ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

百聞は一見にしかず

2015-11-02 11:01:54 | 日記・エッセイ・コラム
事実は一つだ、とよく言われる。
それはその通りだ。
起こった事実は一つである。
事件であれ、事故であれ。
そこに居合わせた者だけがその事実を知る。
60兆個とも言われる、人の細胞すべてが感応するのである。
風景も音も匂も…皮膚に伝わる振動も。
いわゆる五感がフルに活動する。
さらに第六感も第七感…もである。
膨大な情報がそこにはある。
時に人はそれを伝えようとする。
だが残念なことに、
事実は言葉にしたとたんあらかた消えてしまう。
言葉以外の情報がすべて消えるのである。
だから「百聞は一見にしかず」なのである。
この場合の一見とは視覚だけのことではない。
すべての感覚のことである。
なお蛇足ながら、百聞は百文でもある。
・・・・・
しかしながら、百聞と百文とは違う。
聞とは、人が話したものを聞くことである。
文とは、人が書いたものを見ることである。
単に耳と目の違いではない。
聞は内容だけ見れば文とさして違わない。
決定的に違うのは人と対面してることである。
一方的に聞くだけの講演会であってもだ。
あくまでも人との対話なのである。
だから表情・態度などから相手の感情が伝わる。
五感をフルに使っているのだ。
単に文的情報だけではないのである。
文はどうだろう。
文も対話である、そのことに違いはない。
その本を書いた著者との対話なのである。
だが著者は目の前にはいない。
どこまでも自分一人なのである。
そこが特徴である。
つまるところ、
文とは著者との対話の形式を取りながら、
自分自身と対話なのである。
・・・・・
ちなみに最新事情を伝える新聞は、
だからこそ聞なのである。
著者の意図が問題なのではなく、
聞いたことを文字化してるだけである。
だから新聞なのである。
それはさておき、
でもである、
文を読むということは別に意味がある。
大きな意味がある。
それは自分を鍛えるということだ。
自分の「もの思う力」を鍛えるのである。
今まさに秋、
読書の秋である。