庵KM

技術屋OBの環境問題独り言

経済問題。交通問題。健康問題。そして、日本の国創り問題。快適社会問題。

健康的な暮らしの根源をまとめてみると、・・・・。   

2009-08-31 | 暮らし・健康問題
このところ、総選挙の話題でもちきりであった。
政治が暮らしに直結する民主主義社会では、各人が参加意識を持って、政治的な選択にかかわることは必須である。
その意味で、各党がマニフェストを作成し、それを目安に政権党を選択している過程が定着することは大事な基本である。

政権交代は壁をこえた。
しかし、その中身についてみると、将来の姿は一向に見えないし、重要な項目も、眼先の対策もごっちゃ混ぜの感があって、目指すべき方向は少しも見えていない。
ここ1年位をかけて、その将来像への議論が発展して、本当の政策の選択、その実現への具体策の競争と協創の段階に入ることを期待したい。
KY〈変えるのはヤダ〉から、KM『変えることを目指せ』へ。

ここで、このブログで書いてきたことの要約をしておきたい。
国民、市民の「暮らしと健康を向上させる」ことが、共同体(国家、地域自治体)の役割である。
その基本には、「雇用の確保・安定」と「労働環境・条件の向上を目指す労働分配率の増加」が最重要でなければならない。
産業の発展、GDPの増加は、この雇用と労働分配率を向上させるために発展させるのであって、資本主義社会で「株主価値」の向上などは、その結果の配当程度のものである。

この20年はGDPの意味も取り違え、産業発展を金額で評価することを最大の目的にして株主価値、つまり、お金を持っている人に最高の報酬を出すことに邁進してきた。
現在の大不況は狂信的な一部の亡者の言い分を、世界の共通目標と勘違いをしてきたことにある。
バブルが崩壊したときには、健全な経営理念を持っていた企業、産業も巻き込み、資本主義社会の欠点をもろに露呈している。

一方、産業と金融業の巨大化の傾向は、それをコントロールする行政への影響を強め、政治家を抱き込んで、ますます政官業の癒着構造を増大させている。
特に行政においては中央集権の弊害により、地域社会の疲弊が目立って、全体の活力は損なわれるばかりである。
そこで、機能的な行政、活力ある地域社会を育てるには、「地域主権社会」を創ることが根本的な課題であり、この目的意識を持った的確な規模の地域主権を作り出せるところが、活力を取り戻し発展していける。

活力ある社会においては、人間の創造性を遺憾なく発揮できるようになる。
そして、時代の流れにおいていかれるようなことがなく、地域独自の産業、特に「新産業を興す」ことが地域での総意になって、日々を意欲的に暮らせる社会を目指すべきである。
すべての政策、政治的判断は、この方向において熟慮して選択し、優先度を評価していく必要がある。

このブログでいろいろと書いてきた半年分の内容を、次の様に集約しておきます。
・暮らしの健康的な豊かさの基本は雇用である。
・雇用の安定と向上は、産業の育成、特に「新産業」の創出の重点をおく。
・意欲のある賢い行政を持つために「地域主権」を実現する。
・地域主権は、国家並の将来目標を設定して、長期的な人材育成と産業創出に邁進する。
・地球環境問題は、あらゆる産業の基盤を転換する好機で、「再生可能エネルギー」を主軸にする。
・ひとの能力が活かされ、豊かな産業を作り出せる力が、国際社会の中での地位を安定させる。

言うのはたやすいかも知れない。しかし、方向もはっきりしない運転は無謀である。

中央集権は国の中央ばかりが発展する仕組み。地域に主権を! 

2009-08-30 | 暮らし・健康問題
地域主権の仕組みは、まだまだ検討が不十分であり、欠点をあげればキリがないくらいに出てくる。
しかし、制度や行政組織というものは、粘り強く国民、市民が支持して育てていくものである。
19世紀までは、そのようなものは、武力を支配した君主や武装貴族集団による力の論理だけで決まってきた。
住民サービスなどという発想は少ない。
それが20世紀に民主主義と列強国家による植民地政策との兼ね合いで成り立つ時代には、中央集権国家という体制がもっとも効率よく機能し、国の力が発展した。

しかし、ここ数回で書いてきたように、この中央集権制度は、中央に権限が集中する弊害の方が大きくなった。
日本においては、東京1極集中という現象が数十年にわたって起きている。その影響で地域社会の疲弊と官僚主義、大企業病などの、やる気をなくさせることばかりが蔓延することになってしまった。
1990年以降の日本の衰退ぶりは、個々の問題があるにしても、大元の原因は地域社会が目標を失って、惰性に陥ってしまった風潮におかされていることによる。

今回の総選挙にしても、マニフェストによる公約の競争という面もあるが、その中身はまだまだ、レベルの低いバラマキ的な当面の生活支援の羅列に、大半が翻弄されている。
マスコミも、長期の政策や国家像、目標が出されていないと批判はしているが、国の力の根幹を議論して、その課題を浮き彫りにするような視点の論調は少ない。
一時的な元気さを引き出すような、「覚せい剤の乱用」の風潮と、規模こそ違うが、国をあげて覚せい剤に浸って、補助金ずけ、赤字公債ずけ、他力依存に陥ってしまっている様である。 

そこで、地方分権が言い出されているが、今の中央集権制度の一部の権限と財源を移譲するような、中途半端な制度改革では、この様な長期低落、衰退傾向の改革はできないと見る方が妥当である。

郵政民営化といっても、「民にできることは民で」の掛け声だけで、小さい政府を目指すのが、国力の回復、国民の意識の高揚になるとの甘い見通しでの構造改革は、表面的な繕いだけで終わっていることは、この4年間で十分に解って来た筈である。

その改革の方向は、民間活力の利用と促進は必要としても、行政の権限の肥大化と硬直化を打破することが必須である。
それの具体策として、「地域主権」「州政府の構築」「県の仕事を市に移管」などの制度改革が打ち出されている。

この狙いと方向は解るにしても、なぜ、国のレベルではダメで、「州政府」という地域に主権を移すと良いのか?
この説明はかなり時間を必要とする。
そこで、州政府のモデルになるような事例をいくつか引いてきて、効果が解るようにできないかと考えると、欧州の事例がそれに該当する。

ひとつの例としてデンマークという北欧の国を採りあげる。
この国は、農業と酪農の国と思われるが、GDPのレベルでは日本の中国地方(将来、中国州と呼んでもよい)の規模より少ないくらいである。
そこが10年以上の間の発展は目覚ましいものがある。
再生可能エネルギー産業(風力発電が主)に国策として力を注ぎ、国民もそれを支持して今や風力発電の技術立国となって発展している。

