庵KM

技術屋OBの環境問題独り言

経済問題。交通問題。健康問題。そして、日本の国創り問題。快適社会問題。

化石燃料依存族は衰退の運命にあると自覚すべきだ。 

2009-09-26 | 経済問題
地球気候変動は世界的な規模での最大の問題である。
どれくらいに被害が出てくるのか、誰にも確実なことは言えない。
とにかく、それに対して個人は、備えを怠らないようにするしかない。
企業経営者も小さく纏まろうとすれば、省エネルギーと経費の節減、人件費の削減に走り、企業防衛に重点を置かざるを得ない。
これは経済の縮小再生産の循環に陥り、衰退していく運命にある。

化石燃料の使用量の削減は絶対に必要な方策である。
省エネルギー関連に重点の置くのは理解できるが、それは経済の縮小に陥ることは明白である。
その節約と同程度以上に、付加価値の生産増加に努めることが絶対に必要である。
この新しい付加価値を増加させる効果のある「再生可能エネルギー分野」へ、もっと積極的に技術開発と事業化の投資をすべきである。
それは当初はお金の持ち出しだが、将来においては無限のエネルギー源(太陽の恵み)を利用し、いくらでも拡大していける事業の領域である。

日本の産業界とそれを管轄する経済産業省の幹部は、古い経済学にとらわれた考え方してきた。
同時に省エネルギーの分野ばかりを優先して、再生可能エネルギーの促進を軽視してきた。
それは、自分のやるべき役割でない、という理屈である。
誰かが頑張ってやってくれ。成果が上がったら、自分のところも採りいれるから、それまでは省エネルギーだけに力を入れればよい。という本音である。
企業側の論理としては、わからないでもない。
しかし、産業界全体を見て社会的な動向をリードする官庁、経済産業省が再生可能エネルギーに対して消極的であったのは、まったく理解できない。

本来は官庁の政策の基本を決めるのは政治家の役割であるが、言うまでもなく、自民党政権の既得権に依存した勢力の代弁をしている人種ばかりであったから何も進まない。
担当官庁が言い出さないから、その通りでよいとノホホンとして、世界のエネルギーの動向や気候変動問題のことなど、真剣には考えないで来た。
その人種は政権交代という民主主義のシステムが機能して、衰退の運命になるので、もはや問題ではない。
これからは産業界の中の化石燃料依存体質を、徹底的に転換してもらわなければ、日本の経済は衰退するばかりになる。

日本の新政権の打ち出した、「温室効果ガスを2020年までに25%削減する」という目標は世界からも称賛される素晴らしい意志の表れである。
この目標に対して産業界の役割を自覚して、最優先で取り組んでいくことが、日本で事業をしている企業の責任である。
しかし、ここ20年のように、省エネルギーばかりに専念していては、経済活動の衰退を招くことになる。
これからは「再生可能エネルギーの生産と消費」を可能な限り最大化することに取り組んでいくべきである。

連立与党の新政権には、従来からも「再生可能エネルギーの普及促進」に熱意を持って取り組んで来た議員が多くいる。
既得権を持った旧時代の産業界とは、しがらみの少ない議員がほとんどで、大きな転換政策を打ち出せる可能性がある。

しかしマスコミ界には、いまだに化石燃料依存族の代弁をするような似非専門家や評論家が居座っているところもおおい。
これらの人種を一掃していくことができないと、いたずらに国民に不安を抱かせる情報を流して、自分の存在意義を認めさせようとする悪質な言葉で、普及政策と事業の促進が撹乱される。
これらの連中には、経済が停滞しようが、雇用が悪化しようが、格差が拡大していこうが、自分には何も被害が及ばない。
このようなこと明確にして国民に伝えて行くのが、本来のマスコミの役割であるのに・・!

【付記】旅行に出かけるので、1週間程度、ブログ掲載を休止しますので、ご了承ください。

経済界だけでなくマスコミにも旧時代の化石族がいる。

2009-09-25 | 経済問題
温室効果ガスの削減、つまり、化石燃料使用量を減らす目標は、経済活動を停滞させることにつながるから、裏ずけもない高い削減目標の設定を国際公約にするのは無謀だという「正論」らしきことを言う人間はまだ数多くいる。
普通の立場の人なら、それは自由だが、マスコミという影響力のある立場にいる人間が、旧時代感覚のままで発言するのは、大きな害がある。
世界から賞賛されている「鳩山リーダーシップ」についても、日本が他の国よりも不利な立場に追い込まれる危険があると、ケチを付けることに力を入れる超後ろ向きの発想である。

再生可能エネルギー社会に転換するにおいて、現在の技術面での実力は、化石燃料の価格にはまだまだ及ばない、というのは事実である。
この現状を見て、どう取り組むかはその人の志の高さによる。
志のないひとは、化石燃料の価格と同じになったら転換してもよい。
それまではやらない。という「賢い選択」である。
これは現在まで流行の「市場取引原理主義」にもとずいた、合理的な発想、選択である。
この考えが1980年代末から世界の中で幅を利かせて、強烈な化石燃料依存社会を増加させてきた。

化石燃料から再生可能エネルギーに転換するには、価格を下げる必要がある。
それまでは、政府が関与して、国民全体で負担してでも、普及させるための費用を分担して技術開発を加速することを選ぶ。
このような選択もできるが、それには、国民が理解して支援しなければならない。

自分の利益を最大化するのが本質と考える「市場取引原理主義」信奉者には理解できない世界である。
これは、昨年の経済危機をきっかけに完全に破たんしている理論で、早々に退場願いたいところである。
世界が必要として、その普及政策は雇用を増加させるとなれば、なぜ反対する国民がいるのであろうか?
誤った経済理論に乗っかって「市場取引原理主義」を押し通そうとする論者のメンツにかけたエゴイズムとしか思えない。

雇用についての続きを書いてみよう。
雇用創出の面で理屈の上では有利になることは誰でもわかる。
しかし国民全体で、再生可能エネルギーの普及期になるまでの費用を負担することは合意されないのではないか?
という疑問が出る。
太陽光発電の普及促進において、この上乗せ価格の了承を得るには、国民の意識が環境面で高まる時間が必要であった。
今の時点では環境に良いものならば、多少高くてもそちらを選ぶ、という国民は大幅に増えている。
ましてや、それが日本の国の名誉にも貢献し、新産業の育成につながると理解すれば、反対する者は2割以下であろう。

そこで旧時代の経済専門家は言いだす。
商品の価格が上がれば、需要はその分、抑えられて、生産量や消費量が調整される。
つまり、電気代が上がれば、その分の電気使用量が減る。
経済にとってはマイナスの効果の方が大きい。
「経済学の基本を知らない者は、これだから困る」と!

