庵KM

技術屋OBの環境問題独り言

経済問題。交通問題。健康問題。そして、日本の国創り問題。快適社会問題。

原子力発電は地域振興にならず利権体質維持の象徴。

2010-02-12 | 核エネルギー・原子力問題
20世紀は化石エネルギーの飛躍的な利用増加で、モノの経済は発展してきたが、取り残された地域や、オイルマネーによって疲弊した社会も多く出現した。
その弊害を減らすことが出来ないままに、21世紀のエネルギー転換に時期を迎えている。
今後の50年間で徐々に、次世代のエネルギー源に主力の座を譲っていくことになる。

その一方で、原子力発電は、燃料の枯渇の心配がない21世紀にエネルギーだとして、各国での技術開発競争が進み、一部のフランスの様に、発電の大半を原子力発電に頼る国も表れている。
しかし原子力発電はいまだに、多くの未解決の問題と安全性の懸念をかかえ、その上、危ない政策を掲げる独裁的な過激政権が、将来の核兵器への保有を狙った原子力発電技術を取り込もうとしている。

さらには原子力発電の燃料の枯渇の懸念も起きて、その代替としてプルトニウムを利用するプルサーマル発電や「高速増殖炉」(プルトニウム239を燃焼させる)を商業化しようとしている。
この技術は、将来性がないとして、米英仏などの核兵器先進国では、とっくに開発から撤退している。
今は、インドや中国、ロシアなど、経済発展を目指す後発大国が、米英仏の支配からのがれるための長期の国益政策として取り組んでいる。

日本は長期的なエネルギー政策を、原子力利用の拡大を主軸とした経済産業省と、協調する一部の原子力発電産業界、それに取り入る原子力技術専門家グループなどの、閉ざされた社会のなかで、方向が決められている。
政権交代はしても、この闇社会に入り込んで、理不尽な戦略を暴きだすのは容易ではないが、自民党政権のように、闇の中を曖昧にしたまま、鵜呑みにすることはもはや許されない。

今までの闇社会の主張は、決まっていた。
「石油が亡くなったら日本は滅びる。その時のエネルギーは原子力だ」と。
今は「温暖化問題の決め手は原子力発電だ」と主張して、国策として主流にしようとしている。
しかし、新興国が原子力発電技術を持ち、将来は核兵器への発展を目指している事には、まったく目を向けない。
それは、エネルギーの問題ではない外交問題だというのであろう。無責任極まりない態度である。
これは、高レベル放射性廃棄物の処理を未解決のままにして、建設と商業運転のみに勢力を注いできた体質そのものである。

その上、原子力発電所を設置するにおいて、当初には安全問題を偽り続けて、事故が起きると想定外のことで、不可抗力であったので、責任は取れないとして逃げる。
建設を繰り返す為に地元には、迷惑料を大判振る舞いし続けて、自立の気持ちを破壊してきた。
地元の見かけに発展には、お金で解決できるハコモノや道路施設を贅沢に作りながら、地域社会の将来については、自分たちは関係ない、という態度である。
都合のよくない社会的な問題には目を向けず、悪影響や後始末は他人(多分、次世代にしわ寄せ)に押し付ける。

「政権交代」だけでなく、「官・業」も交替は必須であると覚悟すべきだ。

時間の経過で巨悪に転落する産業界と守旧官僚の体質。

2010-02-11 | 暮らし・健康問題
1990年代のバブル崩壊以後は、日本は漂流の10年と言われたが、経済界も政界も転換出来ずに、日本の将来を見定めないままに、さらに10年間を浪費してきた。
その原因には、既得権を守り従来の方針に固執したままに、お金を使い続ける「巨悪」が存在している事にある。
これを暴くには、「政権交代」がひとつの優良な手段であると、国民が気付いたので昨年の秋に実験的に実現した。

この実験政権が、本当に日本の将来を見定めて、適切な政策を打ち出すことが出来るのかは、大きな試練である。
少なくとも、ダムや不要な道路を造り続ける非を、国民の前にさらすことで、その判断を民主主義にゆだねる方向に転じている。
しかし、「政・官・業」の既得権構造は50年以上にわたる強固な仕組みなので、そう簡単には変わらない可能性が高い。

昨日、採りあげた「原子力族」による日本の将来のエネルギー戦略は、政権交代しても、まだ何も変わっていない。
環境技術立国を目指すという「新政権のスローガン」も、中身は全く未熟な段階である。
それだから、基本となるエネルギーを未だに「原子力主体」と位置づける、旧来の原子力産業や経済産業省の原子力推進官僚の言いなりに、従来の政策を続行することになってしまう。