また、教育面においても、国策で長期の人材育成の観点で取組み、いまや世界一のレベルに達している。
EU諸国の中では抜きんでて「環境・教育立国」として優良国家となっている。

地域主権は県の仕事を市に任せる、ことから始まる。 

2009-08-29 | 暮らし・健康問題
国の仕事を地域に移管していくことが「地域主権」の根幹であるが、同時に、現在の地方自治体である「県の仕事」を市、町に移管して、住民の身近な役所で現場に即した仕事をできるだけ多くしていくことが必要である。
現在の仕事でも、県と市の2重行政になっている役割がかなりある。
しかも、市の当局者の意見では、県は指図をしてくるだけで、実際の仕事は市でこなしていかなければ、日常の業務は進んでいかない。
もっと任せて欲しいというのが本心である。

大阪府と大阪市の関係が、マスコミに採りあげられることが多くなっている。
話題性のある若手の橋本知事が今までのしがらみを断ち切って、大阪府の財政破綻を立て直そうと奮闘している。
その中で注目すべきは、現在、大阪府でやっている仕事の大半は、市に移管していく、という方針を打ち出していることである。
これには府議会の抵抗も多いようであるが、方向性として全く正しい。

これは、国と県の関係を見直すと同時に、もっと現場に近い、「県と市の関係」で見ていくことになる。
より生活に密着した仕事を、身近な「市の行政」でできないか?
この課題をひとつずつ検討し直して、行政サービスの本質を検討し直す。
ここが、地域主権の原点になる必要がある。

地方自治体の首長や議会が、国に対して権限と財源の移譲を求めている。
これはマスコミにもよく採り上げられるから、検討も進んでいるが、市の首長や議会が県に対して権限を委譲して欲しいとは、なかなか言い出せない。
それは、市の財政、財源が乏しい状態であるところが大半であることによる。
まず、始めるべきは市の行政の無駄を省き、財政の健全化の計画を立てたところからは、財源を市に移管して、仕事も権限も移していくべきであろう。

国と市・町の行政単位は、それぞれの理由と歴史経過で成り立っている。
しかし、県という行政単位は、明治政府のときに、江戸幕藩体制から変革するときに、従来の藩体制を見直しながら、3度の改訂をして、今の1都2府43県1道、となっている。
明治時代における交通や通信などの規模を考えると、この程度の広さの地域に分けることが、行政の効率を維持する上で適切と判断したのであろう。
それが、100年以上もたって、交通の技術と規模は飛躍的に発展した。
通信は、日本全国はもちろん世界の主要地域とは、日常の仕事には全く差し支えないくらいにネットワークが発展した。

そのような技術経過と発展をみていくと、現在の国の権限の大半を移管するにしては、県という単位、地域の分割は不都合なことが多すぎる。
そこで、県の大半の役割を市の行政に任せることで、県の行政の半分以上は必要がなくなる。
其の浮いた行政能力、人材、インフラをそのままの「県の行政」ではなく、地域で統合してより効率的な「州の行政」単位とすることが必要になる。

地域の行政サービスを向上させる狙いで、「平成の大合併」の政策が進められてきた。
まだ、改革の途上であるので、効果が十分に出ていない。
その上、財源と権限の県からの委譲が順調に行われていないので不満も多い。
だから元の方が良かったというのではなく、前に進む必要がある、財源と権限の移譲を「住民への行政サービス」という観点で、市と県の間で、十分に見直していくことが、必要な段階である。

1999年から2009年のあいだに、市町村の自治体数は、3229から1776に統合された。

住民サービスの観点から、県の単位を見直して「州の行政」単位を21世紀の基本に据えて、どのように変革していくか?
これが、次期政権の担う、国策の最重要な課題である。
KM(変えることを目指せ)。

国の官庁は半分以下にできる。基本は州の行政に移管する。

2009-08-28 | 暮らし・健康問題
このブログでは、暮らしと健康を守る国にする方策として、「地域主権」を採りあげている。
市民としての権利を最大限に保障し、身近なサービスをしてくれる役割を「役所」に委託して密接な関係になっている。
毎日の暮らしに役立ち、健康的な生活を続けていくために必要な環境を整え、保守してくれる。
しかし、国という役所になると、生活から離れた存在になり、その役割と市民生活とはどんどん遠くなってしまう。
そして、本当に役に立っていないような仕事を、中央の官僚の頭の中で作り出して、税金を私的な利益の追求に使いだしている。

これを防ぐことが、「地域主権」の狙いである。
国においてやってもらわないと困ることだけを、国の官庁に委託していく。
その運営の方針と法律と予算を決めるのが国会という構図である。
したがって今、国がやっている仕事を地域に移していく、という発想ではなくて、
まず地域にとって必要なことは身近な「市の役所」の仕事とすべきである。
そして、「市」という単位では狭すぎて、多くの地域、市、町にまたがるような仕事は、地域を全体として計画的に見ていく「州」という組織をつくり、そこで多くのことを決めていく。
「地方分権」という言い方ではなく、「地域主権」が正解である。

前に書いた様に課題として、交通体系の将来をどうしていくか。
自動車や鉄道との役割をどのように調整していくか。
新幹線の拡充や高速道路の延長や、料金をどうするかなど、地域『州』としての活力を引き出す交通の在り方を描いて、そこに優先度を地域『州』で決めて実施する。
国が関与する必要はない。
中央にいる「国土交通省」の官僚は、それぞれの思うところの「州」の官僚となって、存分に企画力、調整力、実行力を発揮していくことになる。
これは当の本人にとっても良いことである。

また、国土の保全や河川の防災管理、それに関連する上流地域の森林の保全と更新などの仕事は、霞が関の中央官庁にいる必要は全くない。
それぞれに地域に密着して、地域の特性に合った保全の方策や、予算を使うにあたっての優先度を評価し、税金を投入する必要にあたって効果的な使い方を真剣に熟慮して実施に当たる。
いい加減なことしていては自然の力に負けて、天災ならぬ「人災」を招いてしまっては、それこそ一生の不覚となるので、真剣さは違ってくる。
中央官庁から出向させられて、1年から2年を無難に過ごすような今までの制度は、即刻、止める必要がある。

このような交通通体系、国土保全、河川管理、森林保全など、地域に密着している仕事は、「州政府」に移管するのが妥当であることは誰でもわかることである。
これを実行しないということは、本来の目的よりも、その利権、権益から発生する私的利益の追求を目的としているからである。
これらの業務、権限を地域の「州政府」に任せることは、大多数の合意を得ることができるであろう。
その際、州の区分けをどうするかは、異論の出るところである。
これは、九州や北海道、四国などの明確に区分しやすい地域から始めていくような、段階的な実施策も検討してみる必要がある。