ここ20年位は企業を先頭に、省エネルギー活動には力を入れてきた。
その成果もあってエネルギーの使用量は抑えられてきた。
そして、収入の減った勤労者、消費者は、節約に努めてより安い商品を求めた。
企業はそのような消費者の傾向を見て、さらに安くすることを考えて、海外の賃金の安い国に製造拠点を移して価格を下げる努力に埋没してきた。
国民総生産「GDP」の伸びは、ここ20年間は全く停滞している。
そして、企業は経費削減のためにさらに人件費(消費者の収入)を下げてきた。

古い経済理論のままではどこにも活路は見えない。
では、どうするのだ・・。以下次回。

経済界は国連での日本の評価を見てやっと気が付いたか? 

2009-09-24 | 経済問題
マスコミでは連日の如く日本の気候変動対策の目標について報道している。
テレビのワイドショーでも、高い削減目標が生活にどのように関係してくるかが、話題となって持ちきりである。
鳩山首相が国連総会で宣言したことが、世界の各国から賞賛の言葉で評価されて、久々の「ジャパンアズナンバーワン」の声がでている。
もちろん、環境関連技術と省エネに関してはトップレベルであるが、他の分野で低迷していたので、全体として日本はおいて行かれると、国民全体が不安をもっていた。

経済界、特に旧時代の産業を代表する日本経団連と商工会議所の財界人は、温室効果ガスの削減に、強烈に抵抗してきた。
それは自分たちの産業にとって、きつい規制をかけられることを警戒し、とにかく、「変えることはヤダ!」「KY」で、この20年間を過ごしてきた。
確かに省エネルギーなどの分野では、直接的な経費の削減になって、儲けの面で有利になることをやってきている。
しかし肝心の脱化石燃料依存の技術開発と促進する社会制度(炭素税など)には、一貫してブレーキをかけてきた。

その論理は、すでに言いつくされている古い経済感覚の理論の都合のよい部分だけを取り出している。
経済成長を阻害するとか、雇用を減らす事態になると、国民のことを大事に思っていることを前面に出している。
欧州の先進国の政策とその後の脱化石依存エネルギー事業の進展などを見ると、経団連の言っていることは間違いであるとわかる。
要は、失敗のリスクのある新事業、新産業には手を出さない、力を入れない方が当面の業績は維持できて、自分たちの地位と実績評価は安泰である。

しかし国民は変化を期待して政権交代を選び、世界に対して日本のリーダーシップをアピールして、困難な課題に対しても高い志で目標を掲げて挑戦することを選んだ。
経済界の賢人たちよりも、多くの凡人〈一般市民〉の方が、世界の中での日本人の心意気を表している。

では、心意気だけでは生活は豊かになるわけではない。
まず雇用創出の面から要点を書いてみたいと思う。
課題はかなり難しいのだが、問題の本質を簡潔にすることを了承願いたい。

化石燃料〈石油・石炭・天然ガス〉を燃やして電力を作る事業に焦点を当ててみよう。
これによる電力は、1KWhあたりでいくらの価格で買えるかが成果である。
今の実力でいえば家庭用電力で25円/KWhである。
これを再生可能エネルギーの代表である太陽光発電に置き換えることを実施する。
その場合には、太陽光発電の設置者だけに負担をさせるのではなく、電力を使っている人の全体で協力して負担する制度にする。
ここが肝心のところである。

太陽光発電の実力は50/KWh程度である。
これを全体と同じ価格にするには25円/KWh分の価格を全体で負担する。
普及率を4%程度とすれば、25×0.04=1円/KWhを既存の価格に上乗せする必要がある。
つまり電力価格が26円/KWhとなって国民の負担が増える。という説明になる。

一方、雇用創出の面でどうなるかを考えてみる。
化石燃料を使って電力を作る場合の燃料費の占める割合を20%とすると、25円/KWhのうち5円分が燃料費となる。
国内での「GDP」国民総生産は20円分である。
太陽光発電の方は燃料費はゼロであるから、「GDP」は50円分となる。
(単純化のため機材の材料はすべて国内産とした。)
「GDP」の増加は1KWhあたりで30円増える。

この国民総生産の増加分をすべて雇用面に振り向ければ、間違いなく雇用人数の増加か、働く人の賃金上昇につながる。
環境先進国では、雇用増加が実績として大いに役立っている。以下次回に。

日本の新たな挑戦目標が決まった。あとはどう実現するかだ!

2009-09-23 | 経済問題
国連総会において日本の鳩山首相は、国民を代表して気候変動対策において演説し、自ら高い目標を設定し、主要国も協力した枠組みを作ることを促した。
1990年から20年近くに渡って低迷してきた日本の活力を取り戻す機会となる、志の高い目標設定である。
この目標の実現において、あれこれと出来ない理由を並べたてる陣営はまだ数多く残っているが、前に進むことが日本を元気にして充実した暮らしと、精神的な健康を取り戻す良いチャンスである。

日本は世界の中で、温室効果ガスを4%しか排出していない。
日本だけが高い目標を立てても、他国がやらなければ意味がない。などと、もっともらしい論理を並べたてる専門家や産業界は、何も解っていない。
日本人は高い志を持って日々過ごすときこそ、最大の能力を発揮して、世界のどの国の人よりも真面目に取り組み、大きな成果を生み出す力をもっている。

経済産業省の専門家と称する人たちの分析では、国民負担が年間で37万円も増加して、生活を圧迫するという。
産業界では、経費の増大に耐えられないという理屈で、生産を海外に移転することになり、雇用は減少する。など、経済論理の世界でしか話が出来ない。
頭の中で既存の理屈だけに頼る人は、心意気や熱意という数値化が不可能な領域のことは理解の外にある。

日本は2度にわたる石油ショックの時代を、世界のどの国よりも最善の努力を講じて乗り越えてきた。
この過程において身につけた技術と心構えを最大の資源として、日本は世界での経済大国に上り、国民は総中流化といわれる豊かな生活を実現してきた。
問題はその後の目標を見失ったことによって、浪費的な消費大国を目指せなどの似非経済学者の扇動で、バブル経済に浸り切って進路を見失ってしまった。
あとは、政官財の既得権構造による腐敗し堕落した日常に陥ってしまった。

今回の挑戦目標は明快である。
温室効果ガス(つまり、化石燃料の燃焼)を減らすという、具体性があって、数値としてとらえることができる目標であるから、誰にもわかりやすい。
その削減の方策は、再生可能エネルギーの利用拡大と、省エネルギー技術の飛躍的拡大という事業の展開によって、実現できることは明確である。
どうすれば出来るかを探す段階は通り越してあとは実行である。

