庵KM

技術屋OBの環境問題独り言

経済問題。交通問題。健康問題。そして、日本の国創り問題。快適社会問題。

後ろ向きの原子力依存から抜け出て、快適エネルギー社会へKM。

2011-04-30 | 快適エネルギー社会問題
国民の健康的で快適な暮らしの基本は、エネルギーであることを充分に認識した。
そのエネルギーを長期に渡って安定して使える為に、「長期エネルギー政策」が重要で、この方針を原子力発電の増強に頼ることは、大きな誤りであることがハッキリとした。

しかし、未だに「原子力発電に頼らざるを得ない」、と考えている国民が半数ちかくいる。
このブログを読んできた方には、すでに将来のエネルギーに対する展望が見えていて、今回の大事故を真摯に見つめれば、脱原子力エネルギー政策は可能であることが分かる。

原発推進派が謳い文句としたメリットは、ことごとく、ウソであることが判明した。
・安定した電源ではない。(トラブルや天災で、すぐに停止して、再稼働には長期の停止)
・電力コストは高い。(安全性を高める対策をして行けば、大幅に高くなる)
・環境にやさしいとは真っ赤なウソ。(事故による放射能汚染。高レベル放射性廃棄物の始末)
・日本の原発技術は世界一流とは、傲慢体質の放言。(各所のお粗末な設計と安全点検の不備)

これらのデメリットが判明した以上は、原発を現状から増やさずに、設計寿命のきた原発から順次、廃炉にして、2030年頃までに全廃することが、長期エネルギー政策の基本方針となるべきである。

その時に問題となるのは、一時的に電力の供給不足になる恐れがあるが、これに対応するためには、暫定的に天然ガスの火力発電所を、特急で増設する事を推奨したい。
この緊急措置を講じることで、安全性に懸念のある原発におカネを投じるよりも、経済性も優れた天然ガス火力発電の増設によって、いたずらに産業活動の制約をする必要がなくなる。

日本は原発事故によって、エネルギー供給の重要さを再認識した。
この時期に、エネルギーの長期展望を、再生可能エネルギー(自然エネルギーとも呼ぶ)を主体とした、安心出来るエネルギー供給に主力を置く国策とする国民的合意を図るべきである。

その時に、必ず反対論として出てくるのが、次の課題である。

・再生可能エネルギーは、まだ割高である。
・太陽光発電や風力発電は、天候に左右されるので不安定な電源である。
・火山国である日本は地熱発電の可能性が期待されるが、環境に影響の少ない技術が未熟。
・バイオマスエネルギーは、日本の限られた国土では、賄える量が不足。

これらの課題が多く残っていることは確かであるが、これらの技術革新は、日本が挑戦して世界の先端に行ける可能性が大きい分野でもある。
この技術革新と事業の拡大に向けて、積極的に投資と需要開拓を行うことによって、日本の長期の「デフレ経済」「需要不足のよる景気低迷」の解決に向けて、大きく動き出せる。

ここらで、暗い灰色の原子力エネルギー依存から抜け出て、将来性のあるエネルギー、『快適エネルギー』と呼ぶことにして、日本の社会が『KM、希望を持って』快適な生活を求める路線に進む様に願っている。
日本人の総意を向ければ、早期の「快適エネルギー社会」に進むことができる。

原子力発電至上主義の原子力ムラ社会を後押しした【悪徳人種】たち。

2011-04-29 | 核エネルギー・原子力問題
原発事故を起こした東京電力に対する国民の非難は、今や最高潮に達する情勢である。
もちろん、最大の責任は電力会社にあり、安全性をおろそかにしてきた事実は、つぎつぎに明らかになって、そのズサンさを指摘する事は、絶対に避けて通るべきではない。
しかし、それにばかりに目を奪われてしまうと、もっと、根源的な原因を見過ごすことになる。

このブログで指摘しておきたい視点は、この様な【東京電力非難の大合唱】の影に隠れて、安全性を軽視して原発の増設を後押しして、自分の地位を守ることの方を後生大事にしてきた、【悪徳人種】の存在を許さないことである。

まずは、電力コストを安く抑えることばかりに重点を置いて、国民の安全・安心などを後回しにした経済界、特に電力を多量に消費する業界の代表たちである。
今回の福島第一原発の大事故においても、事故が終息もしないうちに、経団連の会長が東京電力は国の指針を守り、基準を満たして発電事業をやって来たのだから、最終責任は国にある。
として、国民の感覚とは大きく外れた経団連経営陣の老害度のひどさをさらけ出した。

さらに、原子力発電所の核心部分を設計、製造した企業「東芝」が、今後も原発の受注を図っていく取組を続ける。とした経営陣の方針を表明した。
福島原発事故から1カ月しかたたない上に、事故の終息の目途も立っていない時期に表明するとは、その人格的な無神経さと企業の倫理観が疑われる姿勢である。
その上、「福島原発の廃炉案」を10年半で請け負うとした計画を、経済産業省に提出していた、という。

東芝の経営陣としては、原子力発電の拡大基調に乗った経営方針を掲げて、経営者として地位を与えられた関係上、株主の意向を最大に尊重する。
株式会社の理屈上は通用するが、世間には全く通じない感覚であり、会社バカも極まれりである。

だが、電力会社と原子力発電設備企業だけが、この様な自分の地位の保全を優先してきたわけではない。
昨年の8月には、当時の経済産業大臣、直嶋正行氏は、電力会社や原発メーカーの企業トップを同行して、海外の原子力発電設置計画国の政府首脳への、トップセールスを仕掛けていた。
この時の日本側の売り文句は、日本の原発技術や安全性の高さをあげ、その言い分を鵜呑みにして原子力族の使い走りの役をしていたのである。