労働環境の問題や年金問題など、国として一定以上の保障の必要性がある課題は、最低保障条件を国で決めて、それ以上の上乗せは地域社会に任せることも考えられる。
「州政府」の住民に対するサービスを、それぞれの地域社会で創意・工夫して特徴として行くことも、活力を生む源泉になる。

こうしていけば、ほとんどの仕事は、中央政府より「州政府」の役割にした方が、市民へのサービス、保障は向上する筈である。
このように考えていけば中央政府の官庁、官僚の数は半分以下にできる。
国会議員の半減の次には、国家公務員の数を半減することである。

地域主権に改革するメリットは、大幅な経費の削減になる。 

2009-08-27 | 暮らし・健康問題
地域社会を活性化して日本の活力を再生することこそが、21世紀の重要な課題である。
しかし、明治維新から続いてきた「中央のお上に従う習性」は、なかなか抜けるものではない。
今後の改革の努力と並行して、まず、地域の人たちの意識の改革が先行する必要がある。
それには粘り強い信念と身近に感じるメリットの両面が必要であろう。

20年以上も前に国鉄の分割民営化が行われた。
当時の抵抗勢力も絶大な力を持っていたが、国庫に対する負担は大変大きなものであり、これが改革を後押しする大きな動機になったことが、分割民営化の改革の力になった。
今は、国庫に負担をかけることもなくなり、上場した会社、JR東、JR西、JR東海は、黒字体質になり税金を国に納めている。
分割されて民営化したので、各社の創意、工夫を誘発する仕組みが備えられて、利用者の満足度も向上している。

郵政民営化にあたって失敗と思われる内容は、郵便貯金会社を全国一体としたことである。
これは、前回にも書いたように分割して民営化すれば、分割された各社の創意・工夫が引き出される構図にすることが出来る筈である。
金融業を規模の大きさで競う時代ではない、と認識すべきであろう。
今はまだ、民営化会社の株式を政府が100%持っている段階であるから、地域の活性化に貢献する金融会社の在り方を検討して、その役割を効果的に発揮する分割会社化を考えるべきである。
この場合には、地域はその会社の運営においても一定の責任を負う仕組みにして、民営化の形体にはこだわらない方が良い。
次期政権党の腕の見せ所となる。

そこで、国鉄や郵政のような事業体の場合と違って、国政、地域の行政を担う組織と制度の問題になると、さらに難しい局面がある。
どんなことに対しても抵抗勢力が存在し、旧態依然の状態に戻そうと拘りを持って反対する。
そこを打ち破るには、選択する権利を持った国民、つまり選挙民の支持を圧倒的に獲得しなければ、民主主義の時代には進まない。
武力をもった中央政府が、上からの命令で改革するというわけにはいかない。

地域主権について、民主党のマニフェストには方針だけを書いてあり、その中身は一向に判らない。
そこで昨日、書店で見つけた著書、
「地域主権型道州制が良くわかる本」江口克彦著、PHP研究所
の数値を参考にして、このブログで要点を書いてみよう。
本の内容とは一致しないのは、私の見解によって、違った視点を加えていると理解していただきたい。
ただし、数値はかなり参考になるので、引用していくことを了解ください。

取り掛かりとして、大きな点からいくと、中央政府の大きさは、簡単に言うと半分に減らすことが数値面での目標になる。
まず、国会議員は半分以下にする。
特に参議院は、地域主権の代表による少数精鋭の議会にする。
アメリカの上院のようなイメージである。
100人以下にすれば、有名タレントであったというだけでは当選をしないであろう。
衆議院は、小選挙区の300人をベースとして、選挙民の1票の重みを均等にすることを目安に、選挙区の統合・分割を行って、240議席以下にする。
つまり、国会議員の総数は、半分以下になる。

ここから手をつけなければ、既得権を持った抵抗勢力の権益を狭める「国の権限の移譲」などはおぼつかない。
まずは、自分のところから始める気概が必要である。
誰でもわかるように、これで、国会議員関連の必要経費は半分程度になり、国の赤字削減に真っ先に貢献できる。

郵政民営化の見直しは、地域活性化の視点で検討する。

2009-08-26 | 暮らし・健康問題
日本が明治維新以来の中央集権制度で、ある程度の成功をおさめてきたことは、誰しも認めるところである。
しかし、太平洋戦争後の経済成長を遂げた後では、中央の政官財の癒着構造が日本の活力を邪魔するようになってきた。
既得権を得た組織は、それを維持することに専念して世の中の動きから、遅れることばかりで、後手後手に回っている。
特に郵政族といわれた勢力は、郵便貯金の利権に群がり、活力を奪ってきた。

この既得権構造を破壊する上で、小泉内閣の郵政民営化は、大きな改革であったことは間違いない。
しかし、4分社化(郵便局会社、郵便貯金会社、簡保会社、郵便会社)の方策は、効果的かどうかは未知数であり、これからの問題は山積みである。
小泉首相は既得権構造を壊すことに執念をもやし、郵政選挙という、大きな賭けに勝った。
しかし、そのあと、どうするかのビジョンもなかったので、熱意を喪失して、道半ばで自分から退陣をしてしまった。
どうも、将来像をどのようにしていくかの意思を確立していない状態で、まず破壊しておいてから考える。
という姿勢であったようだ。

それに対して、郵政民営化の先をどうするのが良いか、どこの政党も、政治家もビジョンを示していない。
民主党の郵政事業への取り組みは、4分社化を見直すとしているが、事業の中身をどうしていくかは皆目わからない。
マニフェストには、「郵政事業における国民の権利を保障するために、また、国民生活を確保し、地域社会を活性化することを目的に、郵政事業の抜本的な見直しに取り組む。」と書いてある。
しかし、内容については、これでは何も解らない。
とにかく小泉内閣の郵政民営化には、反対だったのだから、今の路線を踏襲しないというだけである。

郵政民営化といく呼び方は誤解を招く元である。
郵便事業そのものは、大きな問題ではない。
問題の根幹は巨大な郵便貯金とその運用を政府の官僚組織が私物化して、郵政族といわれる既得権を守る勢力の資金に使われていたことにある。
200兆円以上の資金が、不透明の状態で運用されていて、どこが利益を私物化しているかが見えない金融を、長年にわたって続けてきた。
これを破壊する必要はどうしてもあった。
ところが、郵政民営化反対論者は、郵便局の数が減って地域のサービスが低下してしまうとか、郵便料金を値上げしないと赤字になるから、弱者へのしわ寄せが問題だ、などと、本当の問題点を隠すようなことばかりを言う。
国民は、その言葉に長く騙されてきた。

民主党のマニフェストには、「地域社会を活性化することを目的に郵政事業の抜本的な見直し」に取り組むとしている。
これこそ、今後の本当の課題であろう。
200兆円を超える国民の預金を預かっていて、しかも、低金利で運用できる巨大な資金は、使い方によっては、ものすごい恩恵をもたらす。
しかし、現行の制度では、全国一律の中央統制型の巨大銀行を作った状態であり、これを今の金融資本主義の中の競争状態に参入させる、という構想である。
私益を追求する銀行と同列において、株式会社化して競争させる。
これによって何の効果を狙っているのか。
民営化すれば、無駄な仕事をしなくなるから、利益を生む会社になる。
それで良いというのか?

