ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

みこと持ち

2023-05-22 06:22:33 | 日記・エッセイ・コラム
ふたりの「みこと」持ち。
ジーザスと天皇の違いは。
ジーザスは一人、天皇は世々の数だけいる。
てかその真核は今にいる陛下にある。
一人が永遠になるか、多数が永遠になるか。
死して永遠になるか、生きて永遠になるか。
そこが違う。
それは向きが違うからです。
それを想う。
・・・・・
ジーザスは一人です。
その人が十字架に掛けられて神になる。
と思っているが、
つまり生きていたときは人間であると。
それにしては、
イエスの言葉のほとんどは神に向かっていない。
祈る心はあってもその言葉は祈りではないのだ。
その言葉は人々に向かっている。
そも神の側に立っているのです。
だからかときに「私は神から来たもの」だと言っている。
だからと言って「仕切り」はしない。
敢えて言うなら「啓蒙」とでも。
だから私はこう言ってきた。
イエスは預言者であったと。
ゆえに神から言葉を預かり、
そしてそれを人々に伝える。
でも他の預言者と違うのは、
それが自分の言葉であったのだ。
だからまんま神になったと。
それも圧倒的な存在感を持って。
さもありなん、
その言行に鑑みれば、
それはもう尋常ではないと。
聖書はそもすべては神の賜物であると。
思えばこれは日本的な発想である。
人に当てれば、
神の子である人はつまりは神だと、
でも生きての神とは真に畏れ多い、
死して後ならそれも良かろうかと、
まあそんなとこ。
勿論人だけではなく他の生き物も同様。
そんなこんなで、
日本人にとってイエスが神であること、
いろんな意味で違和感なし。
・・・・・
天皇は一人ではない。
世々代々の存在です。
でも核は今上陛下にあると。
それが真核である。
かく言う陛下は祭主であり、
生きての祈りを捧げる存在。
祈りとは神と向きあうもの、
だから陛下は人の側に立っている。
てかもとより人間なのだから当然。
しかして神に「まこと」を捧げる。
天下の安寧と万民一人ひとりの幸せを願って。
と思っているが、内実は知らない。
でも想うのです、
その祈りはまったきもので、
それはもう尋常ではないと。
その凄さはイエスにも似ているが、
その向く方向は逆であると。
現に今上陛下は預言者でもないし神でもない。
昭和天皇は戦後人間宣言をしたと言われるが、
そんなもんしておりません。
真赤々な嘘です。
人間が「まこと」を貫くには、
人を仕切ってはならないのだ。
仕切る作業には必ず虚が入る。
だから陛下は人を仕切らない。
直接的には決して仕切らない。
そう言う仕組みになっている。
戦前も現今もです。
ちなみに余談だが、
なぜか日本弱体化計画があるようで、
ために嘘が至るところに、
しかも年々益々酷くなる。
今はご存知のLGBT~問題。
今少しの御辛抱を、
・・・・・
このことは神話を見ればあきらか。
日本には古事記・日本書紀があり、それに万葉集が。
欧米等の一神教世界ではそれは聖書だろう。
ちなみに思うに日本人は聖書も持っている?としか。
聖書はその初めに言う。
言葉を持ったがゆえヒトは楽園を追放されたと。
だからです、
その人々にイエスは伝えたのです、
神の「まこと」を、
それがイエスの物語り。
日本人は聖書的ではあるが、
違うところもある。
それは既に言ったことだが、
そのひとつがこれ。
それは楽園を追放されていないと謂うこと。
ゆえにか日本の神話は、
神世から始まり切れ目なく人の世に繋がる、
そんな神人一体の世界です。
ヨハネは言葉は神だと言ったが、
日本はその言霊(「まこと」)が幸はふ国なのです。
あの万葉歌人の柿本人麻呂も言ったように。
それゆえです、
追放されていない他の生き物らと対等に立てるのは、
そんな国です。
だから天皇陛下は祈るのです、
場(神=の世界)に向かって。
万民はその祈りの中で生きる。
後醍醐天皇の信任を受けた北畠親房は言った、
「大日本(おおやまと)は神の国なり」と、
言い得て妙、
まことにまことに。

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