ふたりの「みこと」持ち。
ジーザスと天皇の違いは。
ジーザスは一人、天皇は世々の数だけいる。
てかその真核は今にいる陛下にある。
一人が永遠になるか、多数が永遠になるか。
死して永遠になるか、生きて永遠になるか。
そこが違う。
それは向きが違うからです。
それを想う。
・・・・・
ジーザスは一人です。
その人が十字架に掛けられて神になる。
と思っているが、
つまり生きていたときは人間であると。
それにしては、
イエスの言葉のほとんどは神に向かっていない。
祈る心はあってもその言葉は祈りではないのだ。
その言葉は人々に向かっている。
そも神の側に立っているのです。
だからかときに「私は神から来たもの」だと言っている。
だからと言って「仕切り」はしない。
敢えて言うなら「啓蒙」とでも。
だから私はこう言ってきた。
イエスは預言者であったと。
ゆえに神から言葉を預かり、
そしてそれを人々に伝える。
でも他の預言者と違うのは、
それが自分の言葉であったのだ。
だからまんま神になったと。
それも圧倒的な存在感を持って。
さもありなん、
その言行に鑑みれば、
それはもう尋常ではないと。
聖書はそもすべては神の賜物であると。
思えばこれは日本的な発想である。
人に当てれば、
神の子である人はつまりは神だと、
でも生きての神とは真に畏れ多い、
死して後ならそれも良かろうかと、
まあそんなとこ。
勿論人だけではなく他の生き物も同様。
そんなこんなで、
日本人にとってイエスが神であること、
いろんな意味で違和感なし。
・・・・・
天皇は一人ではない。
世々代々の存在です。
でも核は今上陛下にあると。
それが真核である。
かく言う陛下は祭主であり、
生きての祈りを捧げる存在。
祈りとは神と向きあうもの、
だから陛下は人の側に立っている。
てかもとより人間なのだから当然。
しかして神に「まこと」を捧げる。
天下の安寧と万民一人ひとりの幸せを願って。
と思っているが、内実は知らない。
でも想うのです、
その祈りはまったきもので、
それはもう尋常ではないと。
その凄さはイエスにも似ているが、
その向く方向は逆であると。
現に今上陛下は預言者でもないし神でもない。
昭和天皇は戦後人間宣言をしたと言われるが、
そんなもんしておりません。
真赤々な嘘です。
人間が「まこと」を貫くには、
人を仕切ってはならないのだ。
仕切る作業には必ず虚が入る。
だから陛下は人を仕切らない。
直接的には決して仕切らない。
そう言う仕組みになっている。
戦前も現今もです。
ちなみに余談だが、
なぜか日本弱体化計画があるようで、
ために嘘が至るところに、
しかも年々益々酷くなる。
今はご存知のLGBT~問題。
今少しの御辛抱を、
・・・・・
このことは神話を見ればあきらか。
日本には古事記・日本書紀があり、それに万葉集が。
欧米等の一神教世界ではそれは聖書だろう。
ちなみに思うに日本人は聖書も持っている?としか。
聖書はその初めに言う。
言葉を持ったがゆえヒトは楽園を追放されたと。
だからです、
その人々にイエスは伝えたのです、
神の「まこと」を、
それがイエスの物語り。
日本人は聖書的ではあるが、
違うところもある。
それは既に言ったことだが、
そのひとつがこれ。
それは楽園を追放されていないと謂うこと。
ゆえにか日本の神話は、
神世から始まり切れ目なく人の世に繋がる、
そんな神人一体の世界です。
ヨハネは言葉は神だと言ったが、
日本はその言霊(「まこと」)が幸はふ国なのです。
あの万葉歌人の柿本人麻呂も言ったように。
それゆえです、
追放されていない他の生き物らと対等に立てるのは、
そんな国です。
だから天皇陛下は祈るのです、
場(神=の世界)に向かって。
万民はその祈りの中で生きる。
後醍醐天皇の信任を受けた北畠親房は言った、
「大日本(おおやまと)は神の国なり」と、
言い得て妙、
まことにまことに。
ジーザスと天皇の違いは。