ここは地域主権の流れとあわせて、地域を活性化するための計画的な投資を支援する金融機関に育てる必要がある。
その第一歩としては、将来の地方分権の組織に密着できるように、地域ごとの分社化、つまり「JP九州」、「JP北海道」など、地域と一体となって、地域の活性化を最優先にする金融機関を発足させることであろう。
ただし、郵便事業は全国一体のままにしておく方がメリットがある。

政党の公約で評価の低い政策は変更すべきである。 

2009-08-25 | 暮らし・健康問題
選挙も後半に入って投票する判断は、政党の掲げる公約に注目が集まるようになってきた。
人気取り的な政策の羅列も目立つ様で、付け焼刃的なバラマキ政策だったり、単に見直すという表現や検討するなど、無責任なものも羅列されている。
まだまだ、日本のマニフェストのレベルは、未熟成の段階にとどまっている。
しかし4年前の政権党の公約は、その後の政策遂行と成果についての評価も曖昧なままで、なし崩しにカラ証文となっているのに比べれば、少しは進歩したのかもしれない。

その公約の中でも明らかにおかしい、とか、再検討が必要なものが混じっている場合は、どうするのが良いのだろうか。
たとえば、民主党の掲げる公約には、高速道路は段階的に無料化していく、ガソリン税、軽油取引税、などの暫定税率を廃止する、としているのは、どう見てもおかしい。
その一方で、「地域主権」を確立し第一歩として自主財源を大幅に増やす、と言っている。

地域に主権を移すというならば、高速道路の料金を値下げするとか、無料化していくなどの権限を、地域の自治体の判断の任せるべきではないか。
値下げや無料化には当然、財源が必要である。
その財源の使い方を中央の政権で自分たちの権限によって、あれこれ指示しているのは中央集権の考え方になっている。
それは地域に任せて、値下げでもよし、高速道路の延長でもよし、歩道や自転車道の整備もよし、として優先度の判断は地域の議会と首長の権限にする。
こうしてこそ地域主権である。

また、現在は化石燃料にかかる税率を暫定税率による上乗せで、ヨーロッパ諸国並みの税収を得ている。
アメリカなどの化石燃料浪費国は別として、今後はさらに税率を上げてでも、石油の消費量を抑える方策に転じなければならない。
その上、地域の自主財源を増やす、と言いながら、せっかくの地域の財源になっている軽油取引税を引き下げるなど、まったく矛盾している政策を掲げている。
軽油取引税は、地域の自主財源にしておき、ガソリン税も暫定税率分はすべて地域の自主財源に移管するべきであろう。

地域主権と言いながら、その主権となるべき課題を具体的に検討していないから、こんな、お粗末な政策の羅列になる。
どれだけ地域に近い自治体に権限を委譲できるかどうかが、地方分権の基本的な流れである。基本的な原則の柱を立てたら、あとは地域社会の判断の委ねる考え方に転換しなければならない。
永田町であれこれと財源の取り合いをしたり、霞が関の官僚の入れ知恵に頼ったりしていては、「地域主権」が実行できるとは思われない。

郵政民営化の後の方策についても、考え方がまったくはっきりしない。
小泉内閣において、とにかく、郵政族の抵抗を打ち破り、権益を政府に戻しておきながら、地域社会への恩恵を少しも検討していない。
今の郵政民営化はダメだ!と言いながら、それならば、どうしていくのが21世紀の地域主権時代にふさわしいか?
どこも具体策は出していない。
これでは、マニフェストとしては落第であろう。郵便貯金の資金は200兆円に達する。
これを地域社会の開発、発展に活用する方策を立てるべきである。
その一番にやるべきは、全国一体のJP(日本郵政会社)を、地域主権に沿った形体に分割していくことだろう。
まずは取り掛かりとして、JP九州、JP北海道を分離することである。
そうすれば、その分離された企業の経営者は、地元に張り付いて、骨を埋める覚悟で真剣にとりくむであろう。

地方分権制度は、お金の流れを地域主体に権限を移していくところから始まる。
中央にいて地域社会のことを指図する構図から、早く離脱することが活性化のもとになる。

地方分権は必然だが、具体策はまだ検討もしていない。 

2009-08-24 | 暮らし・健康問題
今度の総選挙でのマニフェストでは、どの政党も地方分権の必要性をかかげている。
しかし、中身を見てみるとまだ、何も具体策がなく、考え方も全くバラバラである。
前回のブログで書いたような「交通体系」と「国土の保全」(河川、山地森林を基本)を主軸にした権限と責任の移譲を採りあげているところはない。
では、何を目的に地方分権をして、どのような行政責任を移譲するつもりなのか?
今の段階では全く見えてこない。

「交通体系」、「国土保全」のほかに、行政の効率と地域の自立を促進するためには、地方に権限を移した方が良い項目は何か、良く解らない状況である。
どの政党も地域自治体も検討していないのではないか?

明治時代に中央集権国家をつくり、太平洋戦争の時までは、何でも国が関与するのが当たり前であった。
廃藩置県という一大改革の後は、県知事を中央からの官僚を派遣して支配をしていた。
戦後の民主化の改革で、県知事を選挙で選ぶことにしたが、それ以外は何も変わっていない。
だから何事も中央の指示を待つ姿勢が染みついている。
自主財源が少ないこと言い訳にして、地域で自立的に行える地域社会への行政サービスという視点が欠けていた。と言わざるを得ない。
まず、地域社会は自分たちに任せてくれ!と要求しなければ始まらない。

「交通体系」の充実などは地域に計画と実行の優先度を任せるのが一番良い。
しかし、今のような県単位の大きさで、交通体系の将来を計画するには、地域の規模が適正であろうか?
北海道や九州が、その規模がちょうど海で区切られているので計画する単位として都合が良い。
四国の4県を独立して扱うのは、規模が小さすぎる感じもする。
しかし、どのような単位での地方分権を行うのが良いのかは、中央で勝手に区分して押し付けるのは避けなければならない。

今、世の中で議論の俎上に上っているのは、「道州制」などと言って、中央の専門家と称する人たちの勝手な区分で、頭の体操の領域にとどまっている。
今後の国の姿を100年にわたって規定していく、大事な分権制度であるから、無理押しをするのではなく、地域同士の十分な検討と合意が先であろう。
その合意を得る基準は、何を分権社会の基本にするかである。

地方分権の狙いには、国の行政機関との重複する部分をすべて地域に移して、無駄な経費と調整の労力を省くことにある。
そして公益的な事業において、国が指図をしたり検閲したりして、あれこれと干渉することを減らす。
「国土の保全」関連や「交通体系」関連の補助金は、すべて、現場に密着している地方自治体の計画に任せて、一括して国から配分して責任と権限は移譲する。
民主党のマニフェストには、その趣旨に近い政策が並べられている。
実行においては、既得権勢力、特に霞が関の官僚群の抵抗は、激しいものになると予想される。

しかし、権限を委譲される側の準備不足、心構えの貧弱さの方が問題であろう。
上にあげた様に、権限を委譲されるには、県という単位は小さすぎる。
では、どのようなグループ分けするのかは、議論がまったくと言ってよいほど進んでいない。

そこで提案としては、北海道地区と九州地区を一つの大きな行政単位として、まずはスタートさせる。
そこに残っている国との重複行政部分を、すべて地域に移してしまう。
それを4年間くらいで実施して実績を上げて検証する。
いうなれば、経済特区ならぬ行政大特区の制度である。
特に九州6県は、実施していく上で大きな参考事例ができるであろう。

地方分権は交通体系からはじめて、国土全般に広げる。

2009-08-23 | 暮らし・健康問題
中央集権国家の体制は、明治時代の世界の情勢の中では必須の国策であった。
海外の列強国に翻弄されないために富国強兵に最重点を置き、国を侵略から守り、海外への輸出振興により、国の財政を豊かにしていくために必要な方策であった。
しかし、国防政策は別格として、経済の振興や地域のインフラ整備などは、すでに一定レベルを達成して、今は自立していくことが必要である。

いつまでの国の官僚が関与していた為に、地域社会の自立を損ねていた。
中央集権は、弊害の方が多い面が増えてきたのに、昔のままの体制を引きずって来ている。
有権者の認識も地域社会のことは、自分たちの身近の問題として、任せてほしいという感覚になっている。
中央の官僚群は、いろいろな理由を並べたてて、地域に任せると問題が出ると言いだして、予算と権限を渡そうとしない。
これは、政権の責任でできるところから実施していくのが一番良い。

交通体系については、地域に任せる方がメリットが多い、と説明した。
北海道の交通体系の将来計画と実施の優先度の判断は、北海道に育ち、そこに住んでいる人たちの判断が妥当である。
何で中央の官庁の官僚や、それに追従している専門家の意見を入れる必要があるのだろう。
道路と鉄道と空路の整備を将来の展望に基ずいて、計画的に実行していく責任を移譲して自立を目指すべきである。

国が関与することは、各地域との連携、ネットワーク部分に限定すればよい。
そうすれば、中央官庁の優れた官僚群は、地域のことよりも日本全体のことを考え、世界の中における日本の将来像をじっくりと検討して、計画的に取り組める。
空路のおいては国際空港の整備を重点的に行えるし、港湾設備の革新も可能である。
新幹線技術を海外に展開するにあたって、JR各社に任せるだけでなく、国としての支援政策も重点的に行える。
今は、国内の地域との調整などの仕事が多すぎて、それに忙殺されている。
肝心の国としてやるべき大事なことが後回しになっている。

交通体系を地域の責任に移譲した先には、国土の維持管理も順次、地域に移していくべきである。
今は、河川の管理は国と地域にまたがっていて、縦割りの弊害がでている。
河川を管理するのは、防災と同時に生態系の維持管理も関連する。
しかし、国が関与すると国土交通省と農林水産省、それに環境省などの目的別の官庁が、それぞれの立場で干渉している。
「霞が関詣で」も必要になり、地域の自立を損なうと同時に時間と税金の無駄が発生する。
河川の管理は地域ごとに任せることである。

その河川の上流地域は、山地の森林管理が必要になっている。
森林関連は国レベルでは林野庁の管轄であるが、今までの林野行政は失敗の連続であった。
それにもかかわらず、林野庁の幹部は責任を一切取らずに、天下り団体を作っている。
これは河川の管理を地域に移すと同時に、森林の管理も地域に任せるべきである。
森林を健全に維持することは、山地の土壌の流出を防ぎ、山崩れを防止する。
その上、大量の雨が降っても健康的な森林が維持できていれば、雨水の流出は緩和されて河川の流量が抑えられる。
これで河川の流域全体をみた地域の安全が守れる。

地域の安全は地域の自治体が守ることを基本に据えれば、国があれこれと、指図をしている構図から変革される。
その関連の財源はすべて地域に移転する。そうして中央の役割は、国土の安全管理の基本となる技術の研究に力を入れることができる。
森林整備と河川の防災管理、それを基本とした道路の計画的な整備など、地域主体であればこそ、現場の必要性に応じた効果的な税金の使い方ができる。

将来の交通体系への計画と実施は地域社会の責任に。

2009-08-22 | 交通問題・自動車
高速道路はまだまだ必要だ!という地域もあれば、もう自動車交通ばかりを優遇する必要もなく、安心して歩ける歩道や自転車通行が安全にできる専用道にお金を回したい、という自治体もある。
国全体の道路が貧弱であった時代には、ガソリン税などの徴収を国に集中した上で、中央の官庁、昔の建設省、今の国土交通省に予算配分の権限を与えた。
その政策は、日本の貧弱道路を、なんとか一流国のレベルに引き上げる効果があった。

しかし、今の世の中の様にキメの細かいニーズにこたえるには、国、中央が関与しすぎるのが悪い結果をもたらす。
いまだに、自治体と国の両方の機関が地域の道路などを重複して管理している。
2重行政の弊害を生み、税金の無駄使いが発生する。
これは、道路についてはすべて地域社会に任せるべきである。
国は地域だけの都合で決めていくのでは不都合が起こる交通体系の問題に絞って、集中して予算を投じることで、良い成果を生むことに専念する必要がある。

このブログで提示しているような地域社会の交通体系を作り上げる上で、必要となる財源を地域社会に多く配分すべきである。
「交通快適化福祉税」の様に、目的を明確にした税制の整備、拡充を図った上で、国対地域の配分は3対7位を目安に配分する。
それも交通体系の整備が遅れている地域や、今後の投資の必要度が高い地域に重点配分して、交通インフラの充実度の格差をなくしていく。
地方分権はこのような目的を効率的に実施するために、推進するべきである。

