ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

祈りの世界

2015-02-09 13:46:18 | 日記・エッセイ・コラム
私が子供の頃は、
欧米は比較的厳格なキリスト教社会であった。
日曜日は教会へ行くのが当たり前。
だから商店はすべて閉まっている。
そのように記憶している。
もちろん今も基本的には変わらない。
しかし、だいぶ緩くなってきている。
日曜日には必ず教会へ行く、
という人は少なくなっているようだ。
だから祈りの機会は減ってるだろう。
中東などのイスラム圏は、
今も比較的厳格である。
ほとんどの人が一日5回のお祈りをする。
とりわけ中東諸国はそのようだ。
私から見れば、
あまりに杓子定規で堅ぐるしい気がする。
日本人はどうだろう。
戦前は家に仏壇や神棚がたいていあったようだ。
だから家長が毎日お祈りしていた。
戦後は家族制度が解体され、
旧家以外は相当怪しくなっている。
初詣ぐらいしか行かない、という人が多いのではないか。
仮に行ったとして、参拝というより観光ではないのか。
祈りを忘れている。
実に祈りを忘れてる。
そんな人が多い。
・・・・・
日本は祈りの国ではないのか。
これはおかしい。
話が合わない。
だがしかしである。
日本には天皇が在る。
天皇は日本国の総祭主である。
祈り主、祝い主である。
天皇は日々祈っている。
赤き心、清き心でただひたすらに祈っている。
そのような存在として在る。
天皇の祈りがあるから、
ときに人に祈りがなくともよいのである。
これは何も祈らなくてもよいということではない。
祈らなくとも既に祈りの中に在る、
ということである。
それにしても、
多くの人が祈りを忘れてる。
実に嘆かわしい。
・・・・・
しかし有り難いことである。
日本には祈りがある。
何もしなくても空気のように。
おかげで、
形としての祈りからも自由なのである。














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