政治家は、技術のことを詳しく知らないにしても、経済産業省の原子力族と電力会社、原子力関連企業の癒着体質を充分に知っていた筈である。
この様な【原子力ムラ社会】の弊害を知らない政治家はいない筈(いたら、新米のヒヨコ政治家)であるし、その様なムラ社会では、【安全性よりも利権とカネ、天下り先】の関係が最重視されることは、百も承知の筈である。
そのムラ社会の温存を容認しただけでなく、それを冗長する様な原発設備の海外輸出に、大きく肩入れをした時の政権、【菅民主党内閣】は、今回の大事故に対して大きな責任を負っている。

最大の問題は日本の原発関係者の傲慢さと、安全を守る認識不足。

2011-04-28 | 核エネルギー・原子力問題
報道で伝えられた福島原発の水素爆発の状況は、次の様になっていた。
地震発生翌日の3月12日に1号機、14日に3号機、15日に2号機で水素が原因とみられる爆発が起きた。
この大爆発のあとに、東京電力だけに事故対策を任せるわけにはいかず、統合本部が司令塔になった。
しかし、水素爆発の起きる危険性については、日本の原発関係者には、危機意識が全く欠けていたことが、大事故を起こした大きな原因である。

政府側の実務最前線にいる 細野首相補佐官は、統合本部発足当時の状況やこれまでの情報などをもとに当時を振り返り、原子炉建屋に地震翌日という早い段階から、もれた水素がたまって爆発するという事態はまったく想定していなかった、とした発言した。
東電関係者が、水素爆発の危険性を予測して、津波被害のあとに、どのような措置を採るべきかは、政府側には一切、伝えられていなかったのが真相であろう。

では、日本の原子力発電の技術陣が、炉心の冷却装置が長時間に渡って停止した場合に、どのような事が起きるのか?
それを防止する処置は、何をすべきであるかを、何も検討していなかったのか?
これは、原発事故の終息の見通しが立ってから、本格的に事故の発生要因をつぶさに検証して、その対策をすべて、既存の原発に適用する必要がある。
非常用電源の喪失に対する予防策。
また、原子炉建屋に水素が充満してしまうなどの、お粗末な欠陥建屋を早急に改築する必要がある。
それだけでよいのか。
対策の必要性を軽く見て、形だけを備えている事例はないのか、点検すべきである。

まだ、マスメディアでは明確に伝えられていない事実に、炉心溶融の場合に備えて、格納容器にある弁を装備された経緯がある。
朝日新聞の3月14日朝刊3面に「甘かった想定、頼った放出弁」として、この状況を伝えている。
このガス放出弁は、原発の建設時には、「日本では炉心溶融が起こらない」として、装備はされていなかった。
福島第一原発の建設は1970年代で、第二原発も1980年代であったが、当時はどの原子炉にも、この放出弁はなかったのである。
この弁があるおかげで、格納容器の大爆発はかろうじて防げている。

しかし、1979年のアメリカのスリーマイル島原発事故で炉心溶融が起きて、その時点では、放出弁はなくて、格納容器の爆発事故をおきる一歩手前まで行ってしまった。
この事故を受けて、フランスやドイツ、アメリカでは、格納容器に放出弁を付ける変更を始めた。
しかし、日本ではその後も【過酷事故は起きないから、対策は不要】として、変更をしなかった。

1992年になって、やっと原子力安全委員会が「検討すべき」との見解を出し、その後に90年代半ばから、電力業界はシブシブながら、沸騰水型(福島原発型)は放出弁を装備しだしている。
だが関西電力などが採用している加圧水型については、ガス放出弁は不要として、冷却装置の強化などで済ませている。

日本の原発関係者の想定の甘さと、対策の割り切りの傲慢さは、本当に安全を守る気があるのか!

原子力発電所の設計思想のレベルを疑う、低レベルの安全システム。

2011-04-27 | 核エネルギー・原子力問題
原子力発電は日本の技術で改良されてきて、今では世界一の水準であり、ソ連のチェルノブイリ原発の様なレベルの事故は絶対におきない。
これが日本の原発推進派の言い分であり、原発立地の地元住民を賛成になびかせる論法であった。
それが、歴史上で最大級の地震(マグニチュード9)の発生によって、想定をはるかに超える津波が襲ってきたので、さすがの日本の一流技術で万全を期した原発も、大事故に至ってしまった。
古今未曾有の天災であって、日本の技術が劣っていたわけではない。

これが、未だに原子力発電を擁護して、存続を貫く論者の認識であろう。
しかし、前回に指摘した様に、想定が間違っていたから事故につながったことは間違いないが、技術面での欠陥が事故を引き起こした面でも、大きな原因となっている。
日本の原発技術は、常識レベルから見ても、レベルの低い安全システムとなっていた。

非常用発電機の設置場所や、燃料のラインを一系統しか装備していないなどの欠陥設計に加えて、1号基、3号基、4号基と、続けざまに水素爆発を引き起こした事態は、事故を重大化させたうえに、原子炉の冷却安定化に大きな被害をもたらした。
なぜ、本来は発生しない筈の水素が原子炉建屋の中に充満してしまったのであろうか。
マスメディアの報道は何も伝えていない。