自民党政権時代には、政治家は何も政策研究をしていないので、エネルギー政策などの専門性の高い分野は完全に官僚依存であり、産業界の旧時代の代表である「重硬長大」企業経営者の言い分にすり寄ってきた。
その結果がコンクリート国家であり、大規模公共工事依存経済の借金国家の実現であった。
さらにエネルギー産業は、せっかくの再生可能エネルギー産業(太陽光、風力、バイオマス)など、次世代の新規産業を冷遇して普及の芽をつぶし、世界から大きく遅れる実績を残した。

時代の変化により、世界の重要課題はドンドン、複雑になっていく。
一方、技術の分野では、各国、各企業の切磋琢磨の革新技術で、一昔前には想定も出来なかったレベルの実現や、まったくの新技術の実用化も進んでいる。
それに対して的確な評価と将来を見越した判断が重要になっているのだが、政治家の不勉強で、日本は大きな失敗を、この20年でしてしまった。
だから時代の進歩から取り残された政治家は、政権交代をして出直してもらうしかなかった。

その一方で、産業界は経団連に代表されるように、世代の交代も遅れ、旧産業にしがみつく構造が強固にできている。
それでも、産業界は民間の市場競争にさらされる制度なので、徐々に交替していくであろう。
巨悪が存在し続けられる環境は、官僚の世界であり、学術関係の守旧派学者の世界である。
失敗の成果しかなくても、交替させられる仕組みがないから、居座ること出来てしまう。

新政権の課題は、この時代の変化に対応出来ない官僚群を、交替させることが出来るかにある。

隠された負の遺産を増やし続ける巨悪(原子力)を見逃すな!

2010-02-10 | 核エネルギー・原子力問題
コンクリート建設による国土造りは、1960年代から1990年頃までには、日本の経済成長と地域の発展に貢献をしてきた。
しかし、ダムや効果の少ない道路建設に、大金を投じることは、一時的な土木建設工事のお金のバラマキに終わり、建設したダムや道路のインフラは、維持するだけの費用すら、賄えない程度の価値しかなかった。
そして、ダムは50年~100年の間には老朽化による被害が発生する懸念を生じ、次世代には撤去する必要のある「負の遺産」となる。

これに匹敵する「負の遺産」となる可能性が大きいインフラとして「原子力発電」があげられる。
未だに放射性廃棄物の最終処理も見通しの立たないまま、増設を続けようと言うのだから、無責任極まる。
さらに、本日の新聞(朝日2月10日、朝刊3面)に報じられているが、「高速増殖炉」による原子力発電の技術研究に、150億円を投じることが決定したという。

この高速増殖炉の原子炉は、理論上はウラニウム238と言う、今までの原子炉では燃料にならない部分をプルトニウム239に変換することで、燃料がほぼ無限に使える「夢の原子炉」と呼ばれてきた技術である。
大金を投じた実験炉(もんじゅ)は1995年に事故を起こして、成果を全く生まないままに停止し、その維持のために一日当たり5500万円(年間で200億円)かかり、14年間も停止したままで来た。
ここまでで、維持費が2800億円かかり、今までの建設費用は9000億円かかっている。
さらに、実験炉の運転のためには、年間で180億円程度が必要で、2025年頃まで試験を続ける計画であり、2500億円が出費される。
終了後に廃炉にするには、さらに2000億円かかるとされているが、放射性廃棄物の最終処分地も決まっていないので、後始末の費用は不透明である。

積算で願いまして、2800+9000+2500+2000=16300万円。約1.6兆円かかる。
これは実験炉段階だけであるが、仮に実験が成功しても、その次には実証炉を造り、25年間の実証試験期間が必要であり、さらに、その次に商業炉の開発と建設が必要になる。
すべてが上手くいったとしても、2050年から実用に使える技術として、その時点で本当に必要になっているかどうか、まったく疑わしい。

原子力行政を統括している専門グループは、今、日本が先頭に立って研究を続けていかなければ、将来に必要になってからでは、高値で技術を買わなければならなくなる。と言っている。
その時点で技術を買う必要が、どの程度あるのかの検討は一切ない。
確かに1960年代には、化石燃料の枯渇が21世紀の中ごろには発生するので、それに備えて、
夢のエネルギー「高速増殖炉」は、長期の国策として取り組む課題であった。
しかし現在では、その代替エネルギーは「再生可能エネルギー」が主役であり、2050年頃までには、圧倒的に技術進歩が実現され、高価な原子力発電は不要になっている可能性が高い。
現時点で止めれば、損害額は現世代の負担で、賄える範囲に収まる。
なぜ続ける判断をするのか!

マスコミと政治家が小悪に拘わっている間に、巨悪は!

2010-02-09 | 暮らし・健康問題
相変わらず、マスコミは政治家の不透明なお金の流れを追いかけまわすのに忙しい。
疑惑があっても、証拠が見つからなければ不起訴になるのは検察庁の立場ではやむを得ないが、それを追いかけまわしたマスコミは、あてが外れてどう扱うか迷走気味である。
政権与党の不満派や、野党の自民党は、政治の不信感をもたらした責任は重いとして、辞任などの要求をしているが、日本にとっての大問題は置き去りにされかねない状態である。

確かに、政権のトップと実力者が、お金の管理にずさんであったことは悪といえるが、数億円から数十億円の範囲である。
その一方で、ダム問題に象徴されるような、無駄な公共事業にお金をつぎ込み続けて、税金を無駄使いしただけでなく、今度のその補修や撤去に必要な費用をキチンと積み立てておくこともせず、造りっぱなしにしてきた責任は、どうなのか?
発電用のダム撤去の費用だけでも15兆円は必要になりそうだし、それ以外の治水用、利水用のダムの状況は、補修や撤去の費用を現世代の負担で積み立てておけるのか、一切、不明である。

その上、まだ新たなコンクリートダムを造る計画が残っていて、続行を主張する土建国家族が勢力を温存して、まだ国家の借金を増やし続ける動きである。
このブログの2009年11月6日から11日にかけて、コンクリートダムから緑のダムに転換する必要を説明したが、長期的に見れば明らかである。
コンクリートダムは、50年~100年で寿命が来るので、必ず撤去の費用が負の遺産となる。
反対に緑のダムに相当する森林資源は、豊かな実りを下流域にもたらし、成長した樹木は適切に選択して伐採・利用すれば、有益な資材となって次世代に確実に貢献する。

このように自明のことに対して、マスコミも守旧派の政治家も目をキチンと向けないで、目先の小悪をほじくり返すのに、没頭している。
その間に、次世代に大きな負の遺産を押し付けた、旧建設省の官僚とそれに迎合した政治家は、逃げ隠れしている。
公共工事の名目で、天下り先の既得権益を膨大に作り上げて、国民の税金をうまくピンはねして、私益を追い求めて増長した人間達は、自分たちの方に目が向いてこないように、次々に目先の小悪をマスコミの目に触れるように用意している事であろう。

次世代に対して誇れる国造りこそが、最重要の課題であるのに、そのようなテーマは、日ごろのマスコミでは片隅にしか出てこないので、目にはとまらない。
国民はマスコミが流布する話題に翻弄されて、本当に重要なことには関心を払わないようにさせられている。

健康的な生活と安心できる暮らしの基本には、豊かな国土を基盤とすることが必要である。
それに対して、政権を目指す政治家は、実現すべき国のビジョンを提示できなければならない。
野党に転落した旧政権党の政治家は、今こそ、重箱の隅をつつくようなみっともない詮索を止めて、本当に必要な政策を対案として出して、堂々と論戦をすべきであろう。
野党が健全でなければ、与党はまともにならない。
既得権を守る官僚がほくそ笑むだけである。

目先の小悪よりも次世代に対する巨悪を日のもとに! 

2010-02-08 | 暮らし・健康問題
マスコミ界の目先主義には多くの弊害があり、それに迎合したり、悪乗りしてきた国や自治体の政治家、官僚に大きな責任がある。
その中で、親方日の丸の依存体質の典型が、土建国家を造り上げた【政・官・業】の悪のトライアングルであろう。
今さら採りあげるでもない話題と思われるだろうが、ダム問題がその代表である。

朝日新聞の2月4日朝刊(30面)に、「現役ダム、初の撤去へ」として、熊本県荒瀬ダムの撤去問題が報じられ、2月10日の社説でも「老朽ダム撤去」として採りあげている。
コンクリートダムは、寿命が50年~100年と言われている。
荒瀬ダムは球磨川の発電用で高さ25㍍、幅210㍍の、1955年に完成した県営のダムである。
当初は県内の16%の電力を供給していたが、現在は1%程度である。
その上、ダム湖には汚泥がたまり、悪臭が発生してアユなどの漁業資源にも悪影響を与えている。