地域社会において、主要幹線道路の容量が不足したり、高速自動車道の必要性が高いというならば、配分された財源を道路に投資する判断を地域で行う。
その代り、歩道の整備や自転車道路の設置などは、優先度の低い扱いで後に回す。
また地方都市で自動車の集中により渋滞の悩みが慢性化しているならば、公共交通の重点的な整備、路面電車路線の建設などによって、自動車の交通流を抑制して渋滞地域の解消にお金をまわす。
これも地域社会の判断によって、優先度の度合いは違ってくる。

バスや路面電車よりも、もっと高速の近郊路線電車を充実したい地域もあるし、その時に自動車利用者が電車に乗り換える「パーク&ライド」の設備を充実することも考えられる。
新幹線や在来の主要幹線に接続する路線をどのような優先度で充実していくかなどは、国が関与するとロクなことが起こらない。
今の様に建設の補助金欲しさに「霞が関詣で」をして、税金と時間の無駄使いをしてしまう。
肝心の現場にお金が回らないで、駆け引きや折衝、接待に浪費されてしまう。

地域社会の交通体系の将来ビジョンや、実施における優先度などの評価、判断を国の関与から外すことから始めるのが良い。
地域自治体の首長や議員は、自分たちの地域の交通の課題を、それぞれの危機感を持って真剣に取り組む姿勢に転換せざるを得ない。
財源があって、計画を立てる責任と配分する権限があれば、否が応でも責任問題が明確になる。
ダメな成果しか産めない地域の首長や議員たちは、地方選挙で明確に評価される仕組みになる。

今のままでは、地域はいつまでたっても国頼りの財源と無責任体質のままの、ぬるま湯のような状態で将来のことなど、真剣に取り組んでいく様にならない。
だから国の官僚は、ますます地域には任せられないと言って、予算配分の権限を離そうとしない。

悪循環を断ち切るためには、今すぐ、財源の地域配分と計画立案、実施責任を地域、自治体に移すことである。
地方分権は実践が必要である。

自動車依存から抜け出す交通政策の財源はどうする? 

2009-08-21 | 交通問題・自動車
20世紀を通じて、交通の主役は自動車に移っていった。
石油資源の関発がそれを加速し、自動車の技術革新を生み続けることで、いまや自動車抜きでは社会は成り立たない。
これからも自動車の技術進化と、道路などのインフラ整備は不可欠の課題である。
しかし21世紀においても、自動車に頼る交通体系にこだわる理由は一切ない。
むしろ、積極的に自動車に依存しない都市つくりや、地域社会の交通体系を目指すべきである。

自動車利用から発生する収益に基ずいて、道路の建設にばかり投資するのでは、いつまでも自動車依存一辺倒から抜け出すことは難しい。
それよりも「交通快適化福祉税」として財源を確保し、交通体系の進化に向けて、インフラの整備や技術革新の促進に費用を投ずることが考えられる。

自動車にかかる税金は多様である。
ガソリン税、軽油取引税、自動車取得税、重量税、保有税、そして、廃却時の費用としてリサイクル税、などが、時代の背景とともに創設されて財源として活用された。
ガソリン税と軽油取引税にかかる税率を、一時的に強化する、暫定税率もそのまま延長されている。
いま、道路はもういらないから税率を下げるべきという声も聞かれるようになった。

自動車関連企業からは、これらの諸税を、役割を終えた分から減税、または廃止していくべきである。
という主張が出されている。
一見、妥当性のあるように見えるが、それでは発想を20世紀のままに、留めておくことになる。
この財源を次世代のために有効に使うべきである。
それを、体系だって作り直すにあたって、将来の交通体系ビジョンを描き、その財源は「交通快適化福祉税」として、世論の納得を得て実現すべきであろう。

ではどこから始めるのが良いか。
財源の根拠にする理屈はいろいろとあるが、自動車利用者のなかで財源負担能力の高い人から、多めに税金を納めてもらうのが良い。
所得にかける税金は累進課税という考え方が一般的で、収入の多い階層からは税率を高くして納める。
自動車も同じ流儀で、価格の高い車両には、車両の購入時に取得税をかける、それも価格帯によって税率を変化させる。
一種の富裕税の考え方にする。

また、燃料消費量の多い自動車を所有する人から多めに税金を納めてもらう。
燃料消費基準を各車種別に定めて、基準の達成度に応じて税率を変化させる保有税とする。
余分に税金を納めたくないならば、燃料消費率の良い自動車を選択する。
これは全体の傾向を、より優れた燃費性能の自動車を開発し、販売する努力を加速することになる。
贅沢にガソリンを消費する自動車を利用する自由は保障する。
その代り、社会に対して多めの負担、税金を納めてもらう。
この考え方ならば、大多数の人が賛同するでしょう。

こうして得られた税収を、交通体系の将来ビジョンに沿った施策を実行する費用にあてる。
歩行者の快適度を上げる都市部には快適な歩道を充実する。
通勤や通学で自転車利用する人が多い路線は、自転車道路を優先的に設ける。
バス路線や次世代型の路面電車〈トラム〉路線を充実したい都心部の設備投資に使う。
地方においては高速道路の値下げや無料化の財源に使うのもよいだろう。
そして、自動車と電車、航空機とのネットワーク施設の利便性向上への投資など、地域で必要と考える交通体系に計画的に投資をしていくことである。

今の時代のままの交通体系ならば、暫定税率の廃止はあり得るが、次世代のことを考えないでよいのか?
自分たちだけの世代で楽をしたいのか・・・・。

気候過激化対策には、『気候変動対策税』を!では、交通には? 

2009-08-20 | 交通問題・自動車
世界的な課題の気候過激化対策においての政策は、省エネルギーと再生可能エネルギーへの転換政策である。
これは、選択の余地はない。
やるべきことは決まっている。
あとは、その財源をどのようにして有権者の合意を得て実施していくかである。
ここ数回で書いてきたことは、消費税の税率アップで賄うのではなく、『気候変動対策税』を早急に具体化して実現することに尽きる。
反対する勢力は大勢いても、代替案を持っているわけではなく、ただ、増税を嫌っているだけである。

まだ化石燃料による産業や経済社会にしがみつこうとするのは、頭の進化を止めてしまった「化石人類」と呼ばれる、哀れむべき種族である。
しかし、世の中にはまだまだ、自分たちのことだけしか頭に入らない人も多いので、先行きは楽観できない。
手遅れになるほど、「気候過激化」による損害は大きくなっていく。
その被害は必ず国民全体におよび、特に弱者に対して厳しくしわ寄せがくる。
格差社会が如何に社会の不安を招き、心が貧困になるかは、もう十分に身に染みている筈である。

ところで、交通体系の問題になってくると、どこも将来に対するビジョンも無く、ただタダ、自動車の技術進歩の流れに身を任せるだけと思っている人が大半である。
自動車のない生活など、考えてみたこともなく、漠然と今の生活の延長を想像しているだけである。
高速道路の値下げがあれば、すぐに利用者が増えて、渋滞の増加とガソリンの消費増加をもたらす。
それで、その先のことなど、少しも対策を講じていない。

高速道路の混雑を放置するのは無策の表れであり、何も真剣にかんがえていない愚かな交通政策といえる。無料にしても混雑をする懸念のない高速道路は地域の活動の支援策になるように限定すべきである。このような地域に対しては大きな恩恵であり有効であろう。しかし、主要幹線の高速道路を大幅値下げしたり、無料化するなどは一体、何を狙っているのか、理解に苦しむところである。

素人的に考えても、混雑のひどい地域や、いま以上に自動車利用があると渋滞の恐れのある路線は、現状の料金のままにすべきである。
そして、余力のある路線については、順次、通行料金を値下げして、一般の幹線道路の混雑を緩和するべく、高速道路の方に利用者を誘導することである。
値下げする基準は誰にでも解り易くすべきで、交通量の少ない夜間などを無料にする方策も検討すべきであろう。

そのような基準を提示して高速道路利用の効率化を図れば、経済活動の活性化に貢献できる。
今の選挙目当ての、乗用車のみの土日優遇などは、素人以下の発想としか思えない。
運送事業に携わっている人から見ると、平日の恩典はなく、土日に荷物を運ぼうとしても、交通混雑、渋滞の影響で到着時間が大幅に遅れたりして、余計な労力と燃料費がかかる。
経営者にとっても、時間のロスが大きいことは人件費を含めた経費の大幅な負担増になる。
自動車輸送関係者の恨みを買うだけの政策を長く続けることは、いつか反動が来るであろう。

眼先の高速道路の料金政策ひとつをとっても、これほど愚かな政策しか出てこない現状は、憂うべき「交通体系ビジョンの貧困化」状態である。

自動車交通はこれからも重要な移動手段、輸送手段であり、その効率的な運行を確保するような将来構想が必要である。
同時に自動車ばかりに頼らないで鉄道や、船舶、都市内の公共交通システムの将来像を具体化しなければならない。

消費税ばかりを取り上げるのは、金持ち優遇、弱者しわ寄せ。

2009-08-19 | 暮らし・健康問題
前回に消費税率のアップばかりを論議するのは、安易な方法に頼る政治の貧困の表れであると書いた。
国民に対する説明を適切にして、負担をどこに求め、どこに恩恵を移すのかを的確にしていくのが、政治の本来の役割である。
集めた税金を一律に配るなどは、政策としては最低のレベルである。
また、自動車利用者ばかりを優遇するような高速道路の値下げ、無料化など、説明しやすいバラマキの一種であり、元になる交通体系のビジョンなど、かけらも見られない低次元の政策である。

消費税のアップではなく、「温暖化対策税」という呼び名の『気候動過激化』抑止策は、現世代も含めた気候変動による被害を最小限にとどめようという、明確な将来目標がある。
そのための費用を、『気候変動過激化』にもっとも影響していく、炭素ガスの排出の多い部分、つまり化石燃料の炭素含有量に応じて課税を大きくする制度である。
考え方としては最もまともで解りやすい税金であり、欧州の一部の国では10年以上も前から実施されている。

しかし化石燃料にずっぽりと浸って発展したきた社会組織、産業界では、この税制度に対する抵抗は大きい。
つまり、既得権を得ている勢力が膨大な量になっている。
政治の役割とは、新しい社会環境や課題に対して将来のあるべき姿を想定して、そこに向けて進む道筋を示して、現世代の負担分を承認させることにある。
化石燃料に依存する社会や産業では、将来の多くの問題が予測され、早く脱化石燃料、再生可能エネルギー社会に転換していくことが求められている。
これを実現するための道筋と、手段を具体化して実施することこそ、政治の役割である。

選挙の有利さを求めることばかりを優先する公約の羅列や、既得権益を持った団体におもねることが重視されるような政治は、低次元の発想といえる。
増税にしても消費税に頼ることは、現在の段階で一番お金を持っている人や集団が有利になる税制であって、収入の少ない人や小企業にとっては負担が不利になる税制である。
今、社会での問題となっている格差の拡大、将来不安の増加に悪影響を及ぼす。
消費税のアップに経団連が率先して賛成しているのは、強者連合が最も有利になる税制度であることを証明している。

ここは社会の格差を減らしていく方向で、なおかつ『気候過激化』による損害の抑止を優先すべきである。
雇用不安、食糧の安定、安全を優先して実現することをめざす制度にしていく必要がある。
『気候変動対策税または、炭素税』(温暖化対策税)の創設は、優先すべき課題に対して、もっとも有効に働く税制度である。
これにすぐる対策は、専門家の間でも提案されていない。
あとは、政治家が眼先の利害関係や選挙に有利、不利などの個人的利益にとらわれることなく、勇気を持って実現に邁進することに尽きる。

『気候変動対策税』でも、化石燃料を多量に使っている商品は値上がりする。
電気料金なども確実に上がる。
既得権の団体は、必ず、弱者に負担がかかるから反対だと言う。
そして、代わりに消費税に方には賛成する。
これは偽りの姿勢で、本当は自分たちの負担の多くなる税制を嫌っているのに、
弱者の立場でモノを言っているようなポーズをとっている、不誠実な態度で、嘆かわしい限りである。
日本の経済界を代表するような歴史のある団体が、そこまで落ちぶれたか、と思わせるような事態である。

日本の世界での地位が落ちているのも、政治家のレベル、産業界の体たらくを見れば歴然である。
国民が早く、そのことに気がつくのが、まずはすべての始まりになる。

消費税に頼るのは安易な考え方で、発想が貧困。   

2009-08-18 | 環境問題
景気回復には財政出動が必要だといい続けて、国の借金を膨れ上がらせて来たツケは、次世代に回るのは確実である。
それに対して国民、消費者はすでに自衛策に入って国内消費の冷え込み、価格の下落を引き起こして、少しも回復の気配はない。
一部には補助金的なバラマキで刺激を受けても、全体でみると一向に回復する気配がない。
またまた、外需依存での回復にしか活路が見えない状況である。

