身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある。
典型的な言葉である。
自分を相対化したあげく、
捨ててしまうのである。
それで初めて見えるものがある。
それでこそ大事なものが見える。
・・・・・
出る杭は打たれる。
本来の意味は、
突出したものは平準化される、
ということだが、
私なりに別途解釈してみる。
以下…。
自分を捨てられず、どこまでも我を張る。
これを嫌うのである。
本当に良い意見なら通せばいい。
往々にして愚にも付かないことが多い。
ただ自分を立てる為にだけ我を張る。
それを嫌うのだ。
だが、注意は必要だ。
真っ当な意見をも排除してしまうことがある。
真っ当な意見が言えなくなることもある。
そこは反省しよう。
ちなみに、昨今の企業不祥事を見ていればよく分かる。
決算の粉飾、データの改竄、成分表示の偽装…等々。
身を捨てる覚悟さえあれば良かったのだが。
それができないのである。
実際それは難しい。
保身としがらみに絡み取られて。
そこが分かれ目である。
だからこそである。
身を捨てて…なのだ。
・・・・・
日本には言葉がある。
身を捨ててこそ…などの言葉がある。
何事も自分にとって自分が起点であることは、
生命あるものにとっては自明だ。
あくまで自分中心なのである。
でも、日本にはものごとを相対化できる文化がある。
多神教ゆえ神は多様であり、人は元より多様である。
そこには二元論にありがちな否定の論理はない。
すべてを認める多元論である。
ただ好き嫌いがあるだけだ。
左様に何事も相対化して捉えるから、
自分をも相対化できるのである。
そういう文化が日本にはある。
もちろん自分を捨てることは実際には難しい。
でも、そういう言葉を持ってるということは、
そこへ戻れるということだ。
残念ながら、
世界はそれを知らない。
忘れてる日本人も多い。
典型的な言葉である。
自分を相対化したあげく、
捨ててしまうのである。
それで初めて見えるものがある。
それでこそ大事なものが見える。
・・・・・
出る杭は打たれる。
本来の意味は、
突出したものは平準化される、
ということだが、
私なりに別途解釈してみる。
以下…。
自分を捨てられず、どこまでも我を張る。
これを嫌うのである。
本当に良い意見なら通せばいい。
往々にして愚にも付かないことが多い。
ただ自分を立てる為にだけ我を張る。
それを嫌うのだ。
だが、注意は必要だ。
真っ当な意見をも排除してしまうことがある。
真っ当な意見が言えなくなることもある。
そこは反省しよう。
ちなみに、昨今の企業不祥事を見ていればよく分かる。
決算の粉飾、データの改竄、成分表示の偽装…等々。
身を捨てる覚悟さえあれば良かったのだが。
それができないのである。
実際それは難しい。
保身としがらみに絡み取られて。
そこが分かれ目である。
だからこそである。
身を捨てて…なのだ。
・・・・・
日本には言葉がある。
身を捨ててこそ…などの言葉がある。
何事も自分にとって自分が起点であることは、
生命あるものにとっては自明だ。
あくまで自分中心なのである。
でも、日本にはものごとを相対化できる文化がある。
多神教ゆえ神は多様であり、人は元より多様である。
そこには二元論にありがちな否定の論理はない。
すべてを認める多元論である。
ただ好き嫌いがあるだけだ。
左様に何事も相対化して捉えるから、
自分をも相対化できるのである。
そういう文化が日本にはある。
もちろん自分を捨てることは実際には難しい。
でも、そういう言葉を持ってるということは、
そこへ戻れるということだ。
残念ながら、
世界はそれを知らない。
忘れてる日本人も多い。
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