1級河川にある発電用のダムは1551基で、そのうち800基以上が50年以上90年に達している。
既に役割を終えて撤去した方が良いダムは全国で100基以上ある。
このダムの撤去費用は、荒瀬ダムで試算した場合は、総額で92億円必要で、発電事業での収益で賄う予定であったが、28億円も不足するという。
埼玉県の荒川中流にある玉淀ダムでは、すでに発電事業から撤退して不要になっているが、撤去はされていない。
埼玉県の試算で、撤去に170億円かかるとのことで、どうするか難航している。

大自然の中に大規模なコンクリートの施設を造る場合には、その建設時のことだけでなく、途中の維持、保守、補修の費用はもちろん、最終的には撤去して無害にして自然に戻すことが当然のことである。
造ってしまえば、建設費用を払ってハイ終わりました、ではない!
土建業者は現在を生き延びることに必死で、将来のことなどは考えている余裕はない。

やはり、地域の国土と自然と資源を永続的に守るのは、地域の自治体であり、国の重要な責務である。
それに責任を負うべき政治家や官僚が、土建業者と同じ感覚で今さえよければ良いというのでは、あまりにも無責任である。
ダムの撤去費用は、仮に1基で100億円として、発電用だけでも全国で1550基であり、撤去費用は15兆円を超える規模になる。

この費用は、今の世代が電気料金として上乗せして積み立てておくべきものである。
国も県自治体も電力会社も、そのことを国民に知らせて、適正な料金を設定しなければならない。
それを無視して、ダムの撤去費用は次世代にツケとして回そうと言う根性は「悪」と言うべき。
そのことを知らせず、権益や利益を守ることばかりを行う、官僚と電力会社は、「巨悪」と言うべき存在である。

このような「巨悪」を見逃して、新たなダム建設を進めようと言うのは論外であろう。

日本の漁業資源を持続的に利用する政策の説明と国家の品格。  

2010-02-07 | 海洋産業問題
クジラの捕獲問題は限定された領域の議論にとどまることは、将来における展望を描いていない、目先のことしか考えない表れである。
世界の人口は将来にかけて増え続けて、2050年頃には今の65億人から90億人に増える予測である。
この先、経済発展する新興国も増えて、生活水準が上がっていけば、食料の消費量が増えることはもちろん、蛋白質を摂取する量も飛躍的に増える。

そのころには漁業の資源がどのような状況になっているのかも検討して、持続的に利用できることを目標とすべきである。
クジラは大量に海の動物を食べて成長するので、魚類やオキアミ、動物プランクトンなどの生存量と関係が深い。
絶滅の危機にさらされているクジラは、貴重な生態系を維持する目的で保護しなければならないが、ミンク鯨の様な、生息頭数が50万頭を超えるくらいに増えている種類は、捕獲利用することによって、増加を抑える必要がある。

それは人間が必要としている魚を大量に食べる習性で、食料確保との関連で、適切な量を維持することが正しいと言える。
欧米の一部のクジラ保護団体は、自然界の生き物は捕獲して食べてはいけない、という、偏った動物愛護の主張を繰り返している。
世界中で飢えた人がいると言うのに、食料源をなる魚を食べてしまう鯨ばかりを、人間よりも優先して保護すべきだという論理は、どう見てもおかしい。

しかし、今までの日本の水産庁は、とにかく既得権としての捕鯨、特に南氷洋の捕鯨操業を守ろうとして、鯨の資源や漁業資源の持続的な保全と利用を基本に据える姿勢を、きちんと説明していない。
だから日本は、お金儲けの商業捕鯨を続けたいのが本心だとして、批判され続けている。
世界全体のことを考え、次世代に対する食料資源としての、海の恵みを持続的に利用することを重要とする説明を、世界中に発信できなければならない。
人間が安心して生きていくための長期政策が、基本になることは言うまでもない筈である。
情緒的な動物愛護の問題もあるが、それは、本流の議論にはならない。

その考え方に沿っていけば、今回の日本の農水省の政策転換は、良い方向に向かっている。
調査捕鯨と言う、タテマエとホンネが破綻している論理にしがみつくことを止めて、日本の近海において、ミンク鯨などの、頭数が増えている種類のクジラを、商業捕鯨の形で健全な操業を続けられるように、国際的に承認を得ていく。
本来、排他的経済水域と言う、経済的な行為を国際的に認められている地域で操業をするのは自由であるが、それを、健全な資源の維持を目的とすると宣言するわけである。

これをキッカケにして、日本の将来の食糧安全保障も配慮して近海における漁業を立て直し、天然の資源と人工的に成長させる養殖漁業の拡大を、長期的、戦略的に取り組むことを、目指すべきである。

世界の食糧不足に備える姿勢も、日本の取り組みの「国家の品格」を表す、重要な要素である。

国の品格を問われる調査捕鯨の問題。政策の転換を!

