庵KM

技術屋OBの環境問題独り言

経済問題。交通問題。健康問題。そして、日本の国創り問題。快適社会問題。

安心して暮らせる健康的な生活を優先。  

2009-07-31 | 暮らし・健康問題
農業問題について基本的な考え方の選択が、その後の政権の運営に大きく左右している。
欧米の先進国で、食糧の自給率を軽視してきた国はほとんどない。
国の産業がいろいろな分野のすべてを網羅することはないが、基幹になる食糧については主要国は100%の自給率を達成している。
一時期には低下した国もあったが、農業技術の進化を重点政策にして生産量を増加させて達成している。

国の一番大事な役割は、国民が安心して暮らせる社会の基盤を作り維持することである。
ところが日本では生活レベルの向上を図ることとされた。
所得倍増政策の成功もあって、GDPの増加が国民の豊かさを示すと勘違いをしてしまった。
1980年代で頂点に達してバブル経済に浮かれてしまい、お金に換算できる価値が最高になることを優先してしまった。
バブル崩壊後においても、お金次第の世の中に埋没して、本当に大事にしなければならない価値が、泡の中においてボヤケテしまっている。

その中で農業問題、特に食糧生産の自給率と地域の自立化、活性化が国の将来にとって重要な要素であることにやっと気が付いた段階といえる。
安心できる暮らしの基本は、雇用の確保による収入の安定と、健康を維持する品質の安定した食糧である。
その上で、エネルギーの適切な節度ある利用によって利便性のある暮らしと、社会生活を維持していく基本的な豊かさを保障することである。

産業活動としては、売上高を競うのが宿命でもあるので、見かけ上の新規な売り込みポイントを、企業は開発して普及させようとする。
しかし、グローバル化した世界であるので、先行き不安になると、これらは一気にしぼんでしまう。
欲望のバブル化といえるであろう。健康的な生活という基本には、精神面での要素が大きい。
社会的な安定と活力は、ひとりひとりの人が健康体であると同時に、考え方、暮らし方が健康的であることに支えられている。

日本の国策を進めてきた官僚群は、このことを軽視してきた様である。
GDPや経済成長率、貿易収支など、とにかくお金をかき集め、増やすことが最優先されてきた。
食糧においては国内の生産や地域社会を重視せずに、輸入依存で問題ないと勘違いをしてきた。
また、社会と産業の基本的なエネルギー政策においても、石油ショックを乗り越えるところまでは良かったが、その後の脱石油化社会への転換が甘くなってしまった。
1990年以降の京都議定書の目標に対しても、再生可能エネルギーへの転換には、ほとんど取り組んでこなかった。

そして、近年は気候の変動の激しさを各地で見ることになる。
「温暖化」という生温い表現が災いして、本来の「世界的気候の大幅な変化」の時代に対する取り組みがナマヌルクなっている。
産業界は今になっても、CO2の排出目標は1990年比で4%増加を主張する始末である。
これは世界からは嘲笑を通り越して、蔑視されるレベルに転落している。
1960年~1970年代における産業界は、そのような後ろ向きの姿勢では脱落することが見えていたから、全知全能を使って世界の一流レベルを目指して努力を積み重ねた。
それが、今では後ろ向きの経営陣に産業界は支配されている。

そして、官僚群は自己保身と既得権益、省益の確保に邁進している。
このような実態を知れば国民の健康的な精神を期待する方が無理な話である。
まずは、産業界と官僚群の旧体質の考え方を転換しなければ、健康的な暮らし作りは、始められない。

農業は生産効率よりも持続的な地産地消の原則で。 

2009-07-30 | 暮らし・健康問題
アメリカは農業生産物の余剰対策から日本への農産物輸入自由化をせまり、100%自給をしているお米を無理やり、輸入義務に等しい「ミニマム・アクセス米」として押し付けた。
それが20年以上もそのままにおかれて、時代の変化に対しても次の対策を打つべきであった農水省は、非合理な減反政策に終始し、その関連事業の維持に汲々としてきた。
今になって、昨年あたりから急激に食糧自給率を50%目標で向上させ、お米の消費拡大、遊休耕作地の利用増加政策を打ち出している。
しかし、世の中が既にその要求を強くしてからやっと動き出すようでは、素人以下ではないか。

これが民間の製造業関係での経営人であったならば、世の中の要求の変化を敏感に読み取り、しかも、それを数年から10年程度の先読みをして、技術開発や生産手段の投資計画を立てておく。
そして、最適な時期に投資の判断をして、結果については責任をもつ。
先行きを見た研究や投資計画を怠り、しかも必要な時期の投資判断を誤ったならば、結果においては世界の強豪企業との競争に敗れ、経営者は引責辞任を余儀なくされる。

それが官庁にいる限りは、すべてが後手に回り手遅れ気味なってから取り掛かっても、誰も交代を言いださず、仕事と既得権益はずっとついてくる。
それは先読みをして、新しい政策を打ち出して失敗することよりも、後手に回る方が失敗がない。という長年の習性が身についているからである。
この対策については、すでに、ブログに書いてきた。
政権交代と同時に、官僚のトップクラスを入れ替えて、新しい政策を打ち出す人材を投入することである。

それと同時に農業政策については、従来の考え方を転換する必要がある。
つまり、工業製品の様に生産効率を極力上げることを追求してきたが、農業経営においては、この生産効率の考え方の優先度を下げて、地域社会の構築と地産地消を目標とした長期の計画を基本にすべきである。

日本の食糧生産は国土と気候に合った稲作を基本に据えてきた。
そして周辺には大豆などの主要穀物を栽培して、栄養バランスの面でも持続的な食生活を基本にしてきた。
それが太平洋戦争後の食糧不足の時代に、アメリカの余剰農産物である小麦を大量に日本で消費させるために、パン食を普及させる宣伝をしてきた。
いわく、お米を食べていると頭が悪くなる。
パン食の方が健康に良い。
これが嘘であったことは、今では誰でも知っている。

アメリカの企業はどこの国においても、まずマクドナルドのハンバーガーを子供たちに食べさせるような宣伝をして、小麦と牛肉の販売を優先しているお国柄である。
健康的な食事でもなく、小麦の生産に適していなくても、牛の飼育に有利な牧草地がなくても、とにかく企業の利益を優先する。
戦後の占領政策のもとでの押し付けではやむを得ないが、独立してから50年以上、いまだに占領下の食糧政策から抜けられないのは、情けないではないか。
まずは学校給食ではパン食をやめて、お米、ご飯食に変えるべきである。

減反政策なしでは、お米の生産量は余るのか?
今、その対策として、お米を粉にしたパンを作ることや、米粉を使った食品、メニューの関発などに取り組みを開始している。
それでも余るのは、畜産用の飼料に使うことも試みられている。
すでに可能性は見えているが、ひとつの壁は価格である。
だが、価格競争力のみに偏った農業政策は誤りであることははっきりしている。

遊休耕作地をゼロにすることを目指して、まずは国民の合意を取り付け、必要な課題には助成金を投入する政策が必要である。
遊休耕作地を活用した後に、海外の近くの国と貿易協定で安定した食糧の輸入ルートを確保すべきである。

農業は自由貿易の原理にそぐわない。出来るだけ自給を!  

