読書日記

いろいろな本のレビュー

岡 潔 数学の詩人  高瀬正仁 岩波新書

2016-04-25 11:26:03 | Weblog
 最近、岡潔の随筆が次々と復刻されて人気を博しているという話はこの前に述べたが、岡に影響されて数学者になった人物の本も目につくようになった。最近では森田真生氏の『数学する人生』(新潮社)が岡の晩年、京都産業大学での最終講義と随筆の主要なものを載せて、併せて自身が岡の「数学は情緒だ」という言葉に影響されて数学者になったいきさつを書いている。森田氏は独立の数学研究者として、数学の普及に取り組んでいる。岡潔数学教の信徒の様相を呈していると言っても過言ではない。
 本書の著者の高瀬氏は今年64歳の九州大学の数学の教授で、やはり高校一年のとき岡の言葉に感動して数学の道に入り今日に至っている。氏は岡潔の評伝を2003年と2004年に続けて発表しており、岡潔再評価の先駆となる仕事をされている。
 本書は2008年の刊行で、二冊の評伝の新書版と言えるだろう。岡の人生と学問を、遺された研究ノートをもとに時系列に記したもので、著者の岡に対する親愛の情がひしひしと感じられる。一見奇矯に見える岡の行動も、数学の難問に立ち向かう中での苦悩の表出として記述している。
 例えば、昭和11年6月23日の広島事件。この時、岡は広島文理大の助教授であったが、この日の夜、京都帝大の数学者、園正造の歓迎会に出席したが、途中で心身の調子が悪くなって帰宅し、それから行方不明になった。翌朝判明したところによると、岡は自宅近くの二股川の土手を帰宅中の修道中学の夜学生達を襲い、帽子や書籍、靴、自転車などを没収して、それから牛田山の笹原に寝そべって一夜を明かしたということだった。被害者の中学生の家族が強盗に遭ったと警察に訴えたため新聞沙汰になり、一時は騒然とした事態になったが、ともあれ病気と見なされて入院した。退院後は、中谷宇吉郎の好意で、伊豆の伊東で一家ごと転地療養することとなった。この件に関して著者は、第二論文で任意の(有限で単葉な)正則領域においてクザンの第一問題が解けることが証明されたことのうれしさが起こした必然ではなかったかと数学者の立場で分析している。以後病気のため広島を離れ、紀見村の父祖の地に帰ることになったが、途中で行方不明になった。岡によれば、即刻支那事変(日中戦争)をやめるよう、天皇陛下に直訴するために上京したのだという。岡は晩年に第四エッセイ『春風夏雨』で「日支事変の初めのころ、この国の選ばれた若者たちが、それこそ桜の花が散るように美しく散って行った。こんなことを続けていると、若い世代がよいものからよいものからと死んで行ってしまうだろう。ほかにどのような利益があるのか知らないが、この損失に比べると取るに足らぬものに違いないと思った」と当時の心境を述べている。著者はこの件について、「筋道を追って理解するのは困難だが、国と国民の運命と、破綻しつつある自らの生活と数学研究の姿が重なり合い、何かしら〈滅びゆくもの〉のイメージが形成され、たまらない気持ちになったのだろう」と心中を慮っている。
 その二年後の昭和15 年広島文理大の辞職が決まり、岡は紀見村にこもって数学研究に没頭する。岡のようなタイプの教員は高等師範学校がもとになっている大学からすると合わないと判断したのだろう。思索するより真面目に授業をしてくれる教員の方が良かったということだろう。紀見村では、経済的に苦しく土地を売っては生活費に充てるというものであった。奈良女子大の教授に就任するのは昭和24年のことである。
 以上本書は岡の履歴を詳細に調べて、同じ数学者としての目線で岡の偉業を顕彰しているという意味で誠に読み応えがある。