東京電力も原子力保安院も、この件については深い説明はいっさい避けている。
それは、設計上の大きな欠陥をさらけ出したくないからであろう。
原子炉の中の核燃料棒は、ジルコニウムという特殊な金属で覆われていて、ウラニウム燃料は露出していない。
この燃料棒が、冷却されなくて高温になると、ジルコニウムと水蒸気が反応して水素を発生する。
しかし、核反応を起こさせる原子炉の内部であるから、水素は外に出てくることはない筈である。
さらに、原子炉は全体を格納容器に覆われていて、原子炉内の水素が漏れても、格納容器内に留まる筈である。

つまり、原子炉建屋内に水素が充満したということは、原子炉も格納容器も、水素を密封出来る機能はなくて、じゃじゃ漏れの状態になっていた。
それが、原子炉建屋内にこもったしまったことが、水素爆発の大きな原因であった。
ここで、漏れ出した水素を原子炉建屋の外に速やかに放出しておけば、爆発するほどの水素はたまらない筈である。
しかし、現物の原子炉建屋は、この大量の水素を後生大事に、漏らさない様にできていた。

素人の技術者でも判る様なレベルの低い設計思想によって、いつまでも水素をため込んでいた。
あの大爆発によって無様な鉄骨と瓦礫の原子炉建屋を世界中に晒してしまい、何の為に分厚いコンクリートの建屋を装備したのか、皆目、見当もつかない。
空気より軽い水素は、建屋の上層部に上がるので、わずかの隙間でも設置しておけば水素が大量にたまることはなく、あの大爆発は起こらずに済んでいる筈である。
原発全体を設計した技術者が何を勘違いしたのだろうか、未だにハッキリしない。(つづく)

原発の安全神話をつくり大事故を引きおこした【安全性軽視】体質。

2011-04-26 | 核エネルギー・原子力問題
福島第一原発の大事故の遠因には、原子力発電の安全性を確保する役割の組織を、産業界が要求する電力の価格抑制の方針の下に置いたことにある。
つまり、産業界の利益の為に安全性を割り切ることを強いることで、産業の価格競争力を支えることを優先して判断した。

しかし、そのことを国民には説明もしないし、原子力発電所の立地を認めた地元住民にも、割り切りであることを隠していた。
原発関係者はすべて知っていたにも拘らず、官民癒着の体質が、この割り切りを低めにする方向で一致して、「想定を低めにみる」事が状態化していた。
一端、コトが起きれば、想定を超える事態が発生したので、(やむを得ない事故になりました。しかし、私どもは国の方針基準に従って来ましたので)責任は負えません。
この様な責任逃れの論法だけが、通用すると錯覚をしていたのである。

この事実はマスメヂィアや各地の自治体の議論が始まり、責任論が大々的に論じられるであろう。

だがその前に、技術的な面で明確な失策があることを、しっかりと認識しておく必要がある。
それは非常用電源の設置に対する技術面システム面での、拙劣といえるレベルの設計思想である。

第一には、地震などの不測の事態が起きた場合は、自動的に原子炉の核反応を停止させる装置が働いて、発電を緊急停止する。
この後は炉心の余熱(ものすごい熱量が出る)を冷却水で冷やす必要が長時間に渡って必要である。
今回は、この冷却装置を動かす電源が途絶えてしまい、外部からの電力はかなりの期間に渡って供給不可能になった。
その補完装置として、非常用電源としてのディーゼル発電機が設置されて、すぐに自動的に発電を開始するシステムになっていた。

今回は、この装置類が津波で被害を受けたのが大事故の原因とされている。
しかし、非常用の発電機の仕組みが、技術者の目から見ると、拙劣な低レベルの技術思想によって設計されている。
設置位置が海側の低いところに設定したのが、失敗の原因とされているが、7基も発電機を設置しておきながら、燃料を供給するラインは、一系統しかない。
つまり、燃料系統の一部でも破壊されたら、すべての非常用発電機は停止してしまう。
言ってみれば、原子炉のブレーキに相当する非常用電源と炉心の冷却装置は、わずか一系統の燃料系が正常に残っていることに頼るシステムとなっていた。

これは、常識的に見て、まったくお粗末な設計思想である。
身近にある自動車でも、ブレーキの機能を持たせて安全性を確保する系統は、足ブレーキによる作動は2系統に独立していて、安全性を高めている。
さらに、最緊急時には、サイドブレーキ(ハンドブレーキとも呼ぶ)を運転者が操作して、自動車を止めることができる様になっている。
原発のブレーキは、自動車の設計よりも劣った「安全性軽視」!によって造られている。(つづく)

原発を基幹電力とする政策をごり押しした産業界こそが責任を負うべき。

2011-04-25 | 核エネルギー・原子力問題
世界で最大級の地震と津波の被害をこうむった日本は、交通網も多大の被害を受けた。
しかし東北新幹線は、懸命な復旧作業によって、東京仙台間は、25日の開通を果たし、4月29日には、最大の被害を受けた区間もつながって、東京・新青森間が運行を開始する。
この復旧によって、東北方面の置ける経済活動は、格段に活気が出る状態になる。

その一方で、電力の方は、原子力発電所の大事故の影響で、福島第一原発の4基は爆発し、残りの2基も停止中である。
この原子炉の再開は、絶望的である。
福島第二原発も、放射能汚染の影響で再開は当面の間は不可能である。

この関東地方、東北地方の電力の供給不足の影響は、経済活動のブレーキとなってしまっている。
エネルギーの安定供給がいかに重要であるかを、改めて認識させた大事故であった。

原子力発電のセールスポイントは、エネルギーの備蓄(核燃料の備蓄ができるというだけのことで)によって、『安定供給のできる電源』という触れ込みであった。
それを頭から信用して、政治家達が、基幹エネルギーとして位置づけで、とうとう、52基にまで増設してしまったので、今回の様にいっせいに停止すると、産業活動に多大な悪影響を及ぼすことになる。
基幹エネルギーどころか、危険なエネルギーであり、安定電力は、不安電力となり果てている。

産業界は、電力価格を安く維持するために、無理を承知で原子力発電所の増設を後押ししてきた。
地震の規模の想定や、津波の発生高さを低めにすることを、原子力安全委員会に圧力をかけ続けて、想定を甘くすることをゴリ押しした。

今回の原発事故の影響によって、多くの企業の操業に不安が生じて、生産量を落とすことを余儀なくされている。

原子力発電を、無理やり低コスト電力として利用してきた産業界は、どれほどの利益が得られたのか、公表していない。
しかし、今回の電力不足危機で企業活動の制約を受けることで、多大の損失を被っている。
【悪銭、身に付かず】とはこのことだ。

エネルギーの供給は、わずかの電力コスト削減などよりも、はるかに重要であることを再認識させた。
電力の経費削減を優先してきた企業にとっては、【自業自得】であると言いたいところである。
それで済ますわけにはいかないし、加害者としての償いの義務を果たすべきである。

実際に大きな被害を受けて生活を破壊された人々にたいして損害の賠償をし、生活を再建することを最優先にする役割は、電力コスト抑制、引き下げをを要求してきた【企業側に責任】がある。
だが、このことをはっきり主張するジャーナリストは見当たらない。


日本の経済の根幹は、交通網とエネルギーであることを、再確認。

2011-04-24 | 快適エネルギー社会問題
安定した経済活動を支えるには、多くのエネルギーを必要とすると同時に、確実な交通網、モノと人の流れが、安全で確実に保証されている必要がある。
今回の地震と津波による大災害では、交通の遮断が、被害の度合いを大きくしている。

日本中には過剰といえるくらいにモノがあるのに、交通網が途絶えるtことで、必要とする地域に届かない事が、どれほど被害を拡大してしまうか、身にしみてわかった大災害であった。
とくに、多くの部品や資材を全国にまたがって調達している産業は、東北地方の被害によって、日本国中の製造業に大きな影響を与え、生産活動を停止させる事態になった。

専門性の高い部品や資材を使う様に、多くの生産物が進化せざるを得ないのが、【高付加価値商品】の宿命でもある。
それによって、他社の製品や新興国で作られる製品とは、差別化を図らなければ、日本の先進国の優位さを保つことはできない。
つまり、災害に強い物流網、製造拠点の多角化、一か所に集中させるリスクを避けることが、これからの【高付加価値商品】を作り続ける日本の基本的なインフラである。

今までのやり方は、リスクに備えることを軽視して、順当に動いている時期だけに注目して、その範囲でのもっとも合理性の高い、生産性の向上ばかりを図ってきた。
うまくいっている時は、確かに生産性の高さによって、コストの削減ができて収益性の良い仕組みのなっていたが、いったん、大災害や事故が起きると、もろくも破たんして、おおきな損失を発生する。
これを想定していなかった事態がおきたので、想定外だから自分では責任を負えない。などと言えるのは、親方日の丸企業だけである。

電力会社の経営は、まさに親方日の丸の責任転嫁経営としか言いようのない、情けない状況であることが露呈した。
リスクの検討を、常に甘く想定して、十分な対応策を検討していなかった責任は重い。

しかし、一番リスク対応のお粗末なのが、国の行政官僚群である。
今回の大災害、原発の大事故において、想定外のレベルであったとの言い訳に終始しているばかりで、想定内の事においても、抜けだらけの対策であった。

この災害と大事故の区切りの後には、リスクに対する検討に進め方を、本格的に見直しを実施して、災害に強い体質と、大事故を確実の防ぐ、高付加価値社会を創り上げる機会とすべきである。
もう、生産性第一、コスト削減第一、価格競争力第一、の方針を、大転換するしかない。

日本の目指す高付加価値社会への挑戦は、まず脱原子力から始まる。

2011-04-21 | 快適エネルギー社会問題
経済の最大目標は、『安心して豊かで快適な生活』を実現する事である。
その面から言えば、今の日本の原子力発電所の危険性を抱えながら、経済の発展を目指してきたのは、明らかな間違いである。
原子力発電は、安心出来る設備とは言えないことがハッキリした上に、たとえ安全性を強化したからもう大丈夫と説明されても、信じることは難しい。

本当は原発を停止して、安心出来る状況にしたいと思っても、すぐに電力不足の不安がよぎるので、おいそれと止めることも出来ない。
その上に、使用済み核燃料の処分地の問題は、一向に解決するめどは立っていない。

本家のアメリカでは、104基の原発で使用済みの核燃料が大量に出される。
これらを、以前に核兵器の地下実験に使っていた地域のユッカマウンテンの地下に埋めておくことにしているが、すでに、これ以上の受け入れは出来ない事態に陥っている。

2番目に原発の多いフランスでは、未だに、使用済み核燃料の処分地は、各地の反対運動によって決定出来ずに、地上に保管したママである。
少しでも分量を減らそうとして、使用済み核燃料の再処理をして、プルトニウムを抽出することで、プルサーマル発電(ウランとプルトニウムの混合物による)を実施している。
これで、廃棄する燃料のかさばる量をへらすことはできる。
しかし、プルトニウムは、人類史上にあらわれた最悪の放射性物質で、使用済み核燃料の放射能のレベルは、むしろ増えてしまう。

この様に、各地に放射能の残った物質が、どんどん、増加して行く発電設備に頼る電力を使っていて、「快適な生活を」などと誰が言えるのだろう。
設計、製作時の古い原発を、設計寿命の30年を超えても安全性は大丈夫として、強引に延長して40年もたっている原子炉を使おうと言うこと事態が、原発関係者の傲慢さと奢りによる。
原発を止めて廃炉にするにも、放射能が収まるまでの10年~20年は、安心できない。

安心、快適な生活を目指すのが、政治、経済の大目標であるから、原発を安全に停止して、残った問題を漏れなく措置をして、日本全体を安心出来る状態にすること。
原発を止めたら電力が不足するなどは、現在の実績ある天然ガス発電所の増設を計画して行けば、5年と立たずに電力不足の懸念はなくなる。

その間に再生可能エネルギーの技術革新を、一層進化する様に研究資金の支援をする。
と同時に、普及進度を格段の増強する様な制度と資金支援の仕組みをつくることで、電力のグリーン化を早めることに尽きる。

これらに対する研究投資、設備投資、関連事業の発展によって、経済に対する刺激は格段に上がる。
この政策によって、日本が20年に渡って悩まされてきた、需要不足によるデフレ経済から離脱するきっかけが出来る。
快適エネルギー社会に足をかければ、そこから、高付加価値社会への本格的な挑戦ができる時代になる。
本当に知恵が必要な挑戦は、これから始まる。
原発存続などにこだわっているヒマはない。

誤った道を進んできた愚かさに気づいて、本当の豊かさへの道へ。

2011-04-20 | 快適エネルギー社会問題
今の日本人は原子力発電の危険性について、知識を増やして本当のことを知っておく必要がある、と感じだしている。
今までは、原子力発電所は人里離れた地域に立地しているので、その安全性に疑問も持たず、自分たちの生活に支障がなければ、それ以上のことを知ろうとは思わなかった。

最大の被害者は、原発事故の放射能汚染によって、避難地域になってしまった地元の住民である。
その次の犠牲者は、放射能の汚染が広がって、農業や漁業の資源に安全性の疑いが掛けられて、事業や生計が成り立たなくなってしまった人たちである。
そして、多くの人々が不安に陥れられて、仕事や事業、生活に暗雲をもたらされて、経済活動が低下して、その影響を受けてじわじわと委縮していく。

これほどの加害性のある技術を、絶対に安全である、と言い続けて来た当事者、専門家の罪は、万死に値する。
原子力発電の上に乗っている産業の危うさを、多くの人が知った上では、原発依存からの離脱を、本格的に考えるだろう。
しかし、まだ原子力発電がないと産業が成り立たないし、日本は衰退してしまうと、言い張っている「原子力エネルギー中毒」の産業人や専門家が数多く残っている。

前回に、日本のエネルギーを『快適エネルギー』に転換して行く必要性を書いた。
エネルギー不足が叫ばれるなかで、何を悠長に『快適エネルギー』などの、ノーテンキなことを言っているのか、と思う人もいるでしょう。
しかし必需品であるエネルギーを、とにかく量だけ集めれば良い。という時代は、過ぎ去っている。

これからは高付加価値の商品を開拓して、その供給を増やし潤沢の使いこなすことが、豊かな社会のあり方である。
エネルギーも商品であり、今までは必要量を満たすことと、価格を下げることが優先されてきた。
だが、先進国においては、「地球環境問題や世界の秩序の安定、核不拡散と核廃絶への願望」が大きな問題として迫って来ている。

これらの課題を解決する方向に進むことが、価値として認識されて、「エネルギーの供給」においても、この方向から逃れることはできない。
原子力エネルギーは、不安定、事故リスク大、放射性廃棄物の後始末困難、など、多くの難題を抱えたままに、ここまで推し進めてきてしまった。

もう、目を覚ます時期がきていたのに、大事故に合わなければ気がつく事が出来ないほど、人類は愚かな生物である。

さあ今こそ『快適エネルギー』をフンダンに使える社会を築くための道に、進む転換点にきている。
原発を廃止した分だけのエネルギーを生み出せる技術は既に実現している。
現在は、発電コストが少し高めであるが、人類の歴史は、この技術課題を進歩させる力を持っていることを実証済みである。

出来ていないのは、その道に進む確たる決意だけである。

脱化石エネルギーは再生可能エネルギー。そして快適エネルギーへ。

2011-04-19 | 快適エネルギー社会問題
快適エネルギーとは、私が自分のイメージに沿って呼び始めている、「持続可能なエネルギー」のことを言っています。
脱化石エネルギーの領域を、「自然エネルギー」と呼ぶのが従来の慣習でしたが、自然の力を利用させてもらうにしても、人の知恵と技術が注ぎ込まれなければ、人が利用出来る様にはならない。
それよりも積極的な「再生可能エネルギー」と呼ぶ方が、今の時代の感覚に沿っている。

しかし、さらに考え方を進めていくと、原子力エネルギーも「再生可能エネルギー」の範疇にはいることになる。
夢の技術と称される「高速増殖炉」は、核分裂物質が次々と生産されて、ほぼ永遠の期間に渡ってエネルギーが利用出来る技術である。
また、「核融合によるエネルギー」は、太陽エネルギーの原理をそのまま、地球上で実現しようとする、大胆(で傲慢)な挑戦である。

この核エネルギー利用は、人類社会の最大の癌細胞に相当する、【核兵器の恐怖の均衡】の延長を前提とするエネルギー技術である。
この様な未来の世界を望んでいる人が、果たしているのだろうか?おおいに疑問である。
それで、再生可能エネルギーの呼び名は、本当に「期待するエネルギーのイメージ」には合わない。
核兵器の絶滅は、人類が滅亡の道を行く前に、実現すべきであるが、21世紀中はむずかしい。

そこで、核兵器問題と決別できる、再生可能エネルギーの分野を『快適エネルギー』と呼び、この快適な気分で使える電力、燃料がフンダンに生産できる技術が完成する事を目指すのが、21世紀前半の人類の夢であろう。

世界中においてエネルギーの利用量がマスマス増加する一方で、新興国が軒並みに原子力発電の導入、拡充に向かおうとしている。
この様に原子力発電所の事故が起きる懸念のある世界に、突き進むことを望んでいるのだろうか。
また、たとえ技術が進歩して、事故を起こさない原子力発電所が完成したとしても、世界の紛争や、人種間の争い、宗教間の勢力争いなど、21世紀中にはなくなることは期待できない。
そのあおりを受けてのテロ破壊活動などは、活発になる恐れが充分に想定される。

9・11の同時多発テロの記憶はまだ生々しく、残っているでしょう。
テロ組織が旅客機を乗っ取って、高層ビルに突入するなど、想定外のことだと笑い飛ばしていたアメリカ人の楽観主義者も、これによって、リスクをいかに減らすかの重要性を認識した。
その結果、アメリカにおける飛行機旅行は、快適と言える状況からは、大きく離れている。

そして、3・11の大事故を経験した日本人は、原発頼りの日本の長期エネルギー政策に、大きな疑問を持ち始めている。
今こそ、「電力コストが安い」などの、欺瞞に満ちた宣伝文句を信じることから脱皮して、本当の快適な『心にも体にも心地よく具合がいい』エネルギー社会の実現に向けて、日本の国策の根幹を転換していくチャンスである。

快適エネルギーを基盤にした豊かな生活感覚によって国民の品格が。

2011-04-18 | 快適エネルギー社会問題
経済の停滞が慢性化している状況は、日本の産業界が1980年代までの成功体験に染まって、グローバル化した世界経済の現状を直視しないから、いつまでも国際競争力にこだわってきた。
それは、一時期に日本が先行して成功した商品でも、時間がたてば新興国の技術が追いつき、必ず価格競争に巻き込まれる現実を受け止めないからである。

価格競争に突入したら、新興国の低コスト体質に引きづれらて、すべてが途上国並みに引き下げられてしまう。
人件費はもとより、エネルギー価格も、原子力発電の安全性を犠牲にしてでも引き下げなければ、価格競争には負けることは明白である。

日本の得意領域は、低価格の大量生産品を造ることではなく、高品質で造り手の感性が込められた、本物志向の高価格商品にある。
各地の伝統的な生産技術の支えられた、個性の溢れた製品を丁寧に作り上げて、外国での生産品とは一味もふた味も違った商品を大事に育てる事である。
エネルギーを大量に使わない商品で、価値感が高い魅力の追求を目指すことである。

このブログで紹介している『快適エネルギー』をベースにして、実現する商品の方向である。
何を持って、「快適なエネルギー」と表現できるか、もはや明確であろう。
同じ電力にしても、原子力発電による電力は、事故の懸念が付きまとい、原発の立地地域の住民の犠牲によって成り立っている。
また、使用済み核燃料の後始末を後世の世代に残したり、過疎地に押し付ける無責任さである。

この電力を消費する都会の住民は、今までは、原発の立地地域の人のことは、何も考えずに電力を湯水のごとく使っていた。
しかし、これからは原発で造る電力を使うことが「快適な」という呼び方にはふさわしくない。と
だれでも感じる機会が増えるであろう。
豊かな生活とは、心の満足を覚えるモノでなければならない。
文明の利器を使うにしても、そのエネルギーの電力が、危険性を内部にはらみ、その懸念を自分から見えない地域に押し付けて理不尽なことでは、快適な心地よさを味わうことは無理である。

そんなことは一切、考えないで、どこで造った電力でも構わないという人も、かなり存在するだろうが、その様な人は、野蛮なと言っても良い、品格の劣った人種である。
やはり豊かな社会で快適な生活を営む基盤のエネルギーは、「快適な」と呼べる方法と設備で、造られた電力をベースにするべきである。

すでに、ドイツは脱原子力エネルギーの路線を選択する事に決定した。
イタリアは原発の立地の是非を、国民投票で問う予定だが、原発拒否の路線を選ぶ方向である。
高福祉立国の北欧(スエーデン、デンマーク、フィンランド)は、原発に頼らないエネルギー政策を、国の基本方針にしている。
日本は「快適ではないエネルギー」の利用から抜け出せる選択をいつ実現するのか。品格は・・?

生産性向上による価格競争力依存から抜け出して高付加価値商品に。

2011-04-17 | 経済問題
欧州の先進国が順調にGDPを伸ばしてきたのと対照的に、日本経済が停滞を続けて、伸びない原因について、多くの経済評論家が論じている。
その中で、最近は国民全体が「消費者マインド」が冷え込んで、おカネがあるにも拘わらず、消費するモノやサービスが見当たらない、という問題がクローズアップしている。
要するに、おカネを払うに値する商品やサービスの提供が企業側から不足している状況である。

経団連などの加盟する旧時代の大手産業では、その原因には目をくれずに、経済の停滞は日本の産業の生産性が低いからだ、として、従来の製品のままで、生産効率を上げることに奔走してきた。
看板方式、ジャストインタイムなどの、【中間在庫を減らす】ことによって、生産効率を上げるシステムは、一時代には大きく持て囃されたが、今では、それが仇となって、一部品でも生産が止まれば、全体が止まり兼ねない、危なっかしいシステムとなっている。

生産性の向上は、言ってみれば、商品価格を下げることに帰結する。
人件費をおさえ、中間在庫を減らし、電力コストを抑える。
しかし、国内における消費者のマインドには、応えることができずに、価格が下がるだけで、販売量が増えることもなく、年々の売上は減少の一途をたどる。
生産設備の稼働率が落ちるので、何とか維持しようとして、海外販路と輸出に力を入れる様になる。
これは、生産は維持できてもおカネは海外に出て行くことになって、国内のGDP増加に貢献する効果は少ない。
企業は国内での販売の伸びが見込めないから、マスマス、新商品の開拓に及び腰となって、確実に売り上げが見込める海外開拓に、企業の資金を大量に投じる。
これも、国内のGDPの増加にはほとんど貢献しない。

この事実は、経団連などの旧時代の大企業に依存する産業政策は、完全に誤りであったことを証明している。
また、小泉内閣時代に、実感なき景気回復を遂げたことも、ほとんどの売上げ増加は、海外市場の発展による外需に依存した数字上の景気回復であった。
企業の販売増加益は、国内には再投資をされずに、海外の販売力強化や海外への生産移転の資金に回されるので、日本の人には何の御利益もない。

最近になって、やっと、高付加価値の商品を開拓して、価格競争力に頼る製品からは、抜け出ることを目指すべきとした機運が本命となってきた。

しかし、この高付加価値商品の開拓というのは、あだやおろそかにできるモノではない。
果物など(青森県の高級林檎など)が中国の富裕層に歓迎されている情報もあるが、経済の効果が出るほどの規模になるには、大変に長い道のりが必要である。

まずは、国内における商品、サービスの高付加価値化に糸口をつけて、成功例の実績を多く生み出すことを優遇すべき段階である。
それには、まずエネルギーの高付加価値化から始めることを実践すべきである。
これは、再生可能エネルギーなどの、環境負荷の少ない安心できる商品である。(以下、次回)

旧時代の経済を支えて来た「価格競争力」の商品は海外生産に。

2011-04-16 | 経済問題
経済が成熟化した先進国において、消費者の購買意欲は減少するのが常である。
日常に必要な商品は山の様に溢れていて、いつでも、必要なモノは、安い価格のモノから中級品、高級品とおカネさえあれば、何でも手に入る時代になった。

今でこそ、地震と津波災害によって、一時的に物流が乱れた各地で品不足が起きたが、物流網の復活によって、ほとんどが手に入る様になる。
正常な状態にもどれば、買いだめも買い急ぎもなくなり、また需要は低水準に陥る。

経団連をはじめとする旧時代産業は、日本での生産の不利を感じて、マスマス、海外での生産に移管する計画を加速するであろう。
もはや、国内での生産によって、輸出で稼ぐ産業は日本での生産が非合理であると確信した。
ここ20年来の価格競争重点の産業政策は、完全に生きづまる状況になった。

新商品が開発されてから、先行企業が有利に事業展開出来るのは、10年~20年が通常である。
後発の企業は、先行企業の後を追って、同じ様な性能の商品を安く提供しようとして開発し、先行企業も価格競争の入らざるを得ない。
その段階の技術は、今では新興国でも生産できるようになるから、多量生産、低価格を狙う商品はいづれは海外生産に移管するのが順当な経営である。

ところが、経団連に属する旧時代のエネルギー多消費産業は、装置が大きいので、海外への生産移転には多額の経費がかかり、おいそれとは海外進出はできない。
そこで、国内での生産を続ける代わりに、エネルギーコストを抑えて、特に電力料金を上げることには、もっとも抵抗してきた。

だから、見かけ上の電力コストの安い「原子力発電の増設」を常に後押しして、経済産業省と電力会社に要求してきた。
地震や津波の規模の想定を低く抑えることによって、原子力発電関連の設備投資が増加する事を避ける様に圧力をかけてきた。
それが今回の原発の大事故を招いた、もっとも大きな原因である。

それでも経団連の会長は、国の安全基準を守って発電設備を造っているから、電力会社の賠償責任は限定されるべきだ、と言いだしている。
つまり、企業にとっては不可抗力の天災による被害であるから、国が責任を持って被害者を救済するのがスジである。という言い分である。
厚顔無恥も甚だしい、旧時代感覚の経営者の遺物としか言いようがない。

そんなことにかまっているユトリはない。
価格競争に頼る製品の生産拠点は、どんどん、海外に移転して行くから、国内での雇用環境がマスマス悪化する。
その上、増税路線によって国民の購買力はさらに抑制されて、需要の縮小を招く。大問題・・!!