2009-07-29 | 暮らし・健康問題
農業政策の誤りは至る所に見られるので、どこから説明するのが良いのか迷ってしまう。
それほど問題だらけの農業政策であるが、今までにあまり問題視されてきたことがない。それは何故か。
つまり、近代国家は、農業などの1次産業は自給率が少なくてもあまり問題ではない、と思いこんできたからである。
2次産業などの製造業の方が生産効率も良く、加工貿易立国を目指す日本としては、農業や漁業、林業などは就労人口が減っても問題ない。
2次産業の競争力さえ強ければ貿易で稼いで、食糧や林産物は海外の安いところから買えば、それの方が効率が良い。という考え方による。

この自由貿易原則で、生産適地での生産を優先してお互いに生産品を交換して支え合うことが経済性の面で優れている「比較優位の理論」といわれる経済学者の理論である。
この理論は高校の社会科で習うが、
19世紀・・! の経済学者リカードの提示した理論で、どの国でも得意な生産物があるので、それに特化した生産をして自由貿易での交換によって双方が利益となる、という。
しかし21世紀の今の世界情勢の中で、これが通用するほど経済や生産環境は単純ではない。
この自由貿易理論を、いまだに金科玉条のごとく持ち出す人は、高校生の段階で知識が止まってしまっていると言える。

工業製品ですら、消費国の中に技術を持ち込んで現地生産することが望ましい形体になっている。
できる限り現地の人の雇用を作り出す生産を目指し、難易度の高い部品のみを貿易により調達している。
それは消費国の購買力を上げることが2次産業の発展にとっても有利だからである。
まして農業製品においては、現地での耕作地をできる限り開発して必要な食糧を得ることは、その国にとっては一番に必要な国策である。
食糧が余っていて価格が安く手に入り、いつでも一番安いところを探して輸入すればよい、などという甘い貿易立国は、とうの昔の話である。

しかし財界の一部の経営者は、とにかく自分のところの産業が伸びることが優先して、1980年代には、1次産業は犠牲にしても2次産業を大事にすべきだとして、官庁や政治家に働きかけた。
自由貿易を正義と思いこみ、農業生産物の自由化を推し進めさせた。
生産性の低い1次産業を守る担当官庁の農水省は、とにかく、お米だけは農家の保護という大義名分を掲げて自由化を防ぎ、最後には高率関税と「ミニマムアクセス米」で、最後の砦を守った。
ということになっている。

さて、その圧力をかけてきたアメリカの農業自体は、この先、どうなっていくであろうか。
食糧を他国の農業生産に頼るならば、今後100年は必ず供給してくれることを確約してもらうべきであろう。
しかし、国益を重視するアメリカがそんなことに応じるわけがない。
それどころか、アメリカの農業自体が今後は怪しくなっている。
一例をあげれば、穀倉地帯といわれる中部では、大量の地下水をくみ上げて、大型の自走式スプリンクラーで散水して耕作している。
その地下水はすでに枯渇する兆候が見え始めて土壌も劣化している。
また、このような農業は石油資源を大量に使っているので、エネルギーの節約をしなければならない21世紀は、耕作地が淘汰される可能性が高い。
必然的にアメリカは穀物の輸出余力は減っていく。
アメリカの農産物は持続的に供給される見込みは乏しい。

だからと言って、すぐに他の国からの輸出をあてにするのは、もう難しくなっている。
中国やインドなどの経済発展で、世界では爆発的に食糧需要が増えている。
日本が耕作地を遊ばせておきながら、食糧の必要な貧困国の分を横取りして、高いお金を払って買い漁る。
このような事態になれば、日本人は世界からどうみられるのか?
「エコノミック*フードアニマル」の汚名を着せられるであろう。

農業政策の転換は既得権に染まった農水官僚では無理。 

2009-07-28 | 暮らし・健康問題
日本の食糧自給率は40%以下になっている。
そして、基幹食物である穀類は世界でもまれなくらいに低い28%である。
重要なタンパク源である肉類や玉子の生産に必用な飼料の自給率も25%である。
日本はこれらの自給率を上げるための耕作地や技術がないのだろうか。
いや、減反政策という、世にも不思議な農水省の政策によって、農業が可能な土地がいたずらに放置されている。
これらの活用もまともに検討されずに、今までは米の耕作地が余剰になっているという理由で、わざわざお金を支給して、耕作をやめてもらっている。

いままでにこのブログで、経済産業省の長期エネルギー政策について、世界からの立ち遅れを指摘してきた。
しかし農林水産省の長期的な農業政策にいたっては、それに及びもつかないくらいに劣悪な政策の連続で、もはや先進国の中ではラストランナーの等しい。
これも独占的な地位に安住し続けて来た官僚と、それに操られている与党政治家の無策ぶりがもたらした結果である。

農業関連の問題とそれの対処について、政治家がいかに短期指向であったか。
それに乗じて、農水官僚は自分たちの保身と既得権益の確保に精力を注ぎ、日本の国民の食生活と、それを生産する農業従事者、農村地域をないがしろにしてきたかを、ここ数回で書いておきたい。
この参考書籍として「自殺する種子・アグロバイオ企業が食を支配する」安田節子著、平凡社新書、2009-6発行。
からの情報を引用しています。

この問題は広範囲にわたる情報と考察が必要ですが、難しくしないで結論を先に挙げておく。
1990年ころまでの食糧供給が過剰な時代に出来た制度と考え方にしがみつき、無駄な政策を継続して貴重な予算を浪費している農水省の責任が重大である。
それをコントロールして、国民生活が安心できる食糧と地域社会を目指していなかった政治家の責任もおおきい。
それも元々はそのような政治家を選挙で選んできた選挙民が責任を持たなければならない。
結局は国民のレベルを反映しているのである。

まずは、何で食糧、特にお米を生産できる田圃を遊ばせるような政策をとっているのか?
これは1986年ころに、[GATT]と呼ばれた貿易自由化に関する交渉で米の自由化をアメリカが強硬に主張して日本に飲み込ませた制度ができたことに原因がある。
当時は国際的にも食物、穀類の生産量は過剰気味で、アメリカは余剰農産物の輸出先を求めていた。
その中で、日本のお米は100%自給していたので輸入の必要性は全くない。
自由化すればアメリカのお米の方が圧倒的に安いので、日本に大量に売れると見込んで自由化を迫ってきた。
その結果は、「ミニマムアクセス米」(MA米)を受け入れるということで交渉で妥結した。
当時のアメリカに輸出を急増させていた自動車や電気製品の輸入制限を受けないための妥協策であった。

この結果、日本は100%の自給力のあるお米も輸入する義務が起きて、2000年頃には米の国内消費量の10%も輸入する事態になっている。
お米を栽培する農家には助成金を出すことで、約4割もの水田を減反させた。
その上、MA米の管理と不良品(昨年発覚した、カビ毒米など〉の廃棄焼却にさらに税金を使うという無駄使いぶりである。

20年以上も前の貿易交渉で無理じいされた制度を、そのまま対策も打たずに来た。
現在の様に食糧事情がひっ迫して、食糧自給率の向上を国策としなければならない事態にさせた責任は、誰が負っているのか?
官僚は誰も責任がない?
国民自身だ!・・・?