ここで、景気回復後の消費税を引き上げるという公約が打ち出されている。
一方、4年間は消費税の引き上げはしない、という公約も出されている。
どちらにしても、増税の手段は消費税という発想に変わりなはない。
なぜ、消費税の議論だけになるのか。
それは、新しい税金を打ち出すよりも消費税を上げるという方が、説明が楽だからである。
一律にどの商品、サービスにも、税金を広くかけるので、異論が出る隙間がない。
産業界なども、経団連は消費税の税率アップには、賛成している。

一方、国民の方も、これだけ財政を悪化させている自分たちに世代に責任も、少しは感じるようになっている。
消費税の引き上げについては、6割近い人が、引き揚げもやむを得ない、と考えている。
いくらなんでも600兆円を超える借金をいつまでも返済しない、今の政府の無責任にはついていくことに、後ろめたさを感じる様になっている。
だから消費税アップ容認となる。
ただし、その前提には、役人の無駄使いを徹底的にあぶり出すことが先決との条件が付いている。

ここで、税収の増加を消費税に頼るのが、本当に良いのか?
もうすこし考えてみる必要がある。
前回のブログで、「温暖化対策税」について触れた。
別名を「環境税・炭素税」といってもよいが、これは消費税の様に一律に価格に税金を上乗せするよりも、化石燃料を多量に使っている商品やサービスに対して重くかかる税金である。
そして、化石燃料の使用量が少ないほど、税金はかからなくなる。
その価格にシグナルによって、化石燃料の多量使用が抑制される仕組みである。

単に税収の増加を狙うよりも、脱化石燃料社会に転換していくことを加速させる効果がある。
その税収は、再生可能エネルギー関連の産業や技術開発の促進、優遇に回すことで、さらに効果が倍加する。
この税制度は、専門家の間や環境団体の中では、すぐれた効果のある制度をして、10年以上も前から提案されてきた。
にも関わらず、政治の課題にあがらなかったのは、増税を嫌う世論、国民、選挙民の反感を買いたくない、という心理である。
そして、それ以上に化石燃料を多用している旧時代の産業界の方から反対論が強かったためでもある。

しかし10年以上もグズグズしていた為に財政の悪化も進み、再生可能エネルギーの普及促進も、先進国の中では大幅に遅れをとってしまった。
新しい税金の導入の議論を避けていられる段階はとうに過ぎてしまった。
総選挙後にはすぐに、制度の中身と適切な税率についての議論が必要である。

国民も少しは聞く耳を持ってきている。
気候変動の問題は次世代の問題にとどまらず、すぐそこにきている気候の異常現象に生活の破壊や損害を頻繁に受けるようになってきた。
「地球温暖化」などという、生温い呼び方したのが、そもそも対策を手ぬるくしている。
「気候変動」というのが妥当で、むしろ『気候の過激化』と呼んだ方が適切であろう。

国民は『気候過激化』に対する防止策に全体で協力する義務がある。
それには、「適正な税制度」の創設で、速やかに実行可能な対策に対して集中的に予算を回す必要がある。
そして、増税に対する十分な説明と納得を得る必要がある。

増税は賢い制度で実現し、効果的な支援策に回す。 

2009-08-17 | 暮らし・健康問題
無駄使いの排除といえば誰も反対しないし、聞こえは良いので経費削減の大合唱になる。
しかし、削減していけない経費がある。
それは働く人の収入源である労働分配率、最低賃金、超過勤務手当の割増率である。
この経費を削減することの弊害は、ここ20年ほどの景気低迷、消費減退で明らかであろう。
小泉政権の構造改革路線の最大の失敗は、この配慮がまったくなかったことによる。

では最近の税金の無駄排除のままでいいのか?といえば、経済活動へのマイナス効果以上に、歳出増加が必要である。
削減した予算を新規の政策に回してしまうのでは、財政赤字は改善に向かわない。
だから財政改革の本命はやはり増税である。
これは国民には人気のない政策で、どの政党も及び腰で、一切増税を言わない政党もある。
これはやはり無責任の態度であって信頼は得られないだろう。

民主党は政権をとれば財政再建に無責任ではいられないので、「温暖化対策税」の新設を公約に挙げている。
しかし、中身は見えないし、その位置ずけは曖昧な状況である。
マニフェストの要旨では、
◎将来、ガソリン税、軽油取引税は「地球温暖化対策税」に置き換える。
◎自動車関連暫定税率の廃止により、2.5兆円の減税を先行させる。
としている。
これでは、実質が自動車利用者への減税措置であって、温暖化対策となる「再生可能エネルー普及策」への予算配分はできない勘定になる。

国際交渉の目玉になる気候変動枠組み条約の2013年以降の削減義務において、民主党は1990年比で2020年には25%の目標数値を打ち出している。
その一方で、高速道路の無料化を公約に挙げて、自動車利用、化石燃料の使用増加を促している。
ガソリンと軽油の暫定税率の廃止による値下げでも、使用量は増えるの間違いない。
石油の使用量の増加策を打っておきながら、「温暖化対策税」で再生可能エネルギーの普及促進策を打ち出しても効果をなくしてしまう。
これは矛盾した政策である。

本来の「温暖化対策税」の中身は、化石燃料を使用する消費者に対して、より多い税負担をさせる制度にする必要がある。
そして、その税収を、化石燃料の節減になる技術や設備を購入する人への支援策、補助金に充てることである。
『バッド課税・グッド減税』の考え方に沿った制度を、検討していくべきであり、それと逆行する政策は、何を狙っているのか意図不明になる。
その意図は推定すると、選挙目当ての人気取り政策ではないか。
民主党のマニフェストの汚点のようなもので、自民党が攻撃するならば、この点を責めるべきであろう。
しかし、自民党はもっとひどいから、それはやらない。

「温暖化対策税」の名前ではなくて、同じ目的の税制度に『環境税、または、炭素税」と呼ばれる制度が、10年以上も前から検討されてきた。
これは、化石燃料に含まれる炭素量に応じて、新規に課税が上乗せされる制度で、石炭が一番重く、重油、軽油、ガソリンの順に課税が載せられる。
どの程度の課税額にするかは、消費者の負担感が許容されるレベルであるが、ガソリン1リットルあたりで、10円程度は許容されるであろう。
それによる全体の増収は、3~4兆円になる見込みで、この税収を温暖化対策に効果のある各種の政策に振り向けることが可能になる。

利用者は燃料費の負担増を嫌うが、それならば、買い替えによる補助制度を強化していくのが良い。
今の技術では、10%以上の燃費改善された自動車ならば容易に手に入る。
これは経済の活性化になり、消費者を脱化石燃料の商品にお金を払うように誘導することが新産業の育成、発展につながる。