ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

身を捨ててこそ…

2015-11-09 10:23:44 | 日記・エッセイ・コラム
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある。
典型的な言葉である。
自分を相対化したあげく、
捨ててしまうのである。
それで初めて見えるものがある。
それでこそ大事なものが見える。
・・・・・
出る杭は打たれる。
本来の意味は、
突出したものは平準化される、
ということだが、
私なりに別途解釈してみる。
以下…。
自分を捨てられず、どこまでも我を張る。
これを嫌うのである。
本当に良い意見なら通せばいい。
往々にして愚にも付かないことが多い。
ただ自分を立てる為にだけ我を張る。
それを嫌うのだ。
だが、注意は必要だ。
真っ当な意見をも排除してしまうことがある。
真っ当な意見が言えなくなることもある。
そこは反省しよう。
ちなみに、昨今の企業不祥事を見ていればよく分かる。
決算の粉飾、データの改竄、成分表示の偽装…等々。
身を捨てる覚悟さえあれば良かったのだが。
それができないのである。
実際それは難しい。
保身としがらみに絡み取られて。
そこが分かれ目である。
だからこそである。
身を捨てて…なのだ。
・・・・・
日本には言葉がある。
身を捨ててこそ…などの言葉がある。
何事も自分にとって自分が起点であることは、
生命あるものにとっては自明だ。
あくまで自分中心なのである。
でも、日本にはものごとを相対化できる文化がある。
多神教ゆえ神は多様であり、人は元より多様である。
そこには二元論にありがちな否定の論理はない。
すべてを認める多元論である。
ただ好き嫌いがあるだけだ。
左様に何事も相対化して捉えるから、
自分をも相対化できるのである。
そういう文化が日本にはある。
もちろん自分を捨てることは実際には難しい。
でも、そういう言葉を持ってるということは、
そこへ戻れるということだ。
残念ながら、
世界はそれを知らない。
忘れてる日本人も多い。






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