再生可能エネルギー優遇策の攻防は、国民の意識次第。 

2009-07-27 | 暮らし・健康問題
政権が交代しても、実際の実務を取り仕切る官僚群の意識が変わらない限り、日本の政策は進化しないであろう。
それには政権党の公約に対して、実務面での遂行に忠実に従う官僚群が多数を占める必要がある。
しかし今の状況では、それに代わりうる人材が不足している。
そして、その人材は中間組織(非営利活動法人など)を経験して実績を上げてきた人たちを抜擢しなければならない。

大変に難しい課題であるが、日本は遅ればせながらもその道を歩きだしている。
あとはこの方向に進むにあたって、制度上や資金の面での優遇を継続することである。
今でも優遇する制度は、ささやかにあるが、ほとんど機能していない。
それは官僚群が自分たちのやることに、いちいち口をはさむ団体や人材に台頭を煙たがっているからである。
とにかく自分たちが公益を代表しているという傲慢な意識に浸りきっていて、正義は自分たちが仕切るのだというわけである。

具体的な事例で説明してみよう。
再生可能エネルギーへの転換は21世紀に重要な課題である。
この優遇策の攻防をめぐっては、以前にも書いておいたが、とにかく優遇の体裁だけを取り繕って、実質はほとんど優遇していない政策に終始してきた。
「新エネルギー特別措置法」がその実例である。
これは一定割合の新エネルギー電力を買い取る義務量を電力会社に課す方式だが、当初から、これでは太陽光発電の普及には寄与しない、とされてきた。
実際はその通りになっている。

それで、さすがの守旧派(化石燃料重視派〉の官僚も、何か手を打たないと格好がつかなくなり、経済産業大臣の諮問機関、総合資源エネルギー調査会の新エネルギー部会において、形ばかりの見なおし審議を諮問した。
その結果、太陽光発電の電力の買い取り価格を、家庭用に限り今までの24円/kWhから2倍に引き上げることにした。
その買い取り費用は、電力消費者全体で負担する仕組みにした。
一般消費者の世帯当たりに負担増加は、1月あたり100円程度になる。

これは、太陽光発電の設置者だけに費用を負担させる制度からは少し進歩しているが、この程度の上乗せ買い取り価格では、とても2020年までに20倍の普及にさせることは無理である。
誰も麻生政権の言うことなど聞いていない。
つまり、官僚の失策の手当てをしておいて、国民に負担が回ることを強調して、自分たちの判断よりも国民の判断に委ねて行きますという体裁をとる作戦である。
いつでも陰にいて、省益のみを優先する姿勢は少しも変わっていない。

それに対して、民主党は果敢な転換政策を提案している。
電力会社の再生可能エネルギーの買い取り義務の対象は太陽光発電だけでなく、風力、地熱、小規模水力、そして、バイオマス発電を対象とする。
その買い取り価格は、発電量に対して設備の償却が10~15年程度に終わるように設定することにしている。
そして、やはり財源が一番問題である。
民主党の政策はまだ具体的に提示されていないが、公平に電力消費者が負担することになるであろう。

その時点で、反対する勢力は国民負担が増えることを、声を大きくして弱者いじめになると言うであろう。
再生可能エネルギーを優遇することで、その産業は発展して雇用の増加や収入の増加になっていくとしても、時間のかかる話である。
それまでの間に、弱者問題をことあるごとに採りあげ、優遇政策の弱みを突いていく。
そして再度の政権交代を待つ。
これが官僚群の期待している構図である。

その辺のことを十分に国民が理解していないと、エネルギーの転換政策は出来ないであろう。

政権の交代はもう目前。しかし官僚群の交代はまだ闇の中。 

2009-07-26 | 暮らし・健康問題
日本の政治の低迷と政策不在は、万年の政権与党の堕落ぶりであリ、それを脅かす野党勢力の現実性のない対抗政策にあった。
ここにきて、国民の不満は、野党の実力に対する不安感を押し切って、とにかく交代させてやらせて見よう、という空気になっている。
しかし、その対抗する野党の政治家は、いよいよ政権が目の前に迫ってきて、あわてて現実性のない公約の手直しに忙しくなっている。
それを見て、今までの政権党は、野党の公約のあらさがしに精を出している。

安心しているのは既得権益の確保に長けている官僚群である。
政権交代を予測して早々に次官の交代や次への人事政策の準備に怠りない。
このように官僚群の仕事は奪われる心配が必要ないくらいに、自分たちの思うままに人事を行える。
これでは野党勢力が政権交代をしても、官僚群の思うままに取り仕切られるであろう。
政権を取ったら、その公約を実行するにあたって、抵抗したりサボタージュをする官僚は、即刻、首にするくらいのことを実行できないと、公約は反故にされてしまうであろう。

抵抗する官僚を首にするといっても、代わりの人材がいないではないか?その通りである。
一部には、官庁の非効率に反旗をひるがえして、脱藩官僚の会などを結成している官僚出身の気鋭の人材もいる。
いかんせん一匹オオカミ的な存在で、一人で官庁に送り込まれても、ほとんど何もできないで終わるであろう。
交代させるにしても、代わりに実務を遂行できる人材の層が薄すぎるのである。
今から10年かかっても良いから、民間や中間組織の中に、そのような実務を経験して、能力を高めた実行部隊を大量に育成していく必要がある。

小泉内閣の時代に、経済、金融関連の構造改革推進の責任者として、民間(学者)から、竹中平蔵氏を大臣に迎えて改革を実践した。
このとき、実効部隊の幹部には、本庁に批判的な人材を要所に配置して、抵抗する官僚に対抗させて改革を実行した。
これは金融関係の硬直化の打開に寄与したが、その範囲の影響しか及ぼさなかったので、官僚群の守旧派に打撃を与えるほどにはならなかった。
もっといろいろな分野において、硬直化した政策の抜本的な革新を実行できるようになると、官僚群も気持ちを入れ替えて、緊張感を持って時代に即した改革的な政策に取り組むようになる。