産業界の旧経営陣や既得権に浸った陣営は、出来ないことを延々と言い続けて来た。
それならば出来ることに挑戦する陣営に代わってもらえば良いのである。

政界においては出来ない陣営の自民党は世論の判定を受けて退陣した。
それを支えた官僚群は交代させられない様に従う姿勢に転じている。
この先には産業界を革新する施策が必要である。
長い時間がかかるであろうが、2020年に向けて、一歩ずつでも前に進むことが、新産業の芽を生み出し育てることになる。

この再生可能エネルギーに転換する過程では、多くの雇用機会が生まれてくる。
なぜ化石燃料依存から再生可能エネルギー転換すれば、雇用が生まれるのか?
この説明はかなり入り組んでくるので、次回以降に触れて行きたい。

今の化石燃料に依存する産業にしがみついていては、経済成長も雇用の創出も絶望的になるのは、この20年を見ていてはっきりしている。
高い目標設定は国民生活を圧迫するなどと、専門家風を装ってしたり顔で言う人間は、自分の権益や実績にしがみついて、それから離れたくないだけである。

国民はもう騙されない。

志の高い目標を設定して日々新たな心で暮らすこと。  

2009-09-22 | 経済問題
いよいよ新政権の外交デビューの1週間となった。
世界の2番目の経済大国でありながら、ここ20年近くにわたる日本の停滞は、すでに老年期に入った様であった。
なぜ急速に活力が衰えたのか世界からも不思議がられ、金融政策で失敗したとか、情報化の波から遅れたことが原因だとか、いろいろ言われている。
ジャパンパッシングからジャパンナッシングになっていた。

この政権交代で世界は日本の進路を注視するようになった。
中でも、気候変動対策における日本の大きな政策転換の声明は、世界の環境重視の市民団体から熱烈な歓迎の声を受け、各国政府も驚きをもって、大きく注目することになった。
鳩山首相は国連の会議で、日本の気候変動対策の目標において世界をリードする高い数値に設定するとして、リーダーシップをとる志を示していくことになる。

日本の外交政策で、世界から注視され歓迎される声を受けたことは、なかったことである。
アメリカの大きな政策転換に匹敵するくらいの影響を及ぼす可能性もある。
一国主義に近ずいていたアメリカを世界のルールの中に取り込み、中心的な役割を担ってもらう上で、気候変動対策は世界的な協調の中で進めるべきものである。
それの牽引役となりうる日本が、チャレンジに相当する高い目標を自ら設定して、中国やインド、ブラジルなどを世界の中の主要国としての役割を要請していく機会になる。

このような動きに対して、日本の経済界、なかでも経団連に所属するような旧産業の代表たちは、相変わらず、「温室効果ガスの削減」は、経済の足を引っ張ると抵抗する姿勢にとどまっている。
その論理はすでに破たんしているのに、まだ旧時代の成功体験から抜け出せない。
環境対策を厳しくすることは、経済成長に悪影響を及ぼす、という凝り固まった頭になっている。

1990年頃は、「環境か経済成長か」という設定をして、バブル崩壊後の経済停滞期に、気候変動対策を無視し続けてきた。
1997年の京都議定書の締結以後は、経済に悪影響のない範囲での施策にとどめるべきとして、「経済成長重視、その範囲での環境」という考え方にしていた。
2005年頃からの気候変動における世界各地の被害が明らかになるにつれて、「環境も経済成長も重視」となってきたが、15年近くにわたって環境政策をおろそかにしてきたツケで、中途半端な政策しか打ち出せなかった。
阿部政権、福田政権、麻生政権と3代続けて、1年の短命政権では何もできない。

気候変動対策において大きなブレーキ役となった経済界、経団連は、今回の政権交代の意味をまだつかんでいない様である。
日本国民をはじめ、世界の頭脳の代表はすでに『環境事業こそ経済成長の主役』という考え方に転換し、この流れが主流になっている。
自民党の長老支配政権の末路が、国民から愛想を尽かされて退場させられたと同様に、経団連などの旧時代の長老支配経済感覚を、早く払しょくしていかないと、日本の産業界はさらに弱体化しかねない。

このブログで何度も書いてきた様に、日本の産業界は気候変動対策の高い目標に向かって、チャレンジする企業に生まれ変わらなければならない。
先の目標設定において、日本の政府が5つの選択案を提示した。
経団連はその中で、最も緩い(達成が楽な)「1990年比で2020年に4%増加」という案を採用するように自民党政権に働きかけた。
さすがにこれでは低すぎるとして、麻生政権は「1990年比で8%減」を選択した。
これは、世界からは大きな失望と嘲笑を買っただけに終わってしまった。

志が衰えた旧時代の長老は、早く引退した方が良い。
年齢のことではなく、「志年齢」で判断すべき!

元気の出る根源は責任を持たされることから始まる。

2009-09-21 | 暮らし・健康問題
地域主権という言葉がマスコミにも頻繁に登場してくるようになった。
民主党の基本方針は、国でなければ出来ないことだけを国の責任にして、それ以外は原則として地域自治体、市町村の地域自治体に移管していくことにある。
国と市では繋がりが難しいので、州単位の地域を想定して、国の権限を大幅に移管していく。という大きなビジョンが想定されている。
しかし、マスコミを含めて、各自治体の当事者には、ほとんど考え方が理解されていない。

単純にいえば、江戸時代には国防や基本的な制度は、中央の幕府が取り仕切った。
それ以外の地域の自治と経済運営は各藩の経営陣に任されていた。
藩主が優れていればリーダーシップを発揮し、凡庸な藩主であれば、家老や重臣たちが藩の経営を行っていた。
当時の交通や通信事情では、藩の広さを管理するだけで精いっぱいであったと思われる。

現代の交通体系規模、通信技術のレベルを考慮すると、少なくとも四国全体、多くて九州全体のひとつの州と想定して、その地域での州政府を樹立して経営に当たるのが適切である。
前にも(9月11日)書いたように、九州だけで「EU」の中規模国家に相当する「GDP」の経済力であるから、国を経営するくらいの人材が必要である。
九州の場合は7県を統合して一つの州政府を作り、日本国の中でのひとつの独立政府のような自治権を持ち、財源にも責任を負う様になる。

何故、州単位の政府にして行くのがよいのか?
それは、人間は目に見える形の目標を設定して、責任を持たされることで、やる気、元気が湧いてくる本能的な特性がある。
今、中央の官庁で大組織の中に埋没させられて、能力を発揮できない中堅の官僚は、先の見えない中での閉塞感に悩んでいる。
その中から思い切って飛び出して、民主党の議員となって打って出た同年代の若手が、重要な職について責任を持たされるのを見て、忸怩たる思いであろう。