2010-02-06 | 海洋産業問題
当面の利益やメリットを求めて活動をするのは人の習性であり、組織を作って活動する団体においても、既得権や目先の利害にとらわれて活動する。
これを推し進めると、強者の論理や数の力を過信して、思わぬしっぺ返しを受ける。
従来は通用していた論理や既得権でも、時代とともに転換しなければならない。
これが、潔く出来るかどうかが問われるが、それは、「品格」と言うレベルの話になる。

抽象的な話では解りにくいが、個人的な話では、横綱の品格が問題となった事件で、なんとなく、イメージは湧くであろう。
団体レベルの品格となると、小から大まであるので、まず、大きいところから国家の品格を採りあげたい。

具体的には、調査捕鯨の問題がある。
これは、読者もご存じのことが多いと思うが、問題の中身を要約すると次のようになる。
クジラの生息数は、19世紀の欧米の捕鯨競争の結果、大幅に減って絶滅の危惧に近い種類も増えている。
国際的には、これを保護しようということで、商業捕鯨(利益追求目的の捕獲)を禁止した。
これに対し、日本はクジラの中でも生息数が多い種類は捕獲して、クジラの資源を人間の生活に利用するのは昔から進めてきた自然資源の持続的な活用だから、全面禁止には賛成できない。
クジラにまつわる生態系を調べ、生息数や分布などを把握するために調査が継続的に必要である。
だから、毎年、一定数のクジラを捕獲して調査を継続することが、世界の為にもなる。

これが、日本を始めとする捕鯨推進国の論理である。
一方、19世紀に取り放題の乱獲をして、絶滅の恐れを引き起こした欧米の反捕鯨団体は、過去のことは先祖がしでかした不始末ではあるが、これからは、クジラは天然の保護すべき動物であり、商業捕鯨はもちろん、調査の名を借りた捕鯨も禁止すべきだと主張している。
毎年、国際会議の場の場において激しく対立する論理で、激論と駆け引きを交わしてきた。
この過程で、日本は未だに天然の動物を商業目的に捕獲をしている、けしからん国である。という悪宣伝に利用される。
はなはだしい団体は、船舶による違法行為の妨害行動で、調査船の安全航行を脅かしている。

違法行為の実力行使は論外としても、調査捕鯨を継続するのは日本の水産庁と昔の南氷洋の水産事業で利益を上げてきた企業の、既得権利益の保守行動とみられている。
それでは反対派の論理に対抗できないし、いつかは敗北の憂き目に逢うであろう。
将来に捕鯨活動の目的や持続性を十分に検討したうえでの、世界に堂々と訴えることのできる論理を創り上げで、その過程としての本当の調査捕鯨に転換しなければ、いつまでも野蛮な捕鯨国の誹り(そしり)を受けてしまう。

水産庁を管轄する農水省は、やっと嘘の論理を続ける非に気が付き、この6月に行われる国際捕鯨委員会で、従来の方針を転換することにした。
少しは品格ある国に近づいた。(以下、次回)

本当に必要とされる情報を伝えないマスコミは・・・? 

2010-02-05 | 暮らし・健康問題
日本のマスコミの代表であるテレビは、連日のごとく、さして重要でもない報道に明け暮れている。
所詮、テレビは娯楽であるから、ニュースのワイドショー的な番組では、人の不幸やお上の不祥事を伝えて、興味を引きそうな話題を追いかけるのが宿命であろう。
しかし新聞ともなれば、そんな娯楽的な話題を表面的に追うのではなく、本当に大事なことを深く掘り下げて世の中に啓蒙する役割がある筈であるから、より深化した面を報道すべきであろう。

昨日のブログに書いた様な、次の時代を創っていく新産業を積極的に取り上げ、その普及を阻害している実情と原因にメスをいれ、権力に胡坐をかいている、隠れた悪を暴くことに、もっと力を入れてこそ、ジャーナリストとしての新聞の役割と価値がある。
世の中の話題に浮かび上がる流行的な記事、報道を優先するばかりでは、日本の人たちの思考レベルを低下させるばかりである。
国家の品格、相撲横綱の品格を問題にするなら、今こそ、マスコミの品格を問うべきである。