ジーザスは一人、天皇は世々の数だけいる。
てかその真核は今にいる陛下にある。
一人が永遠になるか、多数が永遠になるか。
死して永遠になるか、生きて永遠になるか。
そこが違う。
それは向きが違うからです。
それを想う。
・・・・・
ジーザスは一人です。
その人が十字架に掛けられて神になる。
と思っているが、
つまり生きていたときは人間であると。
それにしては、
イエスの言葉のほとんどは神に向かっていない。
祈る心はあってもその言葉は祈りではないのだ。
その言葉は人々に向かっている。
そも神の側に立っているのです。
だからかときに「私は神から来たもの」だと言っている。
だからと言って「仕切り」はしない。
敢えて言うなら「啓蒙」とでも。
だから私はこう言ってきた。
イエスは預言者であったと。
ゆえに神から言葉を預かり、
そしてそれを人々に伝える。
でも他の預言者と違うのは、
それが自分の言葉であったのだ。
だからまんま神になったと。
それも圧倒的な存在感を持って。
さもありなん、
その言行に鑑みれば、
それはもう尋常ではないと。
聖書はそもすべては神の賜物であると。
思えばこれは日本的な発想である。
人に当てれば、
神の子である人はつまりは神だと、
でも生きての神とは真に畏れ多い、
死して後ならそれも良かろうかと、
まあそんなとこ。
勿論人だけではなく他の生き物も同様。
そんなこんなで、
日本人にとってイエスが神であること、
いろんな意味で違和感なし。
・・・・・
天皇は一人ではない。
世々代々の存在です。
でも核は今上陛下にあると。
それが真核である。
かく言う陛下は祭主であり、
生きての祈りを捧げる存在。
祈りとは神と向きあうもの、
だから陛下は人の側に立っている。
てかもとより人間なのだから当然。
しかして神に「まこと」を捧げる。
天下の安寧と万民一人ひとりの幸せを願って。
と思っているが、内実は知らない。
でも想うのです、
その祈りはまったきもので、
それはもう尋常ではないと。
その凄さはイエスにも似ているが、
その向く方向は逆であると。
現に今上陛下は預言者でもないし神でもない。
昭和天皇は戦後人間宣言をしたと言われるが、
そんなもんしておりません。
真赤々な嘘です。
人間が「まこと」を貫くには、
人を仕切ってはならないのだ。
仕切る作業には必ず虚が入る。
だから陛下は人を仕切らない。
直接的には決して仕切らない。
そう言う仕組みになっている。
戦前も現今もです。
ちなみに余談だが、
なぜか日本弱体化計画があるようで、
ために嘘が至るところに、
しかも年々益々酷くなる。
今はご存知のLGBT~問題。
今少しの御辛抱を、
・・・・・
このことは神話を見ればあきらか。
日本には古事記・日本書紀があり、それに万葉集が。
欧米等の一神教世界ではそれは聖書だろう。
ちなみに思うに日本人は聖書も持っている?としか。
聖書はその初めに言う。
言葉を持ったがゆえヒトは楽園を追放されたと。
だからです、
その人々にイエスは伝えたのです、
神の「まこと」を、
それがイエスの物語り。
日本人は聖書的ではあるが、
違うところもある。
それは既に言ったことだが、
そのひとつがこれ。
それは楽園を追放されていないと謂うこと。
ゆえにか日本の神話は、
神世から始まり切れ目なく人の世に繋がる、
そんな神人一体の世界です。
ヨハネは言葉は神だと言ったが、
日本はその言霊(「まこと」)が幸はふ国なのです。
あの万葉歌人の柿本人麻呂も言ったように。
それゆえです、
追放されていない他の生き物らと対等に立てるのは、
そんな国です。
だから天皇陛下は祈るのです、
場(神=の世界)に向かって。
万民はその祈りの中で生きる。
後醍醐天皇の信任を受けた北畠親房は言った、
「大日本(おおやまと)は神の国なり」と、
言い得て妙、
まことにまことに。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます