庵KM

技術屋OBの環境問題独り言

経済問題。交通問題。健康問題。そして、日本の国創り問題。快適社会問題。

言葉の使い方の無神経さが信頼を損なう典型【事故収束】

2011-12-18 | 国語・日本語・漢字
野田政権は、12月16日に福島原発事故の「収束に向けたステップ2(冷温停止状態の達成)の終了を確認した。」と発表した。
マスメディア各社は、ノダ首相が記者会見で「発電所の事故そのモノは収束に至ったと判断される」と発言したのを受けて【原発事故収束を宣言】したとの表題で報道している。
しかし、【事故収束宣言】という言葉には、多くの懸念と問題点が潜んでいることで、その後の評論界での批判と異論が飛び交う始末に陥っている。

今の時期にあえて「ステップ2」の年内完了にこだわった理由は、いろいろと推測されているが、ノダ首相の思惑は、国際公約を果たしているとアピールし、「日本経済に悪影響を及ぼして、避難住民の不安を抱かせる状態を、一刻も早く脱したい。」との狙いであろう。
しかし、安易に【事故収束】を言及したことで、かえって逆の効果が出ていることに気がついていない様だ。
それは、言葉の使い方が『無神経に自分都合の意味で乱雑に扱う』ことに原因がある。

民主主義社会は、言葉を介しての意思の疎通と信頼感から成り立っている。
原発の大事故は、この「意思疎通と信頼感」を大きく破壊してしまったことが、今後も尾を引くことで、日本の社会を閉塞感に陥らせる悪影響をもたらす。
日本の将来に向けて、一番大事な信頼関係を創りなおす第一歩は、「用語」の適切な選択をして、言葉の使い方から始めなければならない。

【原発事故は収束】どころか、まだ、その入り口に立った程度の段階であることを「適切な言葉で国民と世界に」説明する、慎重な姿勢が必要である。
『原発事故の終息に向けての第一段階を越えた』と、国民に説明すべきなのだ。

「冷温停止状態」という「用語」自体が、初めから国民感覚とずれている。
本来は、専門家の間での「原発が正常状態で燃料が安定的に冷却出来て100度C以下に保たれた状態」を言う用語だが、原発は爆発し【燃料は破損、溶融状態で100度C以下】では、安定的とは誰も言えない。
それを【東京電力がステップ2の目標】とした工程表を、まともな議論も経ないで、「安定的な状態」と勘違いした政治家とマスメディアの責任である。

さらに【ステップ2】完了を、勝手に「事故そのモノは収束に至った」と記者会見で述べたノダ首相は、糾弾されるに値する民主主義破壊の言動なのだ。

現代では言葉の力と弊害を充分に認識して「低炭素」を見直せ。

2011-09-12 | 国語・日本語・漢字
経済産業大臣が早くも言葉の問題でつまずき、放射能という国民の最大不安要因である深刻な事態を、悪ふざけ気味に、「放射能をつけちゃうぞ!」と、子供の様な低レベル発言で辞任した。
今の時代は、マスメディアだけでなく、インターネット、SNS(個人発信仲間)など、少しの過剰な言葉の影響と氾濫で、思わぬ弊害を生み出すから、慎重に扱かわなければならない。
言葉によって「空気が作り出され、被害を被る人への悪影響」を、充分に考えるべきである。

今回のトラブルは、本人の認識の浅さと軽々しい言動が主な原因であるから、根っこは深くない。
しかし、言葉を不注意にとらえて、表面的な感覚だけでイメージを操作されることは、もっと根が深い弊害を生み出す。
このイメージ作りの策略を、言葉の選択と巧妙な論理で、国民の意識を洗脳して来たことで、今回の原発の大事故を招いてしまったことに、気付く必要がある。

それは、「低炭素社会を目指す」という、一見、聞こえの良いスローガンによって、日本社会は原発を承認だけでなく将来は大増設をする、という、今から見れば無謀ともいえる「将来エネルギー戦略」を、国家の中枢を担う人たちの意識を、原発推進に染め上げてしまった。
「低炭素社会」とは、言うまでもなく、温暖化対策を重視して「化石燃料の消費を減らすことを最優先にしたエネルギー社会」のことである。

将来世代に多大の悪影響を及ぼす炭酸ガスの排出を減らして、地球温暖化を少しでも軽減しようという、環境問題に関心の高い人たちに共感を覚えさせる「意図的な言葉」を選んでいる。
それは、低炭素エネルギーと言えば、【原子力発電】が最も適していると言いたいからである。
このあたりの狙いは、このブログの2009年6月22日『低炭素社会はごまかしのための合言葉』と、6月23日『言葉の操作によってつくられる空気に流されるな!』で、その不条理と危険性を詳しく指摘しておいたから、関心があれば、再読していただきたい。

当時は「低炭素社会」というスローガンを、政治家、有識者、そして中には、環境問題活動家なども、好んで使うスローガンとなっていた。
しかしこれは、本当のことは原子力発電の再活性化を狙いたい勢力が、当時の『温暖化対策を最優先課題とすべき』という風潮に、うまく便乗しようとした作戦であった。
その時期は既に、原子力発電は「安全性が万全ではなく」、安全を厳しく言われるので「発電コストも高く」なってしまい、新規の建設は「経済性が全く合わない」、過去の発電技術となっていた。
アメリカでは、1979年(スリーマイル島原発事故)以降は、新規建設ゼロである。

これに対して、日本では相変わらず原発の【安全神話・安価な発電・安定した電源】という、刷り込まれた意識が健在であった。
そして、相次ぐ原発関連の不祥事で陰りが出てくると、温暖化対策に便乗した「低炭素社会」の合言葉を前面にうちだしたのである。
原発の大事故以後は、軽薄なマスメディアもさすがに、この「低炭素社会」という言葉は、表に使うことはなくなった様である。

政治家やマスメディアという職業は、言葉を的確に使うことが基本で、慎重に扱うべきである。

心構えを前向きにする言葉の使い方をこれから始めよう。

2011-01-11 | 国語・日本語・漢字
21世紀の初めの10年間が、誤った政策によって、経済の停滞を引き起こした。
それは、【後ろ向きの言葉】の乱立によってモタラサレタと言ってもよい。
言葉を使って世の中に情報を流布する「マスメディア」の役割は大きいことを知るべきである。

昨日までのブログで書いた様に、誤った言葉使い、後ろ向きの言葉、ネガティーブな言葉がもたらす弊害は大きい。
1月2日のブログで、新産業の芽を育成して発展させるべき段階において、【負担】が増えるという言葉を乱発した産業界の罪は大きい、と指摘した。
それをキチンと分析もせずに伝えたジャーナリストも同罪である。
いまなら、『付加価値を上げるエネルギー』としての再生可能エネルギーは、世界中で認められているので、【負担増加】だと声高に言っていた化石派専門家は声を潜めている。

【省エネルギー】という言葉も、浪費をしない意味では正しいが、生活に必要な分までも【我慢】することは、人の心を縮こませる悪影響があり、国民の消費性向をすっかり縮小させてしまった。
経済専門家が、いくら消費活動の活発化を推奨しても、10年来の習慣になってしまった【我慢の省エネ】からは、簡単には抜け出せないだろう。
今は、ガマンでなく、収入減少による生活防衛の【省エネ】となってしまった。

菅直人首相が言いだした【最小不幸社会】という言葉もひどい感覚であった。
これには、マスメディアもあきれて、【最小】と【不幸】の言葉のイメージの悪さを指摘したので、すぐに使わなくなった。
管内閣の迷走ぶりを予感させる出来事で、【支持率の低下】に貢献した言葉であった。

誰が言い出したか不明だが【低炭素エネルギー社会】という言葉も、何やら陰湿な感じがする。
【低】という言葉には、もともと低いイメージがあるのに、なぜ使われるのか。
これは、原子力発電を推進したいグループが好んで使いたがる言葉である。
『再生可能エネルギー』は、ほとんどが炭酸ガスを出さないが、『バイオマスエネルギー』は、炭酸ガスを排出する。
しかし、排出した炭酸ガスは、適切な森林資源の維持、向上によって吸収される。
エネルギー利用しても、実質的に炭酸ガスの量は増えないとして、再生可能エネルギーとしての価値を世界から認められている。
原子力エネルギーは再生可能エネルギーではないので、優遇すべき仲間に入れるために、あえて【低炭素】などの、耳慣れない言葉を持ち出してきた。

これからは、もっと『前向きで肯定的な言葉』を使う様にする必要がある。
そこで、私は『快適エネルギー社会』という言葉を使い始めることにしたい。
『快適』には、生活を豊かにする(心身ともに)イメージがある。
再生可能エネルギーは、心も身体も『快適に出来る』、価値の高いエネルギーである。
原子力エネルギーは、炭酸ガスを出さない代わりに、核兵器拡散と核テロの【不安を増やす】。
このエネルギーは、誰にとっても【不快適】な不安増加社会をもたらす。

意識転換は呼び方から変える。議員は「先生」ではない。

2010-02-27 | 国語・日本語・漢字
日本は大きな意識の転換を必要としている時期である。
どのような意識を捨て、これから必要としていく感覚は、まだ多くの人には見えていない。
大きな問題はすぐには変われないであろうが、身近なことは、意識さえ変えればすぐにでも実行できることが多い。
自分が使う言葉から、この実行をしてみてはどうか。

以前のブログで(2009年7月14日)、政権交代の前ではあるが、国会中継やニュース報道のなかで、議員のことを「先生」と呼んでいる場面が多いことに、違和感を感じたので、
「これからは議員を先生と呼ばない。」という趣旨のことをかいた。
小さなことではあるが、このようなことからも意識の転換を図ったらどうかと言う趣旨である。
これが、議員の中にも実践している人がいることが解り、やはり少しが時代の流れの意識転換が進んでいると実感した。

本日の朝日新聞、(朝刊4面)のコラム欄での記事を引用しよう。
枝野幸男行政刷新相は会見で、記者団に要請したという。
「議員として『先生』と呼ばないでとお願いしてきた。皆さんは『大臣』と呼ばないでほしい。不自然な慣習には乗っからなくてもいい」と述べた。
枝野氏は閣僚就任前も地元の会合などで、「先生」と呼ばれると「 『先生』ではないので『枝野さん』でお願いします」とその場で訂正を求めてきた。
「国民目線」を重視する枝野氏としては、「大臣」と呼ばれる事で、特別扱いされないよう、自ら戒める意味もあるようだ。
行政刷新会議などの周辺のスタッフにも同様のことを求めており、「枝野流」を徐々に浸透させたい考えだ。

枝野氏は、大臣と言う役割を国民目線で実行しようという意識を重視している。
日本の経済の停滞や活力の減退は、官僚による支配体制がながく続いたことに大きな原因がある。
その官僚も長期の日本を置き去りにした、「省益、局益重視」の時代遅れの政策に固執して、
世界の流れの変化から大きく取り残されている。
国民からは、政治家の力でこれを打開して転換して欲しいという、意識が芽生えていた。
しかし、自民党政権は政治家になれば「先生」と呼ばせて特権意識をもち、当選、5回から6回に達すれば、能力いかんにかかわらず、『大臣』の役職を与えて、一時的な名誉職のような経歴で、箔をつける政治家の養成を繰り返してきた。

まさに、官僚支配の内閣、官僚統治の政治立国であって、政治不在が長く続いた。
国民が選んだ政治家が、中長期の日本のあり方をブレーンと一緒に賢い選択をして、国民の目に正確に伝えて、その実行の信を問うのが、国民の望むあり方である。
その結果が政権選択となり、適任者が国民の代表として行政の責任者である「大臣」と言う役職を真剣勝負でまっとうする。
官僚に祭り上げられた『メクラサイン大臣』などは、百害あって一理なし。
議員を『先生』と呼ばない意識転換をしたその先には、『大臣』と呼ぶのも変える時期が来たようだ。