国民全体の将来にかかわる問題や、安定した生活を支える根幹になる産業の育成と雇用の問題を、軽視して、目立っている話題を負うのは、いわゆるアカ新聞と呼ばれる娯楽紙だけでよい。
娯楽的な記事は、一流の新聞が載せるにしても、ホンの一部の片隅で良い話題である。
それを、一時は「メヂィア・ジャック」と言われるような現象を自ら引き起こして、どうでも良い様な事件の重箱の隅をつつくような詳細な取材と報道をしている。

一時は、有名芸能人の覚醒剤使用騒ぎで、テレビも新聞も、ほかの記事を押しのけてしまった。
最近は4億円のお金の出所を、事細かく詮索して、推測記事ばかりを流して紙面をうめている。
その次は、スポーツ界の話題や、暴力沙汰を大きな事件にしつらえて、暴れ者いじめに終始する。
確かに、事件を起こす人間も悪いが、それを誇大気味に取り上げて、よってたかって非難をして、
それで溜飲を下げることを、日常的な娯楽にしてしまったマスコミの罪は重い。

事実を追求し、諸悪を暴くのが、「ジャーナリスト」の本来の役目であるならば、国民の現在の不幸や不安の実情をつかみ、その原因となった「本当の理由」と「隠れた諸悪」を暴きだすことこそが、最優先にしていく課題であろう。

近頃は、新聞を読まない人が増えているという。
日常的に情報を得るならばテレビで十分だし、インターネットの利用が進めば新聞を定期的に購読する必要もない。
第四の権力と言われるマスコミは、もっと自分の社会的な役割と権力の強さを自覚して、社会をリードする気概を持たなければならない。
政治家にとっても、マスコミの言動に左右される度合いは、今でも大きいのである。

野党に転落した自民党、公明党は、テレビや新聞の空気を読みすぎて、既得権社会の改革を怠ってきた。
結局、問題が表面化してからでは、何も対策が打てなくて信用を失墜した。

社会の本流になる情勢を伝えられないマスコミは、四流の権力と言わざるをえない。

電力業界の経営陣は旧JALの親方日の丸体質のまま。

2010-02-04 | 経済問題
次世代を担う新たな産業として「太陽光発電」は、昨年からやっと社会的にも優遇される制度で、普及拡大期にはいった。
2001年まで世界一の設置量であったのが、自民党政府のもとで冷遇された結果、世界の6位に転落したが、やっと回復させる軌道に戻ってきた。

一方、「風力発電」の現状はどうなっているであろうか?2009年の実績でみると、
・世界全体で31%増、1億5790万kW
・アメリカが992万kW増で合計3516万kWとなり、累積では世界一、
・単年度では中国が2年連続で倍増の1300万kW増の世界一、累積でもドイツ(2578万kW)に迫る世界3位(2510万kW)、ほんの数年前まで日本より少なかったのがウソのようです。
単年度の市場規模(MW)
1. 中国  13,000   2.アメリカ 9,922  3.スペイン 2,459
4. ドイツ 1,917   5.インド 1,271   日本は178MWで、18位に転落。

日本が風力発電に適した風土ではないにしても、世界では一流に匹敵する技術力を持ちながらも、国内に設置する量が、世界に18位と言うのは、あまりにも情けない状況である。
このような事態に陥った原因は、2009年3月22日のブログにも書いた様に、経済産業省と電力業界の古い体質にある。
化石燃料による発電を前提にした、現在の送電線システムに安住し、太陽光発電や風力発電の様に、気候によって変化する発電を邪魔者扱いしてきた。

本日の新聞(朝日、朝刊9面)によれば、電力業界はやっと、アメリカで進められている、ITを駆使した次世代の送電線網「スマートグリッド」の検討に着手したと、報道された。
電機事業連合会の会長は「取り組みは危機感を持ってスピードをつける」と話している、というが、私から言わせれば、スタート時点が10年は遅れている。
風力発電が普及し始めた2000年の当初には、送電線の容量の制限で、せっかくの発電事業者の計画をわざわざ制限して、設置設備の増加を止めている状態であった。
次世代の発電源をいかにして、日本の各地に安定して電力を届けるかが、電力会社の仕事であるのに、断っているとはどういう感覚なのか。

これは、まさに親方日の丸の体質で、経済産業省とのもたれ合いで、現状の路線の延長上の仕事しかしない、官僚体質そのものの経営である。
電力業界は、国際競争にさらされないために、親方日の丸でも、JALの様な債務超過、倒産という場面に行かない。
しかし、世界全体での風力発電の設置の増加が30%以上に伸びている段階で、完全においてけぼりになる事態は、電力業界と経産省の責任者は、即刻、クビにされるくらいに責任を負わなければならない。
せっかくの新産業が成長する芽を押しつぶし、国民が一番必要としている雇用の機会を奪った。
雇われ経営者であった自民党政権は、昨年の政権交代でクビになったも同然である。
なぜか、電力業界幹部と官僚の責任者は、ノウノウと居座る。
なぜ刷新出来ないのか?

