大会でも静かなスタートを切り,後方からヒタヒタと追いつき,いつの間にか真っ先にゴールしていた君の姿を思い出す。

◇緑の地平線の会

成河さんが現役を退いてからのことである。時折,北海道へきては昔の仲間と集まり,「作物の遺伝資源に関わる話題」「DNAと形質発現の距離」「導入遺伝資源の放生について」「DNAと形質発現の距離」「人と自然との共生について」「海外農業事情」など,勝手に話をしては酒を飲む機会を作っていた。その集まりは,高橋先生の門下生で氏に年齢が近い者達からなり,「緑の地平線の会」と称した。

成河さんは,十勝農試に入った時の大豆育種研究室の先輩であるが,十勝農試では低温研究や小豆・インゲン育種でも成果を上げ,その後農水省の北海道農業試験場や野菜茶業試験場で活躍した。氏の周辺には多くの仲間が自然と集まるような,奇特な人柄であったように思える。十勝農試を離れるころには癌の治療を受けていたが,苦しみを顔に出さなかった。その病も快癒し,退職後は仏門に入り長円寺(愛知県西尾市)住職を務め,正法眼蔵を研究するなど,才能豊かな生き様であった。

緑の地平線の会が4年目を迎えるころ,体調すぐれず車椅子の生活を送っていたが,「車椅子でも北海道へ行けるよね」と会への参加を心待ちにしていたという。2006年逝去。

手元には,氏の短編小説「シャルウイテイー」が残された。成河さん,聞こえますか,「緑の地平線の会」を今年も開催しましたよ・・・。

参照:土屋武彦2000「豆の育種のマメな話」北海道協同組合通信社 240p. (追補2011) 


北海道における大豆生産の挑戦(2)ダイズシストセンチュウは克服されたか?

2011-09-12 18:03:08 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

シストセンチュウへの挑戦

農作物有害動植物発生予察事業年報によると,大豆作付面積が68ha前後であった戦後15年は,発生面積および被害面積が次第に増加し,発生面積率が13%から32%,被害面積率は10%前後となっている。この数値は大豆と小豆を込みにした数字であり,被害の主体が大豆であることを考えるとさらに大きな被害であったと推察される。

その後,大豆の作付面積が12haに減少した198690年にかけては,発生面積率約20%,被害面積率が5%前後である。輪作体系が確立するとともに,抵抗性品種「トヨスズ」が育成され普及が進んだことによる。さらに,「トヨムスメ」「トヨコマチ」「ユキホマレ」など抵抗性品種が普及し,最近の被害面積率は2%前後と低下しているが,その危険性はなお顕在化していると考えられる。輪作体系が確立し豆作頻度が減ってきた十勝では被害が少なくなっているが,上川,空知,胆振地方などの転換畑大豆で被害が目立ってきた現実がある。シスト線虫対策は,抵抗性品種の導入,非寄生作物との輪作体系確立,線虫抑制効果のあるクリーニング作物(クロタラリア等)導入など多様に総合的に行わなければならないが,生産者の意識が大事であることを,この現実は示している。同時に技術指導者の責任も問われよう。

北海道には,ダイズシストセンチュウのレース135の分布が確認されており,最も広く分布するレース3に対しては,1995年代から精力的に抵抗性育種が進められ,「トヨスズ」「トヨムスメ」「トヨコマチ」「ユキホマレ」など成果は顕著である。一部で発生の見られるレース1に対しては,より強度の「Peking」系抵抗性を有する「スズヒメ」が育成された。なお,最近の道央道南地帯の調査によれば,「ゲデンシラズ1号」由来レース3抵抗性品種の導入が有効な圃場が52%(R3)であること,レース13抵抗性品種でのみ有効な圃場が43%(R3g+R3p+Rgp)であること,レース13抵抗性品種で対応できない圃場が4%あることが示されている(田中ら2007)。

また,ダイズシストセンチュウ抵抗性レース13に対するDNAマーカーが実用化され,育種事業の中に組み込まれ,効率的な選抜が可能になってきている。DNAマーカーを利用した抵抗性選抜と戻し交雑により,レース13双方に抵抗性を有する「ユキホマレR」(2010)が優良品種として登録された。

以上のように,シストセンチュウについては抵抗性品種の開発が進み,輪作体系の意義が認識されているが,引き続き優良品種にレースを考慮した抵抗性を必須形質として付与しなければならない。また今後は,線虫抵抗性に加え耐冷性,わい化病抵抗性,機械化適性などを複合的に備えた総合特性改善を目指すべきだろう。

ダイズわい化病への挑戦

わい化病は,いま対策を求められる課題の一つである。わい化病の発生と技術対策の経過を振り返ってみると,1952年道南地方で原因不明の萎縮症状が観察されてから,全道各地に発生が広まり,1973年には発生面積率59%,被害面積率24%を超える状況であった。また,東北地方へも被害は拡大している。この間,本病はジャガイモヒゲナガアブラムシによって媒介される新ウイルス病であることが判明し,1968年にはわい化病と命名され,1973年には殺虫剤の土壌施用など防除技術が確立され普及に移された。

これら防除技術は一定の成果をおさめ,その後被害面積率は5%前後に減少するが,発生の多い年には被害面積率が10%を超えることも珍しくない。特に,1990年以降初期感染するケースが多く,殺虫剤の播種時に播溝施用するだけでは不十分で,発生予察により殺虫剤の茎葉散布を組み合わせるなど防除体系が再構築された。

一方,抵抗性品種の開発は,中央農業試験場が中心に取り組み,「黄宝珠」「Adams」など圃場抵抗性品種の探索を進めるとともに,それらを交配して抵抗性品種「ツルコガネ」「ツルムスメ」を育成した。抵抗性品種の探索は,これまで3,000を超える品種について検討しているが,20余りの圃場抵抗性品種が見いだされているものの,真性抵抗性品種は見つかっていない。

育成された抵抗性2品種の作付けシェアはわずか2%であり,抵抗性品種の開発を急ぐ必要がある。現在,中央および十勝農業試験場の両育種場所では重点育種目標に位置づけ抵抗性品種の開発を進めているが,さらに植物遺伝資源センターでは豆類基金協会の支援を得て高度抵抗性変異体の作出を目指し,中央農業試験場生物工学部でも農水省の支援でDNAマーカーによる選抜法の開発を進めるなど組織が一体となって取り組んでいる。

植物遺伝資源センターは,遺伝資源の中からより高度な抵抗性をもつ「WILIS」(インドネシア)を見出し,中間母本「植系32号」を育成した。また,抵抗性品種「Adams」の生体上でジャガイモヒゲナガアブラムシの生育が阻害されることを認め,この性質を「アブラムシ抵抗性」と名付けた。アブラムシ抵抗性は「黄宝珠」には認められないことから,抵抗性にはアブラムシ繁殖抑制と感染ウイルスの増殖抑制の2要因が関与することが示唆され,両抑制因子を集積することで抵抗性の強化を図る試みが行われている。

しかしなお,生産現場からは,コンバイン収穫を行う場合,わい化病の罹病株があると茎水分の減少が遅いため,汚粒が発生するとの指摘があり,解決を要している。

参照:土屋武彦1998「北海道における大豆生産の現状と展望」豆類時報 10,9-21に加筆

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