日本に10から15位の「州政府を設立する」と宣言すれば、一気に10倍近い「責任のある職責」が創出される。
これは、国を分割することと同時に、県を集約して機能的な行政組織を作る革命であろう。

明治維新のときには、地域主権の幕藩制度から中央集権の廃藩置県であった。
今度は、逆の「廃県置州」と国力の再構築の方策として行くことになる。
それでは国の行政サイドは大混乱になると反対する勢力が必ず出現する。
しかし、それは既得権益を失う心配をしているから混乱を嫌うのである。

九州と「GDPで同規模」のデンマークが、「新産業の創出と教育水準の世界一」を達成したことをみれば、現代における最適規模の行政単位が判るであろう。
国が大きいほど有利であるという考え方は、武力による支配の時代と、経済力によるお金の力を背景にして他国を支配する時代の遺物である。
21世紀は、新産業を生み出す創造力の強さと、それを支える優秀で教育水準の高い市民(州民・国民)がどれだけ育成できるかにかかっている。

さらに、それを適正な規模で経営する「賢い州政府」が必要である。
賢い政府とは、市民の創造力、活力を最大限に生かす環境、福祉水準を、できるだけ少ない資源で実現できる行政組織と人材による構成される。
この賢い政府の中身は、時代とともに進化していく必要がある。

1国の中に10以上の行政体があって、常に切磋琢磨してライバルとして成果を競う状況になれば、緊張感を伴いながらの挑戦がとなる。
それこそ元気の出る活力のもとであり、ひとの能力も大きく伸ばせる。

郵政民営化の見直しは何を狙いとするのか。効率から友愛へ? 

2009-09-20 | 経済問題
郵政民営化に対して前回の総選挙で反対した「民社国」の連立政権では、見直しという方向では一致している。
しかし、それぞれの政党の狙いは一致しているとは言えない。
民主党でも、どこまで議論がされているのか疑問点が多い。
まずは、マニフェストに書かれている内容から点検してみよう。

「地域主権」の大項目として、「郵政事業の抜本的見直しで地域を元気にします。」と謳っている。
さらに、「政策目的」として、「○・・・地域社会で金融サービスが受けられなくなる可能性がある。・・・国民生活を確保し地域社会を活性化することを目的に・・・」としている。
具体策は書かれているが、その目的に沿っているかどうかは、どうも曖昧である。
マスコミでは、郵便事業の末端の切り捨てを問題とすることが多いが、それは大きな課題ではない。

今回、郵政担当大臣になった亀井氏は、金融担当大臣を兼務している。
郵政民営化の課題は、莫大な郵貯の資金をどのように有効に生かしていくが最大の検討事項であると認識していると見れる。
総務大臣となった原口氏は、さっそく今の4分社化の再編構想を述べた、と報道されたが、その構想には「地域を元気にする」という発想は皆無に見える。
むしろ、亀井大臣が、郵貯銀行の将来には、地域の金融を弱者救済や、中小企業、地域密着企業を優遇していきたい意向が見える。

前にもこのブログに書いたが、小泉内閣の郵政民営化は「巨大な官営銀行の融資先を官僚利権に使われた現状をぶち壊す」ことであった。
これは、大きな国民の支持を得て、2/3もの多数を獲得した。
その後がまったく方向を誤った判断をした。
巨大銀行を将来は上場して、民営銀行群の中で勝ち残りを目指す方向に行こうとしていた。
国民はそれに疑問を持って、完全民営化は一部の強力な企業グループの利益となる私益の為に、国民の財産を売り払うことになる、と危惧をもっている。

このような現状を政権党はしっかりとアピールしなければならない。
総務省と郵政担当相のあいだの綱引きになっては、国民の財産がたまらない。
地域を元気にするには、金融をどのように改革するかが先にあるべきである。

民間銀行は中小企業や零細な借り手に対して高い金利を要求する。
これは民間企業の経営上は当然の措置である。
何しろ必要経費を賄うためのコストを考えると、金利は高くせざるを得ない。
借り手の返済力は弱体であり、景気の変動を受けやすく、返済に困る場合が多くて銀行側からはリスクの多い顧客である。
必然的に貸し渋りの傾向にあり弱者は切り捨てられる。

金融担当大臣は、この返済猶予の特例措置と貸し渋り対策を、法的な改革で対応しようとして、銀行側に規制をかけようという意向を打ち出した。
早速、銀行側は利益の圧迫要因になるとして反発し、株式市場は銀行株の大幅下落に転じた。
つまり、民間銀行業は利益追求が目的の事業なのである。

そこで、利益追求の目的を外した公的銀行が必要となる。
ここは事業と生活に必須のお金を必要としているところに、弱者でも零細事業者でも融資して、当面をしのぎながら将来への足がかりを作る助けをする金融事業が必要である。
そんなものが成立するわけがない、というのが金融事業関係者の反応であろう。
でも世界には、それに成功している銀行もある。
インドで地域に密着し、零細の事業者にお金を貸し出す「グラミン銀行」などの事例を参考にすべきであろう。

「地域主権」と「巨大公的銀行」の組み合わせで、地域の産業と生活を活性化する金融制度ができるのか?
挑戦しがいのある大きなテーマである。
権限の綱引きよりもアイデアの競争をすべきだ!

国土の治山治水は地域の主権による調整に任せるべき。

2009-09-19 | 暮らし・健康問題
政権交代により新政策の具体化と権限の範囲を決めていく議論は始まっている。
総論賛成でも各論はけんケン諤々のやり取りになる。
日本人は総じて議論が下手であり、それを周りはうまくフォローできない習性がある。
自分の熱意を示すのは良いが、建設的な議論が出来て、より良い判断ができることが一番大事なことである。

自動車に関する課題では、矛盾している公約が羅列されていると指摘した。
さらに、大きな課題となっている「地域主権」の考え方は、今のところ、マニフェストの中の文字だけに終わっている。

国土交通大臣の所管であるダム建設について、前原大臣は早速凍結して、地元との協議を経て建設中止にすると明言した。
熊本県の「川辺川ダム」も建設中止とするが、これは地元の県知事が昨年に白紙撤回を表明しているので、あとは事業費の損失処理と地元への補償と再生支援になる。
43年前に計画され、当初予定の350億円の総事業費は2200億円に膨らみ、既に投じている。
お粗末な失敗事例として、高い授業料を国と県が国民の税金で負担するしかない。

その一方で群馬県の「八ツ場(やんば)ダム」の方は複雑である。
地元の県知事は工事の続行を主張している。
関係する1都5県の自治体は、すでに4600億円の半分以上を支出している。
工事を国が中止するならば、国に対して賠償金の請求をして行く、と宣言している。
計画から57年も経過しているので、ダムの必要性は乏しくなっている。
進むも退くも大きな負担が国民の税金にかかってくる。
歴代の建設大臣、国土交通大臣に責任を負ってもらいたいところである。