日本が構造改革路線を走る間に、価格競争力に依存する病気に。

2011-04-15 | 経済問題
1990年代のバブル崩壊後は、日本は金融業のグローバル化が急務として、銀行の輸送船団方式を解体して、規制緩和と競争の原理を導入する事に奔走した。
結果は、銀行の合理化は進んだが、産業を育成する能力、企業を育てる能力はほとんど強化されず、
おカネを持っている人には良いサービスをしても、おカネを必要としている人には貸さない体質は、一向に改善されなかった。

これでは、新進気鋭の起業家が新事業への挑戦を試みようとしても、資金的な支援は弱く、ほとんどの新興企業は伸びない状況に陥った。
それではと、アメリカで進歩が著しかった【インターネット関連事業】に着目して、『IT立国』を目指すとして政府が力を入れたが、アメリカの【ITバブルの崩壊】を受けて、投資意欲が一気に冷え込んで、IT不況の情けない状況になってしまった。

この状態から抜け出るには、構造改革が必要だとして、規制緩和を重点にした政策が脚光をあびだした。
小泉構造改革内閣は、国民が痛みを分かち合って、既得権構造を破壊して自由な企業競争環境をつくりだせば、新しい次世代の産業が起きて、日本を再び経済成長の活発な国にできるとした。
確かに、既得権益を囲い込んでいる旧時代の産業が、新たな産業の育成や、新興企業の参入を阻んでいたことは事実である。

しかし、規制緩和による自由市場の競争活発化は大きな弊害を伴うことが、懸念されていたが、2000年代を通じて、その競争主義の欠点が明らかになった。
つまり、新事業、新商品、新分野のサービスなど、より付加価値の高い事業を起こすことが、必要であったのに、既存の産業界や旧時代の企業は、自由競争社会においての生き残り策を、コストの削減、人員のリストラ、人件費の抑制・ダウンによって、価格競争力を高める方ばかりに、力を注いでしまった。

これが、日本の働く人の総収入を減らし、経済成長にとって一番重要な国民の消費意欲、購買力を低めてしまった。
現在は、経済の好転には需要の増加を図らなければならないと、経済評論家が言い始めている。
そんなことは前から判っていた筈なのに、旧時代の経済学者は自由競争によって企業間の競争を活発にすれば、価格の安い商品・サービスは、次々に登場して、購買意欲を引き出すから、需要は増える。
だから、規制緩和と金融緩和によって、潤沢な資金を新商品、新事業の回る政策を重視した。

しかし、そうは行かないの現実である。
新事業や価値の高い新商品は、開発や事業化には多くのリスクを伴い、粘り強い取組を長期に渡って続けなければ、成功はおぼつかない。
アメリカ式の短期利益を重視する経営が導入された時代では、規制緩和によって『新事業が起こしやすくなる』などの期待は、幻想でしかない。
経済学者や評論家は、一度も自分で新事業を起こした経験がないから、幻想に浸っていたのである。

日本での電力コストは上昇せざるを得ない。それに対応すること。

2011-04-14 | 核エネルギー・原子力問題
日本の経済停滞の原因が、成長した段階の社会においての需要減退、つまり、生産物の供給側をいくら増強したり価格をさげても、モノの必要量が頭打ちになっていることがある。
この議論は、かなり広い範囲の検討を加えた説明が必要になるので、稿をあらためて書くことにしたい。
まずは、価格競争力を主張する旧時代産業の勢力に対して、エネルギーコストは上がることを覚悟するべきである。と引導を渡すのが先になる。

原油価格の上昇によって、エネルギーコスト、石油火力発電のコスト上昇が言われて久しい。

そこで、産業界は、電力コストが安いとされていた【原子力発電所の増設、規模の拡大】に救いの手を期待して、産業界挙げての原発歓迎となった。
当時は、原発の規模の拡大の技術が進んで、一基で100万KWを超える規模の原発が次々に開発された。
それに伴い、原発への初期投資は、莫大な規模になり、一基で5000億円に達するケースもある。

これは、原発の稼働率を上げることで、発電コストの引き下げを図ることが、メリットとなった。
さらに、旧時代の原発も最小限の手直しをして、当初の設計寿命の30年を、いろいろな理屈をつけて、40年、さらには50年も使おうと言う強引な引き延ばしを図ってきた。
いずれも、産業界の期待の【安い電力コスト】を実現することが最優先される手段なのである。

この過程で、安全性に対する基準の見直しは、いつも最小限に抑え、地震や津波規模の予測、想定が、低め低めに見積もることが習慣化してしまった。
科学的な知見が進歩してきても、それを極力避けて、最悪の状況を想定しないで、想定外として検討の対象から外し、原発をつくることが目的化した。
「安全性を割り切ることが、正義である。」と頭の芯から思い込んでしまった。
これに異論を唱える科学者や技術者は、すべて異端者扱いにされ、政府の要職や審議会、原子力安全委員会、原子力安全・保安院、からは、排除される仕組みは完成していった。

しかし、現実の原子力発電事業は、人間のすることの常の状態で、特別に能力の優れた、心の清い人ばかりではなく、いわゆる俗人の集合組織である。
マンネリ化したり、惰性によるミスが相次ぎ、それを書類上の安全性チェックの強化という政策で、
締め付けを図っても、形式上の安全確認作業の積み重ねとなってしまった。
つまり、原発は「電力コストが安い」が前提にあって、「原発の稼働率を上げる」「異常事態の想定は、低めする。」ことで、ツジツマを合わせて来たのが実態であった。

この産業界の都合を最優先する愚かなエネルギー戦略路線は、破綻していることは明白である。
原発の安全性を早急に万全にして行くことは急務であって、それには莫大な費用を必要として、電力コストを上昇させる。
もう安価な電力コストの上に成り立つ産業は、縮小するか退出するしか道はない。
それで、日本の経済を支える産業をどうするか。
これがこれからの最大の問題である。(以下、次回に)