地域社会の最大の関心は、次の仕事が取れるのか? 

2010-02-03 | 経済問題
テレビや新聞で政界のお金の詮索に明け暮れ、国技の相撲の将来を採りあげているうちに、日本の産業はマスマス疲弊して、そのしわ寄せは地域社会にいく。
自動車産業でいえば、国内販売は減り続け、輸出向けも現地生産にどんどん移管するので、国内での生産台数は減少の一途であろう。
自動車産業は部品生産のすそ野が広く、地域社会での主要企業が自動車部品製造のところが多い。
このような地域での最大の課題は、次の仕事が地域に取ってこれるかどうかである。

一方、新産業の成長期の段階になっている「太陽光発電」関連の仕事は昨年の秋から活況を呈している。
自民党政権の最後のあがきとして、2009年の11月からの実施となった、太陽光発電による電力の固定優遇価格による買い取り制度が始まったからである。
この制度は、家庭用であれば48円/kWhで電力会社が買い取る義務があり、設置した人は10年程度で、元が取れる計算になる。
性能の悪い設備を使ったり、設置場所が悪いと、発電量が少なくなって元が取れるのに年数が余計にかかるので、どこのモノでも良いわけではない。

最近は、この「太陽光発電設備」の売り込みが活発になっている。
各地で、販売業者が参入し、設置する工事の講習を受けて設置業に転身する業者が増えている。
まだまだ、割高の商品であるが、一設備で200万円程度する仕事であるから、受注出来れば利益も確保できる数少ない仕事である。
性能不足の商品を売り込んだり、設置工事の手抜きをする悪徳業者も増えているというから、今後の健全な販売網やアフターサービス体制の仕組みも必要になる。
まさに、次世代に通用する「新産業の育成」段階になっている。

民主党は、自民党の中途半端な優遇政策を批判して、2011年の秋からは、太陽光発電による電力の優遇買い取りの条件をさらに設置者に有利にする制度を検討している。
それには太陽光発電だけでなく、風力発電や地熱発電、小規模水力発電など、今までの電力会社は「余計者のガラクタ発電」として買い取りを拒否してきた電力も、優遇価格で買い取りを義務付ける。
この制度が発足すれば、小さな産業でしかなかった業界に仕事が一気に増えて、それを普及させるための製造、販売、設置工事、アフターサービスなど、多くの雇用が生まれる。

そして、その中でも「バイオマス発電」の電力優遇買い取り制度が実現すれば、地域に捨てられている大量の木質廃棄物が、エネルギー源となって電力に転換されて、有価物になる。
これは、林業に貢献するだけでなく、製材関係や関連の機器製造業者や、販売事業者などの仕事が一気に増えていく。
仕事が減って寂れていく一方の地域社会にとって、活性化出来る有力な政策であり、ヨーロッパの森林国では、効果が実証されている仕組みである。
先行きの雇用不安や経済活動の低迷に悩む地域社会にとっては、干天の慈雨になる制度である。

交通事業の大企業のたるみを見直せ!JR東海のおごり。

2010-02-02 | 交通問題・自動車
このところ、交通関係の大企業が社会を騒がせている。
航空業界のJALを始めとして、自動車業界ではトヨタ自動車のリコール問題、そして、鉄道業界では、儲け頭の「JR東海」が大規模の運行停止で15万人以上が被害を受けた。
鉄道事業は日本のお家芸で、世界に誇れる技術とシステムとして、筆者も高く評価していただけに、残念な事態である。

このブログの1月26日には、
・日本の「技術システム」を世界に売り込む。高速鉄道技術。
として、将来性を期待した。
1月30日には、・新幹線の技術は世界に最先端。だが未完成の技術。
として、課題も指摘した。
本日のマスコミ報道によると、上記に書いた内容は、JR東海に対しては過大評価であったことが判明した。
ブログの読者にお詫びと訂正をしなければならない。

事故の原因は、パンタグラフの船体をアームに取り付けるボルトをつけ忘れたことにある!
なんと単純な整備ミスであった。
しかし、これが一人の整備員の単純な作業ミスであった。として、決着させるのは大きな問題が、見過ごされることになる。
ひとつのミス、事故の陰には、原因となる問題含みのミスや判断、見落としが潜んでいる。