しかし、なんとか調整して結論を出す必要がある。
民主党は「税金のムダ使いを根絶する」と公約している。
また「『地域主権』を確立して、自主財源を大幅に増やす」と地域のことは地域が決める、という大きな目標を掲げている。
ここは良く考えて「八ツ場(やんば)ダム」の建設続行か中止かは、1都5県の地域を代表する自治体の協議の場に任せることを提示してはどうか。
もちろん、その裏ずけとなる財源も移譲することにする。

大型ダムは治山、治水の重要な役割と、下流地域の利水、さらに地域の発電の役割を担う。
明治時代では、これらを国として集中的に管理し計画を監督する立場にあった。
いまでは、このような課題は地域に、将来には改革による「州政府」に任せるべきである。

建設中止による補償金を地域に移管して、続行するか中止するかの判断をゆだねる。
それは、責任回避ではなく、無駄に使われてきた税金を将来の為に、もっともよい方策に使っていくための移行費用とみれば、無駄には終わらない。
地域の自治体は、向こう100年の地域主権政府を構想して、お金の有益な使い方を任されることになる。
今までは、国の方針に沿って、地域の利益を代弁して交付金や公共事業費を出してもらっている「おねだり体質」に染まってきた。
これからは、自分の懐の税金、財源を大事に使う体質に転換せざるを得ない。

全国にはまだ143か所のダム関連の計画があり、見直す必要があると前原国土交通大臣が言及した。
計画が本当に必要であるかどうかを見直すことは良いとして、その是非をどこが判断するのか?
従来通り、国土交通省の管轄で評価し決定していくのでは、中央集権制度の大枠から一歩も出ていかないことになる。
「ダムに依存した河川行政を全面的に見直す」という方向は良いとしても、ひとつひとつの計画に国の権限を振るうのは、地域主権とは大きく方向がずれる。

民主党の国創りのビジョンと地域社会の活性化に対する姿勢を示す慎重な議論が必要である。

交通体系と国土の治山治水は、地域主権に任せるのが良い。 

2009-09-18 | 交通問題・自動車
化石燃料の使用削減は急務である。
それは気候変動対策の「CO2排出削減」に直結するだけでなく、世界の石油需給ひっ迫による価格の高騰を防ぐ。
日本はほぼ100%の石油輸入依存であり、石油代金は国民の稼いだお金を、ただ海外に流出することになってしまう。
国土交通の主要なエネルギー源は石油に依存しているので、「脱石油燃料」が日本の国策をして最重要課題となる。

しかし、その一方で高速道路の無料化や、暫定税率の廃止を2010年度から実施するなど、まったく逆行する政策を公約に掲げて、「国民の皆さんとの契約」を履行することが責務だ!
と発言しているのは、「わからずや」の印象を受けるし、通用しない説明である。
そもそも、公約に載せた時点で矛盾しているのは明らかであるから、それを「契約だから履行」といっても、他の面で契約不履行になる。
ここは早々に謝って、公約変更を検討すべきであろう。
メンツにこだわると傷を深くする。

新国土交通大臣の前原氏の発言を見ても、よく検討していないで公約を作ってしまった様である。
2020年には温室効果ガスの削減目標を25%にすると宣言していた割には、内容の検討は生煮えの感をまぬかれない。
電気自動車の技術開発に期待するのは大いに良いとしても、それを促進する政策は一切ない。
これから考えるというところであろう。
その割には、2020年には電気自動車の普及を期待しているとの発言では、どの程度の普及台数を見込んでいるのであろうか?
価格面や、運航の航続距離の制約など、技術上の課題は数多く残っている。
その段階では技術の「揺籃期」と呼ばれて、一部の特殊な用途や事業で使われるように優遇策を講じても、せいぜい1~3%程度の普及であろう。

筆者は、電気自動車の将来性を否定していることは一切ない。
むしろ、大いに奨励策を講じて最大限の技術進化を促すべきと期待している。
しかし、そのような優遇によっても、技術進化には膨大な技術上のチャレンジと時間とが必要である。
それに、一般の需要者が購入して使用する普及段階になるには、さらに事業面での積極的な投資と育成が必要である。
今までの自動車の技術革新や、電気製品分野の進化の状況を見ても、10年間では「揺籃期」から「普及段階期」になるには時間不足である。

技術と事業の育成、進化は、意気込みだけではどうにもならない。
その技術の成果をアテにするのは、甘い見通しによる「偽装契約」となってしまうであろう。
では、どうする必要があるのか?

それは、今後の10年で徹底的に「脱化石燃料」の技術を優遇する。
その一方で、最大限に制度上の改革によって、自動車の交通量を減らし、燃費性能を各段に向上した自動車を使うことを奨励することである。
そして、道路の改良は渋滞個所を徹底的に減らす目標を立てて優先的におこなう。
2020年に25%以上の削減が可能になる交通体系戦略を立てるべきである。

そのような制度上の優遇策を打ち出すには、大きな財源が必要である。
それにも関わらず、自動車利用者の負担を軽くすることを優先する「暫定税率の廃止」を2010年度から実施するという。
さらに、段階的な実施と条件を付けながらも、高速道路を無料化するという。
どちらもすでに政府に入る貴重な税金を、自動車利用者に戻してしまう。
人気取り的な「バラマキ政策」と言わざるを得ない。
野党となった「自民党」「公明党」から徹底的にその矛盾を追及されるだろう。

悪いことは言わない。
「民社国」政権は、連立与党の責任を認識するなら、このような矛盾政策を早急に調整して、国民にその不備を詫びて、「脱自動車交通依存」の政策に転換すべきであろう。

現実を変えることを目指すには、熱い情熱と冷静な頭脳。 

2009-09-17 | 交通問題・自動車
新政権の各分野の新大臣が登場し、いよいよ、政権公約の各論の展開に入った。
マニフェストには、変えて行きたいことを総論的に並べておけば、当面の選挙の戦いを勝ち抜くことはできる。
しかし、政権を担う立場に立てば、各論において具体的に整合させる政策を提示できなければ、架空の絵空ごとになってしまう。
それも、意気込みで補うことができる分野は、熱意でカバーするとしても、現実の世界では、制度的な問題や技術的な課題、事業としての実効性など、高いハードルが控えている。

これからいろいろな課題で、議論が活発になるが、いつも議論が無駄に終わるのは、技術面の実現性について、政治家や官僚、評論家の認識は非常に表面的に過ぎることである。
かといって、技術進歩が一切ない将来の姿を前提に、政策を選択するのも後ろ向きすぎる。
今までの保守政権は、技術面や事業の開拓を、民間企業の努力にオンブしてきた。
自分たちの努力で技術進化し経済成長を遂げた様に錯覚しているが、実際の努力は何もしていない。
ただ先進国の後を追って行くだけの政策選択に終始していて、それもかなり遅れ気味の改革でとにかくツジツマを合わせてきた。