エネルギー政策の抜本的な転換や、交通政策の長期的展望に向けての改革、そして、原子力政策の根本的見直し。
これらを旧態依然たる官僚の頭に依存していては、日本の将来は停滞していくばかりである。
この10年以内に、適切な転換が出来なければ、日本は世界の先進国からは大幅に遅れることになり、それこそ、「ジャパン・ナッシング」の扱いになってしまう。
先日のサミットにおける麻生首相の様に、日本の言うことは、時代遅れの決まり文句しかないので、官僚に担がれた首脳の言うことを聞く必要もない。
これが、世界の主要国の流れであろう。

世界の中で主要な役割を担って、先進国や途上国に影響力を持てるくらいに実力を備えるには、内向きの省益を最優先する官僚群を、目覚めさせることが最重要である。
本来は優秀な人材の集まりであるから、適切な組織環境と、優れたビジョンを課題に与えれば、どこにも劣らないくらいの政策を立案して実行できる組織である。
要点は、怠慢なことをしていれば交代させられる、首になるという危機感を持たせることが必要なのである。

次の政権担当を目指す政党の公約には、官僚政治の打破を謳っているが、具体策は見えていない。
中間組織の育成を重要視して、人材の育成を狙っている政策はどこが打ち出すのか?・・・ああ!

再生可能エネルギーの揺籃期に貢献した組織は?  

2009-07-25 | 環境問題
このブログには、再生可能エネルギーの関しての課題を何度か、採りあげてきた。
日本は太陽光発電においては、世界のトップランナーであったが、官僚(経済産業省)の裁量におかれると、とたんに普及増加の進度は失速して、昨年には世界の6位に転落した。
麻生内閣は、今年になってから経済不況の対策として、急に補助制度の復活などの対策を打ち出している。
ここ数年の政権与党と官僚に、責任があることは言うまでもない。

本日の朝日新聞〈長官1面〉に、太陽光発電の補助制度が人気で、自治体が独自に補助制度を設けている地域では、申込が殺到してすぐに予定の補助金枠に達してしまう事態だと伝えられている。
国の支援制度は、やっと復活してもわずかな金額であり、自治体の補助金の上乗せがないと、設置者にはメリットが少ない。
硬直化した国の官僚制度からでは、この程度が精いっぱいの促進政策となっている。

しかし、麻生政権は日本を環境先進国として世界のトップランナーの地位を目指すとして、太陽光発電の設置量を世界一にする、と言っている。
しかし例えて言うならば、負け続きのプロ野球球団のフロントが、最下位〈6位〉にいるのに、大した補強もしないで、優勝を目指すといっているようなもので、見ている観客(国民)は、あきれてしまうばかりである。
まず、監督、コーチ陣を入れ替えて、優勝に貢献できそうな選手を獲得して育成するところから始めなければならない。

この太陽光発電の技術と普及が弱体であった時代には、どこが発展に貢献したかを振り返ってみよう。
前にも書いたが、20年ほど以前には、どこも環境対策〈気候変動〉に関心が少なかった。
当時から21世紀のエネルギーの切り札は再生可能エネルギーであり、中でも太陽光発電が最有力であり、技術の発展のためには、補助制度が必要ということで、政府に働きかけていた。
この活動をした団体は、環境問題に取り組む市民団体であり、それと提携した太陽光発電技術の研究組合である。

政府系の組織では、太陽光発電はコストが高くて効率も悪いので、使い物にならないと見て、特殊な地域や用途くらいにしか考えていなかった。
それを、国と各方面への働きかけをして、世界では初めての補助制度と系統連係(送電線網)への接続技術を実現して、普及のきっかけを作っていった。
その成果を2002年には、経済産業省は自分たちの手柄であるかのような形で、太陽光発電世界一を自慢げに宣伝していた。
その他の再生可能エネルギーの普及は、まったく遅れていたにも関わらず、
厚顔無恥にも他人の手柄を横取りした形である。

今日のように世界一を目指す(持続的に)ならば、その段階から戦略的な政策を検討して、技術も太陽光発電産業も、そして、日本の普及量を世界一にするための政策を打ち出すべきであった。
それにもかかわらず2003年からは、もう補助制度の役割は終えたとして、普及促進の政策を打ち切ってしまった。
現在の再生可能エネルギーの普及は、全電力の1%台にとどまっている。
世界はとっくに10%近くに達していて、さらに2020年までには20%以上の普及を目指して動いているというのに・・・・!

このように、官僚組織は自分たちの判断の誤りを認めようとせず、その上、取り繕うことには熱心である。
これはもう、再生可能エネルギーの促進を支持してきたメンバーに交代させるしかない。
ちなみに、太陽光発電世界一のドイツの首相は、環境団体の出身で政治家になっている。

なぜ官僚組織は公益性を追求できないのか?  

2009-07-24 | 暮らし・健康問題
今までに書いてきたことの要旨は、中間組織を支援し「公益的な分野の仕事」を実行する能力を備えた人材を多数、育てる必要がある。
これはかなりの時間と粘り強い支援政策が必要になる。
欧米の近代国家では、かなり以前から優遇する制度があって、その活動の歴史も長い。
その中で有力な人材が育ち、政治の世界に参画して、地に足のついた活動を実践する能力が備わってくる。

しかし、日本ではこのような制度が実質上はなかった歴史の方が長い。
それは、公益性の追求と仕事の実践は、官庁が行うことが制度上の考え方になっていたからである。
公益的な仕事の必要性ができると、「公益団体」を設立して実務を担わせることが通常であった。
この公益団体の設立には、主幹する官庁を必要として、そこの認可を得なければならない。
すると、官庁側として管理する責任を負わされる立場にあるので、自分たちの権限の及ぶような設立条件をつけて認可する。
認可だけではなく、息のかかった人材を送り込み、仕事の効率を上げるという建前によって、自分たちの支配下に組織を置いて管轄する。
間違った方向に行かないように監視する。
これが天下りの要因である。

この間違いを犯させないというのが官庁の最重要視することであり、それが官僚組織の掟でもある。
成果を出すことよりも間違いのない方が、官庁や官僚にとっては大事なことである。
それで、公益性の判断も旧来の常識的な範囲を超えることは出来なくなる。
お役所が保守的になり、動き方が遅い組織に思えるのは当然である。
官庁に機動的な動きや、創造的な発想を期待する方が無理な話である。

今まで官庁や官僚の仕事ぶりの非効率を散々書いてきたが、筆者は官庁を軽んじる意図は毛頭ない。
また、官僚になっている人達の能力は、すぐれた資質であると言える。
最高学府を優秀な成績で卒業し、難関を突破してきたエリートクラスの高級官僚は、同世代のどの人材よりも優れた面が多い。