直接の原因は、長さ3センチ、直径8㍉のボルト4本をつけ忘れたことにある。
しかし、ボルトを付けた後にチェックする主任が、確認のマークをしていなかった。
つまり、作業員のミスと点検責任者のミスが重なると、大事故が起こるシステムになっている。
2段階のミスが重なる確率は定かでないが、これは明らかに整備の点検作業を重視していない企業体質の表れとみれる。

本来は重要な部品の整備、点検時には、作業段階でチェックを行いながらのチェックシートに記録を残すのが通常である。
パンタグラフの脱落は、それほど重大な事故にはならない。という発想としか思えない。
事故後のJR東海の関係者が、「脱線などに発展するミスではない」と言っているのは、その表れである。

また、分解して点検や消耗品の交換後に再組み立てをする場合は、分解した部品、ボルトなどは、
ひとつの箱に入れて管理し、作業終了後には、部品の余りがないことを前提とする。
これは作業マニュアルを作り、管理用の箱を用意するだけで、作業効率化にもよいので、当たり前に行われていることである。
しかしJR東海はこの管理をせずに、ボルトが余っても気にもしない作業を日常的に行っていた。

世界に誇れる「新幹線技術システム」と言ううたい文句は、安全を支える重要な保守・整備を軽んじている体質の上の砂上の楼閣でしかないのか?

JR東海は、ミスを防ぐ方策を怠っていて、整備を軽んじる企業体質を直すべきである。
リニア新幹線に取り組む資格はない。

現代の諸悪の根源は自由化されすぎた金融業にある。

2010-02-01 | 経済問題
毎日の生活は勤労による報酬をもとに成り立っている。
これは大昔から人間にとっての基本的な活動で、現代はいくら進化していても、基本は同じだ。
しかし金融と言う制度においては、労働による報酬ではなく、投資と言う選択をして将来に対するリスク(危険性)を負うことで、見返りとして、利子、配当、値上がり益をもらう。
つまり、端的にいえば、「賭け」「賭博」行為と変わらない行動で、賭けがうまい人が、高収益をもらう制度である。

2008年から2009年の前半は、この賭けが世界的な流行によって広がりすぎた状況に加えて、アメリカの住宅バブルの崩壊で、ほぼ、全員が賭けに負けると言う状況がおきた。
金融工学と呼ばれる高度な数学を応用した「金融デリバティブ商品」は、要するに胴元が賭け率の変更を勝手にやっている、賭博場のサイコロ、ルーレットの様なものである。
このゲームのリスクを知らないで、または知っていても見ないふりをして、他人に進めて広がらせた金融関係者は、詐欺罪と器物破壊罪(多くの企業を倒産させ、工場、店舗を壊した)に問われるべきである。

アメリカを中心として世界の関心事は、この後始末を金融業界にさせようとしても、一向にしないので、強制的に法律で「賭博のルール」を変えさせることを要求している。
金融業の自己責任が取れる範囲に、行動、商売の制限をしようと言う考え方である。

金融業者は、この賭博場に制限をかけられることに抵抗して、政治家に対してあらゆるロビー活動を行っている。
金融業は産業の血液であり、コメであるお金を、必要なところに送る欠かせない制度である。
制限を加えることは、お金が隅々まで十分に行き渡らなくなり、産業活動を停滞、縮小を招くから、制限を加えるのは最小限にすべきである。という正論らしき考え方である。

現代はお金の移動は、グローバル化、電子化により、瞬時に儲かりそうな所に移動出来る仕組みになっている。
産業活動にとって、必要な分野、企業、地域にお金が回るには、儲かるという動機付け(インセンティブ)が、伴わないと、お金は供給されない。
産業にとって必要なのは、「賭けのルール」を儲け第一から、将来の富を生む可能性にたいして、
投資をしてくれる、お金の出し手を求めている。

自由にされたお金は,どん欲に利益率、配当の良い金融商品に向けて殺到する傾向にあり、長期の将来性や社会にとっての必要性は、視野の外にある。
金融業者には、この視点は殆どないので、活動の自由度を上げることは「リスクの高い金融対象」を次々に見つけ出して、賭け率の高い賭博場を開くことに奔走する。

もう金融業者の言いなりになることは止めよう。
賭博には制限を付けるのは当然であり、自由にやらせれば良いものが出来る分野ではない。
本当に必要な「新産業」や「価値を生む投資対象」には、お金を回す新制度を創るべきである。