これからは、「国力を活発に成長するには『新産業』を育成する」ことが不可欠である。
後追い的な政策で育成しようとしても、グローバル化した世界経済では、出遅れは敗退を意味する。
どのような技術を育成し、どの分野の『新産業』を国家的な戦略によって、強化していくか。
この課題に重点を置いて取り組みを継続するかが、日本の将来の活力を左右することになる。
新政権の「国家戦略局」が創設され、このような長期で重要な課題を戦略的に取り組むとしているが、実効性のある制度と人材を育成することができるか、最大のハードルである。

地域経済の活性化は急務であり重要な課題であるが、どうも新政権の具体策は「生煮えの政策」であり、チグハグ感が大きい。
「高速道路の無料化」と「地域主権」、「気候変動対策のCO2排出削減」と「暫定税率の即時廃止」は矛盾する政策であると批判が高い。
それに対して、交通体系を総合的に見ていく「国土交通大臣」の役割は重大である。
新大臣の就任の弁を聞いても、あまり、問題の深さを理解しているようには思えない。
これから、相当、猛勉強をしてもらわないと、またまた、官僚から侮られて、官僚依存体質に戻らざるを得なくなる。

国をリードする次世代の若手政治家には、大いに期待をしたいところだが、まだ、現実を知らず技術や事業面で知識不足であっては、実効性のある政策は遂行できない。
旧政権の2世的政治家は不勉強極まりなく、官僚に担がれてやっと政治家の体面を保っていたのだ。
新政権の若手政治家は、社会の基盤となる技術と将来性をしっかりと認識しなければいけない。
それも、甘い見通しによる希望的な数値に惑わされることなく、冷静で公平な視点での判断が重要になるので、有能なブレーンを集結する必要がある。
官僚群はブレーンの一部であると位置ずけるのが得策である。

国土交通大臣は、高速道路の無料化による自動車交通の増加で、「CO2排出削減」が厳しくなることに対して、「電気自動車」や「燃料電池車」の技術がクリアーされることが必要だと発言した。
しかし、電気自動車は2009年にやっと量産が開始されたくらいで価格も割高で普及段階にない。
燃料電池車は、どこも量産を開始する目途はなく、価格は手が届くにはほど遠い。
このように現実知識のレベルで発言していては、官僚からは馬鹿にされ、産業界からは批判が嵐の様に起きるであろう。

もっと、その分野をよく勉強してから戦略的に考えて発言をして行くことが必須である。

今までのしがらみを断って、白紙からのスタートを。 

2009-09-16 | 暮らし・健康問題
戦後の混乱期を過ぎて55年体制と呼ばれる保守政党の一党独裁的な政治に区切りのつく、政権交代の時代がやっと到来したという感じである。
昔の感覚のままでも通用すると錯覚するのが、人の常であるが、世界は大きく変化し、技術進歩による社会環境も大きく変わっているのに、政治の世界、行政の世界は50年以上にわたってほとんど変化してこなかった。
日本の停滞と閉塞感は、制度的な面での立ち遅れが原因である。
政権交代は、その閉塞感を打ち破り、制度の革新の良い機会である。

これから与党3党の公約に沿った政策を実現していく過程を、興味深くかつ、公平な目で見ていくことが、政権を選んだ国民の責任でもある。
マスコミは、その状況を公平にかつ事実に即した報道をすることを期待したい。

ところで、大きな話はこれからの政権運営に委ねるとして、もっと身近で小さい話をしたい。
それは、言葉の使い方を変えていくことである。
ひとつは、国会議員を呼ぶときに、「先生」と呼ぶことを一切しないと、国民に宣言してほしい。
このことは前にもこのブログに書いたが、この機会がちょうどよいと思うので再度、提案したい。

今回の総選挙で、158人もの新人国会議員が誕生した。
20代30代の若手の政治家が誕生したことは喜ばしいことで、このような状況が若い世代にも政治への関心を深めて、社会に必要な政治の力を盛り立てることが活発になる。
その新議員を、「先生」と呼ぶような世界に埋没して欲しくないという思いも含めて、新人議員は、すべて「○○さん」と呼んで欲しい。
わかりにくいという人は、「議員の○○さん」と呼ぶことに約束をする。
これなら、今日からでも出来ることである。

民主党でも、古手の人や、官僚の中で、国会議員は「○○先生」と呼ぶのが習慣になっているので、抵抗があるであろう。
しかし、なぜ議員のことを先生と呼ぶのか?
その感覚が政治の世界は「お上」の世界であり、一般の庶民とは違う世界であるから、特別の呼び方が当然だという、旧感覚に染まりきっている体質を表している。
これは悪しき風習をただ引きずっているだけで、それをおかしいとも思わなくなっている感覚の鈍った人たちである。

新議員が率先して、「呼ばれるときは○○さんと言ってください」と宣言するだけでよい。
もし、本気ならば、所属する党の発言する機会をとらえて、○○党は、これからは「議員を先生と呼ばずに『○○さん』と呼び合う」ようにしましょう。
と提案すればよい。
だってそうでしょう。
1年生議員は「○○さん」と呼び、当選2回以上は「○○先生」では、どう考えてもおかしい。
当選7回以上とか、区別する政党もいるようだが、このような旧時代感覚の政党を、「○○先生」と呼ばれることを当然と思っている古手は、もう先は長くない。

この「議員を『○○先生』と呼ばない様にしよう」という呼びかけは、市民活動をしている団体の間では、かなり前からの約束事になっているが、いかんせん、政治家の世界では市民活動団体の言うことなどは無視する傾向が強かった。
今回の政権与党は、市民、[NPO]の意見を十分に聞き入れることを公約にしている。
それならば、まず、自分への呼び方から変えていける筈である。
このような声を、マスコミが取り上げることも、白紙からのスタートを印象ずける効果もある。

郵政民営化の見直しは地域主権と新産業の育成を主眼に。

2009-09-15 | 暮らし・健康問題
いよいよ、今までの政治を転換する新政権が誕生する。
今までの保守政権があまりにもテイタラクであったので、民主党のマニフェストの中身が羅列的で、矛盾する公約が混ざっていても、そんなことは実際に政権運営が動き出してから、一つ一つ議論して見直して行けば良いとしよう。
これは大多数の国民の感覚ではないか。
その一方で中身も実行力も不安視している人も多数に上る。
少なくと、高速道路の原則無料化と暫定税率の廃止は再考をすべき公約である。
しっかりと議論を重ね、地域主権の方向に沿った再検討をしてもらいたい課題である。