しかしながら、今までに書いてきた様に組織の一員となって仕事をする立場になると、トタンに非効率、非創造的にならざるを得ない環境に置かれてしまう。
政治家が大所高所に立った立場から、判断したり指示を出していかなければ、常に今までどうりに踏襲していくしか出来ないのである。

そして、その政治家が何も鍛えられていない「2世的議員」であった場合は、革新的な指示や創造的な政策を打ち出すことはできない。
世界は常に変化しているので、従来には成果が生まれた政策も古くなって時代にそぐわない場合が多くなっている。
いわゆる族議員といわれる保守的体質に染まった古顔に取り仕切られて、時代の変化を読み適切な政策を打ち出す議員はほとんどいない。
官僚も議員の意向を軽んじることはできない。
あえて先取りするような政策の提案はしようとしない。

従って、時代の変化によっても変わらない公益性のある仕事は、順調に継続されるが、時代にそぐわなくなった課題については、公益性があっても新規の政策として採り上げられない。
わずかに採りあげる場合でも、優先度は圧倒的に低く、各省においては微々たる取り組みしかしない。
そのような背景であるから、国民が一番期待している公益性のある新政策は官庁からは出てこない。

政治家が敏感にその流れを読み取って、指導的立場に立って官庁を動かさなければ、公益的な政策は動き出さない。
この指導的立場に立てる政治家は、中間的な組織で「公益的な分野の仕事」を現場や地域に密着して活動し、苦労して鍛えられた人材が育って、その能力を評価されて政治家になった場合である。

人気取り的な言動のうまい政治家が横行して、評価を受けているようでは、お寒い限りである。

官でもなく民でもない中間組織が公益を追求するためには。

2009-07-23 | 暮らし・健康問題
官僚の組織に頼る政治・行政の弊害が近代日本の各所に表れている。
国民の真の利益を代表していない政策が、あたかも公益に沿っているような衣をかぶって、実は官僚益、省益を追求している例は、枚挙に暇(いとま)がない。
これに対して政府与党の政治家は、「官から民へ」の号令のもとに、構造改革に走った。
確かにかなりの実務を民間に移す必要はある。
しかし、政策自体は民間ではそぐわない公益的分野が大半である。
そして、今度は民間では儲け主義に走りすぎる、派遣切りなどの弱者を犠牲にする傾向があるので、格差是正だとして支援金のバラマキばかりに奔走している。

官でもなく民でもない「公益的な分野の仕事」は、総称を『公』と呼ばれる中間組織が大きな役割を担っている。
ヨーロッパやアメリカのような近代国家には、この公的な活動をする組織、団体を優遇し、国民が支援する制度は脈々と続いてきて、有能な人材が中間組織を通じて育っている。

アメリカのオバマ大統領は、シカゴ地区での低所得者層の住む地域活動を支援する団体で、住民と直接の対話と行動を通じて、社会に対する実践活動の基本を身につけた。
実績と政治的能力を示して、州議会の議員に若くして当選し、さらに支持を広げて連邦政府の上院議員になって、国政に参加し頭角を現した。
その後は誰でも知っているように、混迷しているアメリカ社会を秩序と進歩を目指す政策を掲げて当選し、6割近い支持を獲得している。

日本の政治家は、若くして当選した人は、大体が親の世襲の選挙区を引きついているために、実績や能力は当選してからの努力にゆだねることになる。
議員になる前には、議員秘書などの政治家と官僚の世界の中で経験を積み上げるので、現実の民間事業者の苦労や、地域活動に奔走している人たちの課題と悩みを理解しているとは言えない。
要望はいろいろと聞いてはいても、自分の選挙に影響することにしか関心が向かなくなる。
そして国政の重要な地位についても、地域を知らない、民間を知らない、「公益的な分野の仕事」を実行する組織も進め方も知らない政治家となる。

官僚組織と呼ばれる、行政的にもまれた優れた能力を持っているエリート集団に支えられることで、政治家は自分の能力で政策が進むと勘違いをしてしまっている。
いったん、官僚主導の政治を打破するとでも言いだそうものならば、トタンに官僚側からの協力は得られなくなり何事も進まなくなる。

まさに、現在の与党の政治家がその能力不足を露呈している。
対抗する野党議員はどうか?
地域社会での活動実績を積み上げて、能力を発揮してきた人が増えているように思える。
しかし、政策手段を実際に構想して具体化するのは、まだまだ、経験も少なく官僚の能力に比べたら圧倒的に弱い。
そして、官僚側の利益にそぐわない政策は、表向きには従う素振りを見せても、裏では自分たちに利益になる方向に曲げるように画策をする。
それも出来ない場合は、サボタージュを決め込む。
そのうちに世論の流れが変わることを期待して、冬ごもり体制となる。

まあ大体の予測はつくが、ここからが本番である。
時の政権の目指す政策を実行しない官僚は、どのように処遇をすべきか、議論が分かれるところである。
アメリカの政権交代では、官庁のトップクラスの人事はすべて、政権交代と同時に入れ替えることは常識となっている。
日本ではそれが行われたことはない。
今まで、まともな政権交代はなかったのだから、政治家にも国民の頭にも、官僚政治の打破はどうするかの具体策はないに等しい。

答えは、中間組織に「公益的な分野の仕事」を実行する能力を育成する政策しかない。

日本の公益性は官僚が支配し、第3セクターはお荷物に。

2009-07-22 | 暮らし・健康問題
麻生内閣がいきずまって、逃げ込み解散の事態になった。
地方選挙の敗北の原因もうやむやのままにして、起死回生の選挙公約はいまだに姿を現さない。
世界同時不況の影響を受けたという他責の原因ばかりを言い訳にしていては、この先はどうなるやら思いやられる。

大きな原因は明白である。
ライバル不在のままに特権的地位を得ている官僚の利益ばかりを優先する社会に染まって、全体の活力を削いでいる。
そして官僚益に同調して、独占的な地位に安住して大企業病にかかった産業群が、他の活動的な産業の足を引っ張り、「新産業」の登場と躍進を邪魔しているのである。

では対抗する野党の新規政策は期待できるのであろうか?
公益法人や独立行政法人などの官僚益企業に対する革新的な政策は、研究されているのであろうか?
いまのところ、官僚支配政治の打破を目玉の公約にしている。
意気込みは良いとしても、実行可能な具体策はどこまで出来ているのか不明である。
政権交代は実現しても1年間くらいは、具体策を練り上げる段階で骨抜きになる可能性は大きい。
それでも、何もやらないでは、どこに本当の問題があるのかも見えてこないから、とにかく、兆戦して、苦労してもらうしかない。