これからは議員を先生と呼ばない。国語を正していくために。

2009-07-14 | 国語・日本語・漢字
昨日のマスコミは衆議院の解散と総選挙の話題で持ちきりであった。
国民の多くが暮らしを良くするには、政治の役割が大きいと期待を持っているからである。
その期待を受けて国民の思いを実現する役割が議員の使命である。
今後、各政党が実現する目標を「マニフェスト」として公表し、支持者の判断を受けることになる。
いよいよ、選挙活動は正しい方向に動き始めている。

ここで、少し唐突に思われる話題を提示して書いておきたい。
前から思っていたことであるが、なかなか話題に上げるチャンスがないので、今回の解散を機会に皆さんにも考えてもらいことがあります。

国会中継を見たり、ニュース報道の中で、議員のことを先生と呼んでいる場面に出くわすことがある。
これを聞いて私は大きな違和感を覚えます。何で、国民を代弁する代議士を「先生」と呼ぶのか?

国会議員にしろ、地方自治体の議員にしろ、被選挙権は25歳〈参議院は30歳〉からであり、今後はその年代の若手がどんどん政治の世界に身を投じて、一身を専門家としての活動に捧げる。
だから、ある面では尊敬を集める職業でもあるが、「先生」と呼ばれていい気持ちになっている議員が多く、旧体質の代名詞に思える。
本当に実力もあり、人格的にも優れた人がいることは確かだが、それを誰それ構わずに「先生」と呼ぶ習慣が、議員をして、特権的階級に思わせる意味合いが含まれている。
なんとも明治時代的な感じがするのは、私だけであろうか。

「先生」と呼ばれる職業は、辞典によれば、教育者、医者、弁護士、それに代議士など、となっている。
芸術や文化の面の第一線の先導的役割をしている方を先生と尊敬をこめて言うのは納得できる。
しかし、代議士のように本当の政治家として優れている人は限られているのに1年もたっていない新人代議士も含めて「先生」で呼びあう習慣は、いわゆる「永田町界隈」における俗語といえるであろう。
この際、旧体質からの脱皮を宣言する証しとして、「議員を先生と呼ばない運動」を起こし、定着させてみる気はないのだろうか。
これを宣言する政党を私は歓迎し、支持します。

俗語に近い言い方を使い続けていると、いつしかそれが本当の意味に近いと錯覚を起こし、意識の奥底に悪い意味の思い込みが生まれてしまう。
国語を使う時に本来の意味を吟味し、適切に使い続けることで、意識自体が適正に正されていく。
国語・日本語を大事に思わない人は、意識のうえでも、かなりいい加減な面があちこちに現れる。
漢字の読めない首相も困るが、俗語的な国語をなんとも不自然と思わない人種が政治の前線で動き、駆け引きをしているだけを思うと、情けない気分になる。

江戸時代の俗な言い方に「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」がある。
誰でも知っているように、これは専門バカ近い人を揶揄した言い方で、社会的な常識を欠いた人に言うときに使われる。
当節は「先生と呼ばれたい議員になりたくはなし」という言い方があっているのかもしれない。

さすがにマスコミの記事では議員を先生とは書かない。
しかし、政治記者などは取材の時には、永田町慣習に従って、先生と呼びかける。
これを早くやめるべきである。
政治は国民全体のものであり、特権的な人種のものではない。
明治時代ならば、実業界で功なり名を遂げた人たちの名誉職的意味合いもあって、世間も先生と呼ぶのに違和感を持たなかったのであろう。
しかし、今は平成の時代である。
明治の旧弊を引きずることは弊害の方が大きい。

政治は一般国民のものである。
その意見を代表する人を「先生」と呼ぶのでは不適切であろう。
○○さんと呼べば良いではないか。

インターネット時代に、日本語が滅びないためには。

2009-04-19 | 国語・日本語・漢字
閑話休題で、「専門家」と言われる人々が考えていることが、どうも表面的なことに終始していて、それを真に受けていては騙されてしまうと書いた。
私は専門家を軽んじるつもりは毛頭ないが、もっとしっかりと考えている「本当の専門家」の言うことを探している。

このブログは日本語で書いている。日本人だから当たり前と思っているが、インターネット時代に流通する大量の文書や記事、情報は、ほとんどが英語になる時代になっている。
インターネットの出現前から、世界の共通語は英語になる方向で進んできたが、それを猛烈に加速することになった。

そんな中で日本はこの後も、日本語を大事にすることが、どういう意義があるのか、漠然と考えていたところ、素晴らしい書籍にであった。その一部を紹介したい。
『日本語が滅びるとき・英語の世紀の中で』水村美苗 著 筑摩書房  2008年10月

この内容は中身が濃いために、私の表現力ではとてもうまく言い表せないが、日本語の価値については、「目から鱗がおちる」という陳腐な言い回しをこえた、納得させられる評論である。

インターネット時代に、英語が《普遍語》の地位にあるために、いやおうなく読み書きできることが必要になる。
最低でも、読むことができる能力は必須であり、意思を伝える必要のある職業のひとは、書ける必要がある。
今、世間で言われるような、「話せる英語」は、学校教育では必要ない。
趣味の延長でマスターしたい人は、どんどん、英語の世界にはいって修業するのが一番である。

日本の語学教育は、今のような中途半端な「無策」におかれていては、日本語が滅びる恐れがある。と著者は警告している。
「日本は国民の一部がバイリンガルになるのを目指すこと。」これを、基本にするべきであり、
「国語教育の理想は、〈読まれるべき言葉〉を読む国民を育てる。」
今からでも、この方向で教育や社会の仕組みを設定していけば、日本語は世界に誇れる「最高度に進化した言語(書き言葉)」としての地位を保てる。というのが趣旨になる。

これは、「国語(日本語)の問題」の真髄を説明していると思えるし、それ以外の【K・M】についても重要なヒントを与えてくれる。

日本語の将来については、筆者の力では何も論じられないが、このような「本当の専門家」の論説に注目して、《叡智を求める人》に近ずいて行こうと思う。
この《叡智を求める人》という日本語は、水村氏の著書に頻繁に出てくるが、これも私が求めていた「新しい視点」のヒントになる。

日本語は1500年以上前に、時の覇権国家、中国の普遍語であった『漢文』を輸入して公用語としてつかいだしたことから、《書く言葉》として、進化してきた。
日常に使う文書は、漢字を音読みした、「仮名」を発明して、公文書はカタカナを交えた「漢字カナ交じり文」を作った。
貴族の女性が発明した「ひらがな」は芸術的な特質をそなえて、世界に類のない、文学を生みだした。
そして、いまの日本では当たり前のように、「漢字かな交じり文」で、公用文、私用文、学術文、娯楽面、芸術面のベースに生き続けている。

しかし、インターネット時代には、意識的に守らなければ、それは滅びる運命に向かう。

【1/2技術】インターネットの道具は、老年世代こそ使えるようにするのは義務。

2009-02-18 | 国語・日本語・漢字
 昨日、友人とスカイプ談義をして、いろいろと刺激をうけた。
その中で、村上さんの提唱している、「1/2技術」「減らそう/止める」活動のことが話題になり、すでにホームページを開設している。とのことでした。
内容は、見てみることが先決ですが、とにかく、凄い量の項目がある。これを、すべて1/2に減らそう。というのですから、実行は大変な決意がいるようです。
しかし、減らす活動をしているうちに、精神面では豊かになり、心にゆとりができてくる。実践している村上さんは、年々、徹底してきて自動車の利用はすでにやめている。

エコロジスト(環境重視主義)は、省エネルギー、省資源を最優先で進めることが、すべての面で良い影響を生みだしていく。と主張しています。村上さんはさらに進めて、セコロジスト(せこいことが価値あるとする、精神運動)の実践をしている。
私なりに考えてみたことを、少し、掘り下げておきたい。

インターネットの活用は、まさに、セコロジストの主要道具ということです。
村上さんから推奨された「スカイプ」(画像付き無料電話)は、遠距離に住んでいる人同士で、時間さえ合わせられれば、地球の裏側からでも、姿を見ながら会話ができる。海外勤務を余儀なくされている親戚や友人との会話が、自然な形でできる。ということで、飛行機で帰省することが節約できる。
【1/2技術】の実例でしょう。

現在は、インターネットの通信環境のレベルが高くない地域では、この道具は利用できない。
村上さんの春夏秋の拠点である滋賀県では、残念ながら利用できないそうです。
高速道路ばかりにお金をつぎ込まないで、インターネット通信網をもっと充実すればよいのに、なにを躊躇しているのだろうか。総務省も、インターネット関連事業者も、【1/2技術】を知らないのでしょうか。いや、知っているはずだが、そこにお金を回す価値を知らないだけでしょう。
誰が教えてあげるのでしょうか。納税者であり、「スカイプ」の利用者、潜在利用者予備軍でしょう。
でも、今はその可能性のある「老年世代」は、「スカイプ」などの最新の道具を知らないし、また、たとえ知っていても、家族の誰かが(同居、または出入りする若い人)それに詳しくないとやれない。と思いこんでいる。

自分でやる。これが、これからの老年世代の義務である。
だから、パソコン、インターネット、その道具には、優先的にお金を回す必要がある。
自動車や高速道路に比べたら、ほんの一部のお金で済むはずであろう。誰か計算してくれないかな・・・。
これを、納税者の共有する優先課題として合意する。
政権交代よりも、これが優先する。では、どの政党がそれを公約にいれているか?
インターネットで調べればすぐ出てくるはずだが、それも、一覧表があれば、わかりやすい。

【1/2技術】の実現には、これも、やっておく必要がある。
有閑階級の老年にとっては、やるべきことがまた出来てきた。忙しい、忙しい。
いや、これも忙しさは半分にして、あとはじっくりと考える時間も必要でしょう。 


「ブログ」は開設したけれど、行く先はジャングルか。

2009-02-15 | 国語・日本語・漢字
どうにか「ブログ開設」の階段を一段上がったところで、「パソコン塾」の村上さんから、あとは、
『その他ブログ設定・ユーザー設定・テンプレート設定・コメント管理などをクリックし編集してみて下さい。』
とメールで伝えられました。言葉の意味するところはわからないままに、ガチャガチャやってみなさい。ということのようです。
まあ、年寄(60歳代)の手習いというところでしょうか。

ところで、昨日、わたしの篆刻の先生(篆刻は、別の機会に掲載します。)と話をしているなかで、《ブログ》の話題になりました。
先生(私より4歳年上)は、インターネット検索までは使っているが、それ以上のソフト(道具、ツール)は使わない。やはり私と同じで、個人メールが主である。
なぜ、《ブログ》には手を出さないのか、いろいろ聞いてますと、やはり、世間でいろいろと、ウイルス騒ぎとか、書き込みによるトラブルを耳にすると、危ないものには近寄らない、手を出さない。というのが理由のようです。
ホームページ開設には、興味を持ったこともあるが、やり方がトンと分からず、これも近寄らないことにしている。しかし、ホームページを利用しての情報検索は頻繁に利用している。
私も含めた「老年世代」は、この辺が共通の認識ではないでしょうか。

私の先生は、個人の趣味を超えたレベルの「大の魚通」です。行くと必ず魚談義になり、日本はまわり中が海にかこまれ、しかも、近海にくる魚が美味であることで、恵まれている環境にある。しかし、都会の人たちは、おいしい魚から遠ざけられている。なんとか、多くの人に魚のおいしさを知ってもらいたい。という思いで、60過ぎてから、「魚の卸商」の資格を取って、
「超・鮮魚だけを売る魚屋」魚のアトリエ”浜どんと”を始めている。
この仕組みについては、別の機会にするとして、”浜どんと”のことが、神奈川新聞に昨年の秋に採り上げられた。また、横浜市の広報誌にも採り上げられている。

そこまでは良いのだが、インターネット上で、この”浜どんと”のことを検索すると、標題がいろいろと出てくる。
先生は、自分の関与していないところで、自分の名前や状況がいろいろとインターネット上で書かれている。ということが、かなり不安があるようです。
新聞記事の内容は記者が取材にきて、発行後に新聞記事の内容を確認し、間違いがないか、変なことが書かれていないか確認できる。
しかしインターネットの中で(自分に知らないところで)いろいろと紹介されたり、コメントや評論が載っている。これは、いったい、どういうことになっているのか?
新聞・雑誌・テレビで、ずっと情報に接して来た世代にとって、インターネットの世界は、得体の知れないことが起きる警戒する必要のある世界である。という感覚です。
世の中には、善意の人ばかりではないし、そうでなくても、誤った伝え方や誤解も混ざった情報が飛び交うと、どんな被害が及ぶかもしれない。

さて、否応なくIT(いっと・と読む人もいる)社会に突入しているのだから、どうするのが、それに対して被害をこうむらないか?守りだけではなく、それを有効に使って、生活を豊かにするには、どうするのか?そのために制度やマナーはどうやって行くのが良いのか?いろいろと考えさせられるようです。
老人の独り言。

友人の勧めに従いブログを開設しました。

2009-02-13 | 国語・日本語・漢字
インターネット時代に突入して、早、10年以上。
私がインターネットの存在を知ったのは、1995年でした。
当時は、会社の中で新規事業関連の課題を調査して、将来の新規事業としての可能性を見ながら、有望なテーマを企画・立案していく業務の中で遭遇した。
まだ、携帯電話が出始めた時代で、パソコンの普及もあまりしていないので、
将来の利用価値など、おぼろげにしか解らない。
それでも、社内の人と話をしていると、仮想商店街ができる可能性とか、電子図書館が遠い将来には実現する。など、空想をかきたてることで、興味を持って調べていた時期がありました。
しかし、当時のパソコンの能力、通信環境などは、とても話にならないくらいに貧弱で、夢物語の範疇であり、実現はいつのことになるかもわからない。
インターネット関連の事業など、遠い将来の話くらいに思われた。

その後の、技術進歩の速さはめまぐるしいほどで、ホンの10年もしないで、電子商店は実用化して、世界中でしのぎを削っている。
電子図書館の実現も、そう、遠い時代ではなさそうである。

6年前に定年退職した後は、個人のメール交換程度でしかインターネットの利用はしていない。検索作業は簡単なので、たまに利用するくらいである。
そして、「ブログ」という何やら得体のしれない道具(ツールというらしい)があらわれ、それがどんどん普及している。
あちこちで、それにまつわる問題が起きるようで、情報の氾濫時代に突入した。
もう「ブログ」などの新しい道具は、老年には必要なく、書籍、新聞、テレビ、
映画、雑誌、など、既存の情報の道具を利用するだけでも、結構忙しい。

しかし3年前から、東工大のOBを主体として「環境問題」、その中でも最近注目されている「バイオマスエネルギー」の技術開発普及を支援するNPO団体に所属して活動していると、世の中に意見を発信することが、必要になってきた。
そして、ホームページに投稿したり、森林ジャーナリスト「ブログ」に投稿して、意見をもらったするようになった。

もはや、「ホームページ」や「ブログ」は、当り前の道具になってきている。
老人には、もう必要のない道具だとして、そっぽを向いている時代ではない。

その折に、学生時代の友人「村上和隆さんのホームページ」に出会い、電子メールで連絡を取りあった。
「スカイプ」を勧められて試してみたところ、予想以上に役に立つことに気がついた。そして、「スカイプ」(画像付き無料インターネット電話)を使って、話をしているうちに、「老人」は「ブログ」などは、「できない、必要ない道具」と思っている人が大半ではないか。と話した。
その回答として、パソコンの操作さえ教えてあげられれば、いとも簡単に開設できて、利用料金は無料のランクで十分に楽しめる。試しにやってみたら、とアドバイスされました。
できない理由をグズグズ言っているうちに、村上さんが、個人向け「パソコン塾」を立ち上げました。とメールで連絡してきました。
「インターネットおいてけぼり世代」の代表事例として、とにかく、「ブログ」の
開設をして、その功罪、利用方法など、実践してみなくては、とやかく言えない。
ということになりまして、「ブログ入門生」になった次第です。
思いつくままに、文字にして発信して見ようと思います。

バイオマスエネルギー支援のK-BETS