もうひとつの公約で、郵政民営化の見直しがある。民主党のマニフェストには、「地域社会を活性化するため、郵政事業を抜本的に見直します。」と書いている。この中身というと、
○分社した「日本郵政」「ゆうちょ銀行」「かんぽ生命」の株式売却を凍結する。
○国民不在の「郵政事業の4分社化」見直し、郵便局のサービスを利用者本位の仕組みに再構築する。
○郵政三事業の一体的サービス提供を保障して、郵政事業の利便性と公益性を高める改革を行う。
となっている。

このマニフェストでは、なかみはよくわからない。
何か今の方向を変えると言っているだけである。
4年前の小泉改革の目玉として、郵政民営化が選挙で問われた。
これは、郵便事業の改革を打ち出しているわけではなく、巨大な金額となった「郵便貯金」「簡易保険預かり金」の運用を、郵政族といわれる政官民の癒着した権益から解放し、その資金は、民間企業の論理で収益構造に転換して、経済合理性で運用させようとした改革である。
それを地域の郵便局がさびれていくなどの、映像的なもので批判しているのは、なにか前時代的な感じがしてしまう。

既得権益の破壊と官僚主導、依存体質の政治家の目を覚まさせる効果はおおいにあった。
郵政民営化は小泉内閣の大きな功績である。
しかし、民営化の形体や方向はどうも誤ったようである。
そこの所をやり直す意味で、郵政民営化に懐疑的であった民主党が政権をにぎった意味はある。
ではどのような方向にかえていくのか?
キーワードは「地位社会を活性化するために・・」であろう。

前にも書いた様に、巨大な郵便貯金を擁する大銀行(国営にしろ民営にせよ)が、一つ新たに誕生しても社会にとっての意味はほとんどない。
今や金融事業が世界中でつながり、儲かりそうなところと事業を探しまくって、しのぎを削っている。
行き過ぎで経営を失敗した大銀行が破たんする時代である。

この巨大な資金をどのように使えば、地域の産業を活性化し、生活の利便性を上げて安心社会をつくることができるか、知恵を絞る必要がある。
それには、また中央の官僚や識者、大企業の一部の経営者の審議会などで、従来のやり方をしていたのでは、何も活性化しない。
ここは、この資金を有効に生かすことを、「地域主権」で検討するように制度を創るべきである。
具体的には、「郵貯銀行」は地域ごと、「州政府」に準ずる規模に分割する。
その経営権を株式の委託によって、州政府に移管することである。
九州でいえば、「ゆうちょ九州銀行」とすればよい。

この銀行の資金をどのような分野や企業に融資して、その成果を地域社会にもたらすかの恩恵は、州単位の「ゆうちょ○○銀行」の経営方針によって、大きく左右される。
これを「新産業」に投資して、地域の雇用を増やすこともできるようになる。
新産業として誘致したい企業への優遇融資など、お金の有効な使い方に知恵をしぼることになる。
もう中央の霞が関詣でをしている暇はない。

地域主権を優先するならば暫定税率の廃止は段階的に。

2009-09-14 | 交通問題・自動車
高速道路の段階的な無料化実施は優先度を下げて、それよりも先に生活道路の改善と渋滞個所の解消を目指して、地域主権で進めるべきと書いてきた。
マスコミ報道によれば、都道府県知事に対するアンケート調査では、無料化実施に反対を唱える知事は16人、態度保留(対象路線が不明のため)が28人、賛成は3人、という結果である。
これを鵜呑みにすることはないとして、もう少し詳細の計画を明らかにしてから、地域への説明をしっかりとして、その上で意見を十分にくみ取ることが、地域主権の公約の趣旨に沿うやり方である。

その一方でもうひとつの目玉公約である、ガソリンなどの道路特定財源の暫定税率の廃止には、20人の知事が反対している。
地方税の暫定税率分(年間約8000億円)の減収をしいられることで、地域は道路事業以外の行政サービスの削減を強いられ、住民にしわ寄せがいくことを警戒している。
暫定税率の廃止でガソリンが25円/リットル安くなることを民主党の公約は謳っているが、これは自動車の利用者、なかでも燃費性能の悪い自動車に乗っている人に恩恵をもたらす。
お金に余裕のある人に優しく、地域の住民、ギリギリの生活を強いられている人に、厳しい措置になる政策である。

さらに暫定税率の廃止は、国家的な見地、世界的な潮流からもデメリットの方が多い。
ガソリンや軽油の税率を下げることは利用促進になるので、温室効果ガス「CO2排出」削減とは明かに逆行する。
これは、民主党の大きな公約である「温室効果ガスの排出削減の目標値を1990年比で2020年には25%削減」という、世界にも歓迎されているアピールの効果を大きく損なう政策である。
民主党のマニフェストの信頼性を損なっている原因となっている「重大な錯誤」の代表格である。

暫定税率の廃止にこだわるのは、無駄な道路をこれ以上つくることを阻止するのが本来の狙いであるから、この目的に沿う方向で政策を変更した方が良い。
むしろ、化石燃料消費削減に向けて、インフラへの投資や燃費向上への誘導政策に転じた方が賢いやり方である。

暫定税率でも、燃料の消費とは関係のない保有税や重量税など、保有だけに課税される税金がある。
この分野を見直して、燃費性能の良いカテゴリーの自動車に対して保有する優遇を与える制度にすることが考えられる。
たとえば軽自動車の暫定税率は廃止する。
同等の燃費性能(20㎞/リットルくらいか)の小型車も優遇対象として、その分の暫定税率だけを廃止する。
その他の税率分は名称を改定して、「交通環境改革税」として地域主権にもとずく財源として配分する。

民主党としては、声高に暫定税率の廃止を訴え、2009年の冒頭で国会論戦を戦った経緯もあって、簡単に旗印を引っ込めるわけにもいかない。
そこで、「地域主権」と「CO2排出削減」を優先課題として大きくアピールし、暫定税率の廃止対象は、生活に必要な自動車利用者(軽自動車、小型車)に限定していくことで姿勢を正すことができる。
政権交代のアピールだけでなく、責任をもっての政策実行においては、もっと賢いやり方を選択するべきであろう。

地域社会の代表、知事たちが住民の本当の民意を反映しているとは限らない。
無駄な高速道路の延長や高規格道路のバイパス建設などは、「交通環境改革税」の財源からの支援はしないと明確に限定していけば、公約違反にはならない。
これならば、民意に沿っているのではないか・・・。