前回までに、官僚の独占状態を打ち破る必要性を書いてきた。
公益性を政策として打ち出すにしても、その公益の内容は、専門職の官僚の裁量に任されるのがほとんどである。
なぜならば、政治家は選挙に当選するのが最大の仕事で、99%のエネルギーを使ってしまう。
そして残りの1%で、公約に掲げた政策を検討して、総論的な法案をお役人の力を借りて、法制化して国会を通過させる。
そこまででエネルギーは使い果たし、あとは法律を主幹する官庁の各局の専門家官僚群の裁量の範囲になってしまう。
その中で、仕事を作り出し実行組織を外部に作り出し、公益法人に委託する仕組みになっている。
受け皿になる公益法人がない場合は、いろいろな理屈をつけて新規の公益法人を設立し、そこに息のかかった人材を送り込む。
いくら天下り規制をかけても、迂回する方法はすぐに考え出すので、官僚益企業は増殖するばかりである。

それで、前回にも書いたように「NPO法人」などの、政府でもなし、営利企業の民間でもない、中間的な組織を育成していく道が、唯一の政策手段になってきている。
日本では「NPO法人」などは、ニッチの仕事を、ボランティア精神で実施する奉仕活動の様に思う人が大半である。
しかし、世界の先進国では、市民が積極的にこのような中間的な組織を設立し、参加することで公益的な業務を、かなりの規模でこなしている。
日本ではそのような活動を活発化する政策がなく、戦争の時代において、なし崩しに官僚支配の元に取り込まれてしまってきた。
それ以来、停滞してしまった歴史がある。

一時期、第3セクターなどという呼び方で、お役人の天下りを温存する組織を作ることが流行した。
この3セクは役所よりも機動的に動き、営利企業の様に利益追求型でもないので、公益的な仕事を委託する組織として適していると思われて設立が急増した。
しかし実態は、お役所の様に動きが悪く、利益の追及もしないで良いことに安住して、経営効率や努力が不足し、継続的な赤字体質を膨らませて、地方自治体のお荷物に変身してしまった。
公益を追求する組織だから、赤字もやむを得ない。
健全な赤字ならば容認すべきだ。
という、もっともらしい言い訳を後から付け加えてしまった。

お役人の利益を追求する公益法人。
健全な赤字を容認せよという第3セクター。
どちらの行く先も、停滞した経済と精神的に貧しい社会が見えてくる。
やはり中間的組織の役割に期待するしかない。

公益法人を民営化する?には、どうするのか。  

2009-07-21 | 暮らし・健康問題
国や地方自治体が公益を実現するために事業を行うのは当然である。
それを行政官僚、お役人が企画、計画し、予算の承認をとって実行する。
当たり前のことで誰も異論はない。
しかし、その仕事を「官僚営企業」、いわゆる公益法人に委託するという常識を疑ってかかる必要がある。
なぜ、一定の仕事をするのに、お役人が取り仕切る組織でないといけないのか?
民間企業に委託すると、予算の無駄使いになってしまうと考えるのか?

一定の仕事を実施する組織として、役人が自ら経営する「公営事業」、官庁が認可して設立できる「公益法人」、「特殊法人」などがある。
これらを民間企業、つまり、「営利会社」を公募して、仕事を委託する方式の「公設民営の制度」などが進んできている。
歴史的にみれば、計画経済に近い段階の方式よりも、現場のやる気を起こさせ、創意工夫が盛り込める制度の方が優れている。
だから、できる限り民間企業に委託する方式に変えていくべきである。

この民間企業に委託する段階が、お役人と企業の癒着や政治家の利権介入で、歪められている事例は多い。
入札談合などはその典型であり、闇取引は横行している。
しかし、これらも役所仕事の透明性を上げる方向の努力で、減らせることができる。
不正行為をすれば、いつかはバレル。
という制度にしておくことで、闇で儲けようという企業は減っていく。
今後も粘り強く、委託の公募段階や入札においての公平性、透明性を上げる努力を続けるべきである。

では、それを続けて行けば、すべての仕事は民間で出来るではないか、と思える。
その時に役人が持ち出す論理は、民間企業は儲けを出すために活動する団体だから、その分は余計な経費になるので、儲けを出す目的でない「公益法人」に委託する方が合理的であるという、もっともらしい理屈である。
同じ仕事の効率ならば、利益を配当する民間企業よりも、利益を出さない公益企業の方が適している、という説明になる。

これが間違いであることはすぐに解るのだが、今までの思い込みから、公益的な仕事は公益を実施する組織を作って、そこに、しっかりと仕事をしてもらうのが良い。
という常識が染み込んでしまった。
公益団体は、その設立をお役人・官庁や自治体に握られているので、その利益を代弁する組織に変質している。
公益の追及ではなく、「官僚益の追求」が目的の組織である。

そこで、大きな課題が浮かび上がる。
公益を追求する組織で、官僚の利益を代弁することがないように出来ないのか?
これが、現代の重要な課題であり、試行錯誤の真っ最中であるといえる。

有力な方策としていま浮上している方策は、営利を追求しない「非営利団体」通称「NPO法人」を公益的な仕事を請け負ってもらえるようにする方向である。
この「NPO法人制度」は、日本では出来たばかりで10年も経っていないので、実力のある「NPO」法人はあまり多くはない。
ボランティア組織の延長の様に思われているので、能力ある人材が、まだまだ大幅に不足している状況である。

だから、「NPO法人」に仕事を委託するのは無理だ、と言うのではまた、お役人の天下りを受けて運営する「公益法人」に仕事を任せるのが良い。となってしまう。
これでは今までと同じ様に、官僚がほとんどを支配する「官僚益企業」の横行がますます盛んになる。
最近は天下りの問題が指摘されているが、実際には天下りの弊害よりも、官僚の裁量で仕事の流れを左右できる権益に問題がある。
公益性は、透明なお金の流れと、適切な仕事の評価の仕組みから是正されてレベルが上がる。

民間企業を参加させたり、「NPO法人」の生長を促して、ライバルを作ることが進歩につながる。

郵政3事業の民営化は道半ば。民営でお金の流れをキレイに。 

2009-07-20 | 暮らし・健康問題
官僚機構の非能率と腐敗が日本の将来を貧しくしていく。
このことはあらゆる方面で言われているし、有識者や政治家の誰もが言っている。
誰も反論を言う人はいないくらいに、日本としては合意の採れている認識である。
がしかし、現実はほとんど改革が進まず、何かの問題が起きると必ずその対策のための政策は、新たな公益法人の必要性を正当化するような説明を伴って、法制化されて予算が付く。
この繰り返しが1990年以降の迷走の20年間と言える。

郵政3事業の民営化とは、この流れの一部を大きく変える試練であった。
小泉内閣の執念とも言える政策の狙いに国民は賛同して2/3もの多数の支持を与えて、腰の引けた野党よりも大胆に改革を実行する与党を支持した。
そして郵政3事業の民営化の方向は、とにかく動き始めて官僚機構の改革に一歩を踏みこんで行った。
いまだに、郵便事業の効率化は地域へのしわ寄せを起こし、弱者いじめだとして批判する者は多いが、それは、弱者に対する別の救済、保護政策をすべきであって、郵便事業を国営にとどめておく理由には全くならない。