高速道路の無料化はそれほど優先度は高くない。

2009-09-13 | 交通問題・自動車
政権交代を実現した民主党の公約に高速道路の無料化を段階的に実施する。という項目がある。
理屈としては、高速道路をバイパス的に使うことによって、混雑市街地の交通量を削減して住民の要望を満たしていることになる。
しかし、自民党が人気取りの政策としてその一部を先取りして、2009年の4月から、土日祝日に限って高速道路通行料金を1000円にするとして実施した。

結果は、土日に自家用車の利用が集中し、各地で渋滞個所の増加を招き、安くはなってもその分の苦痛を強いられることになり、評価は芳しくない。
自民党が民主党の政策の先行実験をしてくれたような形になっている。
マスコミで実施した世論調査でも、民主党の公約の評価で最も低いのは、この高速道路の無料化である。
ただ、相変わらずマスコミは表面を追うのが得意で、この政策のいろいろな狙いについては、あまり詳しく報道しないで、全国一律の調査で高速道路の無料化には7割以上が反対している。と伝えている。

それに対して、民主党の担当議員はマスコミに登場して、段階的な実施であるとして混雑の激しい地域は無料化をしないと説明している。
社会的な実験を実施して成果を見ながら進めていく、という論法になっている。
でも、そこには地域主権を配慮する姿勢は一切見られないので、どのようにしてどの地域から社会実験をしていくのか?
一向にはっきりしない。

高速道路の無料化では貨物輸送が被害を受けている、伝えられている。
その理由に、荷物の到着時間が遅れたりして、却って商売の障害になっている。
この事例からもわかるように、道路の役目は安全性を保ちながら、運行時間の短縮、安定的であることがもっと大切である。
それを確保する上で、料金体系やシステムを効果的に設定するのが目標である筈である。
それを商売を知らない政党の人間は、とにかく、価格を下げれば利用者は喜ぶだろうと単純に想定していて、お粗末な発想である。

このブログで何度も書いてきたように、地域の交通のことは地域主権の考えに基ずいて、混雑の解消を第一に優先すべきである。
高速道路を無料化したら、バイパス効果の出る地域のところは無料化を優先して実施する。
その無料化の補てん費用は国から支給することにしてもよい。
その代り、無料化しない区間の地域には、それに相当する予算を渡して、既存の道路の改良を促進する計画にする。
それには実施前と後の効果をキチンと測定して評価することを義務付ける。
混雑緩和、渋滞解消の効果がなければ、その自治体に渡した予算を返却する契約とすれば、いい加減な計画や、おねだり体質を是正する転換になるであろう。

高速道路の無料化よりも、市街地区間の交通の流れを円滑化する方が良い。
交差点などを広げたり立体交差化する方が、渋滞による経済的な損失を減らすことができる。
これは、燃費の向上の効果もでるので、「CO2排出削減」の効果も期待できる。
ほとんどの地域では、高規格道路のバイパス建設よりも、このほうが住民の必要性に沿っている筈である。
それも中央でコントロールして、許認可の権限を振るうのではなく、費用対効果の指針を明確にして、それの事前評価と事後の成果をキチンとさせることをルール化すればよいだけである。

指示待ちに慣れた自治体をやる気にさせるのも一つのステップであるから、道路予算の許認可裁量権を振るうよりも、自発的に交通環境の改革をする自治体を奮い立たせることが、すぐにでもやるべきことである。

高速道路の無料化は、中央からの補助金をもらう悪しき体質の改革にはならない。

州規模の自治体に転換するメリットを考える。

2009-09-12 | 交通問題・自動車
国の行政は大幅に転換する方向に走り出したが、県の行政は一向に活性化しているようには見えない。
それは、県単位の行政でやっていることが大幅に少ない上に、日常的な仕事は基幹自治体の「市・町・村」が実施しているので、住民にとっては生活にあまり関係しない仕事ばかりであることによる。
だから、国のやっている仕事で国内のみで回っている分野は、州単位の権限にするのがメリットは出る。
九州の道路のことは、霞が関で決めるよりも九州地区に任せるのが本筋である。

道路の計画、管理の権限を県単位で移管することは、地域の小分割になりすぎるので、州単位の領域を設定して任せるのが効果的であることはすぐにわかる。
国道も高速道路も、「州単位の州道」にして、今までの県道とのネットワークを一元的に見直していく。
高速道路を含めて国道と県道を「州道」として計画する上で、必要な個所の増設も計画に入れて良い。
地域の交通ネットワークは、地域で毎日生活している住民が一番良く知っている。
東京で議論するのは、費用と時間の無駄。
何よりも中央依存の体質を引きずる原因になっている。

無駄な高速道路やバイパス、高規格道路がつくられる理由には、国がその計画の承認と財源を持っていることによる。
その計画の妥当性を、国の基準で「費用対効果」という指標で、優先度と決定の根拠としている。
これに恣意的な数値の操作が入ることは、専門家であればだれでも知っている。
効果が少ないと地元で見られている道路計画でも、周り中から効果がでる要素をかき集めて、効果は過大に表示し、工事費は過少に見積もり、とにかく着工にまでこぎつけることが優先する。
工事さえ始まってしまえば、費用が当初の2倍に膨れ上がっても、見積もりより増加した分の理由を探すのはいくらでもできる。

何故このようなことが横行してきたか。
地元を管理している地域の自治体や、県自治体の関係者は、そのような(費用対効果が怪しい)ことは解っていても、一切、表には出さない。
それは、財源を出すのは国であるからによる。
地元の自治体がお金を出す責任を持っているならば、当然、あとあとのことも考えて、本当に必要な道路にお金を優先的に回す。
そして、地元の住民が待望しているのは、「従来の道路、市街地での渋滞個所の道路改善」である。
毎日ごとく渋滞による時間の損失と精神的な負担は早くなくして欲しい、というのが本当の要望である。
しかし、このような道路は県道であったり市道であるので、予算は限られている。

一方、道路特定財源の制度に守られてきた国道と高速道路の方はほぼ充実している。
予算が余ってきたので、それの財源を省益に使いたい国土交通省は、自分たちの権限で計画を許認可できる道路計画にしがみついてきた。
無駄な道路をこれ以上つくらない、という小泉内閣の抑制策の後は、景気対策を名目でほとんどの計画は復活して、またまた高速道路、高規格道路のオンパレードになる。
これらの道路は県単位の自治体に移管するのは、無理であるとして国の管轄の妥当性を主張している。

ここは州単位の自治体ができることを想定して、まず、道路の権限と財源をすべて「州政府」に移すことが始まりとすべきである。
そうすれば、本当に必要な生活道路の改善に予算が回るようになる。
自分のところの財源をうまく活用できるかが、「州政府の実績」として評価される制度が機能するようになって、今までの様に国から道路予算をとることが自治体の使命の様な体質が改善される。

県自治体の「おねだり根性」や「指示待ち体質」を払拭するには、ここから始めるべきである。