本当の狙いは、巨大な郵便貯金と簡保によるお金の流れを、官僚に有利なようにさせないことである。
これは、民営化会社が本当の民間のチェックが入る段階になってはじめて、不合理なお金の使い方が是正される。
今の段階では100%の株式を国が保有しているので民営化ではない。
総務省や政治家の横やりが入りやすい段階では、本来の民営化によるお金の流れをキレイにすることはできない。
同時に、簡保の宿の一括売却の様に、一部の民間企業への不合理な取引を許容する様でもいけない。
これは、間違いなく経営者の倫理感の欠如であり、それを制裁できない株主(現在は国、つまり首相)に責任がある。
その株主は、国民から責任を委託されているのであるから、納得の得られない措置をしている場合は批判される。
この措置をめぐっての迷走で支持を低下させたのは当然である。

このように、曲がりなりにも民営化による効果は出ている。
従来の様に国営、つまり「官僚営企業」であったならば、このような問題は闇に付されたまま、省益にもとずいてうやむやに処理されてしまったであろう。
同じような体質の「官僚営企業」は、まだまだ沢山あって、それらの民営化の計画はほとんど検討もされていない。
「民で出来ることは民間に移す」。これが近代国家の基本であろう。

公益性の衣をかぶった「官僚営企業」は、なぜ後を絶たずに生まれてきて、それが年を経ていくうちに腐敗と非能率の典型になるのか。
この問題をしっかりと深堀して、改革策を提示して実行していける政党に政権を委ねるべきである。
政権を取るための聞こえの良い政策を出しても、それが「官僚営企業」を増やすことになるならば考え直した方が良い。
どんな美辞麗句に飾られていても、それは将来には余計なお荷物に変身してしまうであろう。
まずは、「官僚営企業」を増やさないことである。
それは、比較的容易に実行できる。

公益団体がいったん出来てしまっていると、必ずそれによって利益を得ている団体、組織、個人がいるので、改革は容易には進まない。
公益法人の数を減らすことを公約にしている政党も、実はその既得権に染まった議員を抱えているために、数は減らしても表向きだけに終わる。
官僚はその辺の工夫においては、天才的と言えるくらいに能力を発揮する。
数を減らすのではなく、民営化すればゴマカシは利きにくくなる。
公益法人の仕事を民営化出来る方法を考えることが、政治家の役割である。

今度の総選挙の公約に、それが実行できる方針が盛り込まれているか?
チェックの必要がある。

官僚機構のライバルを作る前に、まず減らせ!  

2009-07-19 | 暮らし・健康問題
いよいよ総選挙モードに突入して、議論が政権獲得時の公約に関心が移ってきた。
本来、政党どうしの競争関係は、公約の中身と実行可能性の具体策を競うことである。
しかし、内紛ばかりに明け暮れた与党は、いまだに公約の中身を公表せず、モタモタしているばかりである。
一方、対抗する野党の方も、マニフェストとして早々とまとめていたが、現実に政権獲得が見えてくると、実行可能性の面でかなり怪しい点が見つかり、手直しに忙しくなってきた。

日本人の特性かどうか知らないが、若いころから試験が近つかないと勉強に拍車がかからない体質は、そうは簡単には直らない。
精一杯、間に合わせてもらうしか仕方がない。
日本の実力はそこまでと認識するしかない。
1980年ころの経済の好調期に「ジャパンアズナンバーワン」などと言われていい気になっていた報いかもしれない。
社会的感覚や政治的な関心度は、まだまだ、途上国並みであったのだ。と今から見れば納得できる。
何しろ、40年も長く一党支配による政権たらい回しであったから、ライバル不在の政治状況で、保守政治での内輪の権力争いであり、政策論争が政治家の間で活発に行われているような状況はほとんどなかった。

さてそこで、政策論争の中身はこれから点検することにして、どの政党も財源の根拠については、はなはだ無責任に近い。
政権与党は、増税もできずいたずらに景気対策をうたって、補助金とバラマキの政策を乱発してきた。
経済の活性化の効果は微々たるものであった。
そして、この世界的不況においても、今までの延長の政策をただただ繰り返すばかりである。
その中身も官僚に頼りきりのモノが多く、この時とばかりに省益になりそうな政策をいたるところに潜ませて、予算を獲得してしまっている。

対する野党はどうかというと、まずは無駄な支出を減らすといって胸算用を提示しているが、大方の見方では実行可能性が低いとされている。
その一方で今までの政権与党との違いを見せつけようとして、高速道路の無料化や、ガソリン税の暫定税率廃止をマニフェストに掲げている。
収入を減らす方は簡単に出来ても、支出を減らせる方は、そうは容易にはできない。
このままでは数年のうちに財政悪化の責任を取らされて、またまた、政権交代とならざるを得ない。

政権の実力の評価は、いかに各方面の利害を乗り越えて、全体にとっての利益になる政策を実行できるかにかかっている。
国民から納得を得られる増税を実現できるか?
特権的な団体の反対を押し切って、既得権の廃止をして無駄な支出を減らせるか?
これらの課題に集約される。
その他のことは、政策軸がブレなければ、実行は可能であろう。

小泉内閣は、その点ではかなりの実績を上げた評価されるべき内閣である。
しかし、途中で情熱を失ってしまい、始まったばかりに近い段階で、次の人にゆだねてしまったのは、大きな政治判断ミスであろう。
明治政府以来の強固な官僚組織は、郵政3事業の民営化では、ホンのかすり傷程度であろう。
早くも揺り戻しの勢力が暗躍して、半分以上は戻されている。

そして、政権与党も挑戦する野党も、官僚依存政治を打破ずると号令をかけているが、具体的な政策は生煮えも良いところである。
これでは、先が思いやられるが、ないものネダリをしても仕方がない。
どちらが本当に官僚機構に切り込んでいけるか、これからの10年が見ものである。

まずは、天下り団体となる公益法人を徹底的に削減することに取り組むべきであろう。出来るかな?
いや、選挙を通じて其の方向を確たるものとして、実行しなければ日本の将来は貧しくなる。

構造改革は、ライバル関係を作り出す政策。 

2009-07-18 | 暮らし・健康問題
民間企業においては、適正な節度ある競争関係を作り出すことが、技術進化と経済の発展を生み出す元になる。
しかし新技術を育成するためには、今のような大企業に有利な環境のままでは、生み出すこと出来ても、一人前に育成することは難しくなっている。
それには公的な支援、国策的な制度が必要である。
しかし、国の優遇策は様々な弊害も生みだし既得権の構造も作る原因にもなる。

小泉政権は、この既得権に染まったガチガチの構造を破壊して、自由な競争を生み出す環境を作り出そうとしてきた。
一部の構造改革は進んだかに見える。
しかし業界要望のままでの規制緩和は大企業に有利となり、さらに働く人の環境を低下させてしまった。
改革の名を借りた労働条件改悪であった。
競争環境が不適切なくらいに自由すぎる民間企業には、むしろ規制強化が必要であった。

規制の枠で恩恵を受けていたのは、官製企業であった。
郵政3事業はその典型である。
官僚が独占的な地位を利用できる官製企業は、組織的腐敗と同時に働く人にも自由度がなく、能力を生かせない組織になっている。
これを構造改革することはまさに必要な課題であった。
郵政民営化の路線は、その一部に切りこんだことで、正しい方向での改革の一歩である。

民間で出来ることは民間企業に回していく。
公的な組織でなければ出来ないことだけを、官僚が担う。
説明としては納得しやすい。
国民の多くは賛同して、絶対多数の議席を得た。
しかし勘違いをしていた構造改革論者は、その先の政策がまったく出来ていなかった。

官僚は自省の権益を維持するために、多くの公益団体を作り出すことに長けている。
何か問題が起きると官僚が計画を作り、公益団体に仕事をさせる予算を獲得して配分する。
これの繰り返しで50年も経つと、用済みの公益団体がうず高く積み上がっている。
そして、公益団体を解散することはなく、必ず次の仕事を見つけ出して、予算を回すことを画策する。
公益的な仕事だから民間企業に回すことはできない、と説明して、実際には天下り官僚のいる官製企業に仕事を請け負わせる。

この構造を破壊し改革策を提示して国民に信を問うべきであった。
それを郵政民営化ができた段階で、道筋は作れたと勘違いをしてしまった。
信任があるにも関わらず、与党の総裁を勇退して実績を誇示するつもりであったが、次々に巻き返しにあって、官僚の権益の増加になってしまった。

労働環境の規制緩和の弊害で、弱者へのしわ寄せの弊害が出ると、すべて構造改革路線の誤りとして、罪を押し付けられた。
確かに、その面は大きな失策である。
しかし、その陰で官僚機構の競争相手が現れる政策を、ことごとく潰して安泰を図っていることには、マスコミも追及が不足している。

小泉内閣としては、この官僚益の為の組織「公益団体」の構造改革に道筋を付けるべきであった。
不要な公益団体を整理統合し、民で出来ることは民間に・・!として、基本的な制度の改革を実行に移せばよかったのである。
民間企業の雇用促進にもつながり、無駄な税金の使途が減った。
その財源を本当に育成に必要な「新産業」への先行投資にまわせば、今のような停滞は緩和されていた筈である。

構造改革のなんたるかを理解しないままの、安倍内閣と福田内閣は、官僚の巻き返しにあって、あえなく改革路線とは決別し、眼先の問題に振り回された。
表紙の付け替えばかりに勢力を使っているうちに、最後は自分のところに強力なライバルが浮上してきた。
ブレどうしの麻生内閣には引導を渡されようとしている。
50年の安楽のすえの交代劇しか、残されていないかのように・・・。

やはりライバルの育成が、日本には必要な課題である。

優遇すべき技術進化には、長期の支援が必要。  

2009-07-17 | 環境問題
長期的な観点から優遇して育成する必要がある技術は、時を経ての適切な評価と判断が必要である。
その面で、原子力発電の技術は、昭和40年代においては、エネルギーの未来の夢の技術として、育成すべき方向として手厚い国の保護政策が行われた。
当時の技術者の最先端を行くものとして、多くの若手が志望して新技術に挑んできた。
しかし、何十年もその状態におかれると、ライバル不在のマンネリ的な傾向も表れて停滞したり、独善的な判断を繰り返す体質に染まる。
不具合や見込み違いに対して、真実の姿を見せない保身の悪弊がはびこるようになる。

50年以上も独善を続けると、どうしようもない腐敗体質に陥り、自分からの改革は不可能になる。
やはり、強力なライバルに道を奪われて、いったん、謙虚な立場に戻ってやり直す気持ちに転換させないと、長年の膿を出し切れない。
最近の例でいえば、アメリカの自動車企業、ゼネラルモータ―スがそれに相当する。また航空会社の業界では、旧日本航空(国策会社)、現在のJALである。
いずれも、従来からの特権的な地位に甘んじて、ひとも組織も全くの時代遅れの体質的になって脱落した。
いったん潰して出直す方がよい。
しかし、大きすぎて潰せない弊害が出て、また国の救済策に頼るしかない。
再生は不透明だが、今の大不況期においては救済もやむを得ないとされている。

その様なお荷物になる前に、やはり健全な競争条件下に晒して、最大限の企業努力を引き出すことが賢明な施策であるが、どちらも、政府の極端な優遇政策にぶら下がって努力を怠ってきた。
日本における電力業界は、この政府にぶら下がる形で、原子力発電を未完成技術のままで広げてしまっている。
しかも、優遇を50年も続けるのは少し異常である。
これは、技術進化を促すことよりも、既得権を維持することに目的が変質していることを示している。

一方、再生可能エネルギーは、まだ生まれて20年にも満たない技術分野であり、政府としての優遇策はほんの微々たるものであった。
それがここにきて、化石燃料の削減、温室効果ガス排出規制の課題がでてきて、一気に世界的な課題となっている。
日本はせっかく良いスタート切った「太陽光発電」の基本技術を優遇して育成することをやめてしまった。
10年も経たないで止めてしまうとは、新技術育成策としては落第である。
その一方で、50年以上も優遇を続けている原子力発電拡大という愚策をさらに継続しようとしている。

さすがにまずいとみて、麻生政権は遅ればせながらも、「太陽光発電」の支援策を転換した。
しかし、ヨーロッパ諸国と比べると、見劣りすることは明らかである。
さらに、太陽光発電以外の再生可能エネルギー(風力、地熱、小規模水力、バイオマス)については、なんの優遇策も打ち出していないとの批判を受けて、やっと動き出したテイタラクである。

日本の長期的なエネルギー自給の政策をキチンと展望すれば、これらの技術と事業を優遇して育成する必要があることは明白である。
それも太陽光発電の様に、はじめたはいいけど、財源がどうのこうのと言い訳を探して途中で止めてしまう様では、本格的な技術は育たない。目標のレベルに達するまでは10年でも20年でも育成するくらいに、腰を据えて取り組みを継続するべきである。
しかし、自立できるレベルに到達させる期間を30年以上も継続するのは、再検討が必要である。

現時点での適切な判断は、再生可能エネルギーを優遇して育成し、原子力発電技術は安全を保ちながら縮小に転換させるべきである。
世界の安全を目指して貢献し、国民の安